初めて新幹線に乗った日

僕が初めて新幹線に乗ったのは、1970年、二十歳の夏のことだった。学生運動に対抗するため、大学がロックアウト。全学休講となったため、これはいいやとばかりに、東京にいる高校の同級生たちを訪ねることにした。どうも小田急線という私鉄の沿線に数名が住んでいるらしいという情報を入手していた僕は、順に泊まり歩けば、一ヶ月近くは滞在できると踏んでいた。

大学入学前から始めていた中華料理店の住み込みを円満に辞め、部屋を引き払い、6畳7000円という学生アパートに転居した直後、残っていた大金3万円を握り締めて、京都駅に向かった。当時流行っていた、折り畳みビニールバッグ一つ、中には、下着1枚、本1冊だけだった。半袖のサマーニットを素肌に、ジーンズ、バックベルトのサンダルといういでたちだったと思う。お金の節約のために、京都駅までは徒歩。暑さを避け、深夜にタバコ片手に歩いた。駅の構内でゆっくり寝よう、という計画。というより、とにかく行けばなんとかなるという考え。そんな脳天気ぶりが風情に見えたのか、職質を2回も受け、何もない!と言っているのに、ビニールバッグを2度とも開けられ、丁寧に下着も広げられた。

京都は小さな街。僕の部屋の近く、北の端の大通り北山通りから京都駅まで、4km程度か。しかし、障害物は数多い。その一つ、三条大橋の下に犬と住んでいる知り合いに立ち寄り、ついつい飲んでしまい、京都駅に着いた頃には、すっかり明るくなっていた。しばらくベンチで仮眠を取りお昼には出発しようと思ったが、適度な空調が心地よかったのか、目覚めるともう午後3時を回っていた。

急ぐ旅でもなく、初めての新幹線ということもあって、各駅停車のこだまを選んだ。富士山は暗くて見えないだろうと、自由席の海側の窓辺の席に座った。新幹線は、外観も車内も僕の頭にあるイメージよりくすんでいた。驚きも感慨もなかった。興味はむしろ乗客の方に向かった。しかし、それもすぐにくすんだ。当たり前だが、普通の人たちばかりだった。特別な乗り物とのイメージが残存している僕自身に、改めて田舎を感じただけだった。

夜7時過ぎ、新横浜を通過。港が見えるだろう、と背伸びをしてみた。山あいの殺風景な駅にがっかりした。周囲に対する羞恥心に背伸びを延長し、網棚に上げておいた小さなビニールバッグを下ろした。下車の準備である。地図では、横浜と東京は隣接している。乗客も減ったとはいえ、まだ相当数いる。出口は混雑するに違いない。

と、隣席の女性が声を掛けてきた。「東京は、まだまだですよ」。「え?そ、そうですか」。赤面していくのがわかった。僕は、乙女のようにバッグを胸に、もう一度腰を下ろした。そのご親切な40代と思しき女性の声が車内に響き渡ったような気がした。そして、じっと窓外の一点を見つめながら、東京に着くのを待った。確かに、想像したよりも横浜東京間は、時間がかかった。

ついに、東京が見えてきた。‥‥と、思った。腰を上げた。しかし、まだだった。また腰を下ろした。情けなくなってきていた。アナウンスまで待ち、列車が止まってから立ち上がることにした。最初からそうすればよかった、と思った。

そして、やっと降りることになった。僕は、今度は焦ってはならじと、隣の女性が席を立つのを待った。ゆっくりとご親切な女性は立ち上がった。くるりと振り向いた。またもご親切な一言をかけながら。「もっと向こうまで、東京ですからね」。

大東京の入り口に着いた僕の足は、ホームでよろめいた。

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初めて、エスカレーターに乗った日

僕は、2歳の頃親父と二人で神戸にお袋を訪ねて以来、大学受験まで島根県から出たことがなかった。したがって、18歳以降は、「初めて」だらけ。小さな驚きや感動の、ちょっとお得な日々が続いた。

初めて、エスカレーターに乗ったのは、昭和43年、18歳の時。京都四条河原町の高島屋でのことだった。百貨店という所を見てみたいと、一人で市電に乗って出かけた。僕にとっては、なかなか勇気ある行為だった。

