脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑫

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

Sさんの退院予定は、僕に遅れること一週間。Fさんからの情報によると、お母さんと二人暮しのSさんは、お母さんの面倒を見ながらの通院になるだろうとのことだった。しかし、僕は“外来が一杯”と退院後のリハビリ通院がNGになったばかり。幸いにして僕は、Kapparの下調べと下打ち合わせのお陰で、成城リハビリテーション・クリニックへの通院が決まっていたが、初台が通いやすく望ましいと言っていたSさんの退院後のリハビリは心配だった。果たして、タイミングよく外来の枠は空くのか。

お住まいの場所を聞き、近くに安心して通えるリハビリ病院はないものか、まずKapparに調べてもらった。結果は、芳しくなかった。

退院の時、知り合った人たちに順番に挨拶をして回った時、Sさんには電話番号を渡し「初台が一杯で通院できない時は、遠慮なく相談してください」と申し出ると、Sさんは「ありがとうございます。大丈夫ですよ、きっと」と微笑んだ。通院の際の条件は?と尋ねると、バスはノンステップじゃないと乗り降りに自信がない。それぐらいかなあ。とのことだった。

退院後、ノンステップバスの運行状況やSさんの家から行ける範囲にあるリハビリ病院などを調べておいた。が、Sさんからの連絡はなかった。

約一ヵ月後、歯医者のドアを開けると、「あ!K(僕)さんだ~~!」という声が聞こえた。手摺に摑まりながら顔を上げると、Sさんの満面の笑みがあった。初台の外来に空きが出て、無事通院しているとのことだった。ほっとした。Sさんは、やはり自律の人だった。きっとお母さんのこともリハビリも、自分の力でゆっくりと着実にこなしているのだろう、と思った。帰りのバスの中、僕の頬はゆるんだ。

                   

           ‥‥次回は、“新三郷ららシティ」”レポート

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑪

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

Sさんは印象的な人だった。食堂でいつの間にかできた“同テーブルの仲間”の一人。危うい歩様ながら、いつも人の手を借りずにゆっくりと、微笑みながらテーブルまでやってきていた。きちんと椅子を引き、席に着くと「おはようございます」「こんばんは」と穏やかな挨拶をされた。

僕より少し年下の彼は、隣室の住人。同室のFさんからの情報によると、父親から譲り受けた異常なほどの高血圧に、やがて自分も脳卒中で倒れることになるだろう、と覚悟していたという人だった。食堂では多くを語らなかったが、僕とFさんの他愛もない笑い話のやり取りを楽しそうに聞き、時には自分に向けられる矛先を軽くあしらったりしていた。

食事が終わると「お先に」と一礼して椅子を引き、引いた椅子をきちんとテーブルの下に押し入れてから、ゆるゆると病室へと帰っていた。足元が危ういのだが、断固として手を借りることなく行われる一連の作業を、僕はいつも箸を止めて見ていた。

そんなSさんが、僕に話しかけてきたのは、僕が杖を付いてテーブルまで初めて行った時だった。先に席についていたSさんは突然、「やっぱり!」と言って僕を見た。そして、「K(僕)さんはきっと僕を追い抜いて、先に歩けるようになるだろうと思ってたんですよ」と微笑んだ。祝福の言葉に聞こえなくもなかったが、Sさんの心根を想うと少し辛かった。申し訳ないような気がした。何かしてあげられることはないか、と思った。

退院した後の不都合の有無を確認するための“外泊”を終えた時、“外泊”が近いSさんに、一泊の経験談を話した。それは、“お返し”の“口頭レポート”だった。

“段差は、少し大きいくらいの方が段差と認識できるのでいいくらいです。中途半端なユニバーサル・デザインよりいいみたいですよ”“出っ張りは、危険なものじゃなくて、摑まることができる場所です。指先でつまむだけでも助けになりますよ”などと、お話した。

