脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑫

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

Sさんの退院予定は、僕に遅れること一週間。Fさんからの情報によると、お母さんと二人暮しのSさんは、お母さんの面倒を見ながらの通院になるだろうとのことだった。しかし、僕は“外来が一杯”と退院後のリハビリ通院がNGになったばかり。幸いにして僕は、Kapparの下調べと下打ち合わせのお陰で、成城リハビリテーション・クリニックへの通院が決まっていたが、初台が通いやすく望ましいと言っていたSさんの退院後のリハビリは心配だった。果たして、タイミングよく外来の枠は空くのか。

お住まいの場所を聞き、近くに安心して通えるリハビリ病院はないものか、まずKapparに調べてもらった。結果は、芳しくなかった。

退院の時、知り合った人たちに順番に挨拶をして回った時、Sさんには電話番号を渡し「初台が一杯で通院できない時は、遠慮なく相談してください」と申し出ると、Sさんは「ありがとうございます。大丈夫ですよ、きっと」と微笑んだ。通院の際の条件は?と尋ねると、バスはノンステップじゃないと乗り降りに自信がない。それぐらいかなあ。とのことだった。

退院後、ノンステップバスの運行状況やSさんの家から行ける範囲にあるリハビリ病院などを調べておいた。が、Sさんからの連絡はなかった。

約一ヵ月後、歯医者のドアを開けると、「あ!K(僕)さんだ~~!」という声が聞こえた。手摺に摑まりながら顔を上げると、Sさんの満面の笑みがあった。初台の外来に空きが出て、無事通院しているとのことだった。ほっとした。Sさんは、やはり自律の人だった。きっとお母さんのこともリハビリも、自分の力でゆっくりと着実にこなしているのだろう、と思った。帰りのバスの中、僕の頬はゆるんだ。

                   

           ‥‥次回は、“新三郷ららシティ」”レポート

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑪

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

Sさんは印象的な人だった。食堂でいつの間にかできた“同テーブルの仲間”の一人。危うい歩様ながら、いつも人の手を借りずにゆっくりと、微笑みながらテーブルまでやってきていた。きちんと椅子を引き、席に着くと「おはようございます」「こんばんは」と穏やかな挨拶をされた。

僕より少し年下の彼は、隣室の住人。同室のFさんからの情報によると、父親から譲り受けた異常なほどの高血圧に、やがて自分も脳卒中で倒れることになるだろう、と覚悟していたという人だった。食堂では多くを語らなかったが、僕とFさんの他愛もない笑い話のやり取りを楽しそうに聞き、時には自分に向けられる矛先を軽くあしらったりしていた。

食事が終わると「お先に」と一礼して椅子を引き、引いた椅子をきちんとテーブルの下に押し入れてから、ゆるゆると病室へと帰っていた。足元が危ういのだが、断固として手を借りることなく行われる一連の作業を、僕はいつも箸を止めて見ていた。

そんなSさんが、僕に話しかけてきたのは、僕が杖を付いてテーブルまで初めて行った時だった。先に席についていたSさんは突然、「やっぱり!」と言って僕を見た。そして、「K(僕)さんはきっと僕を追い抜いて、先に歩けるようになるだろうと思ってたんですよ」と微笑んだ。祝福の言葉に聞こえなくもなかったが、Sさんの心根を想うと少し辛かった。申し訳ないような気がした。何かしてあげられることはないか、と思った。

退院した後の不都合の有無を確認するための“外泊”を終えた時、“外泊”が近いSさんに、一泊の経験談を話した。それは、“お返し”の“口頭レポート”だった。

“段差は、少し大きいくらいの方が段差と認識できるのでいいくらいです。中途半端なユニバーサル・デザインよりいいみたいですよ”“出っ張りは、危険なものじゃなくて、摑まることができる場所です。指先でつまむだけでも助けになりますよ”などと、お話した。

耳を傾けていたSさんは、最後に一言“不安がなくなりました。ありがとう!”と言ってくれた。なんだか、また祝福されたような気分だった。

                          ‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑩

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

退院したNさんの訪問を受けている間、僕のリハビリは着実に進行していた。一人での車椅子移動にOKが出て、トイレに一人で行くことができるようになり、数歩程度のよちよち歩きもできるようになっていた。

お見舞いに訪れる友人たちに、「同情するなら、金をくれ~~」と動かない左手を差し出して笑いをとったり、「おや、幼児くらいまで成長したじゃない」とからかわれ、「これからは成長が早いよ。もう少し経つと、“ピカピカの一年生”じゃ~~。ランドセル買って~~」とおねだりしたりしていた。歩けることへの希望は、現実のものになりつつあった。

一方、Nさんの来訪は続いていた。Nさんに笑顔が絶えることはなかった。ぢかし、仕事について多くを語らなくなったことに、彼を取り巻く環境の厳しさが感じられた。どうも、支店長職を解かれることになるようだった。

病み上がりのせいだけとは言えないのかもしれない。適任ではなかったのかもしれない。ひょっとすると、売上げ低迷を打破するための組織改革の一環なのかもしれない。真相は、僕にはわからない。ただ、いかにも痛ましい。Nさんの真摯な努力と温かい家族を思い、僕は歯軋りをした。退院後2ヶ月で結果を問うのは、いくらなんでも早過ぎないか!

しかしそれでも、Nさんの訪問は続いた。僕が退院することを知った時は、奥さんもやって来られた。初台リハビリテーション病院入院後、体重が2キロも増え、「病院で太るなんてねえ」とKapparに呆れられていた僕にと、“ダイエット・レシピ”の本を退院祝いに差し出された。その屈託ない笑顔と茶目っ気に、僕は胸を撫で下ろした。そして、Kapparと「“オフィス・リストランテ”にご招待し、激励してあげようね」と話し合った。

翌春の好天の日曜日、食事会は実現できたが、それ以来、Nさん夫婦とはお会いすることができていない。2年半になる。時々思い出しては、ちょっと心配している。

                                 つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑨

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

そしてNさんは、退院していった。塩分制限が必要なNさんに、Kapparはお茶目なデザインの計量スプーンを退院祝いとして送った。

「診察で来た時は、必ず顔を出しますから~」と手を振って病室を後にするNさんに、僕は廊下まで出て車椅子から手を振った。息子さんが腰にしがみつきスキップして行く後姿に、心が和んだ。

Nさんは律儀に訪ねて来てくれた。スーツ姿と書類の詰まったビジネスバッグに、“世間”の風を感じた。その風は冷たかった。

「あと1ヶ月で今年の予算を達成しなくちゃいけないんですよ」「これから、予算ショートしている2000万をオンすると言ってもねえ」「法人のお客さんは“お前じゃないと”と言う人が多くて‥。担当を付けておいたんですけどねえ。これからじゃ、年末の旅行はほとんど決まってますしねえ‥」と、しばし愚痴になった。

「大変ですねえ。身体の方はどうなんですか?」。肝臓の検査数値のよくないNさん、あまり無理は利かないはずだが‥‥。字が巧く書けるかどうかよりも、僕が気がかりなのはむしろこちらの方だ。

「短期入院を勧められたんで、入院したんですよ、‥ここじゃなくて別の病院でね‥。でも、病院から会社に通うようなことになって。じゃ、まあ、退院するかってことになってねえ」。Nさんは明るいが、その話の内容は、凄まじい。

「なまじっか普通に見えるもんでねえ」と、帰り際に残した言葉が痛かった。脳をやられた身体には、まったく普通なんてありえない。自分のこととしてわかっていたつもりの僕でさえ、ついついNさんの元気な姿に誤解をしていたのかもしれない。会社での日常には多くの誤解が付きまとい、その一つひとつがNさんに無理を強いることになっているのだろう。

「また顔出します!」。そう言って仕事に帰っていくNさんの後姿は、退院の時とは違って見えた。おそらく、僕の方の変化なのだが‥‥。

‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑧

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

「なかなかうまく字が書けないんですよ。仕事柄、お客さんの前で書かなくちゃいけない書類が多いですからねえ。元々字がきれいなわけじゃないんですけどね」。漢字練習用のドリルを小脇に病室に帰ってきたNさんに、「精が出ますねえ」と声を掛けると、そう言って悔しそうな表情を見せた。競合が激しい業界。好況な訳でもない。新興勢力の台頭に脅かされてもいる。団体旅行への売上依存度の高い老舗の旅行代理店はいずこも、優良顧客のつなぎとめに躍起になっている。Nさんの悩みは根が深い。少し、立ち話になった。僕は、腰掛けたままだったが‥‥・

「うちの会社、待ってくれて半年なんですよ。まあ、悪いほうじゃないんでしょうけどね。半年過ぎると、辞める?暇な仕事にする?って話になるらしいんですよ。降格ってことですよね。そうなると、給料は下がらざるを得ないですからねえ」。苦い笑顔を浮かべるNさんに、僕は言葉がない。Nさんの会社と仕事でお付き合いしたことがあるため、彼に中途半端な慰めの言葉を発する気にはなれない。

「まあ、あと一週間、頑張りますよ」。そう言って自分のベッドに向かうNさんの、普通の人にしか見えない後姿と、すぐにカーテンの向こうから聞こえ始めた鉛筆を走らせる音に、僕は嘆息した。

ベッドに横になると、明るく優しい奥さんと、Nさんと肩を組んで廊下を歩いていた小学校高学年の息子さんの笑顔を思い出した。“どうにかならないものか?”と思った。

‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑦

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

僕が入院した日、声を掛けてくれたNさんには、翌朝の朝食時からお世話になった。パンに添えられてきたブルーベリー・ジャムを開けられず、どうしたものかと見つめていると、横から微笑みながら手に取り「ストロベリーもありますよ。マーマレードもあるはずですよ。換えてもいいんですよ。どうします?」と声を掛けてくれた。開けられないだけではなく、ブルーベリー・ジャムが好みではない僕の気持ちを読み取ったかのような言葉だった。「じゃ、マーマレードにしようかな~」と呟くと、すかさずNさんは食堂スタッフにその旨を告げ、すぐにやってきたマーマレードを開けてくれた。

「どうも。助かります」と一礼すると、「何言ってるんですか。大丈夫ですよ。得意ですから、こういうこと。僕はプロですよ。何年、ツアコンやってきたと思ってるんですか」と、Nさんは笑った。

それから彼は、病院内のルール、自己主張すべきこと等を、事ある毎に教えてくれた。素晴らしい“リハビリの先輩”だった。「何事にも先達はあらまほしきものなり」という言葉を思い出したほどだった。

Nさんは旅行代理店の支店長。40代半ば、働き盛りでの脳梗塞発症だった。「会議の時に、突然書類をめくることができなくなったんですよ。そのうち言葉もおかしくなっていって‥‥」右半身の麻痺に陥った。ただ、幸いにも人が多い場所での発症。対処も素早かったおかげで、症状は重篤なものではなかった。

クラウチングスタートでの走る練習やジャンプの練習をしている彼は、退院間近。何事もなかったのように職場復帰していくものと、僕は思っていた。ところが、他人が見るほど事態は楽観的なものではないことが、徐々にわかってきた。

‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑥

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

間断なく続く“寝言おじさん”の寝言に、病院が何ら対策を講じなかったわけではない。時折悪夢に襲われる“寝言おじさん”には、ベッドから落下する危険もあった。

まず、ベッドサイドまで身体が移動すると反応する特殊なナースコールが敷かれた。スタッフが交代で“寝言対策要員”となる体制もできた。もちろん、夜中に発作に襲われる人もいるので、24時間体制の監視体制は元々整っている。

一声、寝言が響き渡ると、10秒後くらいにはスタッフが駆けつけた。時には暴れる“寝言おじさん”に、1名では対応できないことも多かった。やさしく声を掛け、半覚醒状態になった彼をなだめるのだが、その効果はあまりなかった。なだめる言葉にも妙に論理的に対抗し、次第に怒りに燃えていく“寝言おじさん”は、なかなか手強かった。

やがて、寝言で家族に対して噴出していた憤りは、スタッフに向かうようになっていった。リハビリに前向きになり昼間は親密度を増していたスタッフが、深夜には敵に変わっていくのだった。

そして、“寝言おじさん”は、ある夜ついに証拠写真を撮ることを思いついた。趣味のカメラを奥さんに持ってきてもらい枕元に並べて間もなくだった。

いつもの時間に始まった咆哮に女性スタッフが駆けつけると、フラッシュが連続で光り、「お前か、犯人は!やっぱり、お前か!撮ったぞ!撮ったぞ!証拠を撮ったぞ!」という勝ち誇ったような声が続いた。

しかしそれは、むしろ彼の夜中の蛮行の証拠写真となった。証拠写真を見せながら「もっときれいに撮ってもらいたかったなあ」とからかう“犯人”の女性スタッフに、「被写体の問題じゃないの?」と照れ臭そうに、しかし精一杯の冗談で返している“寝言おじさん”に、もう病院やスタッフへの不信感は感じられなかった。病院側の弛まぬ努力の勝利だった。

それから一ヶ月後くらいに、僕は退院した。“寝言おじさん”は、その半月前に病室を変わっていた。寝言は続いていたが、少し歩けるようになっていた。

‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥④

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

“寝言おじさん”は、リハビリに真剣ではなかった。僕が入院して2週間以上、リハビリルームに行くことさえ拒否し続けていた。やむをえずセラピストの人たちはベッドの上とベッドサイドでリハビリを行っていたが、車椅子への移動の要領を覚えることさえままならない状況だった。

前進しないリハビリに、家族のモチベーションのための努力は続いていた。いつも傍らで見守っている奥さんは優しく励まし続け、退院に備えて進んでいる改築のことや孫たちの近況を、写真を見せながら語った。息子さん二人は、病院の仕組みやリハビリに疑問を呈する父親に、自分たちがリハビリテーション病院をどれだけ探し、見学してきたかを熱く語り、“考えられる最善の環境”にあることを理解してもらおうとしていた。しかし、気のない返事や感情的な反論に、肩を落として帰って行くことが多かった。

珍しく明るい笑い声が洩れてきたのは、孫の訪問を受けた時だった。足の装具を孫に見せながら、「どうだ。おじいちゃん、これを着けて家の中を歩くんだぞ。ロボットみたいでカッコいいだろ~」と笑っている“寝言おじさん”の姿が垣間見えた。その時は僕も、“よかった~~。これで進展するかも‥”と胸を撫で下ろしたものだった。

ところが、それでもリハビリは進まない。他人事ながら、“回復期を過ぎてしまわなければいいが‥”と僕は気を揉んだが、ご本人は意外とお気楽で、リハビリ中はずっと冗談を口にし、後ろから支えられつつ立ち上がる時などは、大きな放屁一発。セラピストの笑いを取ったりしていた。

セラピストの人たちのモチベーション努力も辛抱強く続いていた。その押し付けがましくなく、淡々と明るく仕事をこなしていく姿に感心しながら、一方で僕は、“寝言おじさん”の心根を思い描いていた。ヒントは毎夜耳にする“大いなる寝言”にあった。

 ‥‥つづく

*先週の三連休明けに急にひどくなった左腰の痛みの原因は、やはり“オーバーユース”だったようだ。週に一度通院している成城リハビリテーションクリニックで、PTのIさん(AK法の熟練者)に診ていただいた結果、腰の関節に不具合が生じており、それは“頑張り過ぎ”とのことだった。指先で関節の調整をした後、Iさんは「三日間くらいおとなしくしててみてください」と笑った。

そして三日後。Iさんの予言どおり随分と楽になっていた。頑張り過ぎと調子に乗り過ぎは、やはり禁物だ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥③

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

初めての夜、“昼夜逆転の体内時計”が少し狂ってくれたお陰で、10時を過ぎる頃には眠りに付いた。しかし、突然の大声に飛び起きた。と言っても、首を起こし廻らせただけだが‥。

「そこの若い奴!鏡の前に立て!」。その声は、はっきりとそう言っていた。空耳などではなかった。が、病室内は何事もなく静まり返っていた。“若い奴”を自分のことと思い飛び起きたことが可笑しく、布団をかぶって笑った。

しかしその声が同室の人から発せられたものだということが、3時間後にわかった。午前2時過ぎ、数分間の演説が聞こえてきたのだ。内容までは判然としないが、どうも何らかの研究発表のようだった。

翌朝、7時過ぎには、スタッフに起こされ車椅子への移動を手伝ってもらい、洗顔と着替えを済ませた。睡眠約2時間。さすがに目の奥には眠気が留まっていたが、新しい朝は爽やかだった。

車椅子を押してもらい食堂に着くと、隣のベッドのNさんが、隣席へと誘ってくれた。「おはようございます」と声を張って挨拶すると、Nさんの人懐っこい笑顔がいたずらっ子のそれに変わり、僕に近付いてきた。「よく眠れました?」。そう問われて僕は、正直に「いやあ、眠れなかったですねえ」と応えて笑った。