高島屋正面入り口から入ると、目の前にエスカレーターが悠然と動いていた。上がり口には、エスカレーター・ガール。制服に身を包み、膝に白い手袋に包んだ両手を置き、「いらっしゃいませ」と、艶然と微笑みながら(そう、見えた!)一人ひとりにお辞儀をしていた。正面からそのお辞儀に出会い、僕は一瞬ひるんだ。そして、曖昧に微笑みながら、エスカレーターに近寄った。少し胸が高鳴った。次々と顔を出すステップから目を離さず、タイミングを計りながら、足を乗せる前に「いらっしゃいませ」の一言に何か応えなければ、と突然思った。口をついて出てきたのは、「お邪魔します~」の言葉。すぐに、「違うぞ」と思い、顔が赤らんだ。しかし、その小さな興奮のお陰か、エスカレーターには苦もなく乗っていた。手すりに摑まり、ゆっくりと上がっていきながら、「あんな女性と付き合える男もいるんだなあ」と、そっと振り返ると、お辞儀のためにきれいに曲げられた背中が見えた。

ただひたすらエスカレーターを乗り継ぎ、僕の百貨店探訪第一回目は、あっと言う間に終わった。

下りのエスカレーターで一階に到着すると、降りる直前、エスカレーター脇から丁寧な言葉がかけられた。その「ありがとうございました」には、心が篭もっていた。。最初の記憶がまだ残っていた僕は、迎えてくれた女性だと錯覚した。「お邪魔しました」。小さな声で挨拶をしていた。すると彼女は、ひらりと笑顔を僕の方に向け、「何もお構いしませんで‥」と返してくれた。一瞬、足が止まった。そして、ほんわかとした気分で、店を出た。

いい時代だった。

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「初めて」の時代、昭和。「もっと」の時代、平成。

昭和という時代は、「初めて」の時代だったと思う。様々なモノやコトが次々と登場し、暮らしの中に入り込んできて、ライフスタイルを多様化させていった。いや、ライフスタイルという言葉と概念さえ、昭和に「初めて」登場したものだった。「初めて」のモノやコトは、新鮮で刺激に満ちている。豊かになっていくことが約束されているような錯覚さえ与えてくれた。

やがて、「初めて」は少なくなっていき、平成を迎える頃には、ほとんど見かけなくなっていった。「初めて」と言われるものも、かつて経験したもののマイナーチェンジであることが多くなった。広告、商品企画、業態開発などの現場では「何か、新しいことない?」とか「それ、もう見たことあるよ!」といった言葉が飛び交い、新しくあるためだけに汲々とした挙句消耗することが多くなり、次第に“新奇性”を“差別化”や“差異化”に求めるようになっていった。

そして、「もっと」の時代、平成に突入していった。「もっと」は、徒に欲求を肥大化させる。比較する心を生む。妬みや嫉みを生み出す。素直な驚きのあった昭和への郷愁をもたらす‥‥。

一方、田舎育ちの僕にとって、昭和に経験した「初めて」は都会育ちの人より数多く、かつインパクトも強かった。30代の頃、「Kakkyの“初めて”シリーズ」を話すと、驚き笑われることが多かった。かつて本ブログに書いた、お袋の「絵が出るラジオができたらしいよ~」という言葉に象徴される“田舎者の驚き”は、どこかのどかで滑稽だ。

そんな「Kakkyの初めて物語」を、ちょくちょく書いていこうと思うが、その前に‥‥。

どんな田舎にでも「下には下がいる」の例を‥‥。僕の田舎に、子供たちの間で語り継がれていたお話。

「初めて海を見た兄弟」の話。

山奥に生まれ育った兄弟が、「お兄ちゃん、海を見てみたいよ~」という弟の言葉がきっかけで益田市まで出てきた。高津川の河口にまでたどり着いた時、弟が歓声を上げた。「海だ~~。お兄ちゃん、海だよ~~。広いね~~」。兄は、弟を慌てて引き寄せ、声を押し殺しながらたしなめた。「馬鹿!こんな所で驚いちゃ駄目だ!海はもっと広いんだぞ!この3倍位あるんだから、な!」。ーー「目くそ鼻くそ」の話である。

