11年。ポール・スチュアートのトレーナー。

お気に入りになってしまったウェアが捨て難いのは当然だが、迷った末に買ったもののどこか気に入らないウェアもまた捨て難いものだ。

「いつか、着るかもしれない‥」。買い物を失敗購買に終わらせたくない“もったいない”意識も手伝って捨てに捨てきれず、単なる“箪笥在庫”に成り果てる‥。そんな洋服のために割いているスペースは、意外と多い。

それはまるで、大金を使って行った調査結果を無理矢理活用し失敗する経営者や、そこまでに要した時間が惜しくて後戻りできず駄作を作り上げてしまうクリエーターなどに似てなくもない。思い切って捨てる!‥“失敗を恐れないと”は、そういうことを意味するはずなのだが、なかなか思い切れない。

そんな“枯れ木も山の賑わい”状態の箪笥在庫の中で、8年間にわたって着用頻度TOP3を守っているのが、このトレーナー。

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ポール・スチュアート。11年前購入。約¥11,000(だったらしい)。

僕の事務所の大切なスタッフだった日高一男の40歳の誕生日にKapparがプレゼント。3年後、彼が厄明け直前に急死した時、遺品として譲り受け僕のものとなった。それから8年、ずっと思い出深いトレーナーだ。

さすがに品質がよく、へたらない。¥1,000/年と、コスト・パフォーマンスも結果としていい。おかげで思い出を長く肌身近くいに置いておける。

「これでいいや」と妥協せず品質のいいものを購入し、愛着の品へと育てていく。

そんな当たり前のことを実感させてくれる、僕のお気に入りの一品だ。

ちなみに、本ブログで以前にも触れたと思うが、日高の急死はインフルエンザ・ウィルスが心筋に侵入したことが原因。心筋梗塞を起こし、それは克服したものの多臓器不全に陥り、この世を去った。わずか一日半の間の出来事だった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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BDシャツにはIVYスピリットが詰まっているー②

寮で生活するIVYリーグの学生たちの中で、アイロン掛けが得意な学生は少数派だったに違いない。僕は学生時代、寮生がアイロン掛けをしている姿は一度も見たことがなかった(聞いたこともない)。そんな彼らにとって、BDシャツは実に機能的なシャツだった。学生の正装としてネクタイ着用が常識だった時代、BDシャツは、ノーアイロンでもネクタイを締めると格好が付いた。洗った後、ハンガーループに引っ掛けぶら下げておくだけで、乾くとネクタイ着用に耐えられる襟元になっている。レギュラーカラーシャツの堅苦しさもない。で、よりネクタイ着用の安定性を増すために、バックボタンが付けられるようになった。ネクタイを阻害しないよBDシャツはIVYリーグの学生たちのものとなっていった。やがて、IVYリーグを卒業したビジネスマンたちが、その誇りと共にBDシャツを着用するようになり、ビジネスの世界にも定着していったのだった。

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僕は、BDシャツにアイロンを掛けたことはない。VANに入社して間もなく、「まさか、ボタンダウンにアイロン掛けてないよな。ボタンダウンらしくなくなるぞ」と言われ、なるほどと思って以来だ。

穂積和夫さんは、60sFACTORYのBDシャツのお話を最初にした時、「ブロードはなくていいよ、オックスじゃないとね」とおっしゃり、くろすとしゆきさんは、「アイロンなしに味が出るから、やっぱりオックスだね」とおっしゃったことがある。

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バックボタンの部分がネクタイの幅に食い込まず、後ろの襟元からネクタイが食み出して見えることもない。乱暴な方法だが、襟をボタンで留めるという無茶なことから始まったBDシャツ。ここまでやったからこそ、スタイルになったのだろう。

IVYリーガーズの合理的で、しかもどこか小奇麗でいたいという精神が、1枚のBDシャツからも充分窺える。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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BDシャツにはIVYスピリットが詰まっているー①

