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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ③…の7

2階へ、3階4階へと上がっていく。エスカレーターはない。2階にはスチール本棚があり、曲がりなりにも“資料館”であろうとしている痕跡があったが、3階4階にはもう何もない。「ここ、上海市所有のビルなんですか?」とママに訊いた。答えは「賃貸」。(そうか。立地がいいのですぐ借り手が現れると考えたんだな。又貸し狙いの投機なんだろうな。上海市当局の総意と言うより、有力者個人、あるいは有力者グループの案件なんだろうなあ。だとすると、その一角にママの父親かママ本人が関係しているのかもしれない。“資料館”の女性スタッフとのやり取りからは、彼女が政治権力に極めて近い存在であることが窺い知れるが……)などと推察しつつ、5階に上がった。

他の階と同じ100坪以上はあるだだっ広いフロアだが、4階までと違うのはコンクリート打ちっぱなしの状態のままだということ。4階まではそれなりに手を加えたが、5階にまで至ってやる気がなくなったのか、お金がもったいなくなったのか、最初はあった“当て”が外れたのか、理由はよくわからないが、フロアの隅っこの方には掃除道具などがひとかたまりでほったらかしになっていた。

「現場はここですか?」と訊くと、「そう」ということだったので、「西ヤン、とりあえず採寸してくれる?俺、レイアウトどうするか考えるから」と声を掛け、フロア内を移動しながら、どんな和食レストランにしようかと考え始めた。西ヤンは「図面ないの?」「建築図面はあるはずだけど」などと、しばらくはママに食い下がっていたが、諦めて採寸を始めた。

約10分後、西ヤンのノートに手書きの平面図ができあがったので、それとフロアを見比べながら、大雑把なイメージを伝えた。

入口の場所を決め、そこに立って全体を見渡す。客のメインの基本動線をセンターにしたい、“路地風に個室を配置したい”からこの辺りに少しだけ曲がりくねった動線を作りたい、入口から正面に見える窓の手前はバーにしたい、窓の位置が高いので一段ステップアップさせたい、するとバーの客の背中が丸見えになるので布、紙、木といった和風の素材でシェードを作りたい、個室は4~5タイプにしたい、メニューによって個室を使い分けるというのはどうだろう等々……。思い付いたことやアイデアを、とりあえずバラバラと伝え、メモした西ヤンとフロア内を歩きながら、これは実現無理そうだね、これはできるかもしれないね、と話し合った。後は帰ってから図面を起こし、資料を探しながら決めよう。シーズン別メニュー構成はKapparにお願いして、スタッフ構成や経費計画はメニュー構成と関係があるので、Kapparの作業がひと段落した頃作成しよう。などと、今後の作業手順も大雑把に決めた。30分程度が経っていた。

すると、そんな僕たちを眺めていたママが「ちょっと上の階も見てよ。うまく使えるようだったら、使ってもらっていいから」と声を掛けてきた。「え?!2フロア?!」。西ヤンと僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。

「まあ、見てみてよ」。先に行くママに付いて6階へ。いきなり重々しい立派なドアがある。

「ここ、劇場なのよ」とママが開けると、ミニシアター!緞帳の下りた小さな舞台まである。後方には映写室もある。一体何を目的に作ったのだろう‥‥。

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Kappar、今日は小田原のグループホームに入居している両親の元へ、「もう1ヶ月近く顔出してないから」と、朝、出かけて行った。帰宅は午後4時頃の予定。佐助は朝から横でほとんど動かない。

                Kakky(柿本)

“1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―”は、NO.28をもって終了しました

*”昭和少年漂流記第三章”を、書き始めています。が!書き直しの連続で進んでいません。6月上旬頃連載開始予定ですが……。

「告知」:番外編として、タイトル「風に揺れる蛹」の連載を開始しています。

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ③…の6

一つ間違いに気付いたので、まず訂正を。

物件は、“上海市図書館”ではなく、“上海市資料館”。……今もあるのだろうか?

 

よく眠った。バーボンだけを空っぽにして、スコッチは確保。前夜コンビニで買ったつまみの残りを朝ごはん代わりにして、連絡を待った。11時30分頃だったか、フロントからコンサル君の電話。すぐに駆け下りる。と、コンサル君が一人で待っていた。

ホテルの前から右を向くと、高いビルの合間から広い通り越しに堤防が見え、その向こう岸にも高層ビルが並んでいる。ホテルはバンド地区にあったのだ。であれば、現場も近い。運転手の兄貴がいないのも頷ける。

「ランチにしましょう」。コンサル君、そう言うが速いか、さっさと前を行く。すぐ川岸の広い通りに出る。中山路(?)だろうな、と思う。左手のビルにはフランスの有名ブランド(名前は失念した)の看板。ウィンドーは少し雑。商品の入れ替えでもしているのだろうか。コンサル君に従いそのビルの中へ。エレベーターで最上階(?)に上がると、オープンテラス付きのレストラン。オープン間もない風情だ。席についている客のほとんどは白人。フランス語と英語が飛び交っている。20世前半の租界に入り込んだ気分だ。木製のテーブルに着きメニューを開いた時、ママがやって来た。我々はスパゲティとグラスワイン。ママとコンサル君は、中華っぽいメニューをがっつり食べ、1時前に出た。

現地までは徒歩1分。現地“上海市資料館”の前で、バンド地区の景色を眺めながら大まかな街の成り立ちとビルの概要を聞く。表から見る限り、立地としては申し分ない。問題があるとすれば、川に向かって開放的ではないこと。ベランダやテラスはなく、窓も小さい。当該フロアである5階に上がってみて、“上海市資料館”の責任者とレストラン事業担当者(がいれば…)と、改装工事の可能性も含めて話をしてみるしかないだろう。「西嶋さん、行きましょう」。ママが西ヤンに声を掛け、いよいよ中へ。

すると、意外なことにガラス張りの入り口扉が開かない。ママが携帯を取り出し、何やら大声で怒鳴る。しばらく、待つ。開かない。ママは、またぞろ携帯を取り出し大声で怒鳴り始める。と、その瞬間ドアが内から開き、若い女性が顔を出してきた。昨晩見たのと同じ無表情。ママとコンサル君が代わる代わるあれこれ言っても、一言も返してこない。ママが日本語で言うと「も~~~~!」とでもいうような声を発して振り向いた。

「ごめんね。責任者なのにねえ、まったく。行きましょ!」。怒った顔がゆっくり笑顔に変わったママの先導で1階へ。広い!「西ヤン、100坪はありそうだね」「うん。いや?もっとかも……」「採寸できるよね」「そのつもりだけど、図面ないのかなあ。さっきの子に聞いてみようか」「うん。……あの子じゃ役に立たないだろうなあ……」。辺りを見回しながら、言葉を交わす。正面の壁に大型のスチールの本棚があり、中に大振りの資料のようにも見える書物らしきものパラパラと入っている。「“資料館”という名前の言い訳みたいだね」「他の階もこんなものなのかなあ」。新築のビルの匂いに、もう古びたビルの埃の匂いが混ざっている。果たして、上の方に事務所でもあって責任者らしき者でもいるのだろうか……。

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毎日、夕方の散歩の時は、佐助は路上で“臍天”をするらしい。決まって帰り道。場所は気にせず、どこであろうとも。楽しんでいるとしか思えない。今日も、今頃きっと……。

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こんなイラストを見つけた。

                 Kakky(柿本)

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ③…の5

ここまで書いてきて一つ間違いに気付いたので、まず訂正を。

物件は、“上海市図書館”ではなく、“上海市資料館”。……今もあるのだろうか?

