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休息の休日……再び思うこと

膝の痛みが治まらず、e-poohとの打ち合わせを“ごめんなさい”した金曜日。NPO設立に当たって心に決めていたことを、もう一度確認し直してみた。急がない、焦らない、頼らない、挫けない、諦めない。の“5ない”を決めていたのだが、それに“過ぎない”を加えるべきかな、と思った。

人への期待や自分に課す義務は、過度になるほど空回りする。空回りは余分な熱を帯びさせ、いい結果をもたらさない。折角順調に動き始めた車輪を壊してしまうかもしれない。人もエネルギーも、調和のとれた状態でキープしていくべきだろう。“過ぎたるは及ばざるが如し”!肝に銘じておかなくてはならない。

ゴージャス佐助。

“余分なエネルギーを使いそうなことは、やっぱり回避すべきだ”と改めて思った夜、ふと佐助を見ると、ニッセンから届いたばかりの専用ベッドに丸くなっていた。「おや!佐助~~~。駄犬王子が、ずいぶんゴージャスに見えるわねえ」と、Kapparは笑った。

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夜だからわかりにくいが、昼だと、なんと!

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座る椅子で妙に変わっていく人間が多いが、佐助は変わらない。なんだか不釣り合いなベッドのイメージと“なにか?!”という顔付のアンバランスが可愛くしか見えないのは、ベッドに価値など見出していないからだろう。1800円。確かに価値もさほどないけど、金ぴかベッドにしても一緒なんだろう。人はきっとそうはいかないんだろうけどねえ。

 

“昭和少年漂流記” は、11月中旬まで休載します!

(NPOの設立準備のため……)

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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4日連続長距離歩行……限界は?

僕の友人に、“タクシー大好き男”がいる。現在はそうでもないようだが、彼の30~40代の時のタクシー代、月額約50万円!要するに、ほとんど歩いていなかった。周囲から健康のために歩くように言われ、万歩計を腰に付けていたこともあったが、1日600歩を超えることさえ稀なことが分かり、捨ててしまった。健康を理由に経費の節約も狙っていた周囲の目論みも露と消えた。

週に3人の人に会う!と決めた僕は、歩かねばならない。タクシーは余程のことがない限り利用しない!とも決めているからだ。というわけで、今週は随分歩いた。ひょっとすると、40歳以降の4日間の歩行距離では、最長を記録したかもしれない。さすがに、膝が痛い!それでも、明日の予定も立てた。一晩の睡眠の効果に期待するのみだ。……きっと、ケロリンと朝を迎えるはず……。無理をする気はないけど……。

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帰宅時ドアを開けた瞬間、小さく「イテ!」と漏らしたら、佐助がお座りした。心配でもしてくれたのかなあ。……んな訳ないか……

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(NPOの設立準備のため……)

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須賀さん、佐助、そして……

NPO設立申請を前にして、いくつかのことを決めた。HPのデザインが進む一方、そのコンテンツを充実させていくために今から成すべきことを決めたのだ。

一つは、週に3人、人に会うこと。もちろん、話題はNPOのこと。そしてもう一つが、月に2か所(人、施設、行政等々)、取材すること。漠然とした問題意識の輪郭をはっきりとさせより現実的で具体的なものにしていくと同時に、次の取材先をイメージしていくためだ。35年来の友人のカメラマン寺崎さん(ブローアップ・スタジオ主宰)に、可能な限り同行してもらい、臨場感のある写真を撮ってもらう約束もできている。コンテンツの充実=活動の充実、あるいは、ネットを通じて可能な限り現実を伝達する、ことを意識してNPOスタート以降も、できるだけ続けていきたいと思っている。

というわけで、今日はリハビリ仲間の須賀さんに、新宿オペラシティでお会いしてきた。脳出血~リハビリの体験と想いを自由に書いて、寄稿していただきたい、とお願いした。了解いただいた上に、身体の心配までしていただいた。1時間あまりの再会を楽しんで帰ってきた。

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佐助が待ち受けていた。「なんだか最近は、毎日出かけるんだねえ」と言いたい風情を見ていて思い出した。

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Kapparに「地下の網戸にカマキリがしがみついているんだけど、どうもお亡くなりになっているみたいなので、取って~~~!」と言われていたのだ。下りてみると、そこそこ大きなカマキリが!網戸の向こうには「ほらね!」と、柄にもなく(?!)虫が苦手なKapparの顔が!