お客さんから相次いで、BDシャツに対して、メールでお褒めの言葉をいただいた。時として揺れてしまいかねないブランド・コンセプトを守らねば、と勇気付けられる。

「洋服は、実用性によって生まれ、機能性によって生き残っていく」。石津謙介の言葉である。流行が過去と現在の陳腐化の連続で創られていくのとは、少し趣の異なる言葉である。石津さんは、流行を作ることには興味はなく、むしろきちんと受け継がれていくべき洋服を定着させたかったようだ。「仕事としてやりたいのは、制服創りだねえ」。そんな言葉を耳にしたこともある。制服には、確かに実用性、集団の規律、来た時のカッコよさ等、ある意味では洋服に求められてきた要素が満載だ。そして、最も実用的な見地から洋服が検討されるのが軍服。だから、様々な洋服がその起源を軍服に持っていて、石津さんの言葉どおり、その機能性によって生き残っているのであろう。

ボタンダウンも、最初は実用性から生まれた、という説が有力だ。ポロ競技の際、風にはためくポロシャツの襟が邪魔になるのでボタンで留めた人がいた。そこから始まったらしい。それがやがては一種の流行になり、ドレスシャツの襟までボタンで留めるようになった。ここでもし、機能性として着目されなければ、まさに流行の波に飲み込まれ、ボタンダウンシャツは、消えていたかもしれない。

そこで登場するのが、アメリカ東部IVYリーグの学生たち。アメリカ的な合理精神を持ちながら、イギリスから受け継がれてきた伝統も重んじる質実剛健(石津謙介が最も愛した精神であるーと、僕は思っている)なIVYスピリットは、ボタンダウンシャツを見過ごさなかったのである。 −次回へ続くー

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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好きだと頑張れる‥‥。

団塊世代への注目が高まりつつあるせいか、「思いっきりテレビ」で、“みゆき族”が採り上げられ、友人の健坊(目黒の和菓子屋“つたや一粋庵”のオーナー職人)と麻生さんが取材を受けた。健坊は「俺は、みゆき族はやってねえよ」と、その頃のことを語り、みゆき族をやっていた麻生さんは、「悪いことなどせずに‥‥」と、ただ集まっていただけであることを語ったようだ(申し訳ない。観そびれました)。勝手にネーミングし、意味付けするのは周囲の下世話な大人たち。本人達は、同好の士のいる所へ行ってみているだけ。かくして、ブームは周囲から創られていくのだ。

みゆき族の写真は、田舎の中学生だった僕も、週刊新潮か週刊文春のグラビアで見たような気がする。東京には、お金を持った若い人がいっぱいいるんだなあ、とよその国の出来事のように眺めていた。

このブログでも以前触れたが、みゆき族がマスコミの取材を受けるようになって、我が60sFACTORYの企画をリードしていただいている谷さんは、陰でほくそえんでいたらしい。当時VANの商品企画に配属されて間もない谷さんたちVAN社員が、終業時間の後、みゆき通りに「VANの宣伝を意識して」たむろしていたのが、みゆき族のはしりだからだ。VANの袋を持ち、ステッカーをポケットに忍ばせて夜な夜な出動し、こっそりステッカーを貼って帰っていたそうだ。その話をする時の谷さんのいたずらっ子のような顔に、聞いている僕も微笑んでしまった。マスコミもしてやられたのである。

好きこそものの上手なれ。日本橋界隈に、VANのエネルギーが充満していたのだ。

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健坊の千社札。厚かましくも、穂積和夫さんの好意にしがみつくようにして描いてもらったらしい。祭り好きのいなせなおっさんである。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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本物とは?