 

肩を寄せ合って座っていると、「いらっしゃいませ~~」とドアが開いた。4人の若い女性がそれぞれトレーを持ってにこやかに入ってくる。コンサル君の隣に座った女性がリーダー(チーママ?)格、僕と西ヤンそれぞれの隣と間に各一人が座る。すかさず、コンサル君が居丈高にあれこれ指示を出す。このコンサル君、ビジネスよりも接待の方が慣れているようだ。トレーに載せてあったオールドで水割り。コンサル君が、「お酒、なんでも言ってくださいよ」と言うので、「いや、オールドでいいですよ」と答えると、「いやいや、何でもありますから」と言った後、隣のチーママに早口で命令。チーママはピョンと立ち上がり、急いで出て行った。僕たちは、日本語も英語も話せない女性に挟まれ、どうしていいものやら、彼女たちに意味もなく笑顔を向けてはただ濃い水割りを口に運んでいた。コンサル君は一切飲まず、女性たちに時々厳しい目を向けては、何やら短い命令をする。すると、「どこから来た?」「日本」「日本どこ?」「東京」などと言葉を交わし、また沈黙。

5~6分後、チーママ再登場。トレーの上には、バーボン、スコッチ、焼酎のボトルが……。「どれでもいいですよ。何か他のものがよければ…」とコンサル君。「いえ、いえ」と言いながら、バーボンを選ぶ。が、他のボトルもそのまま僕たちの前に並べられる。僕は「いいから、いいから」と女性たちの手を払い、二人分のロックを作った。それから、話も盛り上がらないまま、飲んではタバコ、飲んではタバコを繰り返していると、コンサル君が顎をしゃくった。

「歌いましょう」。女性3人がバタバタとマイクやカラオケ本などを用意する。が、歌を歌う気分ではない。西ヤンとマイクを押し付け合っては飲んで、タバコを吸って……してると、コンサル君が軽く手を払った。女の子3人はそれを合図に、すっと立ち上がる。僕たちが気に入っていないと判断したのか、入れ替えるつもりのようだ。チーママも一緒に出て行き、すぐに5人を引き連れて戻ってきた。5人が目の前に整列する。全員無表情だ。「いいのを選んでください」。僕たちへのコンサル君の言葉に、怒りが込み上げる。西ヤンを見ると、険しい目をコンサル君に向けている。

気に入らないと採ったのか、コンサル君は手を払った。5人は整列して出て行く。するとすぐに、また5人。「日本語できるのはいるか?」とコンサル君。5人は無表情のまま、首を横に振った。コンサル君、舌打ちをして手を払う。また5人は、出て行く。ドアが閉まると同時に、西ヤンが堪りかねたように「持って帰ろうか?」と僕を横目で見た。僕は、「バーボンでいい?」と小声で言って、ジャックダニエルを指さした。コンサル君、勘違いしたのか、「今、日本語喋れるのが呼びますから、好きなのを持って帰ってくださいよ」と言う。西ヤンはその言葉が聞こえないふりで、「僕たちホテルで飲みたいんで、お酒もらいたいんですよ。な、柿ヤン」とジャックダニエルを、手にした。そこに次の5人がやってきた。僕たちは同時に立ち上がり、「ごめんなさい。用事があるんで帰ります」と言った。5人の中に日本語ができる女の子はいないようだった。

それから無言のまま、僕たちはコンサル君に呼んでもらったタクシーに乗ってホテルへ帰った。そして、西ヤンがコンビニで買ってきた駄菓子をつまみに二人で飲んだ。ほっとした。が、翌日の現場調査が心配だった。

……つづく

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昨日のナナじいちゃん弁当。じんわりと夏が入り込み始めている。

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今日は打ち合わせでお出かけのKapparは、すっかり夏仕様。

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見送った佐助もダラリと夏仕様だった。
                 Kakky(柿本)

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ③…の4

それぞれの部屋で一息つき、午後7時、兄貴分男とフロントで落ち合った。弟分はもういない。車に乗ると、新しい大きなレストランに連れて行かれた。彼とはそこでお別れ。案内嬢に先導され店内に入る。奥が深い。巨大なオープンキッチン(ガラス張り)を横目に、予約席へと向かう。足元もガラス張りで、その下には小川のように水が流れている。渋谷でそのようなレストランに行ったことがあったが、さて、どちらが先に考えたことなのか。広い客席スペースに入ると、主に家族連れで満席状態。その間を抜け、奥にある“特別席風”のエリアに通される。「こっちよ~~」。ママが立ち上がり、にこやかに手招きする。その横にコンサルの男。4人での会食らしい。

ビール(日本のビールから選べた)で乾杯。料理が次々と運ばれてくる。物件の話や日本食レストランの話は出てこない。能弁なはずのコンサルの男もママへの気遣い丸出しで口数が少ない。「明日の午後、現地に案内するからね」との一言だけで、あとはママの日本の思い出話。西ヤンと店が終わった後に寿司を食べた話などを楽しそうに語るのだが、西ヤンの方は「そんなことあった?……あ、思い出した。おいしかったね」といった程度の反応。料理に気を取られていたのか、仕事のことが気になるのか、曖昧に微笑みながら生返事を繰り返していた。そんなこんなで8時半頃には食事終了。ママが「じゃ、明日。また迎えに行かせるから」と言い残して帰ると、コンサル君が「後は任されてますから」と、我々を次の店へと連れ出した。

レストランを出ると、夜の繁華街。大きな店が立ち並んでいる。「上海の夜の中心地ですよ。あそこが○○、あっちが××」と早口で自慢そうに説明されるが、ちっとも興味は湧いてこない。どこか浮ついた空虚な匂いがする。「あれ、ディスコ?」。西ヤンが突然広い道路の向かい側を指さした。ネオンの英語の看板が大きい。店名の上にDiscoとある。チラリと目をやったコンサル君、「ディスコということになってる売春の店ですよ」と苦々し気に言う。「へえ。そうなんだ」と僕が言うと、「警官が定期的に顔を出すことになってるんで、その時は完全にディスコになるんです。顔を出す役割は警官の持ち回りで……いい収入源みたいでね」「なるほど!顔を出す景観だけじゃないんでしょ?副収入があるのは」「もちろんです。あ、ここです」