耳を傾けていたSさんは、最後に一言“不安がなくなりました。ありがとう!”と言ってくれた。なんだか、また祝福されたような気分だった。

                          ‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑩

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

退院したNさんの訪問を受けている間、僕のリハビリは着実に進行していた。一人での車椅子移動にOKが出て、トイレに一人で行くことができるようになり、数歩程度のよちよち歩きもできるようになっていた。

お見舞いに訪れる友人たちに、「同情するなら、金をくれ~~」と動かない左手を差し出して笑いをとったり、「おや、幼児くらいまで成長したじゃない」とからかわれ、「これからは成長が早いよ。もう少し経つと、“ピカピカの一年生”じゃ~~。ランドセル買って~~」とおねだりしたりしていた。歩けることへの希望は、現実のものになりつつあった。

一方、Nさんの来訪は続いていた。Nさんに笑顔が絶えることはなかった。ぢかし、仕事について多くを語らなくなったことに、彼を取り巻く環境の厳しさが感じられた。どうも、支店長職を解かれることになるようだった。

病み上がりのせいだけとは言えないのかもしれない。適任ではなかったのかもしれない。ひょっとすると、売上げ低迷を打破するための組織改革の一環なのかもしれない。真相は、僕にはわからない。ただ、いかにも痛ましい。Nさんの真摯な努力と温かい家族を思い、僕は歯軋りをした。退院後2ヶ月で結果を問うのは、いくらなんでも早過ぎないか!

しかしそれでも、Nさんの訪問は続いた。僕が退院することを知った時は、奥さんもやって来られた。初台リハビリテーション病院入院後、体重が2キロも増え、「病院で太るなんてねえ」とKapparに呆れられていた僕にと、“ダイエット・レシピ”の本を退院祝いに差し出された。その屈託ない笑顔と茶目っ気に、僕は胸を撫で下ろした。そして、Kapparと「“オフィス・リストランテ”にご招待し、激励してあげようね」と話し合った。

翌春の好天の日曜日、食事会は実現できたが、それ以来、Nさん夫婦とはお会いすることができていない。2年半になる。時々思い出しては、ちょっと心配している。

                                 つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑨

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

そしてNさんは、退院していった。塩分制限が必要なNさんに、Kapparはお茶目なデザインの計量スプーンを退院祝いとして送った。

「診察で来た時は、必ず顔を出しますから~」と手を振って病室を後にするNさんに、僕は廊下まで出て車椅子から手を振った。息子さんが腰にしがみつきスキップして行く後姿に、心が和んだ。

Nさんは律儀に訪ねて来てくれた。スーツ姿と書類の詰まったビジネスバッグに、“世間”の風を感じた。その風は冷たかった。

「あと1ヶ月で今年の予算を達成しなくちゃいけないんですよ」「これから、予算ショートしている2000万をオンすると言ってもねえ」「法人のお客さんは“お前じゃないと”と言う人が多くて‥。担当を付けておいたんですけどねえ。これからじゃ、年末の旅行はほとんど決まってますしねえ‥」と、しばし愚痴になった。

「大変ですねえ。身体の方はどうなんですか?」。肝臓の検査数値のよくないNさん、あまり無理は利かないはずだが‥‥。字が巧く書けるかどうかよりも、僕が気がかりなのはむしろこちらの方だ。

「短期入院を勧められたんで、入院したんですよ、‥ここじゃなくて別の病院でね‥。でも、病院から会社に通うようなことになって。じゃ、まあ、退院するかってことになってねえ」。Nさんは明るいが、その話の内容は、凄まじい。

「なまじっか普通に見えるもんでねえ」と、帰り際に残した言葉が痛かった。脳をやられた身体には、まったく普通なんてありえない。自分のこととしてわかっていたつもりの僕でさえ、ついついNさんの元気な姿に誤解をしていたのかもしれない。会社での日常には多くの誤解が付きまとい、その一つひとつがNさんに無理を強いることになっているのだろう。

「また顔出します!」。そう言って仕事に帰っていくNさんの後姿は、退院の時とは違って見えた。おそらく、僕の方の変化なのだが‥‥。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑧

