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脳卒中リハビリに関する一患者の考察……転院を考えるに至った理由  ①

まだ決心したわけではないが、通院リハビリで利用する病院を、7年間お世話になった成城リハビリテーションクリニックから久我山病院に変更しようと思っている。以前からそこはかとなく考えていたことだが、一週間前の骨折で俄然現実味を帯びてきた。

 

何故そう考えるに至ったか。脳卒中(僕の場合は、脳出血)発症後からのリハビリ体験を通じて得たこと、あるいはそれが元になり調べたことなどから“一患者の考察”として記してみたい。……以前本ブログに書いたこととの重複点は多いが……

 

きっかけは、昨年末、成城リハビリテーションクリニックのリハビリの日、OTの担当が休みだったためか、初めての人が僕を担当することになったことだった。ベッドに横になり、いつものように始まって数分、彼女の説明と方法論に僕はピンときた。

「初台(リハビリテーション病院)のご出身ですか?」「はい。そうですが。わかります?」「わかりますよ。特徴がありますから」「どんな特徴ですか?」「なんとなくですけどね」

とは言いつつ、実はデジャブのように、初台リハビリテーション病院で受けたリハビリを思い出していた。

それは “筋肉鍛錬偏重型”のリハビリとでも言えばいいのだろうか、麻痺側の筋肉の強化を目的としたリハビリ法だった。もちろん、その必要性を認めないわけではないが、脳卒中患者の僕には、“脳からの指令が途絶えている筋肉をいかにして鍛えるのだろう?”という疑問がつきまとうものだった。しかし、あくまでも素人判断。しかも、決められたリハビリメニューを真面目にこなすことが機能回復の近道だとはわかっている。疑問を口にすることなく、楽しくリハビリを続けた。

しかし、入院から一ヶ月少し経った頃、あるPTの療法士にこんなことを言われた。膝の運動をしていた時のことだった。

僕の膝を両手で押えながら、「膝が安定するのは少し曲げた状態の時なんですよ。ほら。この状態。……真っ直ぐすると安定しないし、ロッキングして痛いですよ」

“そんなことわかってらい!それができるんだったら、リハビリなんかしてないわい!”と心で毒づき、「そうですか。できるといいんですけどねえ」と応えた。

しかし、「さ、ここですよ!この状態!」と彼が手を離すと、僕の膝はカクンとロッキング。療法士は思わず、首を捻った。「なんで、できないかなあ~~」。

また、こんなこともあった。OTの時だった。リハビリ中の肘と肩の強い痛みに襲われ、時々顔を歪める僕に、彼は「痛いですか?じゃあ、次回は○○に担当してもらいましょう。彼女は腕と肘の関しては、すごく上手なんですよ」と、次回担当を○○さんにした。

そして翌朝。○○さんからベッドの上でリハビリを受けた。驚いた。痛みはたちどころに消え、肩の動きもよくなった。

「○○さん、凄いですねえ。お蔭さまで痛くなくなりました。そう言えば、●●さんも褒めてましたよ。肩と腕は上手だって」

感謝のつもりだったが、彼女の顔は少しだけ不満気だった。僕は不思議に思い、さりげなく色々と聞いてみた。

○○さんは、20代前半。●●さんの5歳ばかり年下。出身地が僕の出身地に近かったので、故郷話が弾んだ。その勢いに乗って、訊いてみた。

「●●さんが○○さんは上手だと言ってる理由はなんですか?何が違うんですか?」

彼女は一瞬真顔になり、「経験の差ですよ。経験が違いますから」と答えた。

「え!?○○さんの方が年下ですよね」と訊き返すと、「私は接骨医の所に2年間いましたから」とさらりと、しかし誇らしげに言った。僕は、その言葉に僕が抱き続けていた疑問の一部が解けた思いだった。筋肉鍛錬偏重型のリハビリは、欧米型であり、スポーツ運動学由来のものかもしれない、と思ったのだ。

退院後、早速僕はいろいろと調べてみた。すると、脳卒中リハビリを巡る日本の状況が次第に見えてきた。  ……つづく

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佐助にとって、僕と食欲は密接に絡んでいるのか、側にやってきて舌なめずりすることが多い……。

昭和少年漂流記 第五章“パワーストーン”:なかなか更新できません!)60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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まるで怪我人みた~~い!

月曜朝、変則尻餅。左足甲に激痛。火曜、一日ひっそり。トイレへの匍匐前進、要領アップ。水曜、痛み消えず。内出血痕出現。……?????……リハビリ病院よりも整形外科?!