言われて立ち止まったのが、高級ホテルのようなエントランス。階段を上がり、中に入ってからも大きな螺旋階段を上がっていく。途中で階段を降りて来る日本人のビジネスマンらしき二人とすれ違う。2階に着くと、まっすぐ伸びる広い廊下の左右に扉がある。「大袈裟なカラオケだねえ」と西ヤンに言い、西ヤンが「そうなのかなあ」と振り返った瞬間、「こちらです」とコンサル君がドアを開けた。中央に大きな長テーブル。奥には大画面のカラオケセット。最新鋭のもののように見える。長テーブルで向かい合ってもゆとりのあるスペース。両サイドで合わせて14~5人はゆったり座れるだろう。

まずは、コンサル君が常連の親父のように一方の奥に陣取り、「どうぞ、どうぞ」とおおように我々をいざなった。僕たちはコンサル君の向かい側を奥へと進み、“お上りさん”のように肩を寄せ合って、フカフカのロングソファに座った。妙にケツのおさまりが悪かった。

……つづく

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今朝の登校時間。いつもより明るく大きな声が道路から響いてきた。突然の歓声が上がり、佐助が少しビビったので「今日は運動会だってさ」と教えてあげた。

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テラスに出て道路を見ると、立ち止まり楽しそうに話す小学生たちの反対側を、弁当がはいっているものと思われるバッグを持った若いお父さんが歩いて行くのが見えた。ご苦労さま~~。楽しんでね~~~。

                 Kakky(柿本)

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ③…の3

200?年(上海トランスラピッド開通後だったので、2004年だったか?)の暮れ、僕たちはとりあえず自費で、上海浦東国際空港へ向かった。二人とも初めての中国だった。

空港では、二人の名前が書かれたボードを持った30代後半(?)の男と若い男が待っていた。兄貴分が運転手、弟分が荷物係のようだったが、我々は二人ともショルダーバッグだけだったので、兄貴分は弟分に何やら不愉快そうにまくし立てていた。「きっと、バイトで雇ってしまったことを悔やんで、バイトに当たり散らしてるんじゃない?」。彼らに気付かれないように西ヤンに耳打ちした。西ヤンはにやりとしながら「そうみたいだね」と言った。

クルマに案内され、高速道路で上海中心部に向かった。すぐ真横を上海トランスラピッドのリニアモーターカー(マグレブ)が高速で追い抜いていく。後部座席で僕たちは、「あれに乗っても良かったね」「怖くない?中国だよ」「まだ事故ってないみたいだよ」「じゃ、そろそろかもしれないじゃない」などと小声で話しながら窓外を眺めていた。開発途上の田園地帯が広がり、オレンジっぽい木造と思われる2階建ての民家の一群もしばしば目に入ってきた。「この辺りは水田が多いね。稲作農家の人たちが、国策の区画整理で、同じような家にまとめて入れられたんだよ、きっと。農家の人たちの生活はどうなんだろうね~~」「あれがマンションだったらシンガポールと同じだね」などと話したりして、やがて変わり映えのしない景色にも飽きた4~50分後、高速を降りた。時間は午後3時過ぎだったか。新しいマンションがやたらと目につく。建設中の物件も多い。少しは英語がわかるらしい運転手に、「平均的な広さは?」「価格は?」「間取りは?」「どんな人が買うの?」などと、次々と質問をしてみた。すると、移動しながら「この辺は高いよ」「このマンションは1億円以上だよ。もう全部売れたけどね」と不動産屋のように教えてくれた。

やがて、同じ景色を2度見ていることに気付く。「西ヤン、そこのマンションさっきも見たよねえ。道、間違えてるんじゃないかなあ」「若い衆に大声出してたけど、あの時間違えたのかなあ。でも、地図を見てもいないしなあ」「運ちゃん。ちょっと無口になってるし」と疑っていると、それを察したのか、兄貴分が後ろを向き、「あと少しだからね~~」と言った。

が、あと少しではなかった。それから1時間近く市内をうろうろと走り回った。壊した建物のものと思われるレンガの山に何度も遭遇した。荷物満載の荷車が道路を平然と横断していくのも目撃した。守られない信号やクラクションの騒音にも次第に慣れた。公園の入り口と思しきコンクリート壁に背中をもたせ語り合う数組のカップルを見かけた時、運転手が教えてくれた。「一緒に住むところがないから、外で会ってるんだ。みんな地方出身者だ。結婚しても89外で会ってる人も多いよ」「仕事は?」「ほら、小さい屋台が道端にいっぱいあるだろ?大体あんな仕事だよ。儲からないけどね。あなたたち、食べない方がいいよ」。

信号待ちしている時に小型犬を連れている女性を見かけた。「あ、ペット連れてる」と言うと、「流行ってるよ。住民登録しなくちゃいけないんだ。税金も取られるよ」「ペットは住民扱いなんだ」……興味は尽きず、兄貴分との会話にも慣れたが、一向にホテルに着かない。街にはもはや夜が訪れようとしている。すると、路面電車の駅の近くに突然クルマが止まった。小型の新しいホテルの前だった。2~3軒先にコンビニも見える。

迷ったこと、遅れたことの謝罪があるかと思ったが、そのようなことは一切なく「7時、ここね」とホテルの玄関先を指さして、兄貴分と弟分は去って行った。チェックインの時、時計を見ると、6時を回っていた。随分と遅れたものだが、おもしろい市内観光をしたことにして、僕たちはそれぞれの部屋に入っていったのだった。

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キッチンのKapparの手元に興味津々の眼差しを向ける佐助。窓の外を見る西ヤンの眼差しも同様だった。僕もきっと……。

                 Kakky(柿本)

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ③…の2

Kapparの感想は、「共産党幹部と人民解放軍幹部の家族は特権階級だし色々な利権を持っているから、そのママがその筋の人だったら、あながち嘘ではないと思うけど、経営するのが誰か決まっていないのだとすれば、見切り発車のような話かもしれない」というものだった。まさにその通りだと思った。

西ヤンにそのことを伝えると、彼とママの間の話が少し進み、中国サイドにビジネス・コンサルタントが付いていて、彼が日本で日本レストランの経営候補の企業をリストアップしている、ということだった。彼に接触させるから、現在の進捗状況を確認し、アドバイスやサポートをしてやってほしいとも言われ、西ヤンは承諾した。

後日、その男が事務所にやって来た。本人の言によると、一橋大学に留学し経済学を学び、今は上海でマーケティング・コンサルタント会社を経営していて、日本企業の中国とのビジネスの仲介や・サポートを行うと同時に、中国の案件に興味のある日本企業を探しビジネス・パートナーとして中国サイドに紹介する仕事も行っている、ということだった。