見つからなくてちょっと焦り気味だったシアサッカーの生地見本を、谷さんがお持ちになられた。ライトブルーのストライプ。懐かしい感じさえしてしまう風合い。サンプルの上がりが楽しみだ。谷さんに、1950年代終盤から60年代初頭のVANのお話を伺う。そして、今後の相談も。本物という言葉・概念に隠れている嘘っぽさについて、かねがね気になっていたことをぶつけてみる。スペックで優れていても、愛着を感じないモノを僕は本物と呼びたくはない。かといって、自分の愛着を本物としたいとも思わない。本物は、いつも揺らいでいて、小さな欠陥を持ちながら、妙に愛嬌があるものなのかもしれない。厳しく屹立していて、人を寄せ付けない真実というものとは違うように思われる。自ら楽しみ、人も楽しませることができるもの。それを生み出そうとする努力こそ、本物にアプローチしようとすることなのかもしれない。谷さんに、ぼんやりとそんなことや、どこに企画の臍を見出せばいいのでしょう、といったことをお話した。

谷さんは、やさしい人だ。静かに僕のおしゃべりを聞いた後、「いいと思うものをきちんと真似ればいいんじゃない?」と繰り返し言われた。忘れてはいけない大切なことを励ましの言葉に代えて口にされたのだ。僕は、はっとした。同じ言葉を、ちょうど30年前、石津さんに言われていたのだ。谷さんは、バッグの中から、「資料に使えるかな、と思って持ってきたんだけど。別にいいかな?」と1枚のボタンダウンシャツを出された。1967年、VAN社員のアメリカ・ツァーの時にYALE大学のCO-OPで購入したというものだ。「これをVANのボタンダウンシャツの企画の参考にしたんだよね。一番最初は、GANTのシャツだったけどね」と、おっしゃった。「VANは、いいものを真似しただけなんだよ。ただし、徹底的にね。それでいいんだよ」石津さんの言葉が聞こえてくるようだった。僕は、改めて60sFACTORYスタートの時の思いを呼び起こしていた。「現場で参加していなかったモノ作りを、徹底的にトレースしたい」。それでいいんだ。

ほのぼのとした元気を残して谷さんがお帰りになったのと入れ替わりに、Mr.Hさん登場。30分後、代々木公園駅出口から逆に歩いて、夜のウォーキングをたっぷり楽しんだハゲアメリカーノさん到着。缶ビールを開け、今進行していること、穂積和夫グッズの企画等々をお話し、マドラスの生地見本をお見せして、参考意見をお聞きする。やはり、元気と激励をいただいて(マドラスは参考になりました)、11時半頃お別れした。ありがたい話である。

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1967年、YALE大学CO-OPで購入したというサンプル。シャツの達人、ウィンスロップの社長にご覧に入れたところ、「当時だったら、実によくできたシャツですね。今のウチだったら、マシンと技術が進化しているので、普通にできてしまいますけどね」とおっしゃった。

           60sFACTORYプロデューサーKAKKY(カッキー柿本)

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VANが仕掛けた?!みゆき族

「週に1日はスポーツを」というキャッチが、やけに新鮮に響いた「We Love Sports」キャンペーンや、すべてアメリカ製の大工道具をプラスティックの型の中にはめ込み、「カーペンターズ・キット」としてプレゼントしようというキャンペーン‥‥。VANのキャンペーンは、ある意味では、その製品よりもおもしろいものだった。しかし、大先輩諸氏のお話を聞いていると、それはVANが誕生した頃からDNAとして持っていたことのように思えてくる。

昭和30年代の前半、VANは、日本橋に本社を構えていた。「日本橋時代」と言われる、いわばVANのファッションや企業のあり方が培われた時代だ。VANは、まだ時代の寵児ではなかった。戦後数多く生まれた服飾メーカーの一つ、IVYも大人のための正統派アメリカン・トラディショナルウェアとして生産・販売されていた。それを歓迎した若者たち、くろすとしゆきさん、穂積和夫さんたちが強く関わるようになり、VANは、若い層を明確に意識し始める。若者がファッションに目覚め、VANがそんな若者たちのためのブランドとして覚醒していった頃のことである。

入社してしばらく経って、商品企画に転属となった谷さんは、仕事が終わると、仲間と夜な夜なある行動をとるようになっていた。VANの製品に身を包み、グループでみゆき通りにたむろすることだった。なんとなく、ただいるために、谷さんたちVAN社員は、毎晩みゆき通りに出かけたのである。命令されてのことではなかった。もっと広めたい、その一心だった。手にはVANの袋を持ち、時には警官の目を盗み、懐に忍ばせたVANのステッカーを、道路脇の策や電柱に貼ったという。