それから約2ヶ月、深夜の演説、独白、罵声は休みなく続いた。悪夢に苛まれた結果の、“大いなる寝言”のようだった。覚醒さえしていればさしたる問題のない人であり、日々朝から夕方まで付き添いにやってくる奥さんの同室者への平身低頭ぶりが痛々しいほどだったこともあって、苦情を言う気にはなれなかった。Nさんも、そう思っているようだった。

同病のよしみ、というものであろう。むしろ夜な夜な聞こえてくる寝言の内容に、70歳くらいと思しきその人の人生や病気がもたらした変化を想い、胸が痛むことさえあった。

睡眠不足を心配するKapparには、「初台サファリパークのナイトクルーズや~~」と笑い話にしていた。 ‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥②

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

脳出血で入院した東邦大学大橋病院の主治医から初台リハビリテーション病院の存在を教わり、Kapparが色々調べた結果、4人部屋の一般病室約40万円/月なら、2ヶ月くらいであればなんとかなりそう、ということで早速エントリーした。救急車で搬送されて3週間位経った頃だった。

幸いなことに一週間もすると、“左麻痺用のベッドが空きそう”との連絡が主治医に入った。すぐに準備を始め、4日後には初台リハビリテーション病院5階奥の一般病室に入院することになった。

僕のベッドは、窓側。はるか遠くに、うっすらと富士山が佇んでいるのが見えた。遠くに見える首都高の“ユーノス”の看板を見つめながら過ごした大橋病院も僕は決して嫌ではなかったが、収納とカーテンで個室風に仕切られた初台リハビリテーション病院のきれいな病室は、“身の程知らず”と自らを叱りたくなるほど言うことなしだった。

車椅子に座ったまま漠然と窓外を眺めていたら、窓に向かって体操に余念のなかった人が声を掛けてきた。アロハシャツにジーンズ、足元はスニーカーといういでたちの彼は、もうすっかり普通の人に見えたが、隣のベッドの人だということが判明した。まず名前を名乗りあって、二言三言、言葉を交わすと、「よかった~~、お話ができる人で。そのベッドにいた人、言語障害がある人で、ずっと会話してないんですよ」と、実にうれしそうな笑顔を見せた。お互いの脳卒中発症体験や職業について簡単に紹介しあった。「何かあったら、遠慮なく聞いてくださいね」という言葉に、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と頭を下げた。50歳。7歳年下の彼が、とてもいい先輩に思えた。心強かった。すべてがタイミングよく順調に展開しているように思えた。

毎夜起きることになる事態は、まだ想像さえしていなかった。 ‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥①

「こんなに急に寒くならないで~~」と、天に向かって叫びたいくらいの、いきなりの秋到来。気温の変化に微妙に反応する身体のあちこちの不具合に、涼やかな秋風さえ恨みたい気分の日々が続いた。「徐々に徐々に秋になってくれれば、身体も馴染んでいくのに‥」などと愚痴っていると、大型台風の到来ときた。

台風の到来は、どういうわけか気持ちを高揚させる。危険を孕んだ出来事の予感は、興奮剤として作用するものだ。しかし、脳出血から丸3年の身体には、しんしんとこたえる。週一回のリハビリもサボり、電気ストーブの前で、猫と一緒に丸くなって過ごした。

そして、からりと晴れた三連休!少し歩くと痛み始めるはずの膝も、なぜか快調とあって、さくさくとお散歩をした。踵に体重を掛けることができるようになったことが膝の快調につながったのであろう、と自己判断。それを意識しながら歩いた。買い物もした。荷物も持ち歩いた。

すると、次の日の夜あたりから、じわじわと左腰から左脇に掛けて痛み始めた。そして一昨日の夜には、ほとんど眠れないほどになった。右側にあるものを取ろうとするだけで、痛みが走る。それをいいことにいろいろなことをサボり、転んだ仏像のように動かず一日を過ごした。

そして、飽きた。鎮痛剤を飲み、Kapparが自分の慢性の膝通用に処方してもらってきた塗り薬を擦り込んで、ちびちび動いた。で、少しは良化してきているような気がする今日である。事務所への往復も、もう大丈夫?だろう。

改めて、思った。“脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。”である。

僕は、回復期のリハビリが終わった後のリハビリは、「安全の獲得・維持と痛みの軽減による、QOLの向上」がポイントだと思っている。が、リハビリが持つ意味は人それぞれによって異なると思う。QOLも人それぞれだからである。

思い起こせば、初台リハビリテーション病院で同期だった人たちも、それぞれ異なるニーズや想いを抱えて、リハビリに向き合っていた。 ‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中(脳出血、脳梗塞)患者は、いかにしてリハビリテーション病院を選ぶか?!‥‥厳しい選択‥③

一気に“回復期リハビリテーション”を充実しようという“上意下達”型の方針決定。それは、いかにも旧来型の「まずは、施設から充実」という考えで進められたように思える。専門病棟とベッド数の拡充には、まずは形の上でも受け入れ態勢を整えよう、という意図が垣間見える。新しいシステムや方針を短期間で浸透しようという時にはやむをえない方法論であるとはいえ、形ではなく内容が充実してこその医療であることからすると、いかにも問題ではある。医療の現場、患者の実態を常に観察し、未来予測の元に早目に手を打っておかなかったためであろう。

ただ、リハビリ医は、問題を孕みながらも増え続けており、 回復期リハビリテーション”は、内容の充実に向けて着実に動いているようには思える。

しかし、患者にとって最も大切なリハビリの現場はどうかとなると、まだまだこれから解決していかなくてはならないことが手つかずで残っているように思えてならない。

まず第一に、リハビリ・ノウハウの研究・開発と徹底である。現在、現場で働く療法士の多くは若い人である。そう恵まれているとは言えない労働条件下で、よく頑張っているなあ、と感心させられる人が多い。

ただ、彼らがどのような指導・教育を受けてきたのかは、とても気になる。なぜなら、日本はリハビリ後進国。ベテランの指導者が、数多く存在していたとは考えにくい。しかも、リハビリを必要とする患者は、あらゆる診療科からやってくる。異なる原因で起きた様々な身体の機能の不具合を一人の療法士が引き受けるのは、相当に難しいことであることは想像に難くない。

リハビリ医と同様、短期間に数多く養成された若い療法士がどのような指導を受けてきたのか、その実態を、門外漢の僕は知らない。しかし、患者としてリハビリの現場で経験してきたことから推し量ると、そのほとんどはスポーツ運動学的立場からのリハビリ・ノウハウを学んできた人達ではないかと思われる。骨折、捻挫等外的要因によって生じた機能障害のリハビリである。脳卒中や糖尿病等内的要因による機能障害のリハビリを教えられてきたとは考えにくい。

なぜなら、それはまだ研究過程にあり、“これだ!”という画期的な方法論は見つかっていない、と同時に、僕が経験したリハビリのほとんどは“筋トレ”型だったからである。まるで、スポーツのフォームの矯正をするかのように「ここの筋肉を使ってください」とか「お尻の筋肉に力を入れてください」とか「膝が伸び切らないように止められませんか?」といったことを言われ、筋肉の機能と身体の動きの関連性の説明を繰り返し受け、戸惑ったことのある方は多いと思う。

「それ、不随意筋じゃないんですか?」とか「そこを動かす指令を出すはずの脳細胞が死んじゃってるもんでねえ」とか、まるで言い訳のように言いながら、1単位20分を“意味あるのかなあ”と思いつつ過ごしたことが、僕は何度もある。「じゃあ、他に方法があるんですか?」と問い返され、「そうですね。頑張ります!」と、いつもより懸命になったこともある。

意識することが動くことにつながるとは、今でも思えない。意識し過ぎることはむしろよくないのでは、と思える。ほとんど無意識でできていたことを意識すると、失敗やつまずきが多くなるものだ。もちろん、かと言って、どうすればいいか、僕に判るわけもない。

ただ、できることならば、患者の選択の自由度がもっと高まってくれないか、と思う。

メイン・ストリームになっていると思われる“スポーツ運動学的立場からのリハビリ”以外に、様々に研究されているはずのリハビリも受けてみたい。鍼灸師や趣味の先生を選ぶように、療法士を選択する自由を得たい。

様々な原因に因るものだから平準化、均質化することが難しいのがリハビリである。だからこそ、選択の自由が患者にもたらされてもいいのではないか。そう思うのである。そしておそらく、そうなることが療法士の切磋琢磨を生み、労働環境をよくすることにもつながるのではないか、と思うのである。

自由度が低く、リハビリ・ノウハウも定まらず、リハビリ医さえ不足している今、僕たち患者には、病院を選択する自由だけが、ほんの少しだけ残されているに過ぎない。しかも、選択にあたっての手がかりはないに等しい。

それが実情であることを認識しつつ、リハビリは自助行為であることに立ち戻り、家族の協力の下、徹底的に自ら調べ、足を運び、目と肌で実感的に選択するしかない。

ポイントは、リハビリ・マインドの有無である。そしてそれは、患者ときちんと向き合い関わっていく意志と熱意の有無を意味するものである。

1~2時間、リハビリが行われている現場に身を置いてみること。それが、最も大切なことだと、僕は思う。どんなに解説されても、料理は食べてみないと、自分の舌に合うかどうかわからない。リハビリも同様である。

マーケティングは、いつでも必要なものなのである。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

脳卒中(脳出血、脳梗塞)患者は、いかにしてリハビリテーション病院を選ぶか?!‥‥厳しい選択‥②

脳卒中の死亡者数は減少したが、生き残った人たちの問題が浮上してくる。

比較的高齢者が多いとはいえ、脳卒中発症者の5年以内の再発率30~40%、7年後の生存率は50%である(もちろん、脳卒中発症は生活習慣に起因していることがほとんどなのに、病後に生活習慣が戻ってしまう患者が多いのも大きな要因だが‥)。しかも、ほとんどの場合、なんらかの後遺症を抱えることになる。生活改善をしつつ、継続的に通院もしなくてはならない。となれば、支える家族の負担は大きい。

一方、現在寝たきり介護を受けている人約40万人の、寝たきりとなった原因の約30%が脳卒中。介護による家族の負担は、経済的にも肉体的にも計り知れないほど大きく、社会的な問題としても深刻さを増している。

介護保険は、国民皆保険を標榜してきた日本の保険制度が危機に瀕していることを意識しつつ、介護の負担を新たな保険制度で補っていこうとスタートしたものだと思われるが、介護の負担を軽減する近道は、“要介護”の人をできるだけ減らす、ということにもある。

そこで重視されることになったのが、“回復期リハビリテーション”なのだと、僕は思う。

そして、だからこそ、回復期リハビリテーション”においては、“歩けるようになること”が重視される。つまり、寝たきりからの脱却である。(‥もちろん、それでいいのだが‥)

しかし、多くの問題を内包したまま、回復期リハビリテーション重視の医療体制は組まれていったような気がしてならない。

前提条件として、回復期リハビリテーションは、地域医療の充実と両輪で行われるべきことである。なぜなら、歩けるようになることだけでは本質的な問題解決にはならず、患者本人は継続的な通院ないしは在宅リハビリテーションを必要とするケースがほとんどで、地域医療のお世話にならざるをえないからである。

地域医療が充実しているとは言いがたい状況下で、回復期リハビリテーションの重視と地域医療の充実という二つの大きな問題を同時進行で解決していこう、とする方針には、素人の僕でさえ大いなる無理を感じる。

さらに、リハビリテーションの現場(患者にとっては、これが最も重要なのだが‥)が、いかにも急ごしらえにならざるを得なかったことも、問題点として挙げられるだろう。

リハビリテーションを必要とする人は、脳卒中発症者のみではない。あらゆる診療科からやってくる。したがって、リハビリテーション科は、それらすべての人を受け止めざるを得ない。であるにもかかわらず、日本のリハビリテーション科の歴史は浅く、専門医の数も不足している。回復期リハビリテーション病棟の運営には、本来専門医の存在が不可欠だが、中には専門医不在の病棟もあると聞くくらいだ。

何しろ、2002年度で、全国に800名強。その後、急激に増えたとはいえ、現在約2000名のリハビリ医では、全国150万人(しかも、増え続けている)の脳卒中患者だけでも手に余るはず。しかも、リハビリ医の多くは、リハビリ医のニーズが高まってから試験を受け資格を取ったというもの。リハビリテーションの現場経験を積んできた医者とは言い難い。リハビリ・マインド(患者と向き合い、その生活ニーズにまで踏み込んでいこうとする意識)に富んだ人ばかりとは思えないのである。‥‥リハビリ医の中にも、そのことを問題視している人がいる。

入れ物(専門病棟)はできていくが、中身は覚束ない、ということになっていかざるをえない状況とも言えるのである。したがって、リハビリテーションの現場は、どうしても療法士にお任せになっていく。致し方のないことである。なにしろ、日本は“リハビリテーション創成期”である。

ところが、ここにも大きな問題が横たわっている。  ‥‥つづく

*リハビリ医になった医者の多くは、元々別の診療科の医者だったようだ。ということは、リハビリ医が増えた分だけ他の診療科の現場から医者が消えていることになる。

自分の時間がもてない、医療過誤問題で訴訟に巻き込まれることが増えている、人の命に関わり続けることのストレスが大きい、など、真面目な医者ほど厳しい環境におかれていることを考え合わせると、自由度が高く緊急性も低いリハビリテーション科に移りたいとする医者が多くなることは頷ける。しかし、それはそれで、患者の側も配慮を欠かさないようにしなければならない問題だ、と僕は思う。医者にも暮らしはあるのだから‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (1) | トラックバック (5)

初台リハビリテーション病院の思い出

山登りは、下り。海外旅行は、慣れた頃。仕事は、覚え始め。‥事故や失敗の起きやすいタイミングである。

ここ二週間で三回の尻餅。いずれも、立ち上がり一歩踏み出した時だった。安定しない左膝。時には痛みもあるため、注意深く体重を乗せた瞬間に、へなりと力が抜けた。

何も置いてない場所に、尻は着地。苦笑で済む程度のことだったが、なんとも不思議な感覚だった。安全な場所だからこそ、力が抜けたんだと思った。‥そういうことにした。

よくなっている時にこそ、事故は起きやすいものだから‥。と、思うことにした。

でも、少し気になる。初台リハビリテーション病院に入院して以降一ヶ月の目覚しい進歩を今も望むことは無理、とはわかっていても、まったく変化なしとは思いたくない。

パソコンに取り込んである写真をごそごそと開いてみた。

懐かしく、“初台の日々”が蘇ってきた。

リハビリ漬けの日々。スポーツ選手の合宿中のような日々に、苦しさや辛さのイメージはない。日々、前に進んでいると、多少のことは苦にもならない。

車椅子への移動も覚束ない状態で入院。二週間に57歳の誕生日を迎えた。

初台リハビリテーション病院の食事は、なかなか気が利いている。一週間分のメニューが予め病室に届けられ、朝・昼・夕と、和・洋2種類のメニューから選び予約することができる。予約しておけば、見舞い客も有料で一緒に食事することができる。

Photo_2

Kapparチワワンe-poohKenちゃん夫妻の四人は、僕と同じメニューを予約して、病院内で誕生日会をしてくれた。

22_2 

ケーキには、“新生カッキー、おめでとう”との書かれていた。一緒の食事を、みんなで大いに楽しんだ。

P1010183

それから約一週間。わずかの距離が歩けるようになった。ふらふらとしているが、シャッターのタイミングによっては、しっかりとした歩様に見えなくもない。左手が“演歌歌手”になっているが、それは今も変わらない。

大きな進歩はなくなって久しい。左手は今でもほとんど使えない。しかし、そんな身体と気持ちの折り合いは、入院中についた。親しい人たちのお陰である。

“何かしてあげたい”という気持ちは、貴重なもの。それが阻害され消えていくのは、とても悲しいことだ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英会話のコツと介護・支援の現場‥‥つづき

僕は小学生時代、島根県石見地方を中心に五つの学校を転々とした。

小学校5年生の一年間を過ごしたのが、島根県益田市立鎌手小学校。国道9号線沿いと日本海海岸沿いに集落が点在する、典型的な田舎町の小学校だった。お袋の実家の“離れ”に親子三人で居を構え、学校へは徒歩で通っていた。

クラスは二つ。多くの農家の子供たち、一部の漁家、商家、公務員の子供たちと、僕は机を並べることになった。

初日の放課後には、先輩の洗礼を受けた。裏山に呼び出されて1~2発殴られ、生意気だ!と言われた。意味がわからずきょとんとしていると、気に入った!仲間にしてやる!と開放された。