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このおぞましい光景を消し去るためには、カマキリに成仏してもらうしかない!というわけで、ティッシュで片付けたのだった。心の中で「俺は男だ!」と叫びながら………。

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“リハブ土田”の土田先生。

昨日、午後6時半、目黒の“リハブ土田”に伺い、土田先生とお話しさせていただいた。とてもお久しぶりだった。

土田先生は、成城リハビリテーションクリニックの院長をされていた方で、僕の担当医でもあった。診察の時に、診察とはおよそ縁のない“介護される側の心理”や“保険制度に対する疑問”や“リハビリを取り巻く制度やシステムに関する疑問”などを口にすると、必ずきちんとお話しをしてくださる方だった。“CI療法に関する疑問”をぶつけた時は、パソコンの画面にCI療法に関する論文を映し出し、簡潔な説明をしてくださった。リハビリの現場や患者に対する目線がいつも定まっていて、その奥にある情熱も感じさせる方だった。

その土田先生が、成城リハビリテーション病院をお辞めになり、他の病院の院長職に就かれたと聞いてから数年、“AKA法”専門医院を開業されたと風の噂に聞いたのは、昨年春のことだった。病院の経営の一翼を担う立場や、会話と処方箋を書くだけに陥りやすいリハビリ医であることを捨て、“AK法”という間接運動学の実践に向かわれたのだった。素晴らしいことだ、と思った。勇気ある独立だ、と思った。そして、少しだけ心配になった。組織的な経営から離れ、リハビリ業界ではまだまだ亜流扱いの“AKA法”での独立。ほとんど存在しない種類の個人病院の経営は成り立つのか……。

NPO設立に向けて動き始めて以来ずっと気になっていた土田先生にお会いして、胸のつかえが下りた気分だった。僕の心配など必要がなかった。土田先生は意気軒昂。“AK法”に対する情熱と信念は以前よりも増し、患者と直接接触し、症状の良化を共に喜ぶことができる現状に、とりあえず満足されているようだった。

NPOに関しても、いくつかの示唆をいただいた。夢の一端も伺った。そして、これからのお付き合いも約束していただいた。うれしかった。31人もの患者さんを“診る”のではなく、患者さんに“触れた”後のお疲れの時間を割いていただいた有意義な1時間半だった。ありがとうございました!……これからも、よろしくお願いいたします!

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話している間にかかってきた患者さんからの電話への対応も、懇切丁寧だった。

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柔和で一徹。それが、土田先生だと、僕は思う。

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NPO法人“介護とリハビリのネットコミュニティ”(まだ、仮称)とは?

脳出血を発症し、救急搬送~治療~リハビリ入院と3か月を過ごす間、ほとんど情報から隔絶されていた。医者、療法士からの説明・指導だけが頼りの日々だったが、納得できないこともしばしばだった。そんな時心強かったのは、入院中の心優しい先輩たちだった。「患者のプロにならなくては…!」と張っていた気持ちがどれだけほぐされ、小さな疑問にどれだけ答えをいただいたことだろう。後遺症として言語を失ってなくてよかった、とつくづく思った。と同時に、コミュニケーションが突然うまくできなくなった人たちの苦しさ、寂しさ、苛立ちを想うと、いたたまれなかった。

退院してすぐ、病前書いていたブログの内容を変えた。僕が病院で先輩の方々に助けていただいたように、脳卒中とリハビリの先輩として、これからも毎年30万人近く出てくる“後輩”に、僕が経験したことだけでも伝えたいと思った。そして、疑問だったこと、知りたかったこともネットで調べた。そして、“リハビリテーション病院の選び方”に関する私見も書いたりした。

しかし、何について調べても、どんな体験を紐解いても、一個人のできることには限界があることを悟った。そして、病気の体験者とそれに関わる人たちが互いに意見交換できるコミュニティが存在すれば、それはもっと確かで温かい情報の受・発信基地になれるのではないか、と思うようになった。

まずは、同じ思いの人たちが連携すること。具体的な活動は、その連携があれば見えてくるはず……。様々なことをイメージしつつ、当面は白紙に近い状態にしておいて、立ち上げていきたい……。てなことを、日々考えている今日この頃です。考えているだけではいけないので、今秋からは、折を見て取材活動をしてみたいと思っています。また、順に報告していきます。……そのうち、取材報告やレポートは、NPOの仮のHPに移行していこうと思っています。

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VICTORの犬のように、まずは色々聞いてこようかな、と思っています。虚心坦懐ってやつですかねえ……。

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“同床異夢”より、“異床同夢”(?!)

「人それぞれなんだなあ」と、つくづく思わされたのは、初台リハビリテーション病院入院中のことだった。快適な部屋でベッドに横になっている4人の、リハビリへの期待、リハビリに取り組む姿勢、家庭環境、症状……は、当たり前のことだが、微妙にあるいは大いに異なっていた。脳梗塞か脳出血か、脳細胞が壊死した箇所はどこか、発症から治療開始までの時間はどれくらいだったか、などによって、それぞれが抱える後遺症にもかなりの差が出てくるのだから、やむをえないことだと思った。

しかし、脳卒中という同じ原因でベッドに横になっていることは一緒だから、どこかにきっと共通の思いや願いがあるはずだ、とも思った。言わば、“異床同夢”……。そして、気付いた。全国にはこうした“異床同夢”の人が150万人以上もいるんだということに。しかも、広く点在する“異床同夢”の“病気の被災者”は、脳卒中だけでも、2020年には280万人を超えると予測されている。そのうちの何割かは、寝たきり……。彼ら(僕もそうなっているかも…)を襲うのは、 “孤立感”という暗く深い心のブラックホール。それはきっと、彼らを支える家族までも飲み込んでいくだろう……。