見事なプロモーションである。OOH(Out Of Home)の手法としても優れている。やがて、谷さんたちの継続的な努力は報われた。「みゆき族」の誕生である。名付けられ、マスコミが取り上げた時点で「族」は誕生し、その数を増していく。VANが、時代の寵児になる始まりだった。

              60s FACTORYプロデューサー KAKKY

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60sFACTORY 商品企画進行.②

2月27日、谷さんと高橋さんに事務所においでいただく。かねてより個別にお話していたことを具体的に前へ進めるためである。最も心配なのは、素材の手配ができるかどうかだ。もとより大きな商いなど想定していない。大ロットで必要なわけではない。だからこそ、どこかにあるのではないか。が効率追求のためにバリエーションが少なくなっている素材生産。シアサッカーは、果たして見つかるのか、マドラスは?谷さん、高橋さん、二人ともご尽力いただいているが、誕生して間もなく資金力も乏しい60sFACTORYに手配できるのか。心配は尽きない。

くろすさんとお会いしたこと、福袋企画のその後などをお話した後、「ところで、マドラスとシアサッカーですが」と切り出した。すると、高橋さんのバッグからインディアン・マドラスの生地見本がどっさり!谷さんのバッグからは、シアサッカーの生地見本が出てくるではないか!「あ!すごい!」X'masプレゼントを目にした子供のように、僕は歓声を上げていた。谷さんは、自身所有の60年代初頭のサマージャケットや当時のアルバムなどもお持ちになっていた。そこには、20代の谷さんの活き活きとした姿や思い出があった。「これを参考にすれば、パターンはすぐ作れますよ」高橋さんは、もう仕事を始めている。僕は、谷さんとディテールの話‥‥。

やがて、パターンオーダーの仕組み、できるだけ安く提供するためにはどうすればいいか、などなどを話し合い、コートの話で盛り上がって、3時間の打ち合わせは終了した。

次は、縫製工場だ。早急にお会いする予定を立てる。アポイントは再来週。具体化は目の前だ。

                                      60sFACTORYプロデューサーKakky(カッキー)

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そして、VANのスピリットが残った

どこで歯車が狂ったのだろうか?僕が入社する数年前に起きたはずの小さな歯車の狂いは、年々増幅されていき、僕が入社した頃には大きな歯車の動きにも影響を与えるようになっていた。一見活力に溢れ、明るいざわめきに満たされているように思われるVAN 社内にも、形にならない不気味な影が忍び寄っているようだった。でも、そこはかとなく不安を感じながらも、僕たちはVANの底力をどこかで信じていた。要するに「まさか!」と思っていたのだ。百貨店や月販店に派遣されたまま倒産を迎えることになるかもしれない多くの同期の社員に対する内勤社員としての申し訳ない気持ちと責任感に、僕は追い立てられるような気分だった。

そして、じたばたしている間に、VANは急坂を転げ落ちるように倒産へと向かっていった。当然、僕の足掻きなどなんの足しになるはずもなかった。日々起きる些細なことや重大な事件に向き合っている間に、ふと倒産は訪れた。大雨の翌日、1978年4月6日、からりと晴れた春の日のことだった。

あれだけの底力があったVANの倒産。負債も歴代二番目の多額で、優に400億円を超えていたというのに、急ごしらえの広報の部屋に訪れる各誌・紙の記者は、家庭部か文化部。経済部の記者が訪れることは一度もなかった。しかし、それこそVANという会社とその事業が持っていたユニークネスだと僕は思った。「惜しい!」。心底そう思った。そして、小さくてもいいから、VANがやりおおせたようなことができればいいな、と思った。僕の中には、VANのスピリットが確実に残ったようだった。

                        60sFACTORY プロデューサー Kakky(カッキー)

