島根県益田市、故郷はどこへ?!‥⑥

小学校2・3年生を、僕は中国山地奥深い島根県邑智郡邑智村沢谷という所で過ごした。昭和32年、沢谷に点在する農家の多くは茅葺の屋根だった。数件の共同作業で行われる茅の葺き替えも目撃した。

再婚間もない親父が借りた陋屋の大家の家は、沢谷にでは富農に属していた。その家は、入り口を入ると土間があり、一方に牛が飼われており、もう一方には広い板の間があった。その中央にある囲炉裏を囲んで、何度かご飯をご馳走になった。「おいいしいから蝿が来るんだよ」という奥さんの言葉を信じて、ご飯の上に次々と覆いかぶさってくる蝿を片手で追い払いながら、急いでご飯を掻き込むのだが、時折牛の鳴き声が聞こえてくると、牛の糞の上を黒く覆っていた蝿の大群を思い出し、途端にご飯が喉を通らなくなったものだった。

涼やかな秋がやってくると、秋風は容赦なく家の中も吹き抜けた。いずこの家を訪ねても大同小異、夕方になるとしんしんと冷え込んだ。冬には、家の中でさえ、氷が張った。

そんな沢谷で、僕が初めてアルミサッシの窓を見たのが、移住して2年目、小学校3年生の時だった。隙間風が入ってこないことに驚いた。その家は、屋根は茅葺、窓はアルミサッシという、外観は奇妙な家だったが、部屋の中は以前とは比較にならないほど快適だった。文化って、こういうことなんだろうなあ、と思った。

しばらく経った頃、友達からこんな話を耳にした。

都会からやってきた親戚の青年が、「茅葺の屋根っていいなあ。アルミサッシなんかにせず、そのまま残すべきだと思うけどなあ」と言ったというのだ。友達は戸惑っていた。「不便なのにねえ」と苦笑いをしていた。浜田市からやってきた時、僕にも茅葺の家が印象深かったのを思い出した。しかし、それから約1年半。茅を葺く作業を目撃し、厳しい冬を経験した僕にとって、茅葺の屋根は“のどかな田舎の風景”を象徴するものから、“苛酷な生活環境”を象徴するものに変わっていた。

やがて長じて、学生時代を過ごした京都で古きよきものに触れ、社会人となった東京で近代的なるものに次々と変貌していく街に浸り、茅葺屋根を残すことと茅葺屋根を根こそぎ変えてしまうことの双方に一長一短があることに気付いていった。

暮らしの中にある身近なものの希少性に、人は気付きにくいものだ。不満の解消をする時その希少性をも失ってしまっていることに気付くことになるのだが、それは概して随分後になってからのことが多い。

“後の祭り”を避けるためには、目の前の不満を解消する時にも、ビジョンを持つことだと思う。多くの人が関わることであれば尚更である。しっかりと情報を交換し、ビジョンを共有すべく語り合うべきだと思われる。利害の不一致を超えることができない場合であっても、語り合っておくことは大切だ。どんなビジョンにも影は付きまとう。それも語り合うのが、“ビジョン・コミュニケーション”だと思うのだ。

*バブルの時代、アンティーク家具が流行った。随分と高価なものが飛ぶように売れていた。その頃のことである。

まだ共産圏だった東欧諸国にアンティーク家具の仕入れに行く“商売人”たちがいた。彼らの手口は、こうだった。

彼らは、古い農家を次々と訪問する。めぼしいものを見つけた農家で、小脇にしていたIKEAのような北欧家具のカタログを開いてみせる。そして、こう問いかける。「全部、このカタログにあるような家具と交換しませんか?」。

ほとんどの場合、大歓迎される。そうして手に入れた古い家具を手直しして販売。“商売人”たちは荒稼ぎをする。“わらしべ長者”のような商売である。

お互いが喜ぶ、いい物々交換のようにも見えるが、北欧型の家具が東欧の農家の住環境に適さないことは、やがてそれを手にした人たちが痛感することになるのである。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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島根県益田市、故郷はどこへ?!‥②

都市型のホテルは、都市からやってくる観光客に評判がいいのは当然である。田舎を味わってもらおう、と不便まで強要されるのを多くの観光客は好まない。沖縄沿岸部でのリゾート開発の企画会議の時、海岸の景観を壊さないために、古民家の内部を近代的に改装することを提案したが、トイレをウォシュレットにすること、高速インターネットを使用可能にすること、洗面所を使いやすくすることを最低条件にしたことがあるくらいだ。