下校時には、同級生の男子数名にがっちり囲まれながら帰路に着いた。家が一番近いことに胸を撫で下ろしながら全員を家に招き、それまでの漫画とメンコ(“パッチ”と呼んでいた)のコレクションを開放した。惜しいとは思わなかった。

一ヵ月半後、僕は方言の違いにも慣れ、口にすることもできるようになっていた。奇異の目に晒されていた“坊ちゃん刈り”を刈った。バリカンの痛みに不覚にも涙が出たが、余分なものを脱ぎ捨てた爽快感があった。

そして、忘れられない夏休みがやってきた。すっかり仲良くなった数人の仲間と、小さな入り江に毎日通った夏休みだ。

小高いところを走る山陰本線の線路上を数百メートル歩き、小道をずんずんと降りる。やがて大きさを増す波音の方へと藪を抜ける。と、岩浜が開ける。塩の香りに吸い寄せられるように、仲間は海へと小走りになる。後を追う僕は足の裏がやわでゴム草履を脱ぎ捨てられず、小石に足をとられ遅れをとってしまう。膝の深さに到達し、身体を浸す。水着だけで日の光を浴び続けていた身体に、冷たくピリリと海水がしみわたる。

ひとかきして顔を上げると、浮き沈みしながら沖合いへと向かう仲間の背中が波間に見える。そこは、子供たちのプライベートビーチ。ルールを守れば、夕ご飯のおかず程度は獲ることのできる漁場でもあった。

丸刈りにしてよかった、と思った。方言を口にする勇気を持ってよかった、と思った。漫画やメンコをあげてよかった、としみじみ思った。

それまで身に付けていたものを脱ぎ捨て、今の居場所に身を委ねる‥‥。そうして、僕はひと夏で多くのことを学んだ。

初めて太陽の下に晒された僕の頭皮は、その夏、二回も剥けた。

二学期。僕はすっかり“鎌手の子”になっていた。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

英会話のコツと介護・支援の現場‥①

初台リハビリテーション病院を退院した後、Kapparが調べてくれた成城リハビリテーションクリニックに通院を始めて2年4ヶ月が経った。

こじんまりとしているだけに、セラピスト同士あるいはセラピストとドクターのコミュニケーションがよくとれている、なかなかいい病院だ。

僕のPT(理学療法)担当だったMさんとは、セラピーを受けてながら冗談を言っているうちに仲良くなり、今では親戚のようなお付き合いをしている。

いい職人を目指している真面目で優秀なセラピスト、Mさんの趣味は、お金を貯めてパリに遊びに行くこと。今春も、お気に入りのパティシエ(ピエール・エルメだったか?)が開く、ボランティア・コンセプトの“マカロン祭り”に、「趣旨に賛同したから、行ってきま~す」と出かけていった。

そんな彼女がかつてパリで目撃した本当の話。

日本からやってきた“関西のおばちゃん”集団が、こんな会話を交わしていたという。

「タクシー乗った時も、カフェで何か注文した時も、最後に“しもぶくれ!”言うたらええらしいわ」「わかった。“しもぶくれ!”やね」。

「お前は、ブツモンか!」と言われるほどダメな仏文の学生だった僕でも、それが「S'il vous plait(シルブプレ)」を意味することはわかった。「通用するよ。教えた人、偉いかも」と言いながら、スティーブンというオーストラリアのロケーション・サービスの大男が力説していた“英会話のコツ”を思い出していた。

1.単語(モノ、ヒト、コト、場所、副詞等)+Please ‥人に何かお願いする時は、これ!

2.Thank you! ‥お願いを聞いてもらえたら、忘れずに!

日常会話は、これで充分。ネイティブの人でも、これができていない人がいるくらいだから、旅行者が励行すれば、紳士・淑女だと判断される。文法を知っていることよりも、礼儀を知っていることの方が大切。もちろん、笑顔も忘れないように。というのが、スティーブンの語った“英会話のコツ”だった。

「日本人はどう?それができてない人が多い?」と尋ねると、「それが不思議なんだよ。できてない人が多いね。英語をかなり知っているのにね」と答えて、スティーブンは皮肉な笑いを浮かべた。なんだか、納得のいく話だった。

S'il vous plait(シルブプレ)」は、フランス語圏では使い道が多い。「よろしく~」「すみませ~~ん」「あの~~」などの感覚でどんどん使えばいい言葉だ。フランス語っぽく発音しようとせず「しもぶくれ?」と微笑んだ方が通用するだろう。

コミュニケーションは、実は大切な単語が欠けていては成立しない。それを象徴しているような話である。

ではなぜ、“英会話のコツ”が介護・支援の現場と関係があるのか。そのことには、次回言及したいと思う。‥お気づきの方も多いとは思うが‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

脳出血、半身不随、リハビリ‥。訪れた人たちの第一声。

「運がある人だから、死ぬことはないと思ったよ。絶対歩けるようになるって信じてるし‥‥」

「まあ、赤ちゃんみたいになったのね。“はいはい”から、やり直しだねえ」

「すごいスピードで突っ走ってた人だからなあ。スピードダウンして、ゆっくりやっていけばいいんじゃないですか」

「ぼ、僕は、何をすればいいんですか?」

「パソコン、左手もフルに使ってた?使ってなかったでしょ。じゃ、大丈夫じゃん。問題ないわよ」

「生き残っちゃったんだねえ。お金、どうしてるの?僕なんか、生き残ったら大変だと思うよ」

「相談に行って、朝まで飲みながら付き合ってもらって、その翌日だから、私のせいみたいで‥‥」

「何だ、頭は大丈夫なんじゃないですか。そりゃあ、よかった。宿題でも出しておこうかなあ」

「どんな感じだったの?予兆はあったの?僕も血圧高いんだよねえ」

「煙草、ここに置いておいてあげましょうか?」

「よっちゃんいか、持ってきたわよ。早く食べられるようになってね」

年半前。脳出血で入院。リハビリのために、初台リハビリテーション病院に転院。合計三ヶ月ちょっとの入院生活の間に訪れてくれた人たちの、記憶に残っている第一声である。

それぞれの人の個性が、よく表れている。すべて、思いやりのある言葉だと僕は思った。かなり笑わせてももらった。

恥ずかしい姿だとか、惨めな姿だと思わせるような言葉は、一つとしてなかった。それは、彼らにそんな目線がなかったからだろう。

障害を持った人や認知症(嫌いな表現だが‥)の人が姿を晒した時、それを恥ずかしいことだとする人は、その人の心根にそう見てしまう一種の差別意識があるからだと、僕は思う。

幸い、僕の周りにはそんな人はいない。人としての価値を見かけの変化や衰えで計る人と付き合いのないことは、幸せである。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

春爛漫、終わりが近付くリハビリと日常‥‥②

中学生の時、「“今”って何?」と質問したのを思い出す。親父はしばらく言葉を探す顔になり、真顔で「過去と未来の間、かなあ」と言った。

「時間なんて人が決めただけでしょ」。正月に、昨日と今日が殊更に違うって変な感じ、いつも昨日から今日になっているのに、と不機嫌になった時には、「決め事がないと、人は何もしないからなあ」と呟いた。

日めくりカレンダーが、僕の頭には浮かんだ。めくって破り捨てる。その瞬間が、昨日と今日をつなぐ“今”のような気がした。

父親の病死、一家離散、見習い僧、学徒出陣、肺結核、離婚、再婚、死別、再々婚、死別肝臓癌‥。今日から明日へと続くものと思ってめくると、劇的に変わってしまっている“今”と直面する。親父は、そんな“今”の連続を生きて、死んだ。

生きていくために受けた肺結核の手術。そのときの輸血でなっていたC型肝炎。それが元で発症した肝臓癌だった。手術をして再発後、癌と共生すると決めて一年。一人暮らしのお風呂で発見された。春を迎え、次の一年へと季節が巡った直後だった。

葬儀場の桜は花が舞い落ち、すっかり葉桜になっていた。

ストレッチャーの上で左半身の動きがピタリと止まった時、さしたる驚きもなかった。これからどうなっていくのだろう、と思った。そんなに深刻な色を帯びた想いでもなかった。

ぼんやりと、一人暮らしをすべきなんだろうなあ、と思い始めていた。

翌日へとカレンダーが替わった頃、5本のチューブに絡まるように起きて、カツンと“今”がやってきた。

その時からの様々なシーンが、退院、リハビリ入院、リハビリ通院と、パラパラ漫画のように浮かんでくる。感傷はない。

ベンチの上、右に目を落とすと、ラップにくるまれた小さなおにぎりと弁当箱。「食べる?」と、Kapparが覗き込む。

「食べようか。‥‥大丈夫だよ」。左手でおにぎりを支え、ラップをめくる。自転車で訪れた青年と会釈を交わす。

Photo

日めくりカレンダーを替えよう、と思う。

親父のカレンダーには、いつも“死”が影を落としていた。お見舞いに帰省を続けていた頃そのことを痛感した。書き留めておこうと思った。「親父への旅」としてまとめた。が、失くしていた。それが、金曜日にコピーで帰ってきた。ベッドでぼんやりと“死”というものを想っていたことを思い出した。

おにぎりを口に運ぶ。比較や評価への意識をそぎ落とせない自分自身を、噛み締める。

リハビリも終わりに近付いている。麻痺の残る左半身との付き合いも、淡々と日常化してきている。食べることを軸とした、ほのぼのとシンプルな暮らしも落ち着いてきた。暮らしを支える経済活動の強いプレッシャーも緩和された。

これからは、残存する過分な欲や意識との付き合い方こそ、課題になってくるだろう。内へと向かいがちなエネルギーを“よきこと”へと向ける。過分な無理はしない。それが、Kapparへのお返しにもつながるはず。

数多い病気やリハビリの後輩のために何かできないか、動き出そう。寄り添うように励ます。そんなサポートができないか‥‥。

いくつかある計画を口してみよう。紙にしてみよう。

ささやかな決意をしながら、目の前を通り過ぎる少女を見つめていた。「随分見つめていたねえ」。Kapparの言葉に、「彼女が大人になった時の顔を想像してた」と応えた。「どんな感じだった?」に、「ちょっと残念な感じかなあ、ちょっとだけどね」と言うと、Kapparは大きく声を上げて笑った。

いい花見だった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

春爛漫、終わりが近付くリハビリと日常‥‥①

相次ぐ来訪者とKapparお手製の「和風サムゲタン」に、ついついお酒もすすんだ金曜日の夜。事務所を後にしたのは、午前3時を回っていた。

寝つきはよかったが、久しぶりに胃が夜中に暴れた。ムカツいて眠れない。転々とした挙句ベッドを降りた。階下に下りて横になり、時計を見ると八時半。ええい、もういいや、と身を起こした。

Kapparが「おはよう!」と、いつもの元気な声で下りてきたのはお昼前。けだるいガーフィールドの目で目玉焼き、トースト、珈琲を用意してくれたあと、パソコンに向かう。仕事のスケジュールは、蛇腹のように詰まりつつある。

僕は不甲斐なくも、その横でコタツっ子。何か書こうと思うが、上瞼が落ちてくる。寝たり起きたりの後、晩ご飯をきっかけにやっと本格的に覚醒する。

と、さすがに表情に疲れが澱み始めたKapparがつつっと眠りに落ちてゆく。小さなコタツは、コタツっ子二人は収容しきれない。深夜直前「もうだめ!寝る!ん?寝てたよってか!」と一人突っ込みをしてKapparベッドへ。

コタツに残った僕は、またも胃の襲撃を受ける。医者が「この子は育たないかも」と言ったという胃腸は、軟弱で鬱陶しい。5時頃になってやっと眠った。9時半過ぎ、この日は疑いもなく元気一杯のKapparに起こされ、いつもの朝ごはんを食べる。しかし、またもうとうと。

不思議な夢を見る。金曜夜の会話の影響か、懐かしい店に懐かしいメンバー。いとおしさに胸が満ちていく時間と空間。ふと店の片隅を見遣ると、藤原紀香。ん?なんだ?そこに漂ってくる日常のイベントの香り。これはまがうことなき不滅の弁当メニュー玉子焼きの匂い。‥‥。夢か現か。藤原紀香と玉子焼き‥‥。

匂いは現実!と薄目を開けた時、「お花見に行くよ~」と起こされる。時計に目をやると午後二時。随分待ってくれていたようだ。

「お弁当持って行こうね」。見ると、テーブルの上に小さなお弁当と小さなポット。着替えも置いてある。

行き先は、500メートルほどのところにある實性寺。境内には枝ぶりに趣のある桜の古木が数本、緑の木々にゆかしくのどかに映えている。世田谷が田園地帯だった頃の風情の名残か、田舎で子供たちを足元に集め悠然と枝を広げていた大木を想う。その頃の目で見上げると、花曇の空が想いの外眩しい。

Photo_2 

写真を撮り、ベンチに腰掛ける。2年半の現実が、冷たく尻から突き上げてくる。スライドショーのように、半身不随から立ち上がるまでのシーンが、その時々の色を帯びて浮かんでくる‥‥。

              

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)              

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

島根県益田市からの訃報‥①

日曜日、田舎で母親の面倒を見ながら暮らす従姉妹から、電話が入った。声を聞くのは、親父の葬式以来。約7年ぶりだ。懐かしい声からは、訃報が告げられた。

叔母がなくなった。島根県益田市で川瀬クリニックという病院を営んでいる従兄弟の母親。肝臓癌によるものだった。

奇しくも、親父と同じC型肝炎に起因する肝臓癌だったとのこと。僕の母方の叔母で、親父も僕も血のつながりはないというのに、不思議な因縁だ。

従兄弟に電話でお悔やみを言い、僕の病気のことを初めて告げる。医者らしい冷静な対応だった。4月末、親父の命日に帰省する旨を告げ、再開を約束した。7年前、深夜まで飲んで以来の再会となる。

電話を切って、時の流れを痛感した。届く知らせに訃報が多くなっている。それぞれの人との思い出を手繰っていると、やがては、己の生き様への自問に行き着く。

巧みに生きるのではなく、よく生きよう。楽しむのではなく、楽しませよう。欲望を満たすではなく、制御しよう。‥‥。などと思い続けていたはずだが、手繰り寄せた思い出は、恥ずかしさに赤く染まっていることが多い。

脳出血とその後遺症によって失ったものは多く、そのほとんどは、得てさえいなかったものだと気付いた今、もう一度“そぎ落とす努力”をしようと、改めて思う。

“晩年を生きる”ということは、 “自己と向き合う生き方”のようだ。年齢とは無縁かもしれない。

4月末、従兄弟(澄川学ちゃん)と酒を酌み交わす時、穏やかに叔母の死を語り合えるといいのだが‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

膝痛に、歩行困難の日々‥‥

あれれ?!膝が痛くて歩くのが大変だ~。‥‥の日々。

原因はわかっているのだ。明らかに、オーバーユース。

新年会の前後、随分とお出かけ機会が多かった上に、新年会当日は、グラス片手に立ったままの時間が長かったせいだと思われる。

親しくていい人たちばかりが20数名やってくると、「座った方がいいですよ」と気遣われ椅子を勧められても、ついついうれしくて立ち上がってしまう。

お酒の勢いも手伝って、苦痛もない。「リハビリ、リハビリ~」とお調子者になってさえいる。

で、その翌日「あれれ?!膝が痛くて歩けないや」という始末。寒さも影響して、室内の移動さえままならない状態になってしまった。

大丈夫と思って歩いた一日も災いして、10日間も思うように動けない状態が続いてしまった。「365歩のマーチ」を口ずさんだりしながら、反省。3歩進んで2歩下がる、なのだ。

ただ、パソコンの前に座りっ放しが幸いして、やると決めたことは思いのほか進行。

まさに、禍福はあざなえる縄の如し、である。

いい時は、悪いことも始まり、悪い時は、いいこともスタートしている。‥‥そう思わなくては‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

障害基礎年金がもたらすもの

障害基礎年金を支給されることが決定し、ほっとすると同時に、おそらく同様の立場の人が感じるであろう複雑な思いも、すぐに湧き上がってきた。

山陰、島根県出身の僕は、純朴にたくましく生きている多くの老人たちを見てきた。過分な欲を持たない、自立する精神に触れてきた。多くの人は年金を貰うことさえ潔しとせず、「お国に迷惑をかけるようになって‥」と、どこか申し訳なさそうだった。生活費に使うのではなく、人の役に立てることに使おうとせっせと貯金し、地域のお祭りの時などは、周囲が押し返そうとするのに抗って、人一倍寄付するおばあちゃんを目撃したこともある。

その頑固な姿が、少年の僕にはたのもしく映ると同時に、かわいらしくも思えた。誇らしげに帰路に着くおばあちゃんの後姿を、僕はまだ憶えている。

僕はというと、生活の基本を失い、これで生活費が助かる、などと無邪気に喜んでいる。この違いはなんだ。これまでやってきたことは、一体なんだったんだろう。そして、これから一体何ができるというのだろう‥‥。薄暮に感じる安堵感とはかなさ‥‥。