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ポコペンの不思議!?ーつづき

Kakkyの昭和おもしろ事件簿④ー2

駄菓子屋の主役、“ポコペン”の不思議と悲しい結末。ーつづき

とにかく、モデルガンが欲しかった。五年生の時、日活映画を観て夢中になった「ピストルの早撃ちごっこ」。みんなが安物のオモチャを腰にぶら下げ、宍戸錠や二谷英明を気取っている時に、一人だけ持っていたモデルガンの鈍い輝きと重量感が、頭に焼き付いて離れなかった。それが、暗い駄菓子屋の店先で、「僕を早く連れて行ってよ~。このままじゃ、埃まみれだよ~~」と、声を掛けてくるのだ。

僕は、小遣いを貯め始めた。プラスチック製の、家の形をした貯金箱に毎日、生唾を飲み込みながら。もちろん、毎日駄菓子屋の店先を覗き込み、同じ場所に座り込んでいるモデルガンの存在を確かめるのは忘れなかった。

そして、遂に機は熟した。暗算どおりなら(といっても、簡単。小遣いは毎日10円と決まっていた)充分の金額になっているはずだった。興奮に震える指先で貯金箱の家を分解し、中の10円玉を両方のポケットに分けて入れ、僕は家を飛び出した。

「久しぶりだねえ」。駄菓子屋のおばあちゃんの笑顔に、「うん」とだけ応えて、僕は店先の平台のガラスの蓋の上に、じゃらじゃらと10円玉を出した。「全部、ポコペンね!」。「え!」小さく驚きの声を上げたおばあちゃんが、10円玉を数え始めると、僕は身構えた。「モデルガン、持って行かれると思って驚いたのかな~~?」と漠然と思い、少し勝ち誇った気分だった。

「本当に、全部いいんかね?」。未練がましいおばあちゃんを、「うん!」と力強く制し、僕はポコペンを親指で開け始めた。「全部開けてええよ~」。諦めたような、力のないおばあちゃんの声が追ってくる。構うものか!モデルガンは、僕の方が持つにふさわしいのだ!

1つ、2つ、3つ、4、5、6、7、8、9、10‥‥。小当たりには出くわすが、大当たりには、なかなか出会えない。ちらりとおばあちゃんの方を見ると、奥に入ってしまっているようで、姿がない。後5つくらいで息をつき、ゆっくりと開けることにした。さあ、そろそろだ。

‥‥‥。最後の一つを虚しく開け終わり、僕はたまらず、おばあちゃんに問い詰めるようににじり寄った。「大当たり、ないよ~~~!」。おばあちゃんは、奥から身を乗り出しながら、さらりと答えた。「それには入ってなかったんじゃねえ」。

僕は、その日限りでポコペンを止めた。

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ポコペンの不思議!?

Kakkyの昭和おもしろ事件簿④ー1

駄菓子屋の主役、“ポコペン”の不思議と悲しい結末。

イラスト(どんなものかは、憶えていない)が描かれた大きな箱がミシン線で小さく区切られ、たくさんの小箱に分かれている。子どもたちは5円(だったと思う)を払い、その小箱を指で開ける。その時の、実際には聞こえない音を形容して、ポコペン。ポコペンは、そんな「当てもの」だった。

もちろん、ほとんどが外れ。グリコのおまけのような小さな景品を持って帰ることになるのだが、子どもたちの狙いは、当然“大当たり”。ポコペンの正面に威風堂々と飾られたモデルガンだった。“小当たり”もいくつか用意されていたような気がするが、眼中になかったので記憶にはない。

小学校六年生の時だった。米屋のはす向かいの駄菓子屋は、普通の民家の玄関先に平台を並べたような店。いかにも、おばあさんの生活費の足しになればいいといった商いだったが、その暗い店先には、常連の子どもたちの出入りが絶えなかった。僕もその一人だった。

最初に凝ったのは、“ねぶり籤”。紙製の籤を一枚引き抜き、ねぶる(舐める)もの。ほとんど、“スカ”という外れを示す片仮名が浮き出てきて終わり。なんだかあっけなく、次に凝ったのが“ニッキ”。赤や緑や青の毒々しい色に染められた紙だが、それを噛むと独特のシナモン味がする。紙の色がなくなるまで味わい、白くなった紙を吐き捨てる。チューイングガムの代用品のような代物だ。これが、一時大流行。授業中にもこっそり噛み、先生に「みんな口を開けてみろ!」と突然言われ、近づいてくる先生の形相に、開けずに頑張っている口をそっと開けるのをみんなが注視していると、口内が見事に緑や赤に染まっているのに出くわす、といった光景を何度か目撃した。無様に口を開けたまま先生の拳骨を頭頂部に受け、首をすくめる同級生の姿が忘れられない。