そんなことを思うと、じりじりとしてくる……。何かしなくちゃいけない、と思う……。と、始まったNPO構想だが、いざ準備を始めると、今度は“同床異夢”の壁にぶつかったりもする……。考え過ぎないことよ、とNPOの先輩たちは言ってくれるのだが……。

何をちまちま!全部、動きながら考えればいいのさ!ずっとそうだったじゃない?!……と、佐助に不安視されているような……。

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NPO立ち上げに向けて。

とてもシンプルな動機から芽生えたNPO構想“介護とリハビリのネット・コミュニティ”。介護家族とリハビリ家族並びにそれにかかわる人たち(医師、介護士、療法士、行政等々)が “情報とコミュニケーション”を共有する場をネット上に作り、それが時には貴重な情報源に、あるいは憩いの場に、あるいは癒しの場になればいいな、と考えているのだが、まず始めないことには何も起きていかないんだ、ということがわかって半年以上。それでもあれこれ準備し、考えて、色々な人に会い始めた今日この頃。

挫けそうになることもあったが、星加ルミ子さんにお会いして、NPOの会員になっていただくこととご協力をお願いしたら、快諾していただいた上に、激励までいただいた。さらに、久しぶりにお会いした初台リハビリテーション病院同窓生のnoncoさんにはも、とっても元気をいただいた。その勢いでまた次々と友人たちに会い、様々な協力をお願いしたところ、みんなにこやかに、そして真剣に、協力を約束してくれた。星加さんとnoncoさんのオーラが届いたかのようだった(noncoさん、ありがとう!もちろん、Kさんも、ね!)。なんだか、小さな自信さえ生まれてきたような気がする。

Nonco

そこへ、これからきっとバタバタするはずの僕に、Kapparから、一週間早い誕生日プレゼントがあった。一泊二日の“飽食の旅”。夜は“ピザ&パスタ”の店(地ビールしか写真がない!!)。

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翌日朝は、“バイキング”(フードコーディネーターKapparが皿に盛って運んでくれた)。

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昼は、“鯛めし松花弁当”(老舗だそうだ)。

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行った場所は、この写真でおわかりのはず……。

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帰ってきた翌日から、またバタバタしております……、今日はちょっと疲れておりますが……、11月の初旬にはHP(まだ、仮のものですが…)がアップできると思います。ご覧になってください。そして!参加してください!

                              Kakky(柿本)

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”⑨(終)

少し汗ばむほどの陽気。初夏を思わせる春休みの午後。小遣いを握り締めて入ったいつもの万屋で、突然声を掛けられた。「こんにちは~。柿本君!」飛び上がるように振り向くと、背の高い(少なくとも156cmの親父よりは随分大きく見えた)がっしりとした若い男性の微笑と出くわした。それが、沢勝利君のお父さんだった。一度だけ夕暮れの後姿を見たことがあっただけだったが、そうだと思った。そして目線を少し落として確信した。若い男性の後ろに、土に汚れた父親のズボンを握り締めている沢君の弟がいたからだ。彼は僕の目線とぶつかると、少し顔を背けた。

沢君のお父さんの右手には1本のラムネが握られていた。栓を開けた後、こぼれないように口で押さえた直後のようだった。「こんにちは~」。戸惑いながら挨拶を返した僕ににっこりとして見せながら、沢君のお父さんはラムネをあおった。「ちょうだい」。すかさず、か細い弟の声が聞こえた。お父さんは無視。「チョーダイ!」。弟の声が大きくなったその時、ラムネから口を離したお父さんは、小さくゲップをした後、叱り付けるように言った。「子供には身体によくないんだ!だめ!」。僕は驚いた。そんな話、聞いたことがない。ひどいなあ、と思った。振り向かないようにしながら駄菓子を買って帰ることにした。沢君の弟が僕を追い抜き、泣きながら走って行った。

足を止めた僕に、沢君のお父さんが近づいてきた。その右手にはラムネ。左手にはあんぱんが握られていた。横をすり抜けようとした僕に、沢君のお父さんが声を掛けてきた。「あんぱん好き?」。「はい。まあ」。「分けてあげようか?」。僕は、ちょっと怒りを覚えながら「いいです」とお断りした。すると沢君のお父さん、照れ笑いの表情を見せながら「あんぱんは丸いから、ちょうど半分にするのは難しいからねえ。円周率を使わないとねえ」と言って、あんぱんを口にした。僕は、円周率という、知って間もない言葉と沢君のお父さんの容姿と言動の落差に一瞬戸惑い、足を止めたまま「そうですねえ」とあんぱんを口一杯に頬張る沢君のお父さんの横顔を見つめていた‥‥。