背負ってたものがすっと軽くなるといささか虚しく、また何か背負わねばと思う貧乏性。あるいは、“男たれ!”と育てられてきた後遺症。‥‥。しかし、‥‥。

楽になったことを素直に喜べなくなって数時間、僕は思った。

「違う回路を見つけようね」というのは、こういうことなんだ。

真屋順子さんのご主人高津住男さんが脳出血の後遺症に悩む妻に投げかけたという、優しい言葉の意味がわかったような気がしたのだ。

回路は変わった。スイッチバックだ。次の行き先は、まだ見えない。今度の回路は、どんな景色に触れながら進むことになるのだろう。

障害基礎年金がもたらしてくれたきっかけだった。

ひょっとすると、僕がそうであったようにその存在にさえ気付いていない人は多いのではないだろうか。

傷ついたまま回路を変えることもできず思い悩んでいる人の意識を転換させるだけの力は、障害基礎年金にはある。

健康が当たり前のように手許にある時から知っておくべき制度である。

                        ‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

情報不足?脳卒中という病気とその後‥④

12月8日。初台リハビリテーション病院を退院して、ちょうど2年になった。

2006年9月5日、脳内出血を発症。東邦大学大橋病院に救急車で搬送されて、約1ヶ月。初台リハビリテーション病院に転院して、約2ヶ月。トータル3ヶ月の入院生活を経た後の退院だった。

最初の半年は、消えていきそうな社会復帰の可能性に萎えてしまいそうだった。僕の場合、“社会”復帰は“会社”復帰を意味するものではなく、新たな仕事の獲得を意味するものだけに、悲観的な方向へと傾いていきがちな心を、鼓舞し続ける必要があったのだ。

しかし、「早く収入の道を‥」と焦る気持ちとは裏腹に、発症以前に手がけていた仕事の打ち合わせに行くと、「大丈夫?ゆっくり療養した方がいいんじゃない?」と、役割のバトンタッチを示唆されることが相次いだ。“動かないのは、左の手足にしか過ぎない。仕事に支障はない”との僕自身の認識と他者(もちろん、人によって異なるが‥)の認識には大いなる落差があった。

決然と「男一人くらい‥」と言ってくれたKapparの負担は大きい。事務所、会社、何とか続けている60sFACTORYの業務、僕の負の資産の清算、そして生活‥‥。僕を責めることもなく、明るく手早く多忙な日々をこなしていくKapparの姿に、ありがたいと思う一方で、じりじりと追い詰められていく気分が襲ってくることも多くなっていた。

過剰な気使いや遠慮は、精一杯努力をしている人の気持ちの負担を、かえって増幅することになるものだ。それはわかっているつもりなのだが、要求や言いたいこと、あるいはちょっとしてもらいたいことを、ふっと飲み込んでしまう。そんな日常の、一つひとつ飲み込んだ事柄がじくじくと発酵し、それがまた気分を追い詰めていく‥‥。Kapparや友人たち(e-poohkenちゃんちわわん達)のお陰で楽しい時間を持たせてもらいながら、心の奥底の暗い湿りはどうしようもなく拭い難かった。

それが、一通の文書で乾き始める。障害基礎年金の支給確定と国民年金の納付免除の通知書である。支給額は、年間70数万円。免除額は、年間10数万円。合わせると年間90万円近くの生活保障である。

                      ‥‥つづく‥‥

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

情報不足?!脳卒中とその後。③‥障害者基礎年金

突然事故に見舞われたように襲ってくる脳卒中。

いきなり襲われるのは肉体だけではない。会社員や公務員ではない限り、経済的困窮にも襲われる。

無論、会社員であるからといって安穏とはしていられない。会社は、病に倒れた人材を、そんなに長くは待ってくれない。無事退院し、多少の後遺症を抱えつつ復帰しても、仕事の現場では同情など瞬く間に掻き消え、“不必要”“邪魔”といった空気が漂い始める。社内制度で保障される期間を過ぎれば、苦しい判断を迫られることになる。組織というものは、突然できた穴は、たとえそれが大きなものであっても、自然に埋め尽くし補正してしまうものだ。

懸命のリハビリで脳梗塞から復活!などというニュースや美談をよく耳や目にする。マスコミは、ハッピーエンドや奇跡や美談しか扱わない。が、その陰に隠れた多くの厳しい現実の方が、はるかに“現実”だ。

ダメージを受けた脳細胞の場所と量によって、脳卒中の症状は変わる。完全な社会復帰は、症状が軽い場合に限定される。多くの脳卒中患者は、後遺症に苦しみながら、病後の生活を送っている。そして、経済的な問題は、病後も形を変えて続くのである。

入・退院とリハビリ、そして、ままならない社会復帰と病後の暮らし‥‥。それを支えていくためには、いくらくらいの蓄えがあればいいのか‥‥。

脳卒中発症者とその家族の、暮らしの根幹に関わる情報は、世の中にはない。あまりにも“生っぽい”せいか、マスコミは取り上げない。ベストセラーになる種類のものではないので、不況にあえぐ出版社がノウハウ本を発行することもない。

僕自身、麻痺が残る左半身の、日常的にざわざわとする不快感や雨や寒さに影響されて起きる痛みよりも、その暮らしの根幹に関わる問題の方が気になり続けていた。

そして、脳内出血発症から2年と少々。靄が少し晴れてきた。なんとか暮らしていけそうな気がしてきた。

発症以前はもちろん、発症後も、その存在さえ知らなかった「障害者基礎年金」、「障害者手当」。友人の尽力のお陰で、その二つが支払われることになったのだ。

僕は、痛感した。病気とその後の生活に関わる費用について、いかに知識不足だったか。各種保険、社会保障制度にいかに無知だったか。

知っておくべき事柄である。知っておけば、精神的ストレスは間違いなく軽減される。そして何よりも、経済的に大いに救われる。

‥‥。このことについて、もう少し触れてみたい。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

情報不足?!脳卒中という病気とその後。②

真屋順子さんと大島渚監督のTVドキュメンタリーでは、真屋さんのご主人高津さんの言葉と大島監督の言葉が象徴的に使用されていた。

高津さんの言葉:「新しい回路を見つけようね」(真屋さんに語りかけた言葉)

二度目の発症後、リハビリの経過が思わしくない妻真屋順子さんに、これから二人で生きていくための姿勢を語った慈愛に満ちた言葉だ。共に歩んでいこうという、愛情に裏打ちされた強い意志がある。

大島監督の言葉:「これからは、周囲の人間にとって風のような存在になりたい。爽やかな、心地よい風のような‥‥」(ご本人の手になる文章‥原文のままではないかもしれない)

自立して生きていくことができない存在であることを痛烈に意識しつつ、人の存在に意義があるとすれば、周囲の人(特に、身近な人)に何をもたらすことができるかということにあると考えた挙句の言葉であろう。邪魔にならず心地よい、そして、存在を自己主張しない風、‥‥。今の大島監督の境地そのもののように思える。

前者は介護する側、後者は介護される側の言葉。ではあるのだが、介護する側の人の努力があってこそ、介護される側の意識も開放されていくことに変わりはない。

以前、本ブログで「介護される側の論理」に触れたが、それも介護(あるいは支援)あってこそのもの。障害を持つ者が、一人で生きていくことは、決してたやすいことではない。

風は空気に外的力が作用して生まれ、外的力の強弱によって、そよ風から烈風まで、その姿を変える。自ら姿を選べない風が、心地よいそよ風でいることができるのは、外的力がやさしく作用しているからに他ならない。大島監督が行き着いた境地は、妻の小山明子さんと共に辿り着いた境地なのだ。

そんなことを思いながらドキュメンタリーを見ていたら、涙が流れてきた。しかしその一方で、いつもの疑問も頭をもたげてきていた。

「経済的には‥‥?時間はどうやって作っておられるのか‥‥」

人に何かをしてあげようとすると、お金がかかる。してあげたいと思えば思うほど、お金は必要になってくる。そして、必要なお金を得ようとすれば、時間を必要とする。介護や支援に必要な時間を割かざるを得ない‥‥。幼児保育と同じだ。

そこが、知りたい。 と、思った。

          つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

情報不足?!脳卒中という病気とその後。①

真屋順子さんと大島渚さんが、相次いで地上波のドキュメンタリー番組で取り上げられた。いずれも、TVのドキュメンタリー番組で僕がお見かけするのは、2回目。

舞台で脳出血を発症した真屋順子さんは、夫で俳優の高津住男さんの大いなるサポートを受け、麻痺の残る身体で舞台復帰をされていた(そのことは、以前ドキュメンタリー番組で拝見していた)が、残念なことに再発。改めて、車椅子のままの舞台復帰を目指しておられる。

大島渚さんは、確かヒースロー空港で脳出血に倒れられ、妻の女優小山明子さんの介護の甲斐あって監督復帰をされたものの、再び病(脳出血ではなかったと思うが‥)に襲われ、車椅子生活を余儀なくされている。

番組は、いずれもほぼ同じ視点で構成されていた。「苦難を乗り越えて到達した、新たな夫婦愛の形」とでも言おうか、マスコミお得意の“美談”や“成功譚”の作りである。

しかし、2年前同じ病気に倒れた僕には、一つひとつのエピソードや、画面の中のお二人とその伴侶の一挙手一投足と、その裏に隠された語られざる軌跡や努力が、響き伝わってきた。

几帳面さや涙もろさを克服し、より力強く、男らしく生きていかねばと10代の頃から意識し、一枚一枚皮膚の上に貼り付けてきていた虚勢が、病気を契機に一気に剥げ落ちてしまった僕は、ほろほろと涙しながら、食い入るように見入っていた。

出た言葉は、ただ一言。支える夫や妻の、苦難を乗り越えた後の透明でおおらかな、慈しみに溢れた言動に対するものだった。‥‥「えらい!」。

しかし、見終わった後に、小さなわだかまりも残った。

マスコミを通じて“美談”や“成功譚”を見たり聞いたりした時にいつも感じる「途中経過をきちんと教えて~~~!」という不満に似ていた。そして、具体的だった。

経済的な背景が見えないこと。そのことに、わだかまりのすべては収斂されていった。それは生っぽく、番組制作者には避けて通りたいことに違いないが、病気とその後に最も大きく関わる現実である。

そんな時間はどうやって?そこに行くにはどんな手段で?で、その費用は?と、一つひとつ気にかかって仕方なくなっていた。

‥‥。11月初旬。そんな気分の僕に、一通の文書が届いた。ちょっと、目の前が開けた‥‥。

             つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リハビリ、「初台方式」と「成城方式」……②

「手段の目的化」……。よく起きてしまうことである。

リハビリ「初台方式」の場合:目的は、手足が使えるようになること。特に、歩けるようになることを主目的としている、ように思う。生活の基本となる身体能力を再獲得し、それを基礎として社会生活への復帰も目指そうというものであり、介護や支援をする人の負担も、その結果として軽減しようというものである。…と、思う。

入院、休みなしのリハビリの日々は、その目的を達成するための手段だと言える。

初台リハビリテーション病院は、それを明確に意図して運営していると思われる。病院経営も、それを意図することによって成立しているものと考えられる。

当然、リハビリもその意図に従って行われているように感じた。

リハビリ「成城方式」の場合:目的は、安全な暮らしがつづけられること。歩き方で言えば、よりよくしていくという言うよりも、チェックと改善を主目的にしている、ように思う。

もちろん、入院している患者さんもいるわけだから、「歩ける」ようにしていくためのリハビリも一方ではしっかり行われているのだが、在宅患者や通院患者に対するリハビリは若干意識分けされているように感じる。

僕は、退院して1年以上は、「初台方式」のリハビリを通じて生まれた習慣と意識に支配されていた。つまり、「リハビリは、日々きっちりメニューをこなすものである」との思いに押されているような暮らしだったのである。

リハビリ漬けの日々によって歩行を獲得したことが、「同様な暮らしをつづければ、もっと上手に歩けるようになるはずだ」という希望を持たせ、「同様な暮らしをつづけないと、現状維持も覚束ない」という強迫観念も植え付けていたようなのだ。「毎日、鍛えなくては!」という思いは、散歩や手の運動を休んだ時の自責の念に変貌し、のんびり暮らした一日は、いけない一日になっていた。

本来、リハビリは「Quality Of Life」獲得という目的を達成するための手段だったはずなのに、リハビリが目的の日々になっていることに気付きつつも、休むことはサボること、と囚われてしまった意識は、そこからなかなか抜け出せなかった。当初は生ぬるく感じた「成城方式」のリハビリを受け続けることと、意識が体内から外界へと踏み出し始めたことによって、やっと僕は、「初台方式」の呪縛から解放されたような気がする。一年半を必要とした。

歩ければよし。歩き方をもっとよくするために、意識、体力、そして何よりも多くの時間をとられる必要はない。そう思えるようになった時、散歩も、鍛えるための散歩ではなく、風や草木や花々や行き交う人々を楽しむ散歩へと、変わっていったように思う。

歩けるようになるために力を発揮した「初台方式」は、暮らしの中のリハビリとは異質なのかもしれない。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

脳卒中リハビリ、「初台方式」と……①

脳出血で運び込まれた救急病院で左半身不随から起き上がり普通食を取れるようになったら、担当医から初台リハビリテーション病院への転院を勧められた。Kapparが即インターネットで調べてくれたところによると、「30~40日で、歩けるようになる(する)!」とのこと。費用は、4~50万円/月。お金の心配をする僕に、「できることは、早めにやっておいた方がいいよ!お金のことは心配しないの!」と微笑み、「見学してくる~!」と言い残し、翌日には見学した際に撮った写真と資料を持って来てくれた。

寝たきりでは人に指図をする権利はない、ましてや収入が途絶えていく身……と思っていた僕は、感想を述べるだけだった。「いい所みたいだねえ。……」。ちょうど2年前のことだ。

1ヶ月でなんとか歩けるようになり、さらに1ヶ月をリハビリ漬けで過ごし初台リハビリテーション病院を退院。Kapparが調べておいてくれた成城リハビリテーションクリニックに通院することになった。左肩と手には常に痛みがあり、まるで動かせない状態だった。週3回の通院を開始したのは2006年暮れ。初台リハビリテーション病院をよく知っている立場からすると、成城リハビリテーションクリニックはどうしても小じんまりとして見えた。

しかし、短期間に歩けるようにしてしまう“集中合宿”型の、言わば「初台方式」で獲得したよちよち歩きの欠点に、成城リハビリテーションクリニックは気付かせてくれた。そしてそのことが、次第に僕のリハビリに対する認識を変えてくれることとなった。それは、退院後の暮らし方の前で若干戸惑い気味だった僕の心にも好影響を与えてくれたのだった。

暮らし再開の最低条件を整えるためのリハビリと、暮らしを続けて行くためのリハビリは、どうも異なるように思える。前者を「初台方式」と呼ぶなら、後者は「成城方式」。

この二つの違いを、僕なりの感想として述べてみたいと思う。……つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳出血。失ったもの、得たもの。

いつもより特別に多くもらったお小遣い、50円玉1枚を大切に握り締め、大切に握り締めたあまりに手の感触がなくなり、いつの間にか落としてしまっていたお祭りの夜。買えなかった夜店のおもちゃと引き換えに、大切なものを大切にし続けるためには適度な距離が必要だということを、僕は学んだ。…………はず…だった。

脳出血を発症、左半身不随の状態で初台リハビリテーション病院にリハビリのために転院した約2年前。忙しいリハビリ・スケジュールの合間、ベッドから窓外の空の色が変わっていくのを日々眺めながら、大切にしていたもののことを漠然と想っていた。モノは思い浮かぶことさえなかった。思い浮かぶのは、大切にしていたヒト達と共に過ごしたシーンばかり。ゆったりと過ごす時間が、大きく笑い合う時間が、お酒を酌み交わす時間が、そして、時には真剣な討議の時間が一瞬のシーンを切り取るように思い出され、どれもこれも懐かしかった。すべて失うか、関係の希薄になったシーンばかりに思えた。

そして、気付いた。大切なものの近くにいることばかりを想い、欲張り、手に溢れそうな状態だったことに。そのために、あくせくしていたことに……。小学校5年生の時に学んだことは、まったく身に付いていなかった。

それから、約2年。失ったと思ったものの多くは、元々得てさえいなかったのだということにやっと気付き、本当に穏やかな気持ちになることができたような気がする。

発症以来沸点の低くなった喜怒哀楽は相変わらずだが、それも穏やかさの証。これから考えていこうとしていることは、明らかに以前とは趣も異なってきている。ゆっくり、急がず、結果を追い求めず、支えてくれる人達への感謝を忘れることなく、考えていこうと思う。

……といった日々だなあ、と噛み締めていたある夜。確実に失ったもののあることが、突然判明した。それは、………僕の大切なプリン1個!