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

「なかなかうまく字が書けないんですよ。仕事柄、お客さんの前で書かなくちゃいけない書類が多いですからねえ。元々字がきれいなわけじゃないんですけどね」。漢字練習用のドリルを小脇に病室に帰ってきたNさんに、「精が出ますねえ」と声を掛けると、そう言って悔しそうな表情を見せた。競合が激しい業界。好況な訳でもない。新興勢力の台頭に脅かされてもいる。団体旅行への売上依存度の高い老舗の旅行代理店はいずこも、優良顧客のつなぎとめに躍起になっている。Nさんの悩みは根が深い。少し、立ち話になった。僕は、腰掛けたままだったが‥‥・

「うちの会社、待ってくれて半年なんですよ。まあ、悪いほうじゃないんでしょうけどね。半年過ぎると、辞める?暇な仕事にする?って話になるらしいんですよ。降格ってことですよね。そうなると、給料は下がらざるを得ないですからねえ」。苦い笑顔を浮かべるNさんに、僕は言葉がない。Nさんの会社と仕事でお付き合いしたことがあるため、彼に中途半端な慰めの言葉を発する気にはなれない。

「まあ、あと一週間、頑張りますよ」。そう言って自分のベッドに向かうNさんの、普通の人にしか見えない後姿と、すぐにカーテンの向こうから聞こえ始めた鉛筆を走らせる音に、僕は嘆息した。

ベッドに横になると、明るく優しい奥さんと、Nさんと肩を組んで廊下を歩いていた小学校高学年の息子さんの笑顔を思い出した。“どうにかならないものか?”と思った。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑦

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

僕が入院した日、声を掛けてくれたNさんには、翌朝の朝食時からお世話になった。パンに添えられてきたブルーベリー・ジャムを開けられず、どうしたものかと見つめていると、横から微笑みながら手に取り「ストロベリーもありますよ。マーマレードもあるはずですよ。換えてもいいんですよ。どうします?」と声を掛けてくれた。開けられないだけではなく、ブルーベリー・ジャムが好みではない僕の気持ちを読み取ったかのような言葉だった。「じゃ、マーマレードにしようかな~」と呟くと、すかさずNさんは食堂スタッフにその旨を告げ、すぐにやってきたマーマレードを開けてくれた。

「どうも。助かります」と一礼すると、「何言ってるんですか。大丈夫ですよ。得意ですから、こういうこと。僕はプロですよ。何年、ツアコンやってきたと思ってるんですか」と、Nさんは笑った。

それから彼は、病院内のルール、自己主張すべきこと等を、事ある毎に教えてくれた。素晴らしい“リハビリの先輩”だった。「何事にも先達はあらまほしきものなり」という言葉を思い出したほどだった。

Nさんは旅行代理店の支店長。40代半ば、働き盛りでの脳梗塞発症だった。「会議の時に、突然書類をめくることができなくなったんですよ。そのうち言葉もおかしくなっていって‥‥」右半身の麻痺に陥った。ただ、幸いにも人が多い場所での発症。対処も素早かったおかげで、症状は重篤なものではなかった。

クラウチングスタートでの走る練習やジャンプの練習をしている彼は、退院間近。何事もなかったのように職場復帰していくものと、僕は思っていた。ところが、他人が見るほど事態は楽観的なものではないことが、徐々にわかってきた。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑥

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

間断なく続く“寝言おじさん”の寝言に、病院が何ら対策を講じなかったわけではない。時折悪夢に襲われる“寝言おじさん”には、ベッドから落下する危険もあった。

まず、ベッドサイドまで身体が移動すると反応する特殊なナースコールが敷かれた。スタッフが交代で“寝言対策要員”となる体制もできた。もちろん、夜中に発作に襲われる人もいるので、24時間体制の監視体制は元々整っている。