と考え始めた夜、Kapparがお手製のギプスセットを持って上がってきた。

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湿布を交換。テーピングした後、左足は簡易ギプスに収納された。木曜、電話連絡や下調べをして、久我山病院へ。左足は踵だけを床に着け、右足右手頼みで階段を降り、タクシーへ。

着くとすぐ、Kapparが病院備え付けの車椅子を運んできて、するりとその上に。11時半の受け付け終了直前に滑り込み。

レントゲンを撮って順番待ち。いつもどおりの賑わい(?)だったが、意外と早く、1時前には診察室に。

以下は、その時の模様。

女医さん:どうされました?

Kakky:実は脳卒中で左半身に麻痺があるんですが、歩行はできる状態です。で、月曜の朝、立ち上がり一歩踏み出そうとした時、着地した麻痺側の膝の力がふっと抜けて……時々起きることなんですが、いつもは上手に尻餅を突くんですよ……その時は、若干前傾している状態だったので足首が前にぐっと……なんとか体勢を立て直し、後ろに尻餅を突いたんですが、激痛が走って……。

Kappar:捻挫かな?骨折しかな?と思ってたんですが、どうも骨折ではないかと……(彼女は、数々の骨折歴を誇るその道のセミプロ……?)

女医さん:(レントゲン写真を前に掲げながら)残念ながら、立派な骨折です。ほら、ココ。それと、見えにくいですが、ココにはヒビが……。

Kakky&Kappar;やっぱり!骨折なんだ~~。

女医さん:ただ、幸いなことに折れた部分が、そのまま留まっていますから……。手術する必要はないので、このままくっつくのを待ちましょうか。ギプスを用意しますね……。

というわけで、さっさとギプスが準備された。

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ギプスに収まった足を見て、Kapparが一言。「まあ、まるで怪我人みた~~い!」と、笑いを取って、診察終了。立派な怪我人となって帰宅した。

おかげで、杖利用で家の中をゆっくりと動けるようになった。踵だけを使うようにはしているが……。立ち上がらず、動かず、ご飯もくれず、時々ズルズルと匍匐前進の僕と、忙しい仕事の合間にバタバタとせざるをえないKapparの姿に、佐助も不安げだったが、落ち着きつつある。

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そして僕は今、通院リハビリの、成城リハビリテーションクリニックからの転院を考え始めている。その理由は、明日……。

昭和少年漂流記 第五章“パワーストーン”:来週初めから更新します!)

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打たれ強さも、足元から崩れる!?

過去何度かのイジメに遭ったが、応えることはなかった。暢気な性格が幸いしたのか、どこか鈍いところでもあるのだろう。下手くそな冗談で返したり、気付かないふりをしてやり過ごした。その後の態度を変えることもなかったせいか、やがて、“打たれ強い奴だなあ”などと評価(?)され、イジメは僕に対する憎しみや怖れに変わっていった。

ただ、肉体的な恐怖にはとても弱い、と自覚していたので、暴力を受けそうな機会は、可能な限り避けていた。理不尽な暴力に屈することほど悔しいことはないからだ。転校を繰り返さざるを得なかった小学生の時身に付けた対処術だった。

VAN倒産の半年前。社長室勤務を命じられて間もなく、第一組合のK委員長に無人の会議室に連れ込まれ殴られた時は、大袈裟に「痛~~い!痛いじゃないですか~~!殴るのは止めましょうよ~~!」と(他の社員に聞こええるように)叫んで、一発だけで終わらせることに成功した。ほっとした。痛みもすぐ忘れることができた。多少の暴力に対する耐性もあるんだなあ、と思った。

ところが、打たれ強さなんて、足元から容易に崩れるものだとわかった。僕の足は、どうも骨折かヒビのようで、少し動かすだけでも痛い状況が続いている。知り合いの格闘家から、格闘界トップクラスの人が小さな怪我やちょっとした出血で大騒ぎする話を聞いて大笑いしたのを思い出した。笑って申し訳なかったと思った。外から受ける痛みには向かって行けるし耐えられるが、内なる痛みには耐えられないものなのだ。

と、まあ、大袈裟なことを言っているが、明日予定のリハビリ(…は無理だが…)の機会を利用し、診察してもらうことにした。

Kapparとタクシーで、ということになったが、タクシーまでは?乗り降りは?といったことは、これから相談しなくてはならない。

同病の方々。是非転倒にはご注意を~~!!