僕は、沢君兄弟が可哀想だった。彼らの生活や将来を思い描いて暗い気持ちになった。そして、何もして上げられないことに落胆したままお別れをして、転校していった。

ずっと後のことである。高校2年生の秋、沢君から突然手紙が届いた。引越しを繰り返しているのに、どうやって住所を見つけたのだろう、と訝しく思いつつ、でも少し心ときめかせながら、僕は手紙を開けた。便箋2枚にぎっしり、小さく汚い字が並んでいた。

お父さんが亡くなった知らせだった。山で作業中の事故だった。

返事を書くには重すぎた。やっと書こうと決心したのは、1年後。高校3年生の夏休みだった。推敲を繰り返して書いた手紙はしかし、届くことはなかった。

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“佐助”になる直前の佐助。この頃に比べると、大人になったものだ。

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沢君兄弟が大人になった姿も見てみたかったなあ、と思う今日この頃だ……。

 60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

第三章、連載中!“昭和少年漂流記”

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”⑧

昭和30年代。貧しくも懐かしい時代である。昭和40年代、自分の中にある田舎を消し去ることに汲々とし、消し去ることが出来なかったことに、今安堵しているのは僕だけではないかもしれない。昭和30年代には、どこか凛とした、自らの役割をきちんと背負っていこうとする姿勢が、親にも子供にも残存していた。……そう言い切ってしまうと美化し過ぎだろうか。ただ少なくとも、“分をわきまえる”ということが、自らを律するための必要条件として認識されていた時代ではあったように思う。「もったいない」という言葉が、「自分にはもったいない」との意味で使われることも多かったのは、その証左のような気がする。多過ぎる情報に惑わされ、いつの間にか間違った平等意識が権利意識へと変化を遂げ、分不相応なまでに過多となってしまった欲求に振り回される‥‥。背伸びしては人の目線と交差し、手を伸ばしては人の指先にぶつかる‥‥。といったことを繰り返した昭和40年代以降、残ったのは、空虚なモノたちだけだった、ということはないだろうか。

昭和30年代、中国山脈の山襞に寄り添うように暮らしている沢谷村の人たちの、相手が自然だからこそ毅然とした暮らしぶりは、町育ちの小学校低学年の少年の心にも、ささやかにではあるがきちんと響いていた。もちろん、時にはそれは厳格な顔付きで迫ってくるものでもあった。県道の道端に生えていた一本の蕗を抜いただけで、家に抗議に来た農家のおばさんから泥棒呼ばわりをされ、「蕗一本くらい」と口走ってしまい親父に頭を引っぱたかれた時。お坊ちゃまの多久茂君が床にひっくり返した弁当箱の中身に手を伸ばした沢君に「止めろ!」と怒鳴った僕の脇で、「きれいなところだけ取れば?」と言った友達の優しい横顔を見た時。「餡餅食べる?」と手渡され、喜んで齧り付いた餅の中の餡がしょっぱかった時‥‥。暮らすことの原点、すなわち生きていくということの重みを、僕は刻み込まれた。

沢君への興味は、そんな刺激もあったからこそのこと。彼と彼の弟の、子供なりに向き合っている“生”は、僕の周りにあるのどかな“生”と、色も匂いも違っていた。冬になるとPTAのお母さんたちが、ボランティアで提供してくれる「味噌汁給食」という不思議なものがあったのだが、沢君兄弟は、それだけでお昼ご飯を終えることが多かった。その姿は、彼らの厳しい日常を思わせた。他にも「今日は弁当忘れた~」と言い訳しながら、具だくさんの味噌汁をお替りする子もいたが、沢君の味噌汁依存は群を抜いていた。野菜を持ち寄るという負担の少ない方法で、PTAが人助けをしているのが「味噌汁給食」だと、やがてわかった。無理をせず、人にも無理を強いることのない節度ある人助け。それも貧しさの中での共同体のあり方を示すものだったのだ。しかし、それにしても沢君のお父さんは一体どんな思いで、どんな暮らしをしているのだろう。ほとんど山に入っているため、見かけたこともない一人の大人の男へと、疑問や不信感を抱きながら、僕の関心は移って行った。

小学校3年から4年になる春休みの暖かい午後。転校直前の僕は、遂に沢君のお父さんと出くわした。小学校前の万屋の店先でのことだった。

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初めて会った沢君のお父さんに、僕は間違いなく腰が引けていた……。

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第三章、連載中!“昭和少年漂流記”

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”⑦

親父と僕、という不完全でちょっといびつな家庭に後から参加したお袋は、そこで何をなすべきか、いくつかの役割を想定していた。と、今になって思う。ただ、お袋には母親経験がなく、僕には母親体験がなかった。おまけに親父も母親体験が希薄とあって、お袋の母親としての役割は躾と教育を主眼に置いたものにシフトされていかざるをえなかった。要するに、どう接していいのか、お互いにずっと手探りだったのだ。僕に対するお袋の厳しさは、お婆さん子の甘さを払拭しなくては、という使命感と、小賢しいガキだった僕へのシンプルな苛立ちによるものだったのだが、僕はそれを、お袋の性格だと思っていた。お袋が抱えている強い役割意識になど思いが及ぶはずもなかった。しかし、小学校3年の夏。お袋の深いやさしさに僕は触れ、少しだけお袋に対して心が開かれていくのを感じた。照れと意地で容易には接し方を変えることは出来なかったが、「お母ちゃん」と呼ぶ声に無理や衒いが少なくなったのは、確かだった。