日本語が堪能で自信に溢れた顔つきと話しっぷり、マーケティング用語をちりばめた話の内容は、やや胡散臭さも感じたが、そう無茶なことを言っているわけでもない。信用に値する男とは思えないが、いかにも中国人らしいビジネスマンであることは間違いない。発注者であるママとの契約関係に嘘はなさそうだし、しばらく付き合ってみようか、ということになった。12月に入った頃のことだった。

そして、数日後、突然やって来た彼から、具体的な依頼があった。「年内に上海に来てくれないか。現地を案内するので、その後打ち合わせをして、早急に店舗プラン、事業計画の立案へと持って行きたい。旅費とホテル代は負担する。現地での行動も完全にフォローする。ギャラは仕事を進めながら、役割分担を明らかにしていく過程で決めたい。とにかく急いで来て欲しい」と言う。物件に競合が現れたのかな、利権の奪い合いでも始まったか、中国に経営候補が現れ、日本から連れてくるという彼の立場が脅かされているか、……と、いくつかの疑問や仮説が頭を過った。遠回しに確認しようとすると、素早く察した彼は、契約が揺るぎないものであること、物件の利用権も手中にあることを強調し、重ねて上海訪問を要請してきた。

彼が帰った後、西ヤンに電話した。「西ヤンとしては、この仕事を設計から施工管理までやりたい?前向きに考えてる?」と訊いた。西ヤンの気持ちに従おうと思っていた。「うん。柿ヤンと一緒にやれるといいな。大丈夫?」というのが答え。それで心は決まった。「クリスマス前に、上海に行こうか。行って現地を見て、打ち合わせをして、いろいろ確認して、いつまでにどこまで踏み込むか、決めようか。費用は出してくれるみたいだし」と言うと、「俺の方にも、アゴ・アシは保証するから来てくれないかって、ママから電話があった」ということ。少し嵌められたような感じもしなくはなかったが、このまま埒が開かない状態を続けるより行動しよう、ということにした。すぐに、中国サイドの希望するスケジュールを2~3種類出してもらうことにした。

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昨日のナナじいちゃん弁当。我が家では、ワン友のノアちゃんママと一緒3人で、ワイワイ晩御飯を楽しんだ。

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ③…の1

その3.上海市日本料理店事件

最も深く関わった案件。脳出血を発症する5年ばかり前のことだったと思う。

すべては、上海市図書館のワンフロア―を日本料理店にしたい、という依頼があったことから始まった。

長い友人の建築士N(西やん)は、新潟県出身の2歳年上。真面目でお人よしな飲兵衛で、初対面の日、昼飯から翌明け方まで一緒に飲んで意気投合して以来15年以上の付き合いだった。

依頼主は西ヤンの友人、中国人の女性。池袋で中国からの所謂留学生の女性たちを従業員とする大きなクラブのママ(経営者)だった。西ヤンの5~6歳年上の彼女は、楽しい飲み方でクリーンな西ヤンが特別気に入っていたようで、携帯で呼び出されて駆け付けた2回とも、「お、来た来た~~!」と喜ぶ西ヤンの手には、ママ特製の“高麗人参入りバーボン”があった。「あ~~、アナタが“カキヤン”さんね。いつも名前聞いてるよ。これ、この人の健康考えて作った特製のバーボンよ。アナタもこれにしなさい」と言われて飲んだが、飲める代物ではない。西ヤンも「早く出よう!」と耳打ちしてくる。なんだ、ちゃんとした酒を飲みたいから呼び出したんだ、ママの好意(?)の不味いバーボンを断り切れなくて困っていたんだ、とわかり、30分程度で何とか連れ出した。そして、深夜から飲み直したのだった。

話は逸れたが、そんな西ヤンからの相談、そんなママからの依頼である。当然、当初は疑問だらけ。「まず、詳しく話を聞かせて」と答え、彼がやって来るのを待った。時は年の瀬、何かと忙しい時期だったが、焦っているようだった西ヤンは、翌日夜にやってきた。背景の一部は、明らかになった。

ママは約一年前、突然店を畳んで帰国。父親は人民解放軍の幹部だった人物らしく、父親絡みの様々な話を手伝っているのだという。今回の件もその一つ。

場所は、上海の一等地バンド(外灘)地区。映画“上海バンスキング”の舞台となった有名なバンドホテルもある湾岸エリア。さらなる再開発のために、日本が占領時に建てたビルをいくつか建て直し貸し出すことにした。一つはすぐ、フランスの有名ブランドが借り切ってくれた。それを“商機あり!”と見たのが、上海市。すぐに“私たちが借り切ります”と手を上げた。おそらく“又貸し”で利ザヤを稼ごうとしたのだろうが、借り手はすぐに現れず、止む無く“上海市図書館”ということにした。市が借りている意味付けが必要だったのだと思われる。

しかし、一等地の新しいビル、このままではいかにももったいない。そこで、人気急上昇中だった日本食のレストランでも出すか、ということになったようだ。

「経営は?」「……」「広さは?」「……」「他のフロアーには何が?」「……」「企画はどこまで?」「……」「予算はあるの?」「……」「渡航経費は出るの?」「……」………。

「なんじゃ、そりゃ、西ヤン。ママに聞いたの?」「う、うん。でも、答えてくれないんだもん。“とにかく頼む。一度来てくれ”としか言わないんだもん」「それ、西ヤンに来て欲しい、会いたい、ってだけじゃないの?」「ううん。それはない。ダメ?手伝ってくれない?」

さて、どうしたものか、と思った。が、相手は西ヤン、できる限り付き合ってあげたいとは思った。「明後日の夜、また会って話そうか」ということにして、事務所で飲んだ。

Kapparに相談した。彼女は、中国を一人で3カ月旅をした経験を持つ。そのために中国語も少し勉強。現地では筆談も交え様々な人と会話をするなど、中国の現状と中国人に関して確かな目と見方を持っていると思っていたからだ。 ……つづく

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一度友達になってしまうと、その記憶がきちんと残っているワンちゃんたち。その姿が見える前から匂いで“あ、ロジャーだ。ロジャーが来るぞ”とわかったらしい佐助。ロジャーも同じだったようで、うれしそうに顔を合わせていた。

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でも、今朝は、もう一匹、ジンジャーも。ジンジャーは、佐助には一時期“佐助命”くらいの状態だったが、他のワンちゃんたちには警戒心が強い。人懐っこく犬懐っこいロジャーにはそれが伝わらないようだったので、その場に一瞬緊張が走ったが、ジンジャーを制御することで事なきを得た。きっとそのうち、仲良くなれることだろう。

                 Kakky(柿本)

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焼き肉ランチ!