一声、寝言が響き渡ると、10秒後くらいにはスタッフが駆けつけた。時には暴れる“寝言おじさん”に、1名では対応できないことも多かった。やさしく声を掛け、半覚醒状態になった彼をなだめるのだが、その効果はあまりなかった。なだめる言葉にも妙に論理的に対抗し、次第に怒りに燃えていく“寝言おじさん”は、なかなか手強かった。

やがて、寝言で家族に対して噴出していた憤りは、スタッフに向かうようになっていった。リハビリに前向きになり昼間は親密度を増していたスタッフが、深夜には敵に変わっていくのだった。

そして、“寝言おじさん”は、ある夜ついに証拠写真を撮ることを思いついた。趣味のカメラを奥さんに持ってきてもらい枕元に並べて間もなくだった。

いつもの時間に始まった咆哮に女性スタッフが駆けつけると、フラッシュが連続で光り、「お前か、犯人は!やっぱり、お前か!撮ったぞ!撮ったぞ!証拠を撮ったぞ!」という勝ち誇ったような声が続いた。

しかしそれは、むしろ彼の夜中の蛮行の証拠写真となった。証拠写真を見せながら「もっときれいに撮ってもらいたかったなあ」とからかう“犯人”の女性スタッフに、「被写体の問題じゃないの?」と照れ臭そうに、しかし精一杯の冗談で返している“寝言おじさん”に、もう病院やスタッフへの不信感は感じられなかった。病院側の弛まぬ努力の勝利だった。

それから一ヶ月後くらいに、僕は退院した。“寝言おじさん”は、その半月前に病室を変わっていた。寝言は続いていたが、少し歩けるようになっていた。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥④

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

“寝言おじさん”は、リハビリに真剣ではなかった。僕が入院して2週間以上、リハビリルームに行くことさえ拒否し続けていた。やむをえずセラピストの人たちはベッドの上とベッドサイドでリハビリを行っていたが、車椅子への移動の要領を覚えることさえままならない状況だった。

前進しないリハビリに、家族のモチベーションのための努力は続いていた。いつも傍らで見守っている奥さんは優しく励まし続け、退院に備えて進んでいる改築のことや孫たちの近況を、写真を見せながら語った。息子さん二人は、病院の仕組みやリハビリに疑問を呈する父親に、自分たちがリハビリテーション病院をどれだけ探し、見学してきたかを熱く語り、“考えられる最善の環境”にあることを理解してもらおうとしていた。しかし、気のない返事や感情的な反論に、肩を落として帰って行くことが多かった。

珍しく明るい笑い声が洩れてきたのは、孫の訪問を受けた時だった。足の装具を孫に見せながら、「どうだ。おじいちゃん、これを着けて家の中を歩くんだぞ。ロボットみたいでカッコいいだろ~」と笑っている“寝言おじさん”の姿が垣間見えた。その時は僕も、“よかった~~。これで進展するかも‥”と胸を撫で下ろしたものだった。

ところが、それでもリハビリは進まない。他人事ながら、“回復期を過ぎてしまわなければいいが‥”と僕は気を揉んだが、ご本人は意外とお気楽で、リハビリ中はずっと冗談を口にし、後ろから支えられつつ立ち上がる時などは、大きな放屁一発。セラピストの笑いを取ったりしていた。

セラピストの人たちのモチベーション努力も辛抱強く続いていた。その押し付けがましくなく、淡々と明るく仕事をこなしていく姿に感心しながら、一方で僕は、“寝言おじさん”の心根を思い描いていた。ヒントは毎夜耳にする“大いなる寝言”にあった。

 ‥‥つづく

*先週の三連休明けに急にひどくなった左腰の痛みの原因は、やはり“オーバーユース”だったようだ。週に一度通院している成城リハビリテーションクリニックで、PTのIさん(AK法の熟練者)に診ていただいた結果、腰の関節に不具合が生じており、それは“頑張り過ぎ”とのことだった。指先で関節の調整をした後、Iさんは「三日間くらいおとなしくしててみてください」と笑った。