そして、ニッキの次に小遣いを投入し始めたのがポコペン。モデルガンの魅力と、開ける時の感触の楽しさに因るところが大きかったが、他に魅力的なものがなかったのも確かだった。僕も、“大当たり”を夢見て足繁く通った一人だが、いつも外れ。次第に、苛々が募り、小さな怒りさえ芽生え始めていた。で、一計を案じた。

ポコペン買占め作戦、である。

ーつづくー

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昭和30年代、第一次サッカーブーム

Kakkyの昭和おもしろ事件簿(あくまでも個人的なものです)③

第一次サッカーブーム‥‥“蓋サッカー”顛末記

昭和30年代前半、僕の中学校、島根県益田市立横田中学校でも、体育でサッカーの授業が始まった。しかし、その有様は、今から思うとすさまじいものだった。

両チーム合わせて20名の選手が我も我もとボールに集まり、まるで集団で一個のボールに蹴りを入れている状況。四方八方から蹴られてボールは身動きできず、選手の輪の中から外に出ることさえできないくらい。遠目には、大勢の子どもが輪になって、何か得体の知れない動物を苛めているように見えた。勢いあまってボールの反対側をこづいている足を蹴ってしまい、そのまま小競り合いになることも多く、先生の笛は、反則のためにあるというよりも、喧嘩の仲裁のためにあるようなものだった。

それでも、なぜかサッカーに燃える同級生は多かった。当初は、喧嘩好きと“スポーツミーハー”の2種類だったが、釜本、杉山、森の3選手が注目されるにしたがって、一般の生徒にも人気が拡大。ソフトボールに支配されていた昼休みの校庭に、ボールを囲む輪が見られるようになっていった。

そんな頃、学校で始まったのが“牛乳給食”。毎日一本の牛乳が、昼休みに入ると全員に配られるというもの。全員が弁当の横に牛乳ビンを置いた昼食の光景は、最初は異様に映ったが、やがて弁当をパンに替える者、僕もそうだったが、親にお金を渡され、学校の購買(簡易校内売店)でパンを買ってお昼ご飯にする者が現れるようになり、牛乳ビンの存在の違和感も失せていった。

国内で大量に生産される小麦の輸出先に日本を育てるべく、小麦製品すなわちパンを食べる習慣を日本人の食生活に定着させようとする、アメリカの占領政策の一環だと知ったのは随分と後のことだが、学校の机の上に牛乳とパンのある風景は、「なんか、アメリカみたいじゃのお」と目を輝かせた友達がいたくらい、僕たちの多くは、文化的な進歩のように、純朴に受け取っていた。

その牛乳が、横田中学校のサッカー事情も変えた。校庭ではどうしても肩身の狭いサッカー派が、校内に目を付けたのだ。

サッカーボールの代わりとして注目されたのが、牛乳ビンの蓋。廊下にチョークでゴールを描き、そこに蓋を蹴り込んだら勝ち、という簡単なルール。足を使ったホッケーと言った方がいいのだろうが、ホッケーというスポーツの存在を知る者など、ほとんどいない。いつの間にか、お昼休みに「サッカーやるか~」というのは、“蓋サッカー”を始める合図となっていた。

しばらく経ったお昼休み。蓋を真ん中にぐちゃぐちゃとつま先をぶつけ合っているところに、連日の騒ぎに堪忍袋の緒を切らせた教師が駆けてきた。「コラ~~~!」。尾を引く怒声に、サッカー選手たちは、さっと廊下の壁に貼りついた。教師は、まっすぐ一人のせいに向かい、その前に仁王立ちになった。「何やってんだ~~!お前は~~!」。みんな、微妙に頭を垂れた。一瞬の静寂が訪れた。教師に睨み付けられた友達が、顔を上げた。「し、し、審判」。か細い声だった。しばらく我慢したが、僕は吹き出した。何人かが、一気に吹き出した。教師の怒りは、一気に増した。鈍い音がした。審判は、頭に拳骨を食らったようだった。

教師が去った後、涙ぐんでいる審判を見て、改めて大笑いした。その時、わかった。笛を持たない審判は、小競り合いの仲裁のために、いつも大声を張り上げていた。その声が、教師には最も耳障りだったのだろう。

やがて、“蓋サッカー”のブームは去った。審判は、ずっと審判だった。きっと好きだったのだろう。

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健康優良児!!