僕は、“尻自慢”だった。プリンとしたお尻を「ほら、ほら、触って~~~」と突き出し、追っかけては嫌われるほどだった。「かわいいプリンちゃん!とお呼び!」と要求し、呆れらりたりもしていた。

その大切な、自慢のプリンの左の1個が、どうも消滅してしまったようなのだ。左半身を使えないのだからやむをえないとはいえ、ガッカリ!である。

しかし、それも50円玉と教訓を引き換えにしたように、穏やかな時間との引き換えならいいとしよう、と思う。今度は、教訓を活かすことも忘れないように……。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中、リハビリと「Over Use」

先日、9月4日、脳出血2周年を迎えた。病気と言うより事故のような発症以来、実にいろいろな経験を積み重ねることになった2年だった。短時間に様々なことを決断しなくてはならず、その結果の是非を考える余裕さえないこともあった。そして、支えてくれる人たちのおかげで何とか立ち上がり、歩み始めて2年。初台リハビリテーション病院での集団合宿のような日々からずっと、リハビリを続けている。発症後半年までが機能回復の時期。それ以降の機能回復は、基本的にはありえない……ということを知りつつも、機能回復と言うよりも、機能維持のためにもリハビリ通院は必要だと実感している今日この頃である。

「リハビリは、嘘をつかない」というのは、初台リハビリテーション病院で何度かお見かけした長嶋茂雄氏の言葉だが、それは「頑張ってやれば、必ず効果が表れる」ということは意味しているものの、「やがて必ず、元に戻ることができる」ということを意味しているわけではない。最も誤解されがちなところである。

僕自身、「きちんとリハビリやってるの?」とか「もっと頑張らないと駄目なんじゃない?」と何度か言われ、複雑な思いに陥ったことがある。

初台リハビリテーション病院で多くの同病の方々とリハビリを共にして感心したのは、みなさんのリハビリに向かう姿勢の真面目さである。若いセラピストの指示に懸命に応えながら、なかなか指示通りにできないことを恥じ、その思いを照れ笑いに置き換えている女性たち……。淡々を装いつつも、行動や作業に向かう目線に、秘めた懸命さを感じさせる男性たち……。事故のような病気とはいえ、患うことになった責任とその結果への対処の義務を背負った人たちの静かな苦闘の姿がそこにはあった。

そんな人たちに、“もっと!”を要求してはならない。むしろ、みんな“やり過ぎ”の危険性を孕んでいると考えるべきであろう。“自主トレ”の必要性を過度に意識付けすると、「Over Use」に結び付くかもしれない、と考えておくべきであろう。

オリンピック女子マラソン代表選手の野口みづきさんが、故障で金メダルを棒に振った(僕は、最も金メダルの確実性の高い選手だと予想していた)のも、言わば「Over Use」。鍛えれば鍛えるほどいい、とするのは、言わば日本的な幻想。その考えを押し付けられ、選手生命をまっとうできなかった才能は数多いことだろう。

これ以上は難しい。そうわかっていても努力をしてしまう真面目さや懸命さに、“もっと!”は酷というものである。意外といつまでも下手くそで身に付かないのは、「上手な休息のとり方」なのである。そこまで指導してこそ、真の指導者あるいはセラピストなのではないか。つくづく思った北京オリンピックだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中、リハビリの限界と今後‥‥。

脳内出血を発症して、あとわずかで2年。右の視床の直径約4センチの出血で陥った左半身不随からは立ち直ったものの、左半身の股関節、膝、足首、肩、肘、手首、指関節のコントロールは、未だままならない。身体の運動機能は、多くの不随意筋を巧みにコントロールしていてくれる脳の働きがあってこそもたらされているものだと実感する。自分の身体とはいえ、意のままにならないことばかりである。

しかし、脳細胞が再生することはない。運動(と言うより、日常行動)の改善を図るためのリハビリも、したがって、コントロール機能の回復はありえないことを前提に行われることになる。当然、発症前への回帰は諦めなくてはならない。せめてもう少し、を繰り返しつつ、自分の身体の機能との折り合いをつけていく。そのためのリハビリだと解釈すべきであろう。ただそれにしても、確かな方法は確立されていないようだ。

初台リハビリテーション病院は、指令が届いていない筋肉をなんとか動かしつづけ、末梢神経の方から指令系統を刺激して、脳細胞にバイパスを形成しようという手法、のように感じた。「そういうことなんだろうなあ」と推測しつつ、指導を受けたとおりの動きをしようと、入院中は努力をした。何しろ、自分のことだ。しかも、初めての経験。専門に学んだ人の指示に従った方がいいに決まっている。しかし、動かせない筋肉を使い、できない動きを何とかしようということの繰り返しには、疑問も感じた。他の筋肉・部位で行ってしまう代償行為で動かしているにしかすぎないような気もしてくる。それでは意味がないはずなのだが‥‥。では他に何か方法でもあるのか‥‥。自分の知識、経験、考えでは遠く及びもしないことを、ぼんやり考える日々もあったが、そんなことはもう止めた。無理はしているが、できなくはない‥‥。そんなことで積み重ねられていく日常でいいじゃないか。退院して1年も経つと、そう思えるようになってきた。

ただ、微かな他力本願の希望は、なくはない。「万能細胞」(だった?)の発見である。再生しない脳細胞だって、作れるのであれば問題ないではないか。我が後輩たちには、大いに頑張ってもらいたいものだ。

急いで~~~。1年と少しで還暦!老い先は、長くはないんだぞ~~~~~!

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

介護する人たちの、心の汗‥‥。

連日の猛暑。週に2~3度のスコール。心配してくれる友人たちに言っていた、暑いくらいが身体の動きがいい、という言葉が強がりのように思えてくる日々である。

会社に毎日行くことが社会復帰とは限らない。無為に過ごしている時は、自宅にいても、会社にいても、実態は同じ。人のために何を為すべきかを目標とすることができ、それを実践していくことができるようになり、多少は上げることができた成果を評価され、その成果によって少しは助けられた人たちから感謝される‥‥。それを社会復帰と言う。

と、思っていた。特に、まだ二足歩行さえ覚束ない頃は、強くそう思っていたような気がする。しかし、身体の機能も人それぞれ。健康という概念さえ怪しいものだと思うようになるにつれ、肩の力が抜けてきた。

もちろん、病床で最初に思った「なんとか、一人でひっそり生きていこう」などということが実態として現実のものになっていたら、肩の力が抜けた、などと暢気なことは言っていられなかったことだろう。しっかりと、しかもひょうひょうと支えてくれる人や友人たちがあってこそのことである。終わらないかもしれないモラトリアム‥‥。その中で、いつも誰かに何かしてあげたい、と思い続け、小さなことでも日常の中でしてあげ続けること。それは、身体が不自由でも可能だ。

ごくわずかのお金でも構わないから、一緒に楽しいことに使う。どんなことが楽しいか、まず考える。費用を抑える工夫を、惨めな気持になるのではなく、楽しんでみる‥‥。

介護する人にとって、介護される側の人の終わらないかもしれないモラトリアムは、終わることのない負担になりかねない。暑い!と動きにくい身体をよじる介護される側の人の汗を拭きつつ、とめどない心の汗をかいている人も多いことだろう。いつか次の目標や経済活動への門が開くまで(起きないことかもしれないが‥‥)、いかに日常の些細なことに共通の楽しみを見出していくか。‥‥。それは、共同作業で行っていくべきものだ、と改めて思う猛暑の日々である。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳出血から、もうすぐ2年‥‥。

目覚めに“後ろめたさ”に襲われがちな「平日の昼寝」。今日は、そいつをやってしまった。ただ、目覚めに襲ってきたのは、“後ろめたさ”ではなく、“しっとりした感慨”だった。

好天に恵まれ、梅雨明けを予感させる陽光の中、ツタヤのレンタル半額キャンペーンを活用しようと、毎日のように千歳船橋店にまで通った先週。ややOver Use気味の左半身の膝と肘が、昨日来の低気圧と湿気に襲われた。足の軽い痙攣と手の“ピクピク君”(「僕は動けます!」と自己主張しているかのように虚空に伸びてぴくぴくと動くので、ちょっとかわいらしく呼んであげている)で、僕はちょっと辛い夢から目覚めた。

「I Had A Dream」。マーチン・ルーサー・キング牧師のあの有名な演説の、やや震え気味の声の最初の一節が頭にリアルに浮かんだ。しかし、僕の夢は高尚なものではない。MRI検査が終了し、ストレッチャーの上で医者の説明を聞いた後、家人の到着をじりじりと待ちながら、お金の心配と今後の暮らしの雲行きの怪しい予感に、“なんとか、一人でひっそりと暮らそう。それが、最良の選択かも‥‥”と思っていた時間が蘇ったのだ。ちょっぴり、寝汗を掻いていた。起き上がり、左腕を揉みながら、1年と10ヶ月後の現実の穏やかさを実感すると、Kapparへの感謝と共に、次々と様々なシーンがフラッシュバックしてきた。

気なる人を二人、思い出した。二人とも、初台リハビリテーション病院5階で一緒だった人で、女性。お話をしたことはない。

一人の方は、僕が入院した06年10月には、退院間近に見えた。ひっそりと穏やかに歩いておられた。いつも上品な笑顔を浮かべている方で、食事の時は、お気に入りのペットボトル入れを片手に食堂に出て来られ、周りの席の方々の面倒をさりげなく見ておられた。その姿をやや離れたところから目にしては、心が温かくなるのを感じていたのは、僕だけではなかった。その方が手すりにすがるようにして覚束ない足取りになっておられるのを目にした時は、思わず息を呑んだ。何が起きたのだろうか、と思った。2~3日後、リハビリ中にセラピストに事情を聞くと、“再発されたんですよ~”とのこと。神様も意地悪だなあ、と思った。温かい心のお裾分けをいただいていた男たち三人は、一緒に深い嘆息を洩らした。

06年の年の瀬、退院することになった僕は、お世話になったセラピストに挨拶をしようとリハビリルームを覗いた。真面目にいつもの笑顔で、リハビリに取り組むその方がいらした。「一足先に出させていただきます」と、声を掛けさせていただいた。すると、突然その方の顔が大きくゆがんだ。「あ~~」と小さく上がった叫び声の後、嗚咽が漏れてくるのが見え、聞こえた。僕は、慌ててもう一度、少し声を大きくした。「ちょっとだけお先に出ます。ちょっとだけですから」。その後はもう、その方の顔を見ることはできなかった‥‥。退院するはずだった頃に入院してきた男を、リハビリしながら見送るその方の気持ち。他人を静かに慮り、穏やかに自らの力で何事もやろうとしている、その方の気持ちを思うと、リハビリルームから出るや涙が溢れてきて仕方なかった。‥‥。どうなさっているのだろう‥‥。

もう一人の方は、退院されるのを陰から見送った方。30代と思しき、明るく元気一杯の女性だった。彼女の存在に気付いたのは、その発声練習を耳にしてからだった。入院して間もなく、毎朝ある時間になると、言語療法のプログラムの一つ「発声練習」の元気な声が遠くから聞こえてくるようになった。声の主はなかなかわからなかったが、僕の病室からは遠いテーブルで行っておられるであろうその姿は、想像できた。挫けずに希望を持った明るい表情が思い浮かんだ。勇気付けられる声だった。

やがて、その方には幼稚園児のお嬢さんがいらっしゃることがわかった。お母さんに会える喜びを全身に漲らせたお嬢さんがエレベーターを降り、受付に向かって走っていくのを偶然見かけたのは、2~3週間後のことだった。装具をつけた覚束ない足取りで現れたお母さんに飛びついた時、笑顔で成り行きを見ていた僕とNさんは、一瞬固まった。しかし、しっかりと片手で受け止めたお母さんの笑顔を目にし、よかったねえ、と顔を見合わせた。その方の元気の源を見た思いだった。

まだ早いんじゃないかなあ、と思われる段階でその方は退院され、リハビリに通って来られるようになった。何度かお見かけした。言語療法も、自宅で続けておられるようだった。相変わらずの元気と明るさだった。しかし、それは元気の源をもう一度得ようという意欲に満ちたものではなく、身近に元気の源を得ている幸せに満ちたもののように見えた。

一つひとつの病室、一人ひとりの患者に、ドラマがあった。みんなが、大きな変化を受け入れざるを得ないはずなのだが、多くの方はそのことを静かに内に秘めていた。それだけ大変な病気なんだ、と、初台リハビリテーション病院は教えてくれたのだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳の責務、肉体の役割。苦手と得意‥‥。

VANに入社する直前のある朝、不真面目な学生だった僕は、重大なことに気付いた。“春休みも夏休みもなくなるんだ~~!”ということだった。“大変だ~~!”と思った。何か固く心に決めて入社しないと、瞬く間に逃げ出したくなる予感がした。僕は、「こんなことしようと思ってるんだ」と友人たちに宣言することが多かったが、それも容易に挫けてしまいがちな自分を律するため。神棚を作り、そこに自分の宣言を祭り上げ、日々「やります!やります!」と拝むようにしてやっと少しだけ努力を継続できる、そんな意志の弱い男であることを、僕自身自覚していたからだった。

どうせならキリのいい数字でと、「新入社員の五箇条のご誓文」と名付け、五つのことを決めた。

1.何でもやってみる。どんなことでも、最初は誰でも新人だったのだ。

2.失敗を恐れない。恥じない。責任は、上司に取ってもらう。上司の多い給料は、そのリスクを負っているからだ。

3.コミュニケーションを大切にする。情報、ノウハウのすべては、人にあるもの。手に職のない僕の財産は、コミュニケーションによって築く他ない。

4.得たものは積極的に与える。相手を選ばない。与えるものがなければ、得る資格はない。

5.疑問は、粘り強く抱え続ける。簡単に答を求めない。貰った答えは、自分のものではない。

という五箇条である。一年間、何度か頭の中で反復し続けた。何度か忘れてしまい、微妙に言葉は変化したが、反復したお陰で、今でも趣旨は変わらず憶えている。上司のことは、「子供が親を選べないように、新入社員に上司を選ぶことはできない」という事実に怯え、殊更に一つ項目として上げたような気がする。

後年、会社を作る時は、そこに、「会社は個人の金儲けの装置であってはならない」、という一項目が加わり、広告業界の仕事をするようになると、「真っ当な経済活動の“あぶく銭”を使わせてもらっている仕事に過ぎないことを忘れてはならない」という項目が加わった。

そして、多くの人と袖擦り合ううちに、人はいろいろな概念で語ることができるが、常にタイプとして二つに大別できる、と思うようになった。

人を使う人と、使われる人。“してもらいたい”人と、“してあげたい”人。といった風にである。どちらが上位でも下位でもない。タイプが異なるだけ。そしてそれは、得手・不得手と連動することが多い。優れた人は、己のタイプを自覚している人。二つのタイプのどちらというわけでもない。まず、不得手なことをしっかりと自覚することで、必要・不必要を明確に認識できている人は、他人への敬意を持てる優れた人だと思う。

‥‥。‥‥。そんな、責務と役割をお互いにバランスよく持ち合っている関係‥‥。それが、脳と肉体なんだなあ‥‥。

まさにインナー・スペース。内なる小宇宙。‥‥。理想の社会、組織が、そこに、自分の中にあることに、脳出血を発症して実感させられた。

肉体は、愚直で健気。脳は、傲慢にして繊細。それぞれが持ち味を出し合い欠けてるものを補い合って、一個の存在を有機的かつ合理的に存在せしめている。わずか直径4センチの出血痕がもたらした甚大な被害に、愚直な肉体は成す術をもたないが、健気な対応は見せてくれる。統制が取れていないのが玉に瑕だが、時折起きる痙攣などは、そう解釈してあげたい。「動けるよ~~!」という覚束ない叫びかもしれないのだ。退院後、ぶら下がったままの左肘ににょきにょきと生え育っていった4本の毛。どこまでも育つ勢いだったその「守り毛」(僕は、そう名付けた)が、風にそよぐのを感じた時、「僕の身体って、健気でいとおしい奴だなあ」と思った。‥‥。

梅雨寒で体調が冴えないので、またこんなことを考えたのでした‥‥。早く来い!からっと天気!

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

すべての介護は、“心の介護”に通ず!?

