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こんな“今”の積み重ね……

29歳でやむなく一人で事務所を構え(正確に言うと、事務所が“できていった”)、増えていく仕事に応じてスタッフが必要となってしまから1年、周りからも勧められ、遂に会社を設立することになった。気が進まなかった。自分には向いていないと思っていた。“経営”というものに自信もなく、“政治力”など欠片もないことも自覚していた。会社設立直後からずっと、社長として望ましい人を探し続けていたくらいだ。

“これは!”と思う人二人に社長就任をお願いしたが、いずれも丁重に断られた。自分が設立した会社であっても、生まれてしまえば別の生き物。いつまでも自分がコントロールできるとは限らない。経営者の器と、生まれた環境、育つ環境によって成長度合いは大きく変わる。

“4人の異なる分野のプロと、それぞれをサポートしつつ後を引き継ぐスタッフと、お金とスケジュールを管理する人、以上合わせて上限10名”の会社でありたい、と思っていた。自分の器の限界に応じた考え方だった。会社は、事業を行ったり金を儲けたりするための装置ではなく、いい仕事をするための装置だと考えていた。いい仕事にはお金が付いてくる(大量ではないかもしれないが…)、と信じていた(…信じていたかった?)。

そして、いい仕事をするための環境を提供し続けることこそ、設立者である僕の責務であると思っていた。そう思い続けていなければならない、と思っていた、と言った方が正しいかもしれない。

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土曜日のナナじいちゃん弁当。

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昨日、日曜日ののどかな光景。折角の、久しぶりのお休みだというのに(だからこそ?)掃除に精を出すKapparと我関せずの佐助。

“こんな今”を積み重ねていくことができる環境を、作ったり、提供したり、整えたりすることに、一体僕はどんな貢献ができているのだろうか?……などと思いつつも、「昼ビールでもする?」とのどかな気分に浸り続ける僕だった。……のん気だよねえ。
                 Kakky(柿本)

“1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―”は、NO.28をもって終了しました

*”昭和少年漂流記第三章”を、書き始めています。が!書き直しの連続で進んでいません。6月上旬頃連載開始予定ですが……。

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ②

前回の“その1”に続き……

その2.オリジナルパソコン事件

バリ島DFS事件から数年後、パソコンの世界がMacメインからDOS/V機主流へと大きく変わっていきつつあった頃。友人の一人が「MS-DOSのオリジナルマシーンを作る店を秋葉原に開きたい」と相談に現れた。Windows95が発売される少し前だったと記憶している。僕はその頃、MacユーザーだったがWindowsにも興味があったので、何かできることがあれば、と相談に乗った。

依頼されたのは、ショップ名、ショップ・ロゴ、店内什器とレイアウトのアドバイス、POP類のデザイン等々で、パソコンに関連することではなかったので、友人の起業時ということもあり、ほぼ無償で快く引き受けた。

順調なスタートだった。顧客の“使い方”ニーズに合わせたオリジナルパソコンは好評で、顧客が顧客を呼ぶという状況だった。売り上げが上がっていくに従い、国内のサプライヤーから部品を買い集めて組み立てる、という作業では追いつかなくなっていた。“店として”というよりも“企業として”の欲も出てきたようだった。台湾、中国にパーツを発注し最終組み立てをする、という省力化と量産化を彼は考え始めた。会社を大きく成長させたい、と思い始めていたようだった。純国産から半国産へのいきなりのシフト。それも中国への半依存……。不安は感じざるを得なかった。

その頃は、深圳が経済特区になってから10年以上が経っていた頃で、ファッション企業の生産拠点の中国移転には勢いがついているかのようだった。相談を受けると必ず反対していたが、仕入れ価格差はいかんともし難く、移転を止めることは一度もできないくらいだった。

しかしある日、ある帽子メーカー(…だったと思う?)が深圳の工場では品質の維持ができず撤退を決めた時、設備を含め工場を丸ごと置いてこざるを得ず、様々な手続きやそれに伴う経費等々で、工場稼働期間に稼いだ以上の損失を被った、という話が伝わってきた。生産拠点の中国移転は、当面、他に道がないとはいえ、やはり危険な道だ、と思った。パソコンの半国産化も要注意だ、と思った。ただ、台湾が既に世界のパソコン部品の大工場になっていて、組み立てもどんどん行われ始めていたのは確かで、部品生産よりも容易なパソコン本体の組み立てが中国へと移っていく流れは大きくなりこそすれ、小さくなることなどないであろうことも確かだった。しかし、それにしても小さな会社取り組んでも大丈夫なものか……。