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こんな目で見つめられても、今はご飯をあげることもできない。寂しい……。

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やっと明けた新年。様々な痛みが交錯して……

平和に暮れ、明るく始まるはずだった新年……だが、年の瀬に相次いでワン友を不幸が襲った。こんな時に有り難いのが、友人とおいしいもの。

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仲良し夫婦3組で、不幸に見舞われた人を偲びつつ始まった忘年会は、30日。囲むは、大阪の友人EBUちゃんから届いた焼肉。おいしくいただき、「良いお年を~~」と深夜に別れた。

深い眠りについた翌日は、小田原のKapparの実家へ。2世帯住宅だとはいえ、今年は一人で正月を迎えることになるお義父さんと新年を迎えてあげようという訳だ。

ところが、31日夜半、年越しそばを食べる時はさほど問題のなかったお義父さんが、二度も徘徊状態となった。二度目などは、危うく外に出てしまうところだった。

明けて新年、お雑煮を食べる横顔やソファの姿を観察していると、昨日とどうも様子が違う。パタンとドア一枚、向こうに行ってしまったような感じがする。それでも、「お母さんに会いに行きましょうか?」と問い掛けると、首を垂れたままではあるが、「う、うん」と確かな反応が……。

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そして実現したのが、お義母さんの元でのKappar一家のお正月。義弟が持参した古い写真に話も盛り上がる。ただ、一方で気になるのは、お義父さんの表情。心ここにあらず、といった風に見えてならない。

帰ってからすぐ義弟の家で家族会議を開催。お義父さんの“今”を話し合い、“これから”に関する意思統一を図った。それぞれが役割分担を意識しつつ、それぞれへの気遣いも忘れないKappar一家の連携の見事さに、大いに安心してお義父さんの元へ。

と、制服の男性がいる。SECOMの人らしい。お義父さんが緊急ボタンを押したのだと言う。「腰が痛い。病院に行きたい」と言ったらしい。その場は収めたが、帰る時間が迫っている。お泊りから帰宅する佐助を迎えなくてはならない。義弟に後を託して帰ることにした。

三日後、お義父さん検査入院。異常はなかったが、ほとんど覚醒しなくなった。半年後くらいをイメージし意思統一していたお義父さんの“これから”が、いきなり現実に。あれやこれやの連絡、相談、手配等が終わった時は、新年も一週間以上が過ぎていた。

そこに飛び込んで来たのが、ブロ友からの電話。5年に亘って在宅介護してきて、年の瀬軽い症状で入院していたご主人の容体が急変したとのこと。駆け付ける準備をして待っていたが、深夜、遂に亡くなった。

彼女の“今”と“これから”も話し合った。とにかく、いつでも、どんなことにでも応えてあげようと決め、“待つ”ことにする。

それから数日、いろいろなことを考えた。松が内は15日までと決め、ぼ~~っと過ごした。その間、仲良しS夫婦と“コタツでまったり新年会”をしたりもしたが、胸の片隅にあるものは冷たく固くなるばかりだった。

そして、18日。T夫婦の奥さんYさんが、訪れてくれた。「Kakky、元気にしてるの?」と言われた。“いけない、いけない。年を明けさせなくては!”と思った。

翌日には、小金井公園に誘われた。撮影班に徹した。寒風の中、蕎麦を食べて帰ってきた。年越し蕎麦から起きたことも、年明け蕎麦で一段落かな?と思った。

ところが!終わっていなかった!

翌朝、コタツから立ち上がり、トイレに行こうと一歩踏み出した瞬間、麻痺側の膝から突然力が抜け落ちた。たまに起きることで、いつも上手に尻餅を突くのだが、この時はかなり前方に傾いてから、尻餅を突くことになった。強い痛みが足首と足の甲に走った。

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湿布やテーピングでKapparがケアしてくれた。「骨折はしてないようだけど…」というのが二人の判断だが、何しろ痛くて立ち上がれない。移動は右手右足に頼った変則匍匐前進という状態。何もできない。お義父さんやブロ友の“今”と“これから”に向いていた意識が、自分の“今”と“これから”に向く。いろいろとシミュレーションしてみたりもする。“現実は前触れもなくやってきて、気付けば目の前にある”ものなんだなあ、と、とことん思わせてくれる。

でもまあ、こうして年は明け、やっと始動開始!!ですのだ~~~。

昭和少年漂流記 第五章“パワーストーン”:明日の更新を目指します!)

 60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

 

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