そして三日後。Iさんの予言どおり随分と楽になっていた。頑張り過ぎと調子に乗り過ぎは、やはり禁物だ。

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥③

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

初めての夜、“昼夜逆転の体内時計”が少し狂ってくれたお陰で、10時を過ぎる頃には眠りに付いた。しかし、突然の大声に飛び起きた。と言っても、首を起こし廻らせただけだが‥。

「そこの若い奴!鏡の前に立て!」。その声は、はっきりとそう言っていた。空耳などではなかった。が、病室内は何事もなく静まり返っていた。“若い奴”を自分のことと思い飛び起きたことが可笑しく、布団をかぶって笑った。

しかしその声が同室の人から発せられたものだということが、3時間後にわかった。午前2時過ぎ、数分間の演説が聞こえてきたのだ。内容までは判然としないが、どうも何らかの研究発表のようだった。

翌朝、7時過ぎには、スタッフに起こされ車椅子への移動を手伝ってもらい、洗顔と着替えを済ませた。睡眠約2時間。さすがに目の奥には眠気が留まっていたが、新しい朝は爽やかだった。

車椅子を押してもらい食堂に着くと、隣のベッドのNさんが、隣席へと誘ってくれた。「おはようございます」と声を張って挨拶すると、Nさんの人懐っこい笑顔がいたずらっ子のそれに変わり、僕に近付いてきた。「よく眠れました?」。そう問われて僕は、正直に「いやあ、眠れなかったですねえ」と応えて笑った。

それから約2ヶ月、深夜の演説、独白、罵声は休みなく続いた。悪夢に苛まれた結果の、“大いなる寝言”のようだった。覚醒さえしていればさしたる問題のない人であり、日々朝から夕方まで付き添いにやってくる奥さんの同室者への平身低頭ぶりが痛々しいほどだったこともあって、苦情を言う気にはなれなかった。Nさんも、そう思っているようだった。

同病のよしみ、というものであろう。むしろ夜な夜な聞こえてくる寝言の内容に、70歳くらいと思しきその人の人生や病気がもたらした変化を想い、胸が痛むことさえあった。

睡眠不足を心配するKapparには、「初台サファリパークのナイトクルーズや~~」と笑い話にしていた。 ‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥②

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

脳出血で入院した東邦大学大橋病院の主治医から初台リハビリテーション病院の存在を教わり、Kapparが色々調べた結果、4人部屋の一般病室約40万円/月なら、2ヶ月くらいであればなんとかなりそう、ということで早速エントリーした。救急車で搬送されて3週間位経った頃だった。

幸いなことに一週間もすると、“左麻痺用のベッドが空きそう”との連絡が主治医に入った。すぐに準備を始め、4日後には初台リハビリテーション病院5階奥の一般病室に入院することになった。

僕のベッドは、窓側。はるか遠くに、うっすらと富士山が佇んでいるのが見えた。遠くに見える首都高の“ユーノス”の看板を見つめながら過ごした大橋病院も僕は決して嫌ではなかったが、収納とカーテンで個室風に仕切られた初台リハビリテーション病院のきれいな病室は、“身の程知らず”と自らを叱りたくなるほど言うことなしだった。

車椅子に座ったまま漠然と窓外を眺めていたら、窓に向かって体操に余念のなかった人が声を掛けてきた。アロハシャツにジーンズ、足元はスニーカーといういでたちの彼は、もうすっかり普通の人に見えたが、隣のベッドの人だということが判明した。まず名前を名乗りあって、二言三言、言葉を交わすと、「よかった~~、お話ができる人で。そのベッドにいた人、言語障害がある人で、ずっと会話してないんですよ」と、実にうれしそうな笑顔を見せた。お互いの脳卒中発症体験や職業について簡単に紹介しあった。「何かあったら、遠慮なく聞いてくださいね」という言葉に、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と頭を下げた。50歳。7歳年下の彼が、とてもいい先輩に思えた。心強かった。すべてがタイミングよく順調に展開しているように思えた。

毎夜起きることになる事態は、まだ想像さえしていなかった。 ‥‥つづく

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