僕の危惧に反して、しかし、始まった取引はスムーズで、パーツに問題が起きることもなかった。利益も上がっていったようだった。……約1年間は……。

1年を過ぎた頃、入荷してくるパーツの不具合が時々出てくるようになった。連絡すると問題なくなるが、しばらくするとまた不具合が多発する。不具合の場所が変動することを不審に思った彼は、仕入れたパーツを時系列で精査してみた。すると、彼らのやり口が判明したのだ。

基本的にパソコンは使用価値を維持するためにオーバースペックで設計されている。5人乗りのエレベーターが10人以上に耐える設計になっているのと一緒だ。彼らはそこを悪用したらしかった。彼からの報告によると……、

「最初はフルスペックで納品してくる。当然きちんと稼働する。しかし、彼らは気付く。“この部品、抜いても大丈夫じゃない?”って。試しに抜いて納品してくる。きちんと稼働する。“じゃ、これも抜いていいんじゃない?”となる。これを繰り返す。問題ありという我々からの連絡があるまで、それを続ける。部品をケチル限界を試してるとしか思えない。パーツだから、製品に影響が出るまであっちこっちをそうして試してくる。その痕跡が時系列でみるとわかるんだ」

うまくやられたなあ、と妙に感心しながらも、中国(人)との取引に自分たちの常識は通用しないことを思い知らされた事件だった。

ちなみに、彼の会社はその後分裂。みんなそれぞれ、それぞれのやり方と立ち位置を求めて、パソコン業界内に散っていった。その後10年近くはみんなと時々会っていたが、みんなうまくやっていた。きっと、今もうまくやっていることだろう。

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「いつもと同じご飯に見えるけど、少しずつ減らしたりしてない?」……「その通り!」……その成果が1カ月㎏のダイエットさ!

                 Kakky(柿本)

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垣間見た中国人(とのビジネス?)の実態 ①

15年くらい前のこと。長い友人の1級建築士から、突然「仕事、付き合ってくれない?」と電話があった。上海市図書館のワンフロア―を日本料理店にしたい、という依頼があったという。友人は信頼できる男だったが、その仕事の第一印象は、ん?怪しいな?だった。中国人とのビジネスに関しては、僕のみならず友人たちにも、過去に数々の嫌な思い出があったからだ。

 

その1.バリ島DFS(免税店)事件

25年ほど前、とある知り合いからバリ島にDFSを作る話があるので、プランを立ててほしい。場所は決まっていて、地図や土地の図面もある。どんな店にするか、どんなMDが望ましいか等々を提案してほしい。施工は現地業者だが、企画力が期待できないのでお願いしたい。期間は2ケ月。企画費はお支払いする。との相談があった。発注元は、世界三大華僑の一つだと言う。その人、やや怪しげなところもある人だったが、それまで仕事で迷惑を受けたこともない。仕事のスケジュールは詰まっていたが、話はバリ島がらみ。何やら楽しげではないかと承諾した。ショップコンセプトとMD計画、店舗の図面と外観イラスト等々、全部で30枚程度のボードで提出すること。必要であれば、説明に伺うこと。等を条件として出した。

それでいきましょう。ギャラはすぐには決められないが、早急に連絡する。と別れ、翌日には「僕の印象では500万までは出せるみたいだから、それでよければすぐにゴーしてください」と電話があった。印象?とは思ったが、2ケ月しかない。他の仕事もある。よし!始めよう!と決めた。

友人の建築士(前述とは別人)とデザイナーと僕、お互いを理解できている3人のチーム。仕事は早かった。予定より半月以上早くボード完成。依頼主の担当者にコピーを送ってもらった。

反応は「いいと思います。気に入りました。ただ、完成模型がないと現場には伝わりにくいので、作ってもらえませんか?」。ん?半月で?そんな‥‥!と拒否しようとしたが、建築士A君が「僕が作るよ。完成模型作るの好きなんだ」と言うので、引き受けた。

半月後、A君の完成模型が出来上がった。かなり大きなもので、天井を外すと、中には買い物をしている人形まで配置されていた。相当睡眠時間を削ったようだった。商品の陳列イメージまで手が回らなかったのを悔しがっていた。

僕は他の仕事があったので、ジャカルタまで僕の代わりの人間も含め3人で行ってもらうことになった。結果は、大好評だったらしい。みんな安心した。

が、その直後、ギャラの話があった時、こんな台詞に驚かされることになった。

「インドネシアの物価は日本の物価の10分の1なので、こちらの金銭感覚に合わせて欲しい」だって!「こちらの感覚で1000万円払います。それでいいですか?」だって!