少ない収入、なかなかの借金、金のかかるガキ、と家庭経営を阻害する要素が重なっているにもかかわらず、お袋の経営者としての手腕はすばらしかった。まず給料日に貯金。残ったお金を費目別に分類し、月額予算を設定。不意の支出用の特別会計予算も、毎月月額で予算設定されていた。次いで、費目別月額予算を日別予算にブレークダウン。予算の範囲内で一日を暮らす。月末に残ったお金は、当然貯金。毎日、夕食後は使ったお金と残金の確認。1円でも合わないと「気持ち悪い」と、ぴったり合うまで小銭探しや使ったお金のチェックに付き合わされた。

しかし、そんな経営者のお陰で、親父と僕の暮らしには、少しずつ日が差し込んでくる感じだった。小さくゆとりがある時は、ささやかな贅沢もお袋は提供してくれた。お袋は倹約家ではあったが、吝嗇家ではなかった。そして、夕食に供されるささやかな贅沢が、この頃はカレーライス。カレーライスを作る匂いが鼻をかすめるだけでとわくわくし、帰心をそそられたものだった。

そんな夏の夕暮れだった。早くカレーライスにありつこうと、いつもより早く帰宅した僕にお袋がカレー鍋を掻き混ぜながら言った。「沢君、呼んであげれば?」僕は、一瞬驚いた。が、すぐにうれしくなった。沢君の厳しい家庭環境や沢君兄弟の健康状態の悪さを聞くともなしに聞きながら、お袋は気にしていてくれたんだと思った。僕は、早速沢君を呼びに行った。「晩御飯、食べに来ない?」とだけ言った。カレーライスのことには触れなかった。沢君は、「弟もいいかなあ?」と窺うように小声で言った。「いいよ!」と応え「早くね」と言い残し。僕はいいことができる興奮に小躍りしながら、帰っていった。数分後、沢君兄弟は静かに現れた。「こんばんは~」と言ったまま身じろぎ一つせず固まっている二人を卓袱台の前にいざない、三人でカレーライスを待った。すぐに、三枚のカレーライスのお皿はお盆に乗ってやってきた。一人ひとりに「はい」と言いながら、お袋がそれぞれの前にお皿を置く。真上の蛍光灯の光のせいか、カレーライスはやけに黄色く見えた。豚肉が所々に顔を覗かせていた。香り立つ湯気が、強烈に食欲を掻き立てた。「食べて、食べて!」。かしこまっている沢君兄弟に、スプーンをかざしながら僕は声を掛けた。その時だった。俯いたままだった沢君の弟が噛み殺していた嗚咽を大きく洩らした。僕は戸惑い、沢君の方に声を掛けた。「どうしたの?」。すると、弟が顔を上げて、震える声で叫ぶように言った。その目は、お兄さんを見上げていた。「お母ちゃんが死んでから初めてだねえ、カレーライス」。危うく落としそうになったスプーンを辛うじて持ち直しながら、僕はもらい泣きの涙を卓袱台に落とした。

10分後か20分後だっただろうか、「もう1杯いかが?」というお袋の申し出を、誘惑に負けそうな弟の膝を片手でそっと押さえつけながら固辞して、沢君は夕暮れの中を帰っていった。その後姿を外まで出て見送りながら、僕は何かしてあげたいと本気で思った。

お袋は、その後「沢君、呼んであげようか?」と頻繁に言う僕に、「いいわよ」と言うことは、ほとんどなかった。それがむしろ、沢君たちへの思いやりに拠るものだったことに気付くのに、僕はたくさんの時間を必要とした。お袋がそれから気にかけていたのは、僕の衣類を新品に交換するタイミングを早めることだった。完全に着られなくなる前に、沢君にあげるためだった。苦しい家計の中で出来る工夫の一つだった。

3年生の冬、僕のお下がりのランニングシャツを着て登校する沢君に一度だけ出くわした。僕は親父と一緒だった。親父は、また声を掛けた。「沢君、寒くないかい?」。寒いからこそ小走りだった沢君は、一瞬足を止めた。「大丈夫で~す」。明るく大きな声だった。

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弟がカレーライスの皿を両手に持って舐め始めると、兄貴の沢君は頬を染めて怒った。弟は、何もなかったかのように舐め続け、すっかりきれいになったお皿をテーブルに置き微笑んだ。かわいい笑顔だった。