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VANの底力。&63年、テレビのある生活に。

VANの底力

年末商戦の販売応援で、売り場に度々流れるVanMacCoyの「ハッスル」を聴きながら、僕はVANに誇りを感じ始めていた。隣接する「J.Press」に負けるわけがない!と、確信していた。なぜなら、売れてしまわざるを得ない仕組みにVANはなっていたからだ。VANの販売員は、派遣の正社員だった。僕の同期の8割近くは、都内の百貨店、月販店(丸井)の売り場に立っていた。そのすべてが、豊富な商品知識を持っていた。そればかりか、一つひとつのアイテムを巡るストーリーから、オーセンティックなコーディネイトノウハウまで身に付けていた。彼らは、お客様にアドバイスする力を持っていた。そして、売ることは商品の解説や推奨をすることではなく、お客様の商品への興味を強く喚起することだ、と知っていた。

それは、奇跡に近いことだと僕は思った。研修や勉強会で培われたものではなかったからだ。何しろ、僕でさえVAN販売員の端くれにはなれたほどだ。そこに、VANの底力があったのだと言わざるを得ない。VANは、すべての社員がVANという会社の分身のようだった。VANは、企画・生産した人が自ら接客・販売しているかのような仕組みに、システム構築を意識することなく成り得ていたのだ。それは、伝道師の集団をも連想させた。

石津謙介という偶像崇拝があったわけではない。それも不可思議なことではあった。彼はむしろ、最良にして最高の伝道師。敬愛されていたが、彼の語ることを実現するために結集しているわけではなく、彼の語る概念や哲学を、活動のコアに据えているだけだった。したがって、それぞれの解釈は、微妙に異なっていた。しかし、そのコアにあるものは共有していると思っていた。しかも、それを、多くの社員は広く伝えたいと思っていた。そして、それこそ、VANの底力だった。

しかし、時代は微妙な、それでいて着実な変化を見せ始めていた。それはまるで、売り場の音楽がメロディアスなものからディスコ・ミュージックへと替わっていったかのようだった。不安を内包しつつ、VANは、浮き足立っていた。

1963年、テレビのある暮らし

テレビがやってきて、僕の暮らしは一変した。「三馬鹿大将」の無声映画的なスラップスティックは、すぐ遊びに反映されたし、チャック・コナーズの「ライフルマン」は、日活映画が模範だった西部劇ごっこをすっかり変えてしまった。三々五々、友人たちの家にもテレビがやってきて、夜の電柱の下に人影を見ることもなくなったが、その分、学校の休み時間に小さな人の塊があちこちにできた。そこでは、僕が意外と気に入っていた「ちろりん村とくるみの木」の登場人物のモノマネなどは少数派で、「スターリング、ビック・モロー、エエ~~ンド、リック・ジェイスン」という「コンバット」のプロローグのモノマネを音楽、砲弾音まで交えながらやってみせる奴が多かった。不思議なことに、みんなうまかった。

毎日一時間机に向かい、することもないので日記を書くことにし、書くこともないので、読者の両親を意識して、取るに足らないことを大仰に反省してみせたりしていた。問題は、その一時間をどこで工面するかだった。夕飯までは遊ばなくてはならない。夕飯後は、連日おもしろい番組が目白押しだ。空いてる時間など、ない。かといって、深夜というわけにもいかない。チェックを 受けなくてはならないからだ。僕は、新聞のラテ欄と首っ引きで悩んだ。答えは一向に出なかった。しかし、約束だから、と机に向かわされた。すると、観たい番組を観逃してしまう、という最悪の事態を招くことさえ起きるようになった。僕は、観念した。そして、週間スケジュール表を作ることにした。表向きは、約束を果たすための顔付きをしていたが、仰々しく机の前に貼ったものと同じものの裏版には、テレビ番組のスケジュールがみっちりと書き込まれていた。