仕事を持ってきた知り合いに相談すると、「やっぱり施工まで受けてもらって、工事費から抜いてもらう方が……」だって!現場の管理はどうすんだよ!現地に駐在するのかよ!などと憤慨していても仕方ないので100万円で手を打ち、渡航費等々の経費以外はすべて建築士A君に渡すことにした。

そして、その頃になってやっと気付いた。

ん?計画そのものが頓挫したのか?いいプランがあったら、それを持って行政に働きかけよう、という話だったのか?いずれにしろ、若干政治の匂いが漂ってくるぞ……。

あっさり忘れることにしてしばらくは、計画地も漠然と覚えているバリ島のDFSが気になっていた。が、オープンした形跡はなさそうだ。まあ、完全に騙されたわけではなかったことをよしとしよう、ということになった。

それから7~8年後に自ら命を絶ったA君が、取り戻した完成模型を事務所にずっと飾り、大切な作品だと言ってくれていたのがいい思い出として残っている。

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安全だからとか、居心地がいいからとか……、そんな理由で何らかの庇護の下で仕事をすることを嫌っていると、騙されることも多いもの。だけど、楽しみも多い。大いに稼ぐことはできないけど……。ん?それは関係ないかな?

                 Kakky(柿本)

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動機付け

必要以上に欲しがる者同士の争いを目の当たりにしたことが何度かある。最も驚いた光景は、東南アジアのリゾート地に滞在していた時にやってきた中国人ツアー客だった。

現地のスタッフは心得ているようで、「中国人のグループがランチを食べに来るので、早めに食べて避難してください」とランチが始まると伝えてきた。「え?!そんな‥‥」と怪訝な顔を向けると、「すごい状態になりますから」と苦笑を返してきた。

しばらくするとボートが到着。ランチ付き日帰りツアーの中国人の一団がガヤガヤと降りてきた。我々はさっさとその場を離れ、遠くから観察することにした。

遠目にもレストランの中の惨状は見て取れる。喧騒はしっかりと届いてくる。あたふたと出入りするスタッフの表情は先ほどまでとは打って変わって殺気走っている、という状態。「避難してください」と言われたその言葉の意味がよく分かった。

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おやつを並んで待つ佐助とお友達。

食べ物、という動機付けの前でも冷静を保っていられる、くらいのことはできないと、ねえ。

                  Kakky(柿本)

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品揃えと店格

平日12時~14時のタイムサービス690円、というカットハウスで髪を切った。安いのはいいが、仕上がり品質は一定ではない。前回は“良”だったが、今回は“可”。“不可”ではないからよかったとするべきだろう。どうしても気になるようだったら、Kapparに調整してもらう、という奥の手がある。Kapparは1年間の美容師歴があり、腕は衰えてはいないからだ。

散髪後、サミットで買い物をした。先週木曜日買い物をした成城学園前の小田急OXとの店格の差を、店を入るなり感じた。

メモにある買い物リストを確認しつつ、店内を見て回った。いつもの棚にいつもの品があり、価格、品質、鮮度も標準的で、安心・便利な売り場になっている。が、ワクワクはしない。安心とワクワクが混在させること。それが、売り場づくりの仕事をする時、いつも悩み工夫を重ねたことだった。もちろん、売り上げと利益も取れる売場でなくてはならない。仕入れのルートやノウハウの有無も関連してくる。“こんな商品があるといいなあ”という消費者目線だけでは、実現不可能なことも数多い。メーカーや生産者にもそれぞれ都合がある。PB商品やオリジナル商品を棚に並べようとすると、様々な障壁が立ちはだかる。売場を魅力的に仕上げていくためのビジュアルMDの提案で一苦労したこともある……。

などと思い出しつつ、ナナじいちゃんのためのデザートやおかずも購入。レジ袋2個、総重量3キロ(?)を右手に持ち、杖を左手に、やっと帰ってきた。

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帰って来るなり、“おやつ待ち”の体勢になる佐助。

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ブログ原稿を書いている間に“ナナじいちゃん弁当”も出来上がった。

                  Kakky(柿本)

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梅雨入り近し?