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”⑥

平日は、午後3時に10円。日曜日は、午前10時に5円と午後3時に10円。というのが、当時の僕の小遣い。浜田で祖父母、叔父・叔母と暮らしている時には、4人がそれぞれ思い思いにくれていたものだったが、お袋は一人で負担しなくてはならない。手取り2万円程度の給料から、雑誌の定期購読料と月額にすると300円強にもなる小遣いを子供のために支出するのは痛かったに違いない。時折、親父に相談しているのを小耳に挟んだが、親父の「もう少しの間、我慢してくれ」で相談は終わっていた。親父としては、肺結核を患っている間預けっぱなしだったことや離婚したことなどが後ろめたかったのだろう。

1年後に減額されることになるが、当時の子供にしては潤沢な小遣いだった。そのほとんどが、「日の丸」キャラメルや「ねぶり籤」に費消されるだけで、時には気前よく友達に奢っている息子の姿を見ると、借金の返済に苦労していたお袋からすると、苛立たしくてたまらなかったことだろう。その思いが鬱積していたのか、僕が、11月21日、貯金箱を割って取り出したお金で、遠くの雑貨屋まで足を運び、誕生日のプレゼントとして買ってきた割烹着と爪楊枝を、満面の笑みを浮かべながら「誕生日おめでとう」と差し出した時のお袋の第一声は「このお金どうしたの?」というものだった。その目は冷たく、その声は刺すようだった。僕は差し出した割烹着と爪楊枝をお袋に投げつけ、泣きながら外へ駆け出した。そして、玄関を出たあたりで、お袋への恨みの言葉を口の中で繰り返した。しかし、小学2年生のガキが高額の小遣いを気まぐれで貯めて、生意気にも割烹着などを買ってきて差し出したのだ。そのお金の工面に苦労していたお袋の悔しさと憤りは、今となってはよくわかる。コトの因果関係はガキにはわからないものである。いや、コトの因果関係がわからない者のことをガキと言うのかもしれない。

そんな温室育ちのガキも、その冬休みには、生活というものの厳しさや貧しさというものに触れることになる。一つひとつが心に突き刺さるようなことばかりだった。

沢谷村の冬は厳しかった。初めて経験する膝上までの雪。あと1枚を必要とする寒さ。炬燵に足を入れていても肩口からしんしんと忍び込んできて身をすくませる冷気。そんな季候の中、それでも沢谷村の友達たちは遊びを誘いにやって来た。その中の一人、あまり親しくなく名前も覚えていなかった一人の格好に、僕は目を疑った。ランニングシャツ一枚だったのだ。寒そうに震えながら、でもなんとか笑顔を見せようとしている彼は、沢勝利君(だったと思う…)。近所に住んでいる男の子だった。

その秋、農家の離れから新築の教員用住宅に引っ越したばかりの頃、数人の友達が見学に訪れ、居間の蛍光灯のスイッチをゆっくり引っ張っては点け、消しては点けていた時に、スイッチを入れてしばらく経って放たれる白い光に目を細めながら、「蛍光灯だ~~」と感嘆の声を上げていたのが沢君だった。蛍光灯を備えた家がほとんどなく、見たこともないのに、反応の鈍い子のことを蛍光灯と呼ぶことだけは浸透していたので、その意味を実物の蛍光灯で実感したようだった。その時の表情を思い出すと、ランニングシャツ1枚の姿は、猶更異様に映った。奥の台所から顔を出した親父が「沢君、寒くないかい?」と声を掛けると、沢君は「平気で~す」と明るく応え、その直後に大きなくしゃみをした。みんな笑った。沢君もうれしそうに笑った。が、僕は笑えなかった。少しだけ、身震いした。

それからだった。僕は、沢君と過ごすことが多くなっていった。同情と興味の対象だった。沢君は、ほとんど毎日のように僕の家に現れた。しばしば二つ違いの弟と一緒だった。そのことも僕の関心を掻き立てた。いつも兄にぴったりと寄り添う弟、垣間見える家庭環境、それを見せまいとする沢君の健気さ……。すべてが興味深かった。

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死を待つのみだった頃の佐助。どこか悲しげに見える……。沢君は、夕方になると目が見えにくくなっていた。ある日僕の家から帰る時、ころりんと畑に転げ落ちた。走り寄ると、照れくさそうに「夕方は見えにくくて…」と笑った。「大丈夫?」と訊くと、「もう慣れてるから」と再び帰路についた。慎重な足取りだった。僕は、見えなくなるまで見送った。

 60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”⑤

「ごせえ=ちょうだい」、「おぞい=こわい」といった沢谷村の日常会話レベルの方言を覚えるのと、友達が出来ていくのは同時進行だった。小学校2年生の1学期の間に、数人の遊び友達が出来た。僕の家に毎月配達されてくる少年誌の存在が、田舎の少年たちにとって魅力的だったことも手助けとなり、学校帰りには、ほぼ毎日誰かが僕の家に立ち寄るようになっていた。「ぼくら」「少年」「漫画王」「小学2年生」の定期購読は、親父が再婚するにあたっておばあちゃんから「いきなり取り上げたら可哀想だから」とお願いしてあったものだった。やがて家計を圧迫するからと、4年生になる時2誌に減らされるまで僕は、雑誌に関しては極めて贅沢だった。ただ、山村の小さな小学校には、遠くから通っている子供が多く、帰りに僕の家に立ち寄っても、縁側で勢いよく漫画を読み、ささっと帰っていく者がほとんどだった。その後の、夕飯までのお袋と二人きりの時間には、なかなか慣れることができなかった。