5月末、20年来の友人の建築士と、僕の事務所で飲む機会を得た。3年半ぶりだった。

彼、西やんは、飲食店の設計で20代から身を立て、一時は随分と羽振りのいい時期もあったようだが、生来のお人よし、会社経営には不向きなようで、自分の会社は二度倒産。そのたびに、腕一本で再起し、仕事を続けていた。知り合ったのは、二度目の倒産から立ち上がった直後くらいだったと思う。人の紹介を受け、いきなり現地調査に同行してもらい、そのまま午後2時頃から深夜まで痛飲した。お互いの甘さがお互いに気に入ったのであろう、一気に仲良くなり、年に数回だが、会うと実に楽しく、ほっとさせられる関係が続いてきた。仕事も何度か一緒にやった。それもまた、楽しかった。

そんな彼から、下咽喉癌になったとの連絡があったのは、僕が初台リハビリテーション病院を退院して約1ヵ月後のことだった。多少大変なことくらいで暗い顔するのは止めような、と言い合っていた彼、「命には別状ないみたいだし、切り取っちゃえば大丈夫みたいだから‥‥」と声は明るかった。そして、手術。無事、成功した。

だが、それから半年、なんとか声を失わないようにと続けていた放射線治療の甲斐なく二度目の手術。声帯を切除することになってしまった。ポツンポツンとメールでやってくる近況報告に時には心配が募ったが、西やんの置かれている状況が見えないため、こちらからメールや電話をするのもためらわれ、共通の友人に情報収集を依頼していた。そしてさらに半年が過ぎ去った頃、「もう、メールはどんどんしてくれていいよ」というメールが入った。それからは、以前のような冗談のやり取りを、もどかしくメールでしていた。最後は、「飲もうぜ」「俺は、飲んでるもんね~~」「朝まで飲んだじょ~~」と締めくくっているうちに、早く一緒に飲もうよ、ということになったのだった。

彼は、元気に現れた。彼のリクエスト“すき焼き”も勢いよく平らげた。嚥下しにくいので、以前よりもうんと噛むようになっていたことが、むしろ健康を得たかのような印象を与えるほどだった。飲むほどに、筆談も饒舌になっていった。機械で話す訓練の説明を受けたが、微かに声も聞き取れるし、平仮名を多用する筆談も慣れてくるとスムーズなので、思わず「今のままでもいいよ」と言ったほどだった。ただ、「喋れないから、今のうちだ~~」と、あれこれからかうと「ば、馬鹿!」と、いつものように言いたくてもどかしげだった。しかし、その顔は楽しそうだった。

080523b

Kapparを間に挟んで、記念写真を、ということになったら、昨秋18年ぶりに再会した美恵子はんが「私も!」と手を重ねてきた。結果として、僕は女傑二人に挟まれることになった。

再会を期して深夜12時頃に帰って行った西やんを送った後、僕の心は、しこたま飲んだ焼酎のせいではなく、温かくなっていた。子供たちも一人立ちし、働きながら温かい介護を続けている奥さんのお陰もあって、こんなにストレスのない西やんの顔を見るのは、久しぶりだったからだ。

身体は痩せても、心がやせ細ってなければ、大丈夫!声を失っても、友人を失う訳ではないから、大丈夫!

ところで、お父さんに「いのちのスープ」を運んでいたKapparは、週1~2回、うつ気味と落ち込んでいるお母さんのために、小田原の実家通いも始めている。朝5時に起きて少し仕事をし、小田原に行ってから事務所に出て‥‥、といった過酷な日々だ。

Photo

心の介護が必要なのは、今は彼女の方かも知れない。心がやせ細り、気持ちが折れてしまわないようにしてあげなければいけない。‥‥ということで、買い物と料理をちょっとだけだが、今までよりも頑張ることにしている。なかなか‥‥ではあるが。

*Kapparのブログでの、「いのちのスープ」のレシピ紹介は、そんな訳でまだできていま せん。6月末頃かな?

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

介護というコミュニケーション②

野坂昭如氏は、2003年、脳梗塞発症。一時昏睡状態に陥ったものの、幸いにして一命は取り留めたが、舌を巻き込んでしまうために、喋るどころか食事もままならないという後遺症に苦労されたようだ。“婦人公論”(本ではなく、雑誌になっていたことを初めて知った。ちょっとだけ驚いた。公論という概念さえ求められなくなっているのだろう‥)に掲載されている近況と思われる写真では、野坂氏、両手でダンベルを持ち上げてみせている。夫人の介護の成果が充分に窺える、穏やかな笑顔だ。

近年、脳卒中から復帰、という著名人を散見するが、それが症状の重さによって可能であったり不可能であったりすることは、意外と語られていない。復帰を美談として扱おうとするあまり、復帰のための条件が「リハビリのみにあらず」という側面は、無視されているかのようだ。病気を体験すると、社会復帰がたやすいことではないことを実感させられる。もちろん、幸いにして症状が軽かった人、あるいは手当ての早かった人は、きちんと指導を受け、辛抱強く(特に、初期の段階が重要のようだ)リハビリに励めば、社会復帰は充分に可能だ。治療方法やリハビリのノウハウも日進月歩の状況なので、脳卒中=寝たきり、的イメージは払拭すべきであろう。ただ、多くの人が、約束されない希望に向かって、地道なリハビリに取り組みながら暮らしていることを忘れてはならない、と思う。社会から隔離され、忘れられたかのような存在となっていく人は、おそらく数多いと思われるからだ。

初台リハビリテーション病院は、「集団合同合宿所」だと、僕は思う。個別指導に進む一歩前、個別指導を受けるに足る基礎を、みんなで身に付ける、まさに合宿所。一緒に同じ階段を上っていく環境だからこそ、お互い語り合い、励ましあうこともできる。あっという間に駆け上がり、社会復帰していく人もいるが、大多数の人は、前進後退を繰り返しながら、なんとか基礎を身に付け、退院へと漕ぎ着ける。病院にも都合があり、ベッドが空くのを待っている人も数多いので、背中を押されている感があるのは否めないが、それでも基礎は身に付けさせてくれるのだから、「集団合宿所」としては、環境も含め、レベルが高いと思う。

問題はむしろ、退院後、なのである。

退院は、集団生活からの離脱を意味する。リハビリを仕事とだけにもしていられない。病院のシステムの中に組み込まれていた“暮らし”というものとも、向き合っていくことになる。便利で快適だったことの一つひとつに手間と時間がかかったり不可能であることに、否応なしに気付かされる。そして、その一つひとつが同居人の負担になっていくのである。それが、介護というものである。着替えを手伝う、移動時に支える、といった肉体的な介添えのみをイメージしがちだが、そうではない。暮らし全般にわたって一手間二手間増えていく負担、それが介護の実態である。それは、場合によっては収入減をカバーする活動にまで及ぶ。それもまた介護活動の一つなのだ。と、僕は思う。

そして何より、人と人として、改めてしっかりと向き合った暮らしになる。ならざるをえない。効率よく、負担少なく、かつ行き届いた介護。すなわち、要介護の人間と健常者の同居生活を生活らしくしていくためには、向き合いながら、心の襞まで理解しあっていかなくてはいけない。留められないカフスを留めて貰う指先の動き一つに表われる感情の変化に気付かなくてはならないし、ストレッチを手伝う時の眉間に表われる身体の状況変化がわからなくてはならない。しかし、それは緊張し神経を張り詰めていなくてはならない、ということではない。緊張は、必ず切れてしまうものである。

「必要とする存在」と相手を相互で認識し、「必要とされている」と自覚しあうこと。すなわち、コミュニケーションが重要なのだと思う。コミュニケーションとは、本来相互の存在認識・存在理解のために行われるもの。介護も、その一環だと言ってしまうと、お気楽すぎるだろうか。

野坂昭如氏夫婦の介護のお話には、さりげなくも深いコミュニケーションが感じられる。ほほえましい。同じ病気を患った者として、心強い。そして、どんな状況になろうとも、問われるのは自分自身の存在だと改めて思わされる。‥‥頑張ってるぞ~~!的介護の話よりも、身近で温かい。

Photo

初台リハビリテーション病院1階の喫茶店。歯医者に行った帰りに、1年半ぶりに珈琲を飲んだ。ここで交わした様々な会話が、茫洋と頭を横切った。神妙な気持ちになった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

介護というコミュニケーション①

先週、5月最終週前半、「“婦人公論”の中吊りに、“夫野坂昭如は、今が一番ハンサムかも”という記事が出てたよ~」と、Kapparが帰ってくるなり、にこにこ。野坂昭如氏は、僕の好きな作家の一人である上に、初台リハビリテーション病院2階のリハビリテーション・ルームでよくお見かけしたので、勝手に親近感を抱いている方だ。ヘルパーと思しき若い女性に付き添われ、壁際で静かに佇んでおられたのを印象深く記憶している。野坂夫人による一稿は、そのタイトルからして、慈愛に満ちている。「その婦人公論、買ってきてもらえる?」と、早速お願いした。が、事務所への行き帰りにある本屋やコンビにでは、婦人公論は入手できない。次の一緒のお手掛けの際、大型書店に立ち寄ってみることにした。

その機会は、6月1日に訪れた。Kapparのお父さんのお見舞いに同行することにしたのだ。

長年の労働(八百屋さん)に酷使されたお父さんの膝の関節が悲鳴を上げるようになって10年以上。2~3年前から人工関節にとKapparが様々な手配をしてきた結果、小田急伊勢原の東海大学病院でやっと手術の運びとなり、全身麻酔の手術も無事終わって約一週間になる。

Kapparのご両親は、二人とも脳梗塞を経験。幸いにして、いずれも後遺症は軽いものだったが、ご高齢とあって、家事が思うに任せないことなどに時として鬱状態に陥ってしまうお母さんと、仕事を止めたことや満足に歩けないことなどから、意識が不確かな時がたまに見受けられるようになってきているお父さんを気遣い、Kapparは、2年前の1.5倍になった(にした)仕事の合間を縫うように、週に一度は、小田原の実家を訪れていた。そこに、術後のお父さんの全身麻酔から覚め切らない意識と食欲不振だ。Kapparは、週3回のお見舞いを決めていた。

僕は、少しでもKapparの負担を軽減しようと、退院直後に決めた毎朝のモーニング・珈琲に、時々だった掃除と台所の洗い物を、僕の日常の役割に加えた。大きな負担軽減にはならないものの、心理的支援程度にはなるだろう、との思いだ。一緒に伊勢原までお見舞いに行くというのも、心理的支援の一環のようなものだ。僕に何ができるわけでもない。

Kappar_2 

前日夜、「自分たちのためにあれこれ作っていると、何かしてあげなくちゃいけないという気がしてくるよね」と、Kapparは、食欲不振のお父さんにとスープを作り始めていた。持参したパジャマや下着を片付け、少し意識が戻りつつあるように見えるお父さんの口に、Kapparが優しく声を掛けながら、その冷製スープを運ぶ。素直にスプーン一杯を飲み干したお父さんの口が、次を求めてすぐに開く。次々と開く。「いのちのスープ」だ。やがてそれは、まるで親子の慈しみに満ちたコミュニケーションのように見えてきた。僕は、そっとベッドサイドを離れた。

*「いのちのスープ」‥‥料理家辰巳芳子さんが、食べ物が喉を通らなくなったお父さんのために「生きるための滋養をすべてスープで!」と様々に工夫を重ねたスープの数々。小児病棟で重病と闘う子供たちに飲ませてあげる、といったボランティア活動も、辰巳さんはされているようだ。鎌倉のご自宅で週に一度開かれる「スープの会」には、多くの人が集まる。

*Kapparの、その日の「いのちのスープ」‥‥じゃが芋、ブロッコリー、キャベツ、コンソメ、牛乳に塩、こしょう。その夜の献立の一つ「豚ばら肉と大根のスープ」も少々加えてある。冷蔵庫にあるもの、自分たちのための献立を活用し、次々と作っては、お父さんの口へ、身体へと運ぶつもりらしいので、Kapparのブログに、やがてシリーズで掲載される‥‥はず。

2時間後、買い物を終えて、三省堂でやっと「婦人公論」を入手。野坂昭如氏と夫人の、介護を通じたコミュニケーションに触れた。

                               ‥‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リハビリと成長曲線

スポーツ、勉強、技術、ノウハウ‥‥。身に付けていくために努力しなくてはならなくなる場面はいろいろあるが、それぞれにおける成長を曲線で示すとしたら、ほぼ同じ形になるものと思われる。何事も、成長曲線は同じ、ということである。

初心者から初級へ。入門編の頃は、上昇も急カーブ。この段階で、「なんだ、簡単じゃ~ん!」と誤解し、習得した気になる人は意外と多い。初級に突入すると、カーブは緩やかになる。飽きず、懲りずで頑張らざるをえない。そしてある日、ピタッと成長が止まったかのような状況になる。踊り場状態である。肝心なのは、ここでさらに飽きず、懲りずで続けること。これが、難しい。あらゆることに関して、世の中に初級レベルの人が断然多いのは、この踊り場状態に徒労感や限界を感じて挫けてしまう人が多いからであろう。

ところが、長い踊り場の先まで行くと、突然ふわっと上昇感覚を味わえる瞬間がある。中級へのレベル・アップである。コツを掴んだ瞬間である。「私は、○○をやっている者です」と名乗る資格ができる瞬間でもある。

そして、また長い長い踊り場が続く。しかし今度は、一度上昇感覚を味わった後だけに、セルフ・モチベーションがしっかりとできる。続けるエネルギーも違うというものだ。‥‥。こうして、上級へ。さらには、才能に恵まれた人は“悟り”を経て、名人へと上りつめていく。‥‥‥‥。

さて、脳内出血発症後、救急病院を経て、初台リハビリテーション病院でリハビリに突入し退院した僕は‥‥‥、初級かな?‥‥‥。などと思いながら、せめて普通に歩いたり、掴んだりできるようになりたい、と日常生活の中でリハビリを続けている日々である。

しかし、しばらく続いた“戻り冬か?!”と言いたくなるような季候にさらされるだけで、あっさりと挫けてしまう。まさに、変温動物。身体の筋肉が内側へと収縮し、丸くなってしまいそうな感覚だ。冬篭りだ~~。団子虫になっちゃうよ~~。と叫びたくなる。目指すのは回復ではない、身体の機能の獲得だ、元に戻るという意識は持つべきではない、と改めて自分に言い聞かせつつ、後戻りしてしまう冬に備えた夏の過ごし方を思案している。

あくせくしない蟻さんになるのだ~~。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

脳卒中のリハビリ、困る誤解!?

「もっと、真面目にリハビリしないと!」。そう言われたことがある。同種のことは、何度か言われたことがあるが、こんなにはっきりと言われたのは一度きりだ。悪意があってのことではない。むしろ、激励の言葉だったのだが‥‥。

VANのアメリカンフットボール・チーム“VANGUARDS”は、倒産直前までの数年間、日本国内では無敵だった。弱いチームとしか戦っていなかったのでは?と誤解している方もあるかもしれないが、そうではない。社会人チームのみならず、学生のチャンピオン・チームと戦っても負けることはなかった。理由は簡単だ。学生の有名選手がVANに集まってきていたからだ。しかも、練習時間や道具は優遇され、ヘッドコーチ、マネージャーのコンビもしっかりしていた。ラグビー同様、社会人になってから充実する要素のあるスポーツでもある。VANの企業キャンペーンの重要な要素の一つとして、広報・宣伝戦略の一つに組み込まれてもいた。しかも、競技人口が少なく、社会人、学生ともにチーム数がまだ多くはない。ときたら、弱くなるはずがないのである。

そんなVANGUARDSの主要メンバーだった人が、約25年ぶりに事務所を訪ねてきてくれた。「中・高年向けビジネス企画」に関する相談だった。概略をお話した後、ついつい僕の病気の話になった。おもしろおかしくお話したつもりだったが、彼の顔は次第に同情と憐れみに曇っていくようだった。まずは、ビジネス・コンセプトと戦略フレームを書くことをお約束し、早く切り上げようとした。彼の表情の変化が僕にも苦しくなってきたからだった。

「じゃ、よろしく!」。とても風合いのいいカシミヤのチェスターコートを無造作に羽織りながら、彼は事務所の玄関で激励の笑顔を僕に向けた。僕は、事務所内では杖を手放しているので、左足をやや引きずりながら見送りに出ていた。ついつい習慣で、左手首を右手で握っていた。その姿を見て、彼は玄関から一歩出て立ち止まり、振り返った。

「もっと、真面目にリハビリしないと!」。冒頭の台詞は、その時彼の口から吐かれたのだった。“きちんとやれば、元に戻るもの”。一流のスポーツマンで、大怪我から復帰した経験もある彼のリハビリに関する認識が、言わせたのだろう。僕が面倒くさがり屋であることを知っているから、ということもあるだろう。「頑張りま~す!」。ちょっとおどけた返事に、彼は苦笑を残して帰っていった。