今日は、久しぶりの“外ランチ”。しかも“焼き肉ランチ”!思い出してみると、今の家に“職住一体化”を果たして丸7年、7回目の“焼き肉ランチ”だった。

場所は、徒歩4分の所にある“六花苑”。引っ越してきてすぐ見つけた焼き肉店で、当時は隠れた人気店のようだった。友人夫婦と一緒に行った時は、満席で待たされるほどで、次に行った時は予約をしておいたほどだった。予算は、アルコール込みで一人4~5000円だったように思う。が、その後なかなか機会がなく足が遠のいていた。

2年ほど前、散歩の途中に“ランチ”が始まったことを確認。「ランチに来てみようね」と楽しみにしていたが、それもなかなか実現するに至っていなかった。

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朝から“行こう!”と決めて実現した今日の“焼き肉ランチ”。カルビ・ランチが1000円強。上ミノを一皿追加して、瓶ビール一本含めて二人で3500円。贅沢な気分になれた1時間だった。おいしかった~~~~。

“垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態”の続きは次回に書きます。

                 Kakky(柿本)

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こんな“今”の積み重ね……

29歳でやむなく一人で事務所を構え(正確に言うと、事務所が“できていった”)、増えていく仕事に応じてスタッフが必要となってしまから1年、周りからも勧められ、遂に会社を設立することになった。気が進まなかった。自分には向いていないと思っていた。“経営”というものに自信もなく、“政治力”など欠片もないことも自覚していた。会社設立直後からずっと、社長として望ましい人を探し続けていたくらいだ。

“これは!”と思う人二人に社長就任をお願いしたが、いずれも丁重に断られた。自分が設立した会社であっても、生まれてしまえば別の生き物。いつまでも自分がコントロールできるとは限らない。経営者の器と、生まれた環境、育つ環境によって成長度合いは大きく変わる。

“4人の異なる分野のプロと、それぞれをサポートしつつ後を引き継ぐスタッフと、お金とスケジュールを管理する人、以上合わせて上限10名”の会社でありたい、と思っていた。自分の器の限界に応じた考え方だった。会社は、事業を行ったり金を儲けたりするための装置ではなく、いい仕事をするための装置だと考えていた。いい仕事にはお金が付いてくる(大量ではないかもしれないが…)、と信じていた(…信じていたかった?)。

そして、いい仕事をするための環境を提供し続けることこそ、設立者である僕の責務であると思っていた。そう思い続けていなければならない、と思っていた、と言った方が正しいかもしれない。

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土曜日のナナじいちゃん弁当。

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昨日、日曜日ののどかな光景。折角の、久しぶりのお休みだというのに(だからこそ?)掃除に精を出すKapparと我関せずの佐助。

“こんな今”を積み重ねていくことができる環境を、作ったり、提供したり、整えたりすることに、一体僕はどんな貢献ができているのだろうか?……などと思いつつも、「昼ビールでもする?」とのどかな気分に浸り続ける僕だった。……のん気だよねえ。
                 Kakky(柿本)

“1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―”は、NO.28をもって終了しました

*”昭和少年漂流記第三章”を、書き始めています。が!書き直しの連続で進んでいません。6月上旬頃連載開始予定ですが……。

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ②

前回の“その1”に続き……

その2.オリジナルパソコン事件

バリ島DFS事件から数年後、パソコンの世界がMacメインからDOS/V機主流へと大きく変わっていきつつあった頃。友人の一人が「MS-DOSのオリジナルマシーンを作る店を秋葉原に開きたい」と相談に現れた。Windows95が発売される少し前だったと記憶している。僕はその頃、MacユーザーだったがWindowsにも興味があったので、何かできることがあれば、と相談に乗った。

依頼されたのは、ショップ名、ショップ・ロゴ、店内什器とレイアウトのアドバイス、POP類のデザイン等々で、パソコンに関連することではなかったので、友人の起業時ということもあり、ほぼ無償で快く引き受けた。

順調なスタートだった。顧客の“使い方”ニーズに合わせたオリジナルパソコンは好評で、顧客が顧客を呼ぶという状況だった。売り上げが上がっていくに従い、国内のサプライヤーから部品を買い集めて組み立てる、という作業では追いつかなくなっていた。“店として”というよりも“企業として”の欲も出てきたようだった。台湾、中国にパーツを発注し最終組み立てをする、という省力化と量産化を彼は考え始めた。会社を大きく成長させたい、と思い始めていたようだった。純国産から半国産へのいきなりのシフト。それも中国への半依存……。不安は感じざるを得なかった。

その頃は、深圳が経済特区になってから10年以上が経っていた頃で、ファッション企業の生産拠点の中国移転には勢いがついているかのようだった。相談を受けると必ず反対していたが、仕入れ価格差はいかんともし難く、移転を止めることは一度もできないくらいだった。

しかしある日、ある帽子メーカー(…だったと思う?)が深圳の工場では品質の維持ができず撤退を決めた時、設備を含め工場を丸ごと置いてこざるを得ず、様々な手続きやそれに伴う経費等々で、工場稼働期間に稼いだ以上の損失を被った、という話が伝わってきた。生産拠点の中国移転は、当面、他に道がないとはいえ、やはり危険な道だ、と思った。パソコンの半国産化も要注意だ、と思った。ただ、台湾が既に世界のパソコン部品の大工場になっていて、組み立てもどんどん行われ始めていたのは確かで、部品生産よりも容易なパソコン本体の組み立てが中国へと移っていく流れは大きくなりこそすれ、小さくなることなどないであろうことも確かだった。しかし、それにしても小さな会社取り組んでも大丈夫なものか……。

僕の危惧に反して、しかし、始まった取引はスムーズで、パーツに問題が起きることもなかった。利益も上がっていったようだった。……約1年間は……。

1年を過ぎた頃、入荷してくるパーツの不具合が時々出てくるようになった。連絡すると問題なくなるが、しばらくするとまた不具合が多発する。不具合の場所が変動することを不審に思った彼は、仕入れたパーツを時系列で精査してみた。すると、彼らのやり口が判明したのだ。

基本的にパソコンは使用価値を維持するためにオーバースペックで設計されている。5人乗りのエレベーターが10人以上に耐える設計になっているのと一緒だ。彼らはそこを悪用したらしかった。彼からの報告によると……、

「最初はフルスペックで納品してくる。当然きちんと稼働する。しかし、彼らは気付く。“この部品、抜いても大丈夫じゃない?”って。試しに抜いて納品してくる。きちんと稼働する。“じゃ、これも抜いていいんじゃない?”となる。これを繰り返す。問題ありという我々からの連絡があるまで、それを続ける。部品をケチル限界を試してるとしか思えない。パーツだから、製品に影響が出るまであっちこっちをそうして試してくる。その痕跡が時系列でみるとわかるんだ」

うまくやられたなあ、と妙に感心しながらも、中国(人)との取引に自分たちの常識は通用しないことを思い知らされた事件だった。

ちなみに、彼の会社はその後分裂。みんなそれぞれ、それぞれのやり方と立ち位置を求めて、パソコン業界内に散っていった。その後10年近くはみんなと時々会っていたが、みんなうまくやっていた。きっと、今もうまくやっていることだろう。

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「いつもと同じご飯に見えるけど、少しずつ減らしたりしてない?」……「その通り!」……その成果が1カ月㎏のダイエットさ!