Kakkyの昭和おもしろ事件簿ー③

昭和35年。小学校6年生を迎える春。僕は、それから四年間を過ごすことになる、島根県益田市横田町に引っ越した。島根県浜田市に生まれて以来、五回目の引越しだった。

引越し慣れした三人家族の荷物は、少ない。長屋のような作りの借家の押入れに布団袋と柳行李を放り込み、箪笥、水屋(茶箪笥)、鏡台、机の配置を三時間程度で決めると、僕はもうお役御免になった。早速往来へと飛び出した。滅多にない引越しを遠巻きに見ていた小さな子どもたちが、危険な動物に遭遇したかのように、一瞬身を寄せ合い、またゆっくり広がっていった。右手の、堤防へと続く坂道が曲がって向かっているのはどこだろう、としばし思案した後、左に首を転じると、町の体を成している家並みが整然と連なっているのが見えた。駄菓子屋も発見。その2~3件向こうには、パーマ屋らしき看板。本を売っている店先も遠くに見える。心が浮き立った。そして、その奥から、小さな不安も浮き上がってきた。‥‥今回の転校は、油断ならないかもしれない‥‥。

登校初日。しかし僕の不安は、朝のうちに弾けるように消えた。近所に多い同級生たちをそこはかとなくまとめているように見える一人の少年が、人見知りの僕を仲間にいざない、気を配りつつ、学校までまるで引率するかのように、連れて行ってくれたからだ。“昭和のガキ大将”、米屋のテッチャンだった。豊田小学校までは、普通に歩けば約15分。それを遊びながら二倍くらいの時間をかけて行った。校門を入ると、左手に講堂(兼体育館)、正面に平屋の校舎、右手に少し新しい二階建ての校舎が建っていた。6年生の二クラスは、その二階に並んでいた。一階の二クラスは五年生だったと思う。

数人で登校してきた僕は職員室に行き、先生と一緒に教室に向かった。転校生のルールには、もう慣れている。教室に入ると、すぐに紹介される。名前だけを名乗り、挨拶をして、先生の指し示す席に好奇の視線を浴びながら移動し、そこにランドセルを置き、顔を上げると顔の反転が遅れたあるいは遅らせた2~3人と視線がぶつかる。かなり、危険な一瞬だ。さりげなく目を逸らし‥‥、と思ったら、勝手が違った。

まったく前が見えないのだ。目の前にあるのは、大きな学生服の壁‥‥。それが、同級生の背中だと理解するのには、数秒を要した。その壁、いや背中は、やや緊張しているように感じた。僕は、「せんせ~い。せんせ~い!」と、身体を大きく左右に倒しながら、手を上げた。「おう!誰だ?どこだ?」と返事は聞こえるが、姿が見えない。思いっきり身体を倒し、やっと見つけてもらった。

「そうか~。三浦の後ろじゃあ、前が見えんわのお」と、先生は笑い、多くの視線が集まった後、女の子たちの抑えた笑い声が響いた。

その頃、僕は身長130cm台。三浦君は、島根県の健康優良児として表彰された子だと、その日のお昼休みに聞いた。170cm。60㎏台だった。

席を替えてもらえたのは言うまでもない。ただ、なぜかちょっぴり残念だった。

三浦君とは、いい友達になった。

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駄菓子屋のおばあちゃん

Kakkyの、昭和事件簿。

古本屋は、おじいちゃん。駄菓子屋は、おばあちゃん。田舎の町にも必ずあった、二つの子どもたちの行きつけの店は、店番の人が決まっていた。古本屋でおばあちゃんに会ったことはなく、駄菓子屋でおじいちゃんから買ったことも、僕はない。

●駄菓子屋のおばあちゃん(の指先)事件

小学校5年生。島根県益田市鎌手小学校に通っていた時代。お袋の実家は、広大な敷地に建つ、築100年以上にはなるというお屋敷。その横に貼りつくように建っていた離れで、僕たち家族三人は、鶏数羽と暮らしていた。山陰本線の線路まで続く家の脇の小道を逆に歩くと国道9号線。出た角に、駄菓子屋があった。冬は水仙、夏はさざえ、とちょっと小遣いを稼いだりしながら、ほぼ毎日僕は、その駄菓子屋に通っていた。