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アイビーの奥深さ&テレビが家にやってくる②

アイビーの奥深さ

たった一つのアイテムに過ぎないBDシャツは、楽しそうに働くスタッフの姿を垣間見ただけで“この会社に入ろう”と安易な決断をした世間知らずの学生を、少しだけ社会人にしてくれたようだった。遅刻して到着した入社式の会場VAN99ホールの入り口で、総評系の組合員と人事部員に挟まれた時の大いなる落胆。学生時代同様、ほぼ連日受ける組合への勧誘・オルグの執拗さに、「ああ、ここもか」と萎えかけたささやかな希望。「会社は共同幻想。だからこそ、働く者の意識とエネルギーでいい幻想を共有しなくてはならない」。そう考えていた僕は、VANにさえ持ち込まれている“会社側と労働者”という画一的な対立の構図に辟易としかけていた。BDシャツを巡るストーリーは、そんな状況に一筋の光明をもたらした。VAN社員として何を目指していくか、新入社員にも微かに見えたような気がした。それだけ僕はファッション音痴だったとも言えるが、それだけアイビーは魅力あるものだったとも言える。

BDシャツというイントロからアイビーの主旋律へ。僕はじわじわと踏み込んでいった。たった一枚の洋服に織り込まれた先人の歴史、家族や恋人への愛情や思いやり、袖を通すことへの誇りや使命感。ディテールは単なるデザインではなく、大仰に言うならば人の営みそのものであることに思い至った時、僕には、“ファッションとは、ライフスタイルだ!”ということが少しはわかったような気がした。そして、その年の暮れ、繁忙期の販売応援で小田急百貨店のVANのコート売り場に立った時には、お客様に大いに語るようになっていた。楽しくなっていた。僕は、VAN社員になっていた。

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テレビが家にやってくる②

1963年、中学1年生の夏休みが終わる頃、突然決断は下された。「テレビ買うことにしたからね」。お袋の一言だった。遂に我が家にテレビがやってくるのだ。連日家計簿を1円単位で付け、それが趣味かのように蓄財。借金だらけの病み上がりの子連れ教師と再婚してから、生活を立て直してきたお袋。一度決断したら思い切りのいいお金の使い方をする。どんなテレビが来るのだろう、と質問したら、「最新のものは故障が多い。2年前くらいに発売されたものがいいだろう。カラーテレビはまだ安定してないが、オリンピックがあるし、買うんだったらカラー」と、明言。馴染みの電気屋さんから、キャッシュで値切って買うと言う。僕は何も言わず、大きくうなずくばかりだったが、興奮を抑えられずに表へと飛び出していた。

天気の良し悪しに関わらず、日中は川で泳ぎ、夕食時に帰宅。掻きこむように食べ終わったら、テレビを開放してくれているお宅に直行。数件の目当てのお宅が所用で閉ざされている夜は、理髪店の奥に鎮座しているテレビを店の外から見せてもらったりした。「それは私です」「私だけが知っている」「若い季節」「お笑い三人組」‥‥。NHKのタイムテーブルは頭に入っていた。同じ目的の友人たちと電柱の光の下で、その日のテレビの話をひとしきりしてから帰ると、遅い時は10時を回っていた。叱責を柳に風と受け流し、一人用の蚊帳を吊って潜り込むと、窓外の月が輝いていた。初恋の人に、心の中で「おやすみ」を言うやいなや眠りに落ちる。そんな日々だった。だからだろう。テレビを購入するに当たって、僕は守らなければテレビが観られなくなるという罰則付きの約束をさせられた。1.一日一時間は、机につくこと。2.日記をつけること。その日記は両親に定期的に見せること。という二つだった。見せる日記に抵抗はあったが、机について日記を書けばいい、というだけの話だと気づき、しっかりと約束した。

決断した後のお袋の行動は早かった。それから二日後、テレビはやってきた。夏休み最後の2~3日は、至福の日々だった。取り交わした約束など忘れたかのように、物珍しさから、親子三人で深夜までテレビ三昧の日々だったのだ。 こうして、僕に浴びせられる情報の量は飛躍的に増えた。僕の生活や意識は、くるくると回転し始めていた。

                                 60sFACTORY プロデューサー Kakky(カッキー)

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