沖縄が梅雨入りした。毎年のことながら、「え?!もう梅雨入り?」と沖縄との距離の大きさに関東の梅雨入りは、過去66年の平均値で6月8日。傾向としては、少しずつ早まってきている。そこから類推すると、今年の梅雨入りは6月2日~12日頃ということになるそうだ。

沖縄の梅雨入りと聞いて思い出すのは、昨年暮れに亡くなった友人のグラフィックデザイナーNさんが沖縄に家族旅行に行った時の話だ。

長期予報を調べ、まだまだ梅雨入りはないと判断したNさん家族が、沖縄に着くやいなや大雨に見舞われた。忙しい合間を縫っての家族旅行、少しくらい観光しなくてはとホテルに帰京の予定ぎりぎりまで留まったが、一向に雨の止む気配はない。しかもなかなかの大降り。遂にどこに行くこともできないまま2日が経ち、最後の日を迎えた。

“このまま帰ったのでは、沖縄までやってきた意味がない。行動しなくては……”。そう考えたNさん。何故か、映画館に行くことにした。沖縄旅行に出発する少し前、“となりのトトロ”があまりにも人気で、観たくても観れない状況だったことを思い出したのだ。

「いやあ、館内混んでなくて、ゆっくり座って“となりのトトロ”を堪能してきましたよ」。沖縄土産を持って事務所にやって来たNさんがそう言ったので、「よかったねえ」と言うと、「人気の映画は沖縄で観るといいですよ」と苦笑いをした。

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路上で“臍天”する佐助。梅雨入りすると、今は連日見ることができるこんな姿もあまり見られなくなるのだろうか。

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一昨日のナナじいちゃん弁当。聘珍楼の杏仁豆腐の素“杏雲”で作った杏仁豆腐がデザート。なかなかおいしいのでナナじいちゃんにもと思って前日に購入しておいたものだ。今度は何を買ってきてあげようかなあ……。

                  Kakky(柿本)

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みんな“囚われ”の身?!

10年ばかり前、失くしてしまっていた中学の卒業写真を、同級生に頼んで送ってもらいスキャンしてパソコンに取り込んだ時のこと。約40年ぶりに見ることになった中学の卒業写真が、一目で僕に新たな発見と驚きを与えてくれた。

写真の中に眼鏡をかけている者がいない!…のだ。仲の良かった楠本君(2年生になった時、転校していった?)が眼鏡をかけていたせいか、周りに眼鏡姿はいつもあったように記憶していたが、卒業写真には皆無。写真撮影の際、眼鏡を外すように言われたのかとも思い、写真の小さな顔を一つひとつ念入りに眺め、記憶と照らし合わせてみた。が、眼鏡をかけた顔が馴染む者は一人も見当たらなかった。

元々河川敷だった場所にできた中学校。小さな川を渡った校庭の脇には桑畑、教室の窓からは遠くに山並みが見える、という自然に恵まれた環境だとはいえ、“眼鏡ゼロ”はすごい。

そして、卒業式直後、初めて眼鏡を掛けたという同級生がいたことを思い出した。彼の名前も顔も定かではないが、彼が語ってくれた“眼鏡を初めて着けた感想”は印象深く残っている。

「細かい所までよく見えるようになって怖い。違う世界に来たようだ。」

ぼんやりと捉えた外界を、漠然と認識している方が心は楽なものだ。ディテールまで観察できる環境で、目を閉じることもできなければ、情報が多すぎて身辺の事象の正体を見極めることが難しくなる。きっと、それが恐怖を生むのだ。

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恐怖を感じないためには、さっさと自ら“囚われの身”になってしまうのが、いいかもしれない。いつも気になってならないことに囚われる。“ねばならない”という自分自身の意識に囚われる。 “だって、〇〇なんだもの”と自ら決めつけている自らの環境や心身の有り様に囚われる……複眼的に物事を眺めるよりも、単眼的に物事を眺める方が心穏やかにいられることは間違いない。囚われることは不幸とは限らないのだ。信仰だって一種の“囚われ”だと言えなくもないのだから……。

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お元気ですか~~??