たまにトラックが通ると、舗装されていない国道からは土埃が立ち上り、駄菓子屋の中にも舞い込んだ。木枠に板ガラスを嵌め込んだケースとアルミの蓋付きのガラスのボックスが並んだ店内の奥に、平然とおばあちゃんはいた。

夏の日だった。バスの土埃が治まるのを待って、声を掛けた。「こんにちは~~~!」。「はぁ~い」。少しだけ腰の曲がったおばあちゃんが、上目遣いで微笑みかけてくる。「五厘玉くださ~い」。一個五円の大粒の飴玉のことを、なぜか僕たちは“五厘玉”と教えられていた。昔は、五厘で売られていたのだろうか。アルミの蓋付きのガラスボックスは、その大きな飴玉や煎餅のためのものだった。

「どれがいい?」。おばあちゃんがボックスを指差す。「え~と、その青いの~」と、僕。蓋を開けて一個つまむおばあちゃん。「あ!ごめん。赤いのにして!」と、変更。「こっちのかね」。と言いつつ、嫌な顔一つせずに青い飴玉を元に戻すおばあちゃん。

そして、‥‥。僕は目を疑った。‥‥。おばあちゃんは、赤い飴玉の入ったボックスの蓋を開けると、右手の親指と人差し指を交互に丁寧に舐めて、一個つまみ出したのだ。店内にぶら下げてある新聞紙の切れ端をひょいと破りとって、その上に赤い五厘玉を乗せて「はい」と差し出されても、すぐには受け取れなかった。心なしか、赤い五厘玉は、新聞紙に粘りついてるように見えた。僕は急いで持ち帰り、洗ってから口にした。

それから以降、僕が観察している限り、おばあちゃんはいつも指先を舐めてから飴を取り出し、新聞紙に置いた後もきれいに2本の指先を舐めていた。不思議なことに、僕はいつの間にか、洗わずに食べるようになっていた。

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Kakkyの昭和おもしろ事件簿②

Kakkyの昭和おもしろ事件簿

*前回の“遠足バナナ事件”。以前友人に話した時、「お母さんが、切手おいてあげればいいのに~」という感想があった。そのことに関連して、いくつか思い出すことがあった。当時、沢庵は各家庭で作っていたが、僕の家は、いただいていた。小学生の記憶でも、沢庵は今より細かった。大根の収穫を楽しくお手伝いしたこともあるが、農法の違いか、種類の違いか、やはり今より小ぶりだったように思う。切らずに丸齧りする沢庵の食べ方。僕は好きだった。切った沢庵をお皿に盛り、それを口にしながらお茶を飲む、という姿が老人のイメージだったからかもしれない。

●肥えつぼ転落事件

小学校3年生の晩秋だったと思う。秋晴れの日が続いていた。稲刈りが終わった田圃は、絶好の遊び場だ。学校では、教師が時々注意を促していた。「肥えつぼに落ちないように気を付けるんだ~~」。畦道沿い所々に、肥えつぼがあるのは田舎の常識。大切な肥料として各農家の排泄物は、そこで熟成される。ECOつぼである。好天が続くと、何がそうなっていくのか、肥えつぼの表面は白く固まってくる。まるで、大きな白い煎餅がぽっかり浮いているようだ。

遊び道具に乏しい沢谷の子どもの一人が、その巨大煎餅を目にして危険な遊びを思いついた。その煎餅の上を走り抜けよう、というのである。確かに硬そうで、一歩だけ瞬時に踏みつけて通り越すのであれば、大丈夫だとも思える。しかも、その頃はちょっとした忍者ブーム。右足が沈む前に左足を出し左足が沈む前に右足を出せば、水の上だって歩ける、ということを真顔で熱く語る子どもがいたくらいだった。「やろう、やろう!」と、あっという間にまとまった。

ところが、子どもは5~6名。縦に並んで、順に跳んでいくことになる。さすがに、列の後ろになるのは不安だ。で、じゃんけんをした。僕は、真ん中辺りだった。嫌だったが、最後尾の友達の不安そうな顔を見ると、なぜか安心した。