司令塔が壊れてるんだけどなあ。クウォーターバックがちょっと残念な奴になってしまってるんだけどなあ。ま、いいか。‥‥。彼を見送った後、僕はそんな独り言を口にしながら、打ち合わせテーブルに戻った。初台リハビリテーション病院の若いセラピストに関する愚痴を患者同士で吐き出しあう時にも、同様の表現を使っていたのを思い出していた。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

脳卒中から1年7ヶ月。めでたく、身障者手帳取得へ。

2006年9月6日午後1時頃、僕はパソコンに向かっていた。朝まで酒を飲み仮眠を取った後だったこともあり、頭の芯がふわふわとしていた。メールチェックをし、秋のキャンペーンの企画を進行するために、資料探しのネットサーフィンを始めた。その時だった。両耳から上がふわりと軽くなり虚空に浮かんでいくような感じを覚えた。まだ酔ってるな、と思った。脳がストライキだ~、と判断した。すぐに横になった。

気付くと2時間近く眠っていた。目覚めて半身を起こすと、耐え切れないほどの空腹が襲ってきた。そう言えば、前夜から固形物はほとんど口にしていない。アルコールと紫煙のみだ。起き上がり、インスタントラーメンを作った。はふはふと口に運んだ。まずい!不思議なほど、まずい!箸を置き、改めて一眠りすることにした。今は、身体が睡眠を求めている。そう判断したのだ。しかし、もう眠れなかった。

午後6時半頃、Kapparが取材から帰ってきた。「お土産あるよ~」と、何か作り始めた。「大丈夫?」「インスタントラーメン食べようとしたんだけど、まずくてねえ。さすがにまだ酔ってるみたい。酔いがぶり返したのかも」と、横になったまま一言二言。

「ちょっと、顔を見せて」と、突然Kapparが覗き込む。「救急車呼ぼう!普通じゃない!」「え!何が?大丈夫。酔ってるだけだから」「駄目。言うこと聞いて!」‥‥。

といった訳で、後は緊急入院、初台リハビリテーション病院への転院・退院、成城リハビリテーションクリニックへの通院、と、まさに目まぐるしい1年と7ヶ月となった。日々の時間はゆるゆるとしているのに、曜日の感覚が乏しくなっているせいか、のっぺりとした一枚板のように、日々は間断なく過ぎ去っていく。

そして、一週間後には、身障者手帳が届く。2級である。きちんと押印されたようで、それなりにすっきりとした気分だ。

先週、親父の七回忌法要のために、全日空の超割を利用して島根県益田市に帰ってきた。既に実家はないが、思い出とお墓がある。今でも、僕の故郷だ。住職と二人の法要もいいものだった。

小さな生まれ変わりのタイミングを迎えているのだろうか。心の片隅に新しい空気が入ってきているような気がしなくもない。いい季節を迎えているからかもしれない。心の小さな晴れ間に、梅雨の雨が降り続けることのないようにしなくてはならない。

悔やまないこと。頑張りすぎないこと。焦らないこと。そして、ささやかな喜びを分かち合える人との時間を大切にすること‥‥。夢は、また舞い降りてくるに違いない。

002_2 

親父の墓のある医光寺の庭園である。画聖雪舟が造園したことで名高い。4月には、枝垂桜が満開になり、枯山水に彩をもたらす。親父と育てのお袋の結婚式は、この寺の本堂で行われた。僕が小学校二年生の春だった。三々九度のお酒を飲んで、僕は本堂の中を駆け回っていたそうだ。縁あって、高校に入ると、近くに引っ越してきた。それから三年間、時折訪れ、この庭園を眺めて時間を潰した。

2008年4月。春の日差しの中、雪舟庭園は何も変わることなく、静かな佇まいを見せていた。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

CI療法を受ける資格

リハビリというものは、本来自らが自らのために行うものである。わかってはいるつもりだが、人(特に、僕)の意志は、さほど強くはない。強制されたり、励まされたりしながらでないと、継続は覚束ないようだ。ましてや、脳卒中の場合は、脳からの指令が途絶えている場所を動かす必要が出てくる。「さ、ここでお尻の筋肉に力を入れて~~!」などと、セラピストに言われたりもする。「自分で動かせたら、こんなことしてるかよ~~!」と声を荒げたいこともある。膝のコントロールができずフラフラするのを「ここで、止められないかなあ」と、不満そうに言われた時は、「僕には、それができないんだなあ」と山下清の口調で洩らしたこともある。

しかし、長嶋茂雄さんの言葉のとおりである。「リハビリは、嘘をつかない」。やらなければ何も起きず、やれば何かが起きる。それがたとえほんのわずかなことであっても、起きることは疑うべくもない。それをつまむように大切にし、それができるようになった腕や足をいとおしんでいくことだと思う。‥‥。自分に言い聞かせているんですけどね。

最初は、だからこそ強制も必要になる。初台リハビリテーション病院は、リハビリを、日々強制してでもやらせようという病院だが、強制を忌み嫌うものではないものに思わせてくれる環境によって、“強制されている感”をとても軽くしてくれていることが、特筆すべき特長だと思う。それは費用を払うに値する価値あることだと思う。そして、ある種日本的だと思う。

一方、CI療法は、僕の少ない知識では言い過ぎになるかもしれないが、知った時、西洋的な療法に思えた。大きなストレスが生まれそうなことに敢えて立ち向かっていかなければ、大きな可能性はつかめない、といった考え方には、どうも僕は馴染めないとも思った。で、以前本ブログで書いたように、ゆるゆるのんびりの道を選んでいる自分を“一人CI療法”などと称して、是認することにした。ただ、少し後ろめたかった。

ところが、いい正当化できる理由(根拠)を見つけた。これで後ろめたさからは、開放されることだろう。それは、診察の折、お医者さんから聞いた“CI療法を受ける資格”の話である。

“CI療法を受ける資格”とは、マヒが残る側の腕を前にまっすぐ上げて水平にし、手首を90度上に曲げることができることらしい。正面から来る人に「ちょっと待って!」とか「ストップ!」と言う時のポーズとでも喩えればいいだろうか。そんなことができたら、僕はもっといろんなことができるだろう、とうれしくなってしまうほど難易度の高いポーズだ。

「なあんだ、参加できるのは、使える腕を緊縛されても大きなストレスを感じずに済むレベルの人たちなんだ」。そう思うと、後ろめたさも、西洋的だなあという誤解も消えた。

僕は、ゆるゆるのんびり、Kapparに見守られながら、やっていくのだ。‥‥あまり、胸を張って宣言することでもないですが‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日常の中のリハビリ

Kapparの「男一人くらい!食わしたる~!」から始まった“KapparのKoura(甲羅)”としての暮らし。それは、「してもらう」よりも「してあげる」の方が気持ちの座りがいいタイプの僕としては、背負われてるだけでは心苦しく、少しでも何か‥と思う日常の始まりだった。

だが、そう多くのことができるわけではない。いや、ほとんどのことはできるのだが、問題が多いと言うべきか。何しろ、のろい!しかも、一部できないことが混ざるため、中途半端にしかできないことが多い!もう一つ。危険なこともある!この三つの問題があるため、してあげようとすることが、かえって迷惑につながることさえある。甲羅としては、ご本体にかける迷惑を増やすようなことは、断じてあってはならないのに、だ。

初台リハビリテーション病院を退院して、まずお互いが困ったことも、そんなことだった。一体何に戸惑い、何が小さなストレスになっていくのか、しばらく経って考えてみると、最も大きな要因は、スピードの違いだった。時間の読みが狂うことは、人が行動する時の大きなストレス要因なのだなあ、と改めて実感した。おそらく、会社に復帰できた人にとっても、大きな阻害要因になっているのだろうなあ、と思った。早くできる、ということも能力の一つとして判定されるものだし、不幸にして脳卒中になってしまう人には、せっかちな気性の人が多いと思われるからである。発症以前は早く物事を片付けようとしていた人は、同じようにやりたいと思いがちであり、周りもそう期待しているはずだからこそ、後遺症によるスピードダウンは、それが小さなものであっても、大きな変化と捉えられるに違いない。。

で、ご本体と甲羅は、話し合った。何でものろくなってしまっていることを理解してもらい、慣れていただきたい、と甲羅はお願いした。Kapparの理解は早く、充分だった。

それから、できそうにないと思われること(蓋を開ける、缶詰を開ける、といったこと)をやっておいてもらい、それから後はゆるゆると自分でやる、といった方式にした(してもらった)。すると、多くのことが自分で最後までできるようになった。多少は、してあげること、しておいてあげることも増えた。‥‥ような気がする。

それで気付いた。日常の中でのリハビリは、日常生活にあえて手間をかけることで、ある程度できるかもしれない、と。能率を悪くして、それを「あれれ~~。ついでにやればいいのになあ。一つひとつやってちゃ駄目だよなあ」と楽しむようにすれば、手足を使う機会が増える。そう思ったのである。「こりゃいいや。さあ、リハビリだ。自主トレだと気合を込め、義務感や使命感で自分を追い立てることも減るだろう」と思った。

で、そうしている。ただ、そんなに意識する必要もなかったことにも気付いた。元々忘れ物や落し物が多いタイプなのだ、と自分を再認識しただけのようなものだったのだ。

失った人は、失ったものを取り戻そうとするあまり、できていた以上、あるいは持っていた以上を目指してしまいがちなものである。それは、無茶な話だ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リハビリ、週1回が上限!?

どうも2年単位で見直されている保険制度。リハビリに関しては、ある一定期間を超えると、月間13単位という上限が設定されるらしい。4月からのことだ。セラピーを受ける時間20分が1単位。通院リハビリの場合、通常1回2単位40分なので、13単位となると、週2回のリハビリを受けることはできない。少しゆとりを持たせたまま、週1回に制限していこうとする役人の意図が見え隠れしているようにも見える。あるいは、予算から機械的にはじき出したものか‥‥。いずれにしろ、週1回に制限されることになった。180日を超えると機能回復の可能性がないから一切保険利用は認めない、という2年前に出て現場の猛反発で引っ込められた案に比べれば、ましか。

水ぬるむ春も本格化の兆し。変温動物と化した身には、ありがたい日々が訪れつつある。動く、動かす、もやりやすくなるはず。リハビリは強制されるものではないことを肝に銘じつつ、自助努力だ!楽しいことへ向かって動く春だ!

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

昭和34(1959)年、小学5年生で学んだこと。

島根県益田市鎌手。お袋の実家のある農村である。国道9号線沿い、一方に日本海を臨む狭い農地が連なっている、豊かとは言えない所だ。海岸に貼り付くように小さな漁村も点在し、漁業と農業を兼業している家も多かった。お袋の実家は地主だったらしく、終戦(敗戦)後の農地解放で所有地を失うまでは、なかなか裕福だったらしい。長男、夭逝した次男の兄二人と姉、二卵性双生児の弟と妹、上下それぞれ三人に挟まれたちょうど真ん中の次女としてお袋は生まれ、女学校までは田舎の資産家のお嬢さんらしい、習い事の日々。戦後は、バス会社で経理の事務員として働いていた。そんなお袋がこぶ付きの親父となぜ結婚したのか。ずっと疑問だった。その真相は、後年子宮癌で亡くなる直前にお袋の口から明らかにされるまで、僕にはわからなかった。

小学校5年生の1年間、僕たち家族は、お袋の実家の“離れ”で過ごした。町でもない、山奥でもない、言わば村らしい村の暮らしに次第に慣れ、丸刈りの頭、いつも日に焼けた顔と肌の“田舎の少年”に、僕はじんわりと変貌していった。その後益田市横田で満喫した4年間の“田舎の少年”生活は、この一年の助走期間のおかげだったと言ってもいいだろう。

そんな秋のことである。農村のお祭りは、収穫祭。どこか幸せで晴れがましい顔ばかりの、明るい賑わいがそこかしこに現出する。子供たちの楽しみは、ごちそう、夜店、そしてメイン・イベントの石見神楽だ。神話を題材とする演目がまだ明るいうちから始まり、明け方の「ヤマタノオロチ」退治で最高潮を迎える。子供たちも、この夜は起きていることが許され、眠い目を凝らしながら舞台の袖に群がる。最後まで起きていること、それが子供の誇りなのだ。

僕も、近所からいただいた重箱入りのごちそうを早々と平らげ、神社へと急いだ。家を飛び出す直前に、お袋が「はい」と50円握らせてくれた。大金だ。ぎゅっと握り締め、駆け出した。紐を引っ張ると勢いよく空へ舞い上がる「ヘリコプター」を買おうと、走りながら決めた。友達に次々と出くわした。そのたびに、そっと握った左手を開き、50円を確認した。嫌な笑みが浮かんでしまうのがわかった。やがて、4~5人のグループになった。夜店を冷やかして歩きながら、僕は「ヘリコプター」を探した。夜店の店頭にはいつもあるはずの「ヘリコプター」に、しかし、その日はなかなか出会えなかった。少し高いからかなあ、などとちょっと諦めかけた時、緑のプラスチック製、PPの袋に入ったそれを僕は見つけた。しゃがみこんだ子供の脇に身体を滑り込ませながら、「おばちゃ~ん」と呼びかけ、右手でそれを指差した。左手は、しっかりと握ったままだ。「はい」と、おばちゃんの手がその袋をつまんで伸びてきた。受け取り、そのままお金のために開かれたおばちゃんの手に、お金を渡そうとした。左手を右手を添えて開いた。ない。掌は、空を握り締めていた。下を見、後ろを振り返った。背中を電気が走った。「なんてことだ。あんなに大切に握っていたのに!」後悔の念と無限の悲しみが襲ってきた。「あれ?あれ?」とおどけた声でごまかしながら、「ヘリコプター」を返した。僕は、その夜石見神楽を、「ヤマタノオロチ」まで眠気を感じることなく見切った。

大切にするということは、握り締め続けることではない。僕は、そのことを学んだ。握り締めた時の感触は、やがて失われていくものなんだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中リハビリ仲間のその後ー②

Fさんは、やんちゃ坊主のスタイルと顔付きで、リハビリ病院の廊下で自主トレに専念している姿を見たのが最初だった。食堂で言葉を交わして、すぐ仲良くなった。病院で50歳を迎えた、大手不動産会社の法務担当のマネージャーをしていたという。ストレスの多い仕事だったらしく、ご本人がそれを痛感したのが入院生活を始めて白髪がなくなったことからだった、という話には笑いながらも驚かされた。

病気では二ヶ月先輩で、僕が入院した頃には、連日「インフレ気味の」万歩計を腰に散歩をしておられた。「今日は、○○○歩でした。もう少しだったなあ」といった報告や、歩く時にどうしても内側に曲がってしまう腕を「演歌歌手じゃいけないんですよね」といった笑い話を彼の口から聞いていると、つい冗談にも弾みがつき、そのまま笑いが止まらなくなることがよくあった。この病気の特徴であろう、喜怒哀楽の沸点が低くなってしまっている影響もあり、時にはご飯を吹き出してしまうことさえあった。

そんな彼が復職したのが、春。散歩の時もしっかりと彼をガードし、「女房が前で大仰にガードするから歩きにくくて」と、Fさんに贅沢な台詞を吐かさせていた奥さんが相変わらずきちっとガードしながら、会社へと通い始めた。「病人にやさしい会社」で、マネージャーの席は後進に譲ることになったとはいえ、同じ業務への復活となった。一人でなんとか通い始めたFさんと、やがてメールで連絡を取り合い、会うこととなった。元気な頃、お酒とタクシーが大好きだったFさんが、リハビリの帰りに事務所に近い交差点で降り立った姿を見た時は驚いた。やっとコップを握り水を飲んでいた程度の左手をひょいと上げて見せ、しっかりとした足取りで、杖にも頼らずすたすたとこちらに歩いてきたからだ。

そんなFさんも本格的な社会復帰にはなかなか至らず、時々落ち込む。脳卒中を患い、リハビリを重ね、ある程度運動機能を回復しても、内側は違う。皮膚の内側はざわつき、時には痛み、疲れやすい。そして何よりも、多くを期待されないことが心に刺さる。大事にされている、と喜ぶだけには終わらないやるせなさに襲われることもある。僕にはよく判る。肉体的な辛さもさることながら、人の役に立ちたいのだ。

しかしFさん。今日知り合いから聞いた話では、Fさんと同じ昨年7月発症の商社マンの人、4月に復職予定が、今でもリハビリにひたすら励む状況とのこと。頑張りましょう。ちょっと飲んでからね。

年老いたお母さんの面倒を見ながらの二人暮らしで、突然脳出血に襲われたSさんは、リハビリに通うのが唯一の楽しみ、と聞いた。仕事は諦めたとの風の噂も。心配だ。歩行を諦め、車椅子のまま退院していったUさん。思っていることと違う言葉が口から出てくることに悩んでいた、若干40歳のO君。「仕事辞めていいわよ。私に任せなさい」と奥さんに言われたことをうれしそうに口にしていたBさん。みんな、無理せず、誰かに見守られながら、じっくりと次を目指せているといいのだが‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脳卒中リハビリ仲間のその後