思い起こせば、成城リハビリテーションクリニックに通い始めて10年3カ月になる。当初は週に3日、理学療法、作業療法をセットで受けていた。距離を歩く自信がなかったため、タクシー通院。約半年間、その状態が続いた。事務所を維持しつつ、通院~治療~投薬の費用から僕の借金の返済まで、Kapparの獅子奮迅の活躍・奮闘なかりせば、どうなっていたことやら……。と、今朝、成城学園前のバス停から病院までの道のりを歩きながら思わざるを得なかった。

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初夏の日差しに、街路樹が青々と眩しい。一歩一歩病院に近づいて行くにつれ、一緒にリハビリにいそしんだ人、退院間近で再発してしまった人、入院している間に人生が劇的に変化してしまった人、スピリチュアルな世界に入っていった人、通院リハビリにまで回復していたのに再発して再入院した人……そして、不幸にも亡くなってしまった人を次々と思い出す。何かしてあげることはできなかったのだろうか……。いや、いや、ずっと支えられてきた分際でできることなどあるものか……。淡々と、過分に気張らず、機会がある時に、できるだけのことを迷惑をかけることのない(特にKapparに対して…)範囲内で行う。せめて楽しい時間を共有できるようにしていく……。今と今からは、ずっとそういう生き方をすべきなんだろうなあ、と思った。

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小田急OXで買い物をしようと、駅に向かう帰り道。仙川にかかる橋の上から成城大学の校舎を見ると、創立100周年の看板があった。脳出血20周年の際は、何か楽し気なミニ・イベントでもやりたいなあと思った。……ちなみにその時、僕は77歳になる。まだ飲めるよなあ、きっと……

          Kakky(柿本)

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“貢献感”が暮らしを豊かにする!?

誰かに認めてもらいたいと思っていない人がいるだろうか。評価されたい、認めてもらいたい、という欲求があればこそ人は努力できるのだと言ってもいいくらいだと思う。“承認欲求”というやつだ。

しかし、この“承認欲求”が強すぎると、本人も他者も苦しめることになりかねない。多くの場合、“承認欲求”の強い人は自己愛が強いが自信家ではない。だから、惜しみなく努力をするがなかなか充足感にまでは至らない。寂しがり屋で孤独を嫌うが、人に対する評価は厳しい。自信のなさの裏返しであり、努力していることへの自己評価は高いからだ。

“承認欲求”は、何しろ他者からの承認を得たいという欲求だから、他者が関わらざるを得ない。押し付けることができるような種類のものでもない。「……というわけだから、私を認めなさい!」と要求して得られる承認は、真の承認ではないからだ。

孤独感に苛まれながらも努力を続け、それでも充足感はなかなか得られないまま、他者からの評価や承認を待ち続ける……。しかもその他者は、厳しい評価基準を超えた人からのものでなくてはならない……。辛いだろうなあ、寂しいだろうなあ、と思う。しかし、ことは欲求に関わること。しかも、人として極めて根源的で本質的な欲求だ……。

さて、対策はあるのか……。

一つの可能性として、“貢献感”を満たすことに注力するということはないだろうか。“他者あるいは共同体に貢献している”という実感を得ることである。具体的な報酬である必要はない。“感”が得られればいいのだ。“感”は自己満足でいい。お互いの自己満足の交流は、きっと幸せの輪を広げていくことになる……。

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今日のナナじいちゃん弁当。初メロンとナナじいちゃん好みの肉が入っている。作っているのはKapparだが、僕も“貢献感”を得ることができている。それだけで暮らしの充足感は違うものだと、最近よく思う。

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今日はサミットに買い物に行ってきた。配送サービスがあるから、僕でも十分な買い物ができる。甲州街道の街路樹を見上げると、そこは初夏そのものの景色だった。

          Kakky(柿本)

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やっと脱出!

「そろそろいらないかな‥‥」と言いつつ、5月になった。「もう寒くなることはないだろう‥‥」と言っていた夜、スイッチを入れたことが何度もあったからだ。

夕食後のリラックスタイムにコタツが欠かせなかった半年が過ぎ、GWに入ってKapparがまず風邪でダウン、次いで僕がダウンした先週金曜日“こどもの日”。遂に、コタツとの決別を決断。お昼前に動き始め、協力してさっさと片付けた。

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コタツは30分も経たずに、夏バージョンの座卓に変身。コタツ布団等々は物干しや洗濯機へ。コタツ敷きは廃棄(元々2年間使用と決まっていた)された。

ちょうど天気もよく暖かかったので、窓を開け放ってゴロゴロ。夕方には「ビールでも飲むか」と、コタツだった座卓にツマミとビールを持ってきて早い夏気分を味わった。ちょっと調子に乗り過ぎて咳と洟は治り切らず、今でも時々発作のようにやってくるが、部屋が重くなくなったおかげで、気分も軽い。明日はきっと90%回復だ~~~。

          Kakky(柿本)

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それって、俺?