田辺昭吾君(だったと思う…)は、遠くから通っている元気な少年だった。いかにも少年らしい少年だった。鼻からうどんを一筋飲み込んでみせるのが特技だった(と思う…)。そんな彼にある夏休み前の日、ふと「僕の家に来る?」と誘われた。どんな所に住んでるの?どんな家なの?などと、僕が質問を浴びせていた直後だった。彼の家が遠いことだけは知っていた僕は、傍らで二人のやり取りを聞いていたお袋の表情を覗いた。意外にもお袋は、「いいわよ。行ってくれば?暗くなる前に帰ってくるのよ」と微笑んだ。すると田辺君は、一瞬困った表情になった。そして、つと立ち上がった。と思うと、「じゃ、行こうか」と僕を急かすように歩き始めた。

それからの時間は忘れられない。

渓流沿いの県道(だったと思う…。バスの通る道路)を随分と歩いた後、山の方へと右に曲がり山道に入った。周囲の景色をきょろきょろしながら、物見遊山感覚の僕。それを敢えて無視するかのような、いつものやさしさに欠ける田辺君。やがて僕は、黙々と田辺君の後を追うだけになっていた。息も次第に荒くなっていった。が、田辺君の足は衰えない。道は険しく山肌を縫うようにつづいていた。集落にはまったく出くわさない。生い茂った木々の枝が道に垂れ下がり作り出している暗く涼やかなトンネルを時折潜り抜け、山から沢へと吹きぬける爽やかな一陣の風に、額の汗をぬぐったりした。しかし、着かない。黙々と歩み続けるのみだ。「まだなの?」と声を掛けるのは、ためらわれた。やがて、山間が少し切り開かれた空間が遠くに見えてきた。人家らしきものもがその空間の真ん中にあった。僕は、あそこでなかったらどうしよう、と内心思った。しかし、振り向いた田辺君の表情がほころび、その足が速まった。あれは田辺君の家だ!と確信した。旅を終えた気分だった。

藁葺の家だった。土間に入ると、ひんやりとした空気が沢谷村の農家共通の匂いを伴って身体を包み込んできた。その奥から、田辺君の母親と思しき人が、驚きの表情を隠さないまま現れた。一歩先に駆け込んだ田辺君から事情を聞いたようだ。「よく来てくれましたねえ」という意味らしき挨拶の後、「さあ、これを持って早く帰りなさい。遅くなるからね」という趣旨のことを真顔で言われた。そして、背中を押されるように家を出た。奥の方から、ちょっと笑いを噛み殺したような田辺君の「またね~」という声が聞こえてきた。「またね~」と応えながら、僕は暗い気持ちになっていた。田辺君のお母さんから手渡された二つの柏餅が、帰りの旅の厳しさを物語っているようだった。

鳥の啼く声が時折谷間にこだまし、木々は風にざわめいていた。夏の日も次第に蔭ってゆき、山道は急激に暗くなっていった。竹藪の笹の音に怯え、小走りになることもあったが、遠い道のりを思いセーブした。帰りは行きよりも多少は近く感じたが、県道に出る頃には、もう日が暮れていた。どっぷりと暗くなって家に着くと、待ち受けていたお袋に怒鳴りつけられた。もう遠くにある友達の家には遊びに行かない。と、まだ小さく震えている心に誓い、やっと着いてほっとしている僕を怒鳴ったお袋を恨んだ。

それからの2年間に、僕はハチの子もイナゴのつけ焼きも食べられるようになったが、校庭から見える所にあった多久君の家に一度行ったきり、友達の家を訪ねることはなかった。

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こんなに真っ直ぐ延びた道路は、島根県益田市横田に引っ越すまで、ついぞ見たことがなかった。

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第三章、連載中!“昭和少年漂流記”

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”④

1956年、小学校1年の秋は、お見合いの季節になった。

浜田で再開した祖父母、叔父叔母(ヨシキ兄ちゃんとミオコ姉ちゃん)との暮らしは、親父が危惧した通り、実に我がまま放題なものだった。僕のわずかな不在の間に、彼らの僕を不憫と思う気持ちが強まったからだった。一方僕は、そんな暮らしを心地良く感じながらも、どこかに心許なさも感じていた。親父は、お見合いのために浜田に出てくると、厳しい目付きでそんな僕を観察し、お見合いの席では、ここぞとばかりに僕の一挙手一投足をチェックした。