蝉時雨が暑気を募らせ、身体全体を汗の皮膜がじっとりと覆っていると、それだけで気力が萎えてしまうくらいだ。そんな日々が続いたことも影響しているのだろうか、脳卒中リハビリ仲間から、相次いで「どうも思わしくなくて‥」電話が入った。

まずは、Nさん。40代後半の彼は、僕が転院していった時、病室内で小さなジャンプも取り混ぜて体操をしていた人で、僕はてっきり付き添いの人がなまった身体をほぐしているものだと思った。彼が脳梗塞患者だと知って驚いたが、リハビリの効果を目の当たりにしているようで勇気付けられた。すぐに親しくなり、病院内で快適にリハビリに専念するためのいくつかのコツを教わった。症状はそう重くはなかったとはいえ、右手の麻痺はまだかなり残っており、毎日文字を書く練習に励んでおられた。

昨年10月の終わり、僕より1ヵ月半早く退院した彼は、すぐに職場復帰。週に1度リハビリのために通院してきた時は、律儀に病室を訪ねてくれた。いつもたくさんの書類が入ったバッグを提げてスタスタと現れる彼は、僕の目には脳卒中の名残さえないかのように見えた。が、その言葉と表情は微妙に変化していった。旅行代理店の支店長としてトップセールスにも努力を重ねていた彼は、復職直後は、得意先との商談を引き継いだ結果が思わしくないことや以前のように活動できないことを嘆いていたが、やがて職務が全うできそうにないと、悲観的な将来を語るようになっていた。可愛がっていた小学生の男の子二人の将来と重ね合わせると、さらに不安が募るようだった。明るくてまじめな人だけに、何とかならないかと勝手に気をもんでいた。

そんな彼をさらに不幸が襲った。肝硬変による緊急入院である。「通院しているからこその早期発見。不幸中の幸いですねえ」と慰めてみたものの、彼の心中を思うと辛かった。結局、即入院したものの、年末の繁忙期と重なったため、毎日病院を抜け出て仕事場へ行くこととなり、勧告を受けて退院。週に1回のリハビリと肝硬変の治療をしつつ、仕事を続ける、という大変な事態となってしまった。

それから半年以上が経つ。時折電話で近況報告が入っていたが、ここ2~3ヶ月連絡が途絶えていたので少し心配していた矢先のことだった。懐かしい明るい声だった。リハビリも遅々として進まない僕を思い遣っての電話であろうと思った。しかし、そうではなかった。「今の仕事、続けられそうにない気がしてきました。辞める方向で上から言われているような気もしますしね。今は、鬱病にならないように気をつけている、という状況です」。意外ではなかったが、彼の退院時の健常者のような後姿からすると、やや不可思議な感じがした。そして、今更ながらに脳卒中患者の社会復帰の難しさを思った。回復期の鬱病の危険性は、僕の素人考えでは二度ある。二度目の方が深刻なはずだ。何とかNさんには回避して頑張ってもらいたい。一度慰労&激励会でも催すつもりだ。飲みましょう(少しね)!Nさん。僕たちは、復員兵のようなものなんだから‥‥。

  60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

  60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

介護される側の視点④ーボーダーラインの設定

自分では何もできないくせに、贅沢言うな。という声が、聞こえてきそうな気分にいつも支配されながら、それでも、いろいろとお願いせざるを得ないことに、時には苛立ち、時には悲しくなる‥‥。介護される側の心理の一端である。しかし、弱者にもやがて権利意識が生まれる。これが実は厄介な代物だ。言わば、反転作用。弱者の悲哀を味わった上での権利意識は、傲慢なほど強いものになりがちだ。面倒なことを巡る意識の落差は、感情的な衝突の温床になる。そして、小さな衝突の繰り返しは、暮らしからまろやかさを消し去っていく。

グレイゾーンは、こうして次第に広がり、埋めがたい溝になってしまうのだと思う。脳出血や脳梗塞は、完全な回復はありえない(もちろん、重さにもよるが)と考えるべきであるがゆえに、長期にわたって関わってこざるを得ない問題だ。Quality Of Lifeの観点から見ても大きな問題である。肉体的な疲労より、QOLの低下の方が、生きる気力を奪っていくものだと、僕は思う。QOLは、暮らしを共にする者の共同作業によって守るべきもの。介護のグレイゾーンを狭めていく作業も、まずは、コミュニケーションから始まる。

介護で大切なのは、「ムラがないこと」。まず、そこに留意しなくてはならない。介護される側からすると、「いつもしてもらえること」は、行動に中に組み込んでおきたい。介護する側の気分で。「してもらえたり、もらえなかったり」だと、段取りが組めなくなる。安心もできない。どちらが手を出すことか、小さく決めていくのは難しいとしても、あいまいになりがちなことは、きちんと話し合った方がいいだろう。要するに、境界線の設定である。特に、グレイゾーンの境界線は動いていくものだけに、回復の度合い、介護者の疲労度等によって微妙に変化することを認め合っておく必要がある。そして、「明日は、自分でやってね。できる?大丈夫?」「ちょっと、やってもらいたいなあ。今日は調子がよくない」などと、声を掛け合い、微妙に境界線を踏み越えあうべきだろう。境界線を決め、それでいて頑なにこだわり過ぎない。それがコツと言えばコツかもしれない。

60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

60sFACTORY週間活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

介護される側の視点③ー介護という仕事に関して

介護のグレイゾーンについてさらに述べていく前に、やはりコムスン事件に関して、少しだけ触れておきたい。ただ、介護に関して専門的な知識もなく、造詣が深いわけでもない僕が、入院、リハビリテーションを通じて、あくまでも介護される側として感じたことを敷衍しただけであることは、お断りしておきたい。

まずは、今も週2回続けているリハビリについて。

リハビリは、大別すると3種あるようだ。理学療法(PT/Physical Therapy)‥‥主に下肢のセラピー。自立歩行を促す。作業療法(OT/Occupational Therapy)‥‥主に上肢のセラピー。手作業を促す。言語療法(ST/Speech Therapy)‥‥言語によるコミュニケーションが可能・円滑になるように促す。以上、3種である。入院をして知った。セラピーだから、手術をしたり、薬品を使用することはない。つまり、身体の構造と、その一つひとつの働きと相互関係を十分に理解し、どこをどのように刺激すれば、失ったあるいは減退した機能を回復できるか、を知る人つまりセラピストの指導を受けながら、随意筋に動き方を改めて教え込んでいく、というのが、今のリハビリ。のように感じた。特に、僕のような脳卒中に起因する不随は、脳からの指令が途絶えているので、身体の方つまり必要な筋肉にダイレクトに動き方を教え込んでいくしかない。‥‥ということだろう。

幸いにして、入院した時点からずっと意識もはっきりしていて、ストレッチャーの上でMRIの結果を見せてもらいながら担当医と会話をしていた僕は、言語を失うことはなかったので、3種の中の2種のセラピー、PTとOTを受けることとなった(現在、声が出にくくなってきていることも災いして、発音不明瞭な言葉が増えているようで、気になってはいるが‥‥)。そして、すぐに思った。まだまだ確立されていない療法なんだなあ、と。そして、それはやむをえないことなのだろうなあ、と。

正常に機能している状態の肉体は、多様な動きを可能にするために複雑に入り組んだ筋肉が、互いに動きを補完しあいながら無理なく動いているのであろうが、一旦どこかが壊れてしまうと、そのひずみが各所に出てくることになる上に、その出方は人それぞれ、画一的なパターンはない。一人ひとりがレアケースなのである。学ぶとしたら、正常な状態の身体をを学ぶしかなく、それが現場ですぐ役立つとは限らないのだ。セラピストの経験と資質に拠るところが大きいのである。体系化できるとしたら、患者との接し方と、セラピーの基本のみなのではないだろうか。推測ではあるが‥‥。

と、思った僕が、是非充実してもらいたいと思ったのが、本来当たり前のことなのだが、インフォームド・コンセントの徹底である。何のために、どこのどの筋肉を使うのか、その説明をしてもらいたい、と強く思った。説明をすることで、責任も生まれ、担当が入れ替わっても、何をなすべきかは伝わっていくように思うし、セラピーを受ける側もより真剣になれるし、効果も上がるような気がする。要するに、ロードマップは、ないよりあった方がいい、ということである。もちろん、容易なことではない。説明の仕方の標準化も必要だと思う。しかし、患者はとにかく指導するとおりにやってくれればいい、とするやり方だと、セラピスト、患者双方に進展はないように思えてならない。リハビリは、本来共同作業。しかも、一つひとつのセラピー行為は、より優秀なセラピストを育てる教育機会であり、そうして育った指導者がもっともっと必要な状況にあると思うからである。

で、コムスンである。と言うより、グッドウィル・グループが介護事業を展開するということについてである。

上記のリハビリと同様、介護も一つひとつがレアケースと考えるべきもの。ほとんどが現場で携わる人に委ねられる行為である。したがって、ノウハウは、常に現場に蓄積され、現場で熟成されていくことになる。それが、介護事業者の資産になっていくのであれば、介護も充実していくことになるだろう。現場で介護に汗を流す人が得たものが、社会資産として還元されていけば、介護する人、される人の満足度も上がっていくはず。だと思うのである。それが、人材派遣を主たる生業とする企業グループにできることだろうか。何しろ、人材派遣企業の企業ポリシーは、大掛かりな口入れ屋、あるいは手配師に過ぎない。企業としてノウハウを蓄積する意志などないはずである。ボランティアではないからこそ、より高度なところを目指してもらい、その高まった質によって、高い報酬を得ていくようになればいい。優れた介護は、高い報酬を得る価値がある、と認めるべきだと思う。介護で稼いではいけないのではない。介護事業者が、介護の現場からいたずらに稼ぎを掠め取るのがいけないのである。介護をする側の人に真のプロが存在するようになり、固有名詞で語られるようになるくらいでないといけないとさえ思う。憧れの職業は、収入もそれに見合ったものでないといけない。

ただ、介護の現場が若い人に委ねられていくのは、僕は密かにおかしいと思っている。そのことにも、やがては触れてみたい。

60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

60sFACTORY週間活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

介護される側の視点②ー介護のグレイゾーン

介護には、介護される側の感覚として、言葉として適切ではないかもしれないが、レッドゾーン、グレイゾーン、ブルーゾーンの3種類があるように感じる。1.レッドゾーン‥‥サポートなしではいかんともし難いため、「サポートしてもらわなくてはならないこと」。2.グレイゾーン‥‥サポートがなくてもなんとかなるが、時間とエネルギーを要する上に、十分には出来ないことも多いので、「サポートしてもらえると助かること」。3.自分でできることだが、「サポートしてもらえるとうれしいこと」。以上、3種である。要するに、サポートの必要度合いによるのであるが、これが他者には判別しにくい。しかも、一つの行動であっても、レッド、グレイ、ブルーと3種混合であったりする。例えば、着替えの場面を想定してみよう。長袖シャツを着る場合、左手が利かない僕は、左腕から袖に通していくことになるが、その前に右のカフスを留めるのを忘れると、最後に人の手を借りて留めてもらうことになる。したがって、右のカフスを留めるという行為は、基本的にレッドゾーンに入るが、まず留めておいて無理矢理右手を通すことで構わない僕にとっては、グレイゾーンのこととなる。長袖シャツを着る時の他の行為は、すべてブルーゾーン。右手のみで多くのボタンを素早く留めていくのは疲れる(何でも右手、の僕は、夜になると箸を持つのも辛いくらい、右手に疲労を覚えることがあるほどだ)ので、人に留めてもらえるのは嬉しい。

ただ、長袖シャツを脱ぐときはまた別だ。右のカフスを外すなんて、今の僕の左手には到底無理だ。レッドゾーン以外の何物でもない。しかしそれでも、なんとか自分でと思い、ごにょごにょと左手でカフスを動かしている間に外れることもある。時折グレイゾーンに入ってくるわけだ。ただ安定していないので、自分で外せると思われてしまうと、時には右手に長袖シャツをぶら下げたままになってしまう危険性がある。

気温が上がってくると、そこに袖をめくるという行為の必要性も絡んでくる。長袖シャツの脱ぎ着だけでもこうである。面倒臭い話である。

介護疲れを軽減し、介護される側の自立を促していくためにまず重要なのは、グレイゾーンのことをどうしていくかだと、僕は考えている。申し訳ないと思いつつも、やがて甘えが強くなり、ついには権利意識まで持ちかねないのが被介護者だ。子供と変わらないのである。なにしろ、サポートしてもらわなければならないこと、サポートしてもらうと助かること、サポートしてもらうと嬉しいこと、そのすべてが被介護者にとっては、してもらわないよりはしてもらった方がいいこと。しかし、本当は自分で出来ることまでしてあげる必要はない。かといって、被介護者にとって、出来ないこと、今は出来にくいことをほったらかしにされるのは辛い。どこまで手を貸すか、いつまで手を貸すか、どんな時に手を貸すか、が肝要なのである。それによって、介護者の労力も被介護者の自立効果も違ってくるのである。そのためには、最も広く曖昧なグレイゾーンの扱い方、あるいはグレイゾーンとの付き合い方がポイントとなってくる。僕は、そう実感しているのである。

では、どうするか‥‥。正解は、きっとない。なぜなら、特に脳関連の病の後遺症は千差万別であるばかりか、日によっても症状は異なり、それによってグレイゾーンは大きく変化するからである。しかし、僕なりの仮説はある。これも患った病の重さ、リハビリの進行度合い等によって異なるものであろうが、次回、提示してみたい。

  60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

  60sFACTORY週間活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

介護される側の視点①ーボランティアとビジネス

2006年9月初頭、残暑厳しいある日の夕刻、僕は脳出血に倒れた。それから、9ヶ月半。左半身不随の病床から、リハビリ専門病院を経て、今は何とか30%程度の社会復帰。約30年間生業としてきた企画やコピーの仕事に少しばかり携わりつつ、倒れた時に準備中だった60sFACTORYを何とかすべく、エネルギーを費やしている。医者の見立てでは、僕の脳出血、病の重さとしては中の中程度だったらしいが、それでも、寝たきり2週間、車椅子約1ヶ月、早い方だと言われながら立ち上がり、連日約4時間のハードなリハビリを経て、やっと覚束ない足取りで歩けるようになった。杖は手放せない。左腕はまだ言うことを聞かず、肩から腕にかけて時折固まってしまい、強い痛みを感じることもある。要するに、まだまだリハビリの日々なのである。

生涯初めての本格的な入院の間、いろいろなことを考えた。身辺に大きな変化もあった。起きざるを得ないことと思いつつも、受け入れがたいことも多々あった。そして、介護される側に回ってみて、これから本格的に始まる介護社会(決して大げさではない)に対する認識に微妙な変化も起きた。

コムスン、年金がニュースの中心になっている今、しばらく断片的にではあるが、介護される側で感じたことを語ってみたい。介護する側の向こうに、介護される側の人たちの語られることのない声が多く存在していることに気づいたからだ。

まずは、介護ビジネスに関して。コムスンやグッドウィルに関しては、また述べるとして、「介護で稼ぐとはけしからん」と言わんばかりの良心ぶったマスコミのスタンスは、極めて表層的で幼稚で腹立たしいので、僕が一度実感したことを例として提示しておきたい。

車椅子から離れられない時期のことだった。歯の治療が必要(脳出血の後、歯を含め、身体の悪い部分が噴出した)となり、歯医者にレントゲンを撮りに行く時のこと。車椅子を押してくれる女性スタッフに大変な苦労をかけた。歯医者は隣のビルにあるとはいえ、表に出て、エレベーターに乗り、歯医者の玄関から治療室に入るまで、いくつかの大きな起伏を乗り越えなくてはならない。太ってはいないが、170センチ、58キロの男を乗せた車椅子を操るのは容易ではなかった。僕は、心苦しく、「大丈夫ですか?」「すいませんねえ」と、何度も言っていた。こうやって人に迷惑をいっぱい掛けることになるんだなあ、と、いささか湿った気分にもなっていた。

病院の入り口近くまで帰って来た時である。入り口のアンジレーションに車椅子が引っかかった時の、僕の数回目の「すいませんねえ」に、突然「いいんですよ」とは違う答えが返ってきた。「柿本さん、気にしなくていいんですよ。ボランティアでやっているわけではありませんから。私の仕事ですから」。明るい声だった。僕は、不意を突かれた気分だった。そして、一気に気が楽になった。ありがたいと思った。

それだけの話である。ただ、忘れられない、象徴的な出来事ではあった。

  60sFACTORYプロデューサー  KAKKY(柿本)

  60sFACTORY週間活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)