益田駅前のグリーンホテルモーリスは、明確なコンセプトをディテールまで具現化すべくきちんとプロデュースされて出来上がっていったものに違いない。意地悪な目線で細々と備品までチェックしてみたが、ほとんどが及第点以上と見た。なかなかのプロが携わった仕事だとお見受けした。

しかしホテルをから一歩外へ出ると、グランドデザインもなく使用価値への洞察もない、箱型開発発想に行き当たる。

民力、消費動向、競合環境、ライフスタイル動向、車と人の動線等を把握しつつ、テナントリーシング・プラのン立案と並行して、レイアウトや設備を考えた結果が、そこにあるとはとても思えなかった。それはまるで、これまでの公共事業投資の典型のようだった。

きれいな道路と郊外型路面店をつなぐ、“大きな点と線”を張り巡らす開発思想には、未来はない。明らかに予見できる高齢化社会に対応できるはずもない。

定額で乗り降り自由のノンステップ・ミニバスを縦横に走らせ、行政機関や病院を集積し、その周辺に憩いのある商店街が“横丁”単位で配されている。といった街創り発想を持って、1つずつ積み重ねていけば、こんなこともなかっただろうなあ、と改めて僕は、歯軋りした。

休耕田でもう一度稲作を開始するのが大変なように、消失した商店街と人が行き交う賑わいを取り戻すのは、至難の業だ。取り払うのはたやすいが、中身まで充実したものを作り上げるのは容易なことではない。必要なのは、ユニバーサリズム発想なのだ。

懐かしい人に会う喜びが、会った途端、その変わりように悲しみに変わっていくような、そんな気分を抱えて、僕は鎌手へと向かった。 ‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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島根県益田市、故郷はどこへ?!‥①

毎年4月、親父の命日には欠かさずお墓参りに帰省している。脳出血発症がちょうど3年前の秋で、初台リハビリテーション病院退院がその年の暮れだったお陰で、翌年春の命日も、なんとか欠かさずお墓参りをすることができた。益田市医光寺の墓所に上っていく急坂も、冷や汗ものではあるが、克服した。

そんな努力への小さなご褒美が、いつの間にか貯まっていたANAのマイレージだった。1万マイルで一人が無料、同行者三人までが片道1万円、という“一緒にマイル割”が使えるとあって、秋の気配が漂い始めた9月初旬、イレギュラー帰省をしてきた。

春の墓参帰省の時、従兄弟夫婦と再会の約束をしていたので、“一緒にマイル割”のメリットを活用すべく、今回は初めてKapparが同行した。僕がかなり酒を飲むだろうとの心配もあってのKapparの同行だった。

今回の目的は、従兄弟夫婦との会食と、90歳にして健在と聞いた叔母に会うこと。言わば、マイレージを利用した“不義理お詫びツァー”。少し照れくさく、でも楽しみにしていた小旅行だ。

しかし、空港から駅前までのバス車内。東南アジアの地方空港の風情と似ている空港周辺の景色や行き交う車のほとんどない道路を窓外に眺めながら、僕はやや憂鬱な気分になっていた。本ブログで以前書いた“島根県益田市の憂鬱”の気分である。

やがて、益田駅前に着いた。“なぜ、こんな無謀な駅前再開発をするのだろう”と、年に一度の帰省の度に目を逸らしていた駅前である。しかし、今回の宿は“じゃらん”で予約した“グリーンホテルモーリス”。やむをえない。

ホテルは、なかなかの出来栄え。盛況である。閑散とした駅前と駅ビルとは、明らかに趣を異にしている。そしてこのことが、再開発のプラン自体の欠陥を示していた。

バスターミナルの整備。そこに出現したサービス、施設共に近代的なホテル。それは、益田という街を、飛行機利用の“萩・津和野観光”の人達の“空港へのアクセスのいい宿泊地”にしてしまっているのだ。泊まるだけで行き過ぎていく観光客は、益田にお金を落とすこともないだろう。

商店街もなく“横丁”もない街に、朝早いたった一便の飛行機に乗るために宿泊する人たちが魅力を感じるはずもないのだ。

“公共事業”というカンフル剤を打ち続けてきた街は、長期展望もマーケティング発想もないまま、地元を中央資本の大型商業施設の“市場”にしただけのようだ。

随分以前から益田市を覆っているように感じる“静かな諦念”は、新たな希望のエネルギーに転換することがあるのだろうか。 ‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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