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ①

15年くらい前のこと。長い友人の1級建築士から、突然「仕事、付き合ってくれない?」と電話があった。上海市図書館のワンフロア―を日本料理店にしたい、という依頼があったという。友人は信頼できる男だったが、その仕事の第一印象は、ん?怪しいな?だった。中国人とのビジネスに関しては、僕のみならず友人たちにも、過去に数々の嫌な思い出があったからだ。

 

その1.バリ島DFS(免税店)事件

25年ほど前、とある知り合いからバリ島にDFSを作る話があるので、プランを立ててほしい。場所は決まっていて、地図や土地の図面もある。どんな店にするか、どんなMDが望ましいか等々を提案してほしい。施工は現地業者だが、企画力が期待できないのでお願いしたい。期間は2ケ月。企画費はお支払いする。との相談があった。発注元は、世界三大華僑の一つだと言う。その人、やや怪しげなところもある人だったが、それまで仕事で迷惑を受けたこともない。仕事のスケジュールは詰まっていたが、話はバリ島がらみ。何やら楽しげではないかと承諾した。ショップコンセプトとMD計画、店舗の図面と外観イラスト等々、全部で30枚程度のボードで提出すること。必要であれば、説明に伺うこと。等を条件として出した。

それでいきましょう。ギャラはすぐには決められないが、早急に連絡する。と別れ、翌日には「僕の印象では500万までは出せるみたいだから、それでよければすぐにゴーしてください」と電話があった。印象?とは思ったが、2ケ月しかない。他の仕事もある。よし!始めよう!と決めた。

友人の建築士(前述とは別人)とデザイナーと僕、お互いを理解できている3人のチーム。仕事は早かった。予定より半月以上早くボード完成。依頼主の担当者にコピーを送ってもらった。

反応は「いいと思います。気に入りました。ただ、完成模型がないと現場には伝わりにくいので、作ってもらえませんか?」。ん?半月で?そんな‥‥!と拒否しようとしたが、建築士A君が「僕が作るよ。完成模型作るの好きなんだ」と言うので、引き受けた。

半月後、A君の完成模型が出来上がった。かなり大きなもので、天井を外すと、中には買い物をしている人形まで配置されていた。相当睡眠時間を削ったようだった。商品の陳列イメージまで手が回らなかったのを悔しがっていた。

僕は他の仕事があったので、ジャカルタまで僕の代わりの人間も含め3人で行ってもらうことになった。結果は、大好評だったらしい。みんな安心した。

が、その直後、ギャラの話があった時、こんな台詞に驚かされることになった。

「インドネシアの物価は日本の物価の10分の1なので、こちらの金銭感覚に合わせて欲しい」だって!「こちらの感覚で1000万円払います。それでいいですか?」だって!

仕事を持ってきた知り合いに相談すると、「やっぱり施工まで受けてもらって、工事費から抜いてもらう方が……」だって!現場の管理はどうすんだよ!現地に駐在するのかよ!などと憤慨していても仕方ないので100万円で手を打ち、渡航費等々の経費以外はすべて建築士A君に渡すことにした。

そして、その頃になってやっと気付いた。

ん?計画そのものが頓挫したのか?いいプランがあったら、それを持って行政に働きかけよう、という話だったのか?いずれにしろ、若干政治の匂いが漂ってくるぞ……。

あっさり忘れることにしてしばらくは、計画地も漠然と覚えているバリ島のDFSが気になっていた。が、オープンした形跡はなさそうだ。まあ、完全に騙されたわけではなかったことをよしとしよう、ということになった。

それから7~8年後に自ら命を絶ったA君が、取り戻した完成模型を事務所にずっと飾り、大切な作品だと言ってくれていたのがいい思い出として残っている。

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安全だからとか、居心地がいいからとか……、そんな理由で何らかの庇護の下で仕事をすることを嫌っていると、騙されることも多いもの。だけど、楽しみも多い。大いに稼ぐことはできないけど……。ん?それは関係ないかな?

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動機付け

必要以上に欲しがる者同士の争いを目の当たりにしたことが何度かある。最も驚いた光景は、東南アジアのリゾート地に滞在していた時にやってきた中国人ツアー客だった。

現地のスタッフは心得ているようで、「中国人のグループがランチを食べに来るので、早めに食べて避難してください」とランチが始まると伝えてきた。「え?!そんな‥‥」と怪訝な顔を向けると、「すごい状態になりますから」と苦笑を返してきた。

しばらくするとボートが到着。ランチ付き日帰りツアーの中国人の一団がガヤガヤと降りてきた。我々はさっさとその場を離れ、遠くから観察することにした。

遠目にもレストランの中の惨状は見て取れる。喧騒はしっかりと届いてくる。あたふたと出入りするスタッフの表情は先ほどまでとは打って変わって殺気走っている、という状態。「避難してください」と言われたその言葉の意味がよく分かった。

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おやつを並んで待つ佐助とお友達。

食べ物、という動機付けの前でも冷静を保っていられる、くらいのことはできないと、ねえ。

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品揃えと店格

平日12時~14時のタイムサービス690円、というカットハウスで髪を切った。安いのはいいが、仕上がり品質は一定ではない。前回は“良”だったが、今回は“可”。“不可”ではないからよかったとするべきだろう。どうしても気になるようだったら、Kapparに調整してもらう、という奥の手がある。Kapparは1年間の美容師歴があり、腕は衰えてはいないからだ。

散髪後、サミットで買い物をした。先週木曜日買い物をした成城学園前の小田急OXとの店格の差を、店を入るなり感じた。

メモにある買い物リストを確認しつつ、店内を見て回った。いつもの棚にいつもの品があり、価格、品質、鮮度も標準的で、安心・便利な売り場になっている。が、ワクワクはしない。安心とワクワクが混在させること。それが、売り場づくりの仕事をする時、いつも悩み工夫を重ねたことだった。もちろん、売り上げと利益も取れる売場でなくてはならない。仕入れのルートやノウハウの有無も関連してくる。“こんな商品があるといいなあ”という消費者目線だけでは、実現不可能なことも数多い。メーカーや生産者にもそれぞれ都合がある。PB商品やオリジナル商品を棚に並べようとすると、様々な障壁が立ちはだかる。売場を魅力的に仕上げていくためのビジュアルMDの提案で一苦労したこともある……。

などと思い出しつつ、ナナじいちゃんのためのデザートやおかずも購入。レジ袋2個、総重量3キロ(?)を右手に持ち、杖を左手に、やっと帰ってきた。

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帰って来るなり、“おやつ待ち”の体勢になる佐助。

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ブログ原稿を書いている間に“ナナじいちゃん弁当”も出来上がった。

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梅雨入り近し?