ドッペルゲンガーではなさそうだ。幽体離脱とも違う。しかし、それにしても他人とは思えない。「それって、俺?」と思ってしまうような電話だった。

朝7時50分。コーヒーを淹れていると携帯が鳴った。Kapparからだった。佐助と散歩中。後20~30分で帰ってくる予定。何があったのか?

「今、〇〇公園なんだけど、おじさんが倒れてるので警察呼んで、ワン友たちと到着待ちしてるから帰るの遅くなるかも」

「その人大丈夫なの?どんな感じ?」

「杖持ってて顔から血を流してる。酔っぱらってるみたい」

ん?俺?と思った。帰ってきたKapparに聞いたところでは、60代後半と思われるとのこと。まさに、俺?ではないか。彼が俺のドッペルゲンガーか、はたまたオイラが彼のドッペルゲンガーか、と思ったが、本来ドッペルゲンガーは本人がもう一人の自分を見る現象のはず。となれば、これは“過剰飲酒、慎むべし”との天の啓示かもしれない。

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咳と洟に困らされつつ、斜め向かいのお宅の屋上の鯉のぼりを眺めた。リハビリ病院で仲間と合言葉のように言っていた“健康が一番”というフレーズを思い出した。

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昨日のナナじいちゃん弁当。ナナじいちゃんは杖も必要としない健康体だ。淡々と無理なく暮らしている。

          Kakky(柿本)

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連休よ、何処へ??

やっぱり!嫌な予感ばかりが当たるのはどうしてだ?でも、なんとか乗り越えられたのは、“持ってる”から?

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一昨日、Kappar動けず。食料をコンビニで購入。帰り道は風に飛ばされた花びらが一杯。帰ってくると、おや?喉が痛い。参った!今度は僕の番のようだ。久しぶりにアルコールを口にすることなくそれなりの食事をして、僕もKapparの薬を飲む。少し延ばしてもらったとはいえ、仕事は待ち受けている。Kapparは翌日には仕上げなくてはならない。その後、僕のお手伝いパートがある。さて、どうなるやら……。

翌日(昨日)。咳は残っているがKappar回復。代わりに僕がダウン。でも翌日(今日)、仕事をリレーできれば大丈夫、間に合う。症状は一緒。熱、咳、洟、関節痛……。経過も症状もKapparと一緒だから、今朝には回復するはず‥‥だった。そして、なんと、その通りになった。2時間前、無事仕事終了!CATVのアプリにあるYou Tubeで、ひさしぶりにBaby Metalの“Ijime,]Dame,Zettai”などを楽しむ余裕もできた。

もう一人、Kappar回復の恩恵を受ける人がいる。ナナじいちゃんだ。ローテーションとしては昨日のはずだった“ナナじいちゃん弁当”。「一日遅れます。ごめんなさいね」と一昨日Kapparから電話してあったが、症状が長引けば無理だろうなあ、と思っていたところ、回復。現在料理進行中。なんだかすべてが丸く収まった感じだ。

          Kakky(柿本)

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さて、残る気がかりはただ一つ。連休は?……などと思いつつも、相変わらず洟と咳に悩まされている。“寝連休”か?……


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連休って!?

GWに入っている。近くを通る甲州街道の交通量は一時増したが、それも収まりここ世田谷は、“のんびり度”が増している。

ただ、かつて僕もそうだったが、依頼をうけて企画などを行う“受注型”の仕事をしているKapparは、きちんとGWを休むことは難しい。発注者がGWをきちんと休み、かつ仕事はスムーズに進めたいがために、「GW明けまでにお願いします」と依頼してくることが多いからだ。

それでも、長年続けている仕事がほとんどのKapparは、仕事を通じてできた信頼関係のおかげで、スケジュールを自分の暮らしの都合にある程度合わせて調整できるようになっている。今年は、GW後半(4~7日)をほぼ休む予定……だった。そのために、GW突入前にはちょっと頑張っていた。

が!が!まさに好事魔多し!

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一昨日夜、Kappar風邪発症!昨日は遂に、雷に怯える佐助と一緒にダウン。

連休は、休みが連なっている日々のはずが、“連なって休む”日々になってしまった。近所のかかりつけの医者に行き、薬を服用して休んだが、まだ回復したとは言い難い。さて、今年のGWはどうなるのか……。

          Kakky(柿本)

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