始まった。確かに、硬い。しかし、足がぴょんと乗るたびに、ちょっと嫌な音もする。僕は、自分の順番が来たとき、できるだけ踏みつける時に体重を乗せないように意識した。そんなことできるわけなかた。メリ!っと裂けていく音がした。無事わたって振り向くと、次の子の強張った表情が目に入った。しかし、彼も無事だった。そして、最後尾。みんなが無事だったせいか、安心にちょっと頬を緩ませながら、彼はスタートした。トンと、巨大煎餅を踏んだ瞬間、それは割れた。「なぜ~~?」といった不思議な表情を見せて、彼は落ちた。みんな遠巻きになった。なんとか抜け出した彼は、川の方へと走っていった。

後日、「あの中って、温かいよ~~」と、落ちた子から聞いた。その時も、聞いたみんなは一歩飛び下がった。

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Kakkyの昭和おもしろ事件簿

僕(Kakky)は、田舎者である。島根県という、日本で一番場所がわかりにくい県(ハナワ、がばいばあちゃん以前は、佐賀県の後塵を拝していたのに‥‥)で生まれ育ち、京都、東京と上ってきた、お上りさんである。だから、「初めて」をたくさん経験してきた。

昭和が注目されているのは、昭和という田舎(時空を越えた、それぞれの心の故郷)への郷愁であろう。具体的に場所として田舎を持っている田舎者にとっては、昭和は郷愁だけでは語れない、ちょっと痛い思い出もある時代。ただ、さすがに時間が経つと、痛みは薄れ、妙に笑いだけが残る。

そんな僕(Kakky)の「昭和おもしろ事件簿」を、しばし綴ってみよう。

●遠足“バナナ”事件

昭和33年、小学校3年生の春のことである。島根県邑智郡沢谷の沢谷小学校という、中国山地の奥深い山間の小学校に、僕はいた。団塊世代だというのに、クラスは一つ。中学校は、分校だった。その春、遠足を前にして、ガリ版紙が配布された。PTAと協議した結果の通達だった。遠足に持参してはいけない物リストだった。貧しいのが普通の村だったが、ごくわずかの裕福な家庭の存在を気にしてのことだった。“平等”が金科玉条のように叫ばれた時代。平等は、頭を出す存在を抑えることでもたらされる、という安易な考えが、そこにはあった。

禁止になった物で、みんなが「そんな物持ってくる奴、おるんか~?」と話題にしたのが、チョコレートとバナナ。いずれも、口にした経験を思い出話で語る権利があればいい方だ、という代物。生活保護を受けながらパチンコ屋に入り浸り教え子の店員にこっそり玉を出してもらっていた親父の横で、背伸びして玉を弾き、出るとウィスキーボンボンを食べるのを楽しみにしていたことなど、とても友達に話すことはできなかった。明治の板チョコは、いつも垂涎の的。駄菓子屋の棚、子どもたちの手の届かないところで宝物のように輝いて見えた。

遠足の当日、入梅前の好天。時折、牛が草を食んでいるのを見かける小高い丘まで、にぎやかに歩いていった。「牛のうんこに気をつけて!」と注意しながら、早速お弁当。三人で車座になり、おにぎり、いなり寿司、玉子焼き、ソーセージがきれいに並んでいる弁当箱を開けた。みんな似たような内容の弁当だった。澄んだ空気。穏やかな日差し‥‥。おにぎりを一段とおいしく感じた。満足そうな顔が並んでいた。平等に、平和だった。

ところが、突然一人のおにぎりを口に運ぶ手が止まった。「誰か、ほら、向こうで、バナナ食べてる!」。上ずった声だった。車座になった三人は、一斉に一人が指差さした方向を見た。谷へと急傾斜で下っていく際の辺りに、一人佇んでいるのが見えた。少し距離がある。目を凝らすと、確かにその手にはバナナが握られている。やがて、それが口に運ばれていく。「禁止なのに!」。一人が呻く。と、三人は一斉に立ち上がっていた。奴を懲らしめよう、という連帯感が生まれていた。走り始めた。僕は、殴りかかってやろうと、こぶしを握り締めた。

全速力だった。彼がずんずん近くなった。と、ある距離で、三人の足は急激に止まった。ほとんど同時に気付いたからだった。彼が握っていたのは、沢庵だったのだ。三人とも無言で、静かに自分の弁当に戻った。やけに照れくさかった。

それから後のことは、まったく記憶にない。

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