沖縄が梅雨入りした。毎年のことながら、「え?!もう梅雨入り?」と沖縄との距離の大きさに関東の梅雨入りは、過去66年の平均値で6月8日。傾向としては、少しずつ早まってきている。そこから類推すると、今年の梅雨入りは6月2日~12日頃ということになるそうだ。

沖縄の梅雨入りと聞いて思い出すのは、昨年暮れに亡くなった友人のグラフィックデザイナーNさんが沖縄に家族旅行に行った時の話だ。

長期予報を調べ、まだまだ梅雨入りはないと判断したNさん家族が、沖縄に着くやいなや大雨に見舞われた。忙しい合間を縫っての家族旅行、少しくらい観光しなくてはとホテルに帰京の予定ぎりぎりまで留まったが、一向に雨の止む気配はない。しかもなかなかの大降り。遂にどこに行くこともできないまま2日が経ち、最後の日を迎えた。

“このまま帰ったのでは、沖縄までやってきた意味がない。行動しなくては……”。そう考えたNさん。何故か、映画館に行くことにした。沖縄旅行に出発する少し前、“となりのトトロ”があまりにも人気で、観たくても観れない状況だったことを思い出したのだ。

「いやあ、館内混んでなくて、ゆっくり座って“となりのトトロ”を堪能してきましたよ」。沖縄土産を持って事務所にやって来たNさんがそう言ったので、「よかったねえ」と言うと、「人気の映画は沖縄で観るといいですよ」と苦笑いをした。

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路上で“臍天”する佐助。梅雨入りすると、今は連日見ることができるこんな姿もあまり見られなくなるのだろうか。

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一昨日のナナじいちゃん弁当。聘珍楼の杏仁豆腐の素“杏雲”で作った杏仁豆腐がデザート。なかなかおいしいのでナナじいちゃんにもと思って前日に購入しておいたものだ。今度は何を買ってきてあげようかなあ……。

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みんな“囚われ”の身?!

10年ばかり前、失くしてしまっていた中学の卒業写真を、同級生に頼んで送ってもらいスキャンしてパソコンに取り込んだ時のこと。約40年ぶりに見ることになった中学の卒業写真が、一目で僕に新たな発見と驚きを与えてくれた。

写真の中に眼鏡をかけている者がいない!…のだ。仲の良かった楠本君(2年生になった時、転校していった?)が眼鏡をかけていたせいか、周りに眼鏡姿はいつもあったように記憶していたが、卒業写真には皆無。写真撮影の際、眼鏡を外すように言われたのかとも思い、写真の小さな顔を一つひとつ念入りに眺め、記憶と照らし合わせてみた。が、眼鏡をかけた顔が馴染む者は一人も見当たらなかった。

元々河川敷だった場所にできた中学校。小さな川を渡った校庭の脇には桑畑、教室の窓からは遠くに山並みが見える、という自然に恵まれた環境だとはいえ、“眼鏡ゼロ”はすごい。

そして、卒業式直後、初めて眼鏡を掛けたという同級生がいたことを思い出した。彼の名前も顔も定かではないが、彼が語ってくれた“眼鏡を初めて着けた感想”は印象深く残っている。

「細かい所までよく見えるようになって怖い。違う世界に来たようだ。」

ぼんやりと捉えた外界を、漠然と認識している方が心は楽なものだ。ディテールまで観察できる環境で、目を閉じることもできなければ、情報が多すぎて身辺の事象の正体を見極めることが難しくなる。きっと、それが恐怖を生むのだ。

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恐怖を感じないためには、さっさと自ら“囚われの身”になってしまうのが、いいかもしれない。いつも気になってならないことに囚われる。“ねばならない”という自分自身の意識に囚われる。 “だって、〇〇なんだもの”と自ら決めつけている自らの環境や心身の有り様に囚われる……複眼的に物事を眺めるよりも、単眼的に物事を眺める方が心穏やかにいられることは間違いない。囚われることは不幸とは限らないのだ。信仰だって一種の“囚われ”だと言えなくもないのだから……。

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お元気ですか~~??

思い起こせば、成城リハビリテーションクリニックに通い始めて10年3カ月になる。当初は週に3日、理学療法、作業療法をセットで受けていた。距離を歩く自信がなかったため、タクシー通院。約半年間、その状態が続いた。事務所を維持しつつ、通院~治療~投薬の費用から僕の借金の返済まで、Kapparの獅子奮迅の活躍・奮闘なかりせば、どうなっていたことやら……。と、今朝、成城学園前のバス停から病院までの道のりを歩きながら思わざるを得なかった。

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初夏の日差しに、街路樹が青々と眩しい。一歩一歩病院に近づいて行くにつれ、一緒にリハビリにいそしんだ人、退院間近で再発してしまった人、入院している間に人生が劇的に変化してしまった人、スピリチュアルな世界に入っていった人、通院リハビリにまで回復していたのに再発して再入院した人……そして、不幸にも亡くなってしまった人を次々と思い出す。何かしてあげることはできなかったのだろうか……。いや、いや、ずっと支えられてきた分際でできることなどあるものか……。淡々と、過分に気張らず、機会がある時に、できるだけのことを迷惑をかけることのない(特にKapparに対して…)範囲内で行う。せめて楽しい時間を共有できるようにしていく……。今と今からは、ずっとそういう生き方をすべきなんだろうなあ、と思った。

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小田急OXで買い物をしようと、駅に向かう帰り道。仙川にかかる橋の上から成城大学の校舎を見ると、創立100周年の看板があった。脳出血20周年の際は、何か楽し気なミニ・イベントでもやりたいなあと思った。……ちなみにその時、僕は77歳になる。まだ飲めるよなあ、きっと……

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“貢献感”が暮らしを豊かにする!?

誰かに認めてもらいたいと思っていない人がいるだろうか。評価されたい、認めてもらいたい、という欲求があればこそ人は努力できるのだと言ってもいいくらいだと思う。“承認欲求”というやつだ。

しかし、この“承認欲求”が強すぎると、本人も他者も苦しめることになりかねない。多くの場合、“承認欲求”の強い人は自己愛が強いが自信家ではない。だから、惜しみなく努力をするがなかなか充足感にまでは至らない。寂しがり屋で孤独を嫌うが、人に対する評価は厳しい。自信のなさの裏返しであり、努力していることへの自己評価は高いからだ。

“承認欲求”は、何しろ他者からの承認を得たいという欲求だから、他者が関わらざるを得ない。押し付けることができるような種類のものでもない。「……というわけだから、私を認めなさい!」と要求して得られる承認は、真の承認ではないからだ。

孤独感に苛まれながらも努力を続け、それでも充足感はなかなか得られないまま、他者からの評価や承認を待ち続ける……。しかもその他者は、厳しい評価基準を超えた人からのものでなくてはならない……。辛いだろうなあ、寂しいだろうなあ、と思う。しかし、ことは欲求に関わること。しかも、人として極めて根源的で本質的な欲求だ……。

さて、対策はあるのか……。

一つの可能性として、“貢献感”を満たすことに注力するということはないだろうか。“他者あるいは共同体に貢献している”という実感を得ることである。具体的な報酬である必要はない。“感”が得られればいいのだ。“感”は自己満足でいい。お互いの自己満足の交流は、きっと幸せの輪を広げていくことになる……。

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今日のナナじいちゃん弁当。初メロンとナナじいちゃん好みの肉が入っている。作っているのはKapparだが、僕も“貢献感”を得ることができている。それだけで暮らしの充足感は違うものだと、最近よく思う。

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今日はサミットに買い物に行ってきた。配送サービスがあるから、僕でも十分な買い物ができる。甲州街道の街路樹を見上げると、そこは初夏そのものの景色だった。

          Kakky(柿本)

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やっと脱出!

「そろそろいらないかな‥‥」と言いつつ、5月になった。「もう寒くなることはないだろう‥‥」と言っていた夜、スイッチを入れたことが何度もあったからだ。

夕食後のリラックスタイムにコタツが欠かせなかった半年が過ぎ、GWに入ってKapparがまず風邪でダウン、次いで僕がダウンした先週金曜日“こどもの日”。遂に、コタツとの決別を決断。お昼前に動き始め、協力してさっさと片付けた。

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コタツは30分も経たずに、夏バージョンの座卓に変身。コタツ布団等々は物干しや洗濯機へ。コタツ敷きは廃棄(元々2年間使用と決まっていた)された。

ちょうど天気もよく暖かかったので、窓を開け放ってゴロゴロ。夕方には「ビールでも飲むか」と、コタツだった座卓にツマミとビールを持ってきて早い夏気分を味わった。ちょっと調子に乗り過ぎて咳と洟は治り切らず、今でも時々発作のようにやってくるが、部屋が重くなくなったおかげで、気分も軽い。明日はきっと90%回復だ~~~。

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それって、俺?

ドッペルゲンガーではなさそうだ。幽体離脱とも違う。しかし、それにしても他人とは思えない。「それって、俺?」と思ってしまうような電話だった。

朝7時50分。コーヒーを淹れていると携帯が鳴った。Kapparからだった。佐助と散歩中。後20~30分で帰ってくる予定。何があったのか?

「今、〇〇公園なんだけど、おじさんが倒れてるので警察呼んで、ワン友たちと到着待ちしてるから帰るの遅くなるかも」

「その人大丈夫なの?どんな感じ?」

「杖持ってて顔から血を流してる。酔っぱらってるみたい」

ん?俺?と思った。帰ってきたKapparに聞いたところでは、60代後半と思われるとのこと。まさに、俺?ではないか。彼が俺のドッペルゲンガーか、はたまたオイラが彼のドッペルゲンガーか、と思ったが、本来ドッペルゲンガーは本人がもう一人の自分を見る現象のはず。となれば、これは“過剰飲酒、慎むべし”との天の啓示かもしれない。

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咳と洟に困らされつつ、斜め向かいのお宅の屋上の鯉のぼりを眺めた。リハビリ病院で仲間と合言葉のように言っていた“健康が一番”というフレーズを思い出した。

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昨日のナナじいちゃん弁当。ナナじいちゃんは杖も必要としない健康体だ。淡々と無理なく暮らしている。

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連休よ、何処へ??

やっぱり!嫌な予感ばかりが当たるのはどうしてだ?でも、なんとか乗り越えられたのは、“持ってる”から?

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一昨日、Kappar動けず。食料をコンビニで購入。帰り道は風に飛ばされた花びらが一杯。帰ってくると、おや?喉が痛い。参った!今度は僕の番のようだ。久しぶりにアルコールを口にすることなくそれなりの食事をして、僕もKapparの薬を飲む。少し延ばしてもらったとはいえ、仕事は待ち受けている。Kapparは翌日には仕上げなくてはならない。その後、僕のお手伝いパートがある。さて、どうなるやら……。

翌日(昨日)。咳は残っているがKappar回復。代わりに僕がダウン。でも翌日(今日)、仕事をリレーできれば大丈夫、間に合う。症状は一緒。熱、咳、洟、関節痛……。経過も症状もKapparと一緒だから、今朝には回復するはず‥‥だった。そして、なんと、その通りになった。2時間前、無事仕事終了!CATVのアプリにあるYou Tubeで、ひさしぶりにBaby Metalの“Ijime,]Dame,Zettai”などを楽しむ余裕もできた。

もう一人、Kappar回復の恩恵を受ける人がいる。ナナじいちゃんだ。ローテーションとしては昨日のはずだった“ナナじいちゃん弁当”。「一日遅れます。ごめんなさいね」と一昨日Kapparから電話してあったが、症状が長引けば無理だろうなあ、と思っていたところ、回復。現在料理進行中。なんだかすべてが丸く収まった感じだ。

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さて、残る気がかりはただ一つ。連休は?……などと思いつつも、相変わらず洟と咳に悩まされている。“寝連休”か?……


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連休って!?

GWに入っている。近くを通る甲州街道の交通量は一時増したが、それも収まりここ世田谷は、“のんびり度”が増している。

ただ、かつて僕もそうだったが、依頼をうけて企画などを行う“受注型”の仕事をしているKapparは、きちんとGWを休むことは難しい。発注者がGWをきちんと休み、かつ仕事はスムーズに進めたいがために、「GW明けまでにお願いします」と依頼してくることが多いからだ。

それでも、長年続けている仕事がほとんどのKapparは、仕事を通じてできた信頼関係のおかげで、スケジュールを自分の暮らしの都合にある程度合わせて調整できるようになっている。今年は、GW後半(4~7日)をほぼ休む予定……だった。そのために、GW突入前にはちょっと頑張っていた。

が!が!まさに好事魔多し!

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一昨日夜、Kappar風邪発症!昨日は遂に、雷に怯える佐助と一緒にダウン。

連休は、休みが連なっている日々のはずが、“連なって休む”日々になってしまった。近所のかかりつけの医者に行き、薬を服用して休んだが、まだ回復したとは言い難い。さて、今年のGWはどうなるのか……。

          Kakky(柿本)

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