お見合いを何度したのか、はっきりとは覚えていない。が、印象に残っているのは2回。一度は、後年住むことになる益田市でのものだった。若い女性だった。やさしく抱っこしてくれた。いい匂いがした。調子に乗ってまとわりつき、親父に叱られた。この人がお母さんになってくれるといいなあ、と思った。しかし、かなわなかった。彼女はOKだったようだが、ご両親が強硬に反対した、と聞いた。何しろ、復職したばかりの親父の給料は少なく、闘病時代の借金も残っていた。僕という瘤も付いている。そんな話が頭の上で交わされるのを、恨めしい気持ちで僕は聞いた。

二度目は、えらく大きなお屋敷の一隅にある和室での、掘り炬燵に足を入れながらのお見合いだった。秋も深まっていたからだろう。お見合いの間に数度、掘り炬燵に炭が補充された。大変な旧家で資産家の、親父より2歳年上のもの静かな女性だった。どこの馬の骨とも‥‥とか、財産を‥‥とかいうような声が男の声で微かに聞こえたりした。歓迎されていないことは、僕にも痛いほどわかった。いたたまれない思いを抱えながら、静かに礼儀正しくしていた。うまくいかない方がいいな、と思った。あのお姉さんの方がいいな、と未練がましく思い出したりしていた。しかし、お見合いは成功した。一旦成功すると、親父は急いだ。

1957年、小学校2年生の春、雪舟の庭園で有名な益田市の医光寺で、結婚式が執り行われた。僕も参加して、三々九度の杯を受け、飲み干して酔っ払い、本堂の中を走り回った。ほんの少しやけっぱちな気分だった。そして、春休み明け、沢谷村での新生活が始まった。倹約家で、必要とあらば大胆にお金を使うというタイプのお袋は、農家の離れの新居に家財道具を先に送りつけてきた。必要最小限という話だったが、洋服ダンス、和服の詰まった和ダンス、食器棚、そして見たこともなかった電気洗濯機に電気炊飯器は、親父と僕の周りに異空間を作り上げた。僕の中に、少しばかり警戒心が生まれ始めた。そこへ、お袋が控えめな笑顔を浮かべながら、やってきた。親父は「お母さんだよ」と紹介した。何か違うぞ、と僕は思った。「お母さん」とは呼ぶまい、と心に決めた。

ガキの感性は身勝手だ。自分のアクションに対し、相手が反応すべきパターンを勝手に思い描いていることが多い。しかも、概してその場限りのものだ。時間、空間、お互いの関係値などを総合的判断する力などない。僕は、知りもしないくせに、母親とはこんな時はこう行動し、こんな言葉にはこんな言葉や態度で反応してくるものだ、などと思い込んでいた。しかもまずいことに、僕はガキなりのささやかな理屈も持ち合わせていた。

親父は、そんな僕に理屈ぬきでお袋との関係構築を迫ってきた。「思いやりの気持ちだ。何かして欲しい、じゃない。まず、何をしてあげるか、だ」。その一本やりだった。なぜか、の説明などなかった。やがて、ずっと「おばさん」と呼んでいた子供らしくない子供が初めて「お母ちゃん」と呼んだ時、そっと涙を拭ったお袋の姿を見て僕は、誕生日のプレゼントをしようと貯金を始めた。夏休み前だった。誕生日は11月。とにかくもらった小遣いはすべて貯金箱へ、と決心した。アイスキャンディ売りの鈴の音に負けてしまう夏の日もあったが、使わないと決めて不都合はなかった。山村の夏休みは、多少友達が出来てくると楽しく、毎日十分に刺激的だった。

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言葉や習慣に多少の違いがあったところで、同じ子供なんだ、という感覚になれるのに、半年近くが必要だった……。

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”③

方言の壁は厚い。いきなり日常会話の些細な一言の前で立ち止まってしまう。しかも、同級生個々の性格よりもそこで交わされる言葉の方に関心が強いと、同級生は同じ言葉を話す集団にしか見えず、友達作りどころではない。彼らもまた、微妙に異なる言葉を発する闖入者との接し方に戸惑っていた。何しろ、僕の頭は「坊ちゃん刈り」。見渡すと、一人(やがてからかう対象となる多久茂?君)だけだった。興味を抱かれているのはよくわかったが、僕はどう対応していいかわからず、学校から帰ると「本の虫」と化していた。学校の図書館の本を次々と借りて来ては、日曜日でも部屋の片隅で読み耽っていた。そんな僕を「外で遊んで来い!」と親父は怒鳴りつけ、時には本を取り上げたりもしたが、渋々外に出た僕はどうしていいかわからず、親父の目の届かない所まで出かけて時間をつぶしてから、そっと帰ったりしていた。

そんな時によく行ったのが、丸木橋。一本の太い丸太が二本のロープに吊るされ渓流の上に架けられただけの橋だが、そんな橋だからこそほとんど渡る人はなく、一人で過ごすには絶好の場所だった。しかも、その上から渓流を覗き込んでいると、時間を忘れることができた。大きくはないが激しい音を立てながら下流へと向かう速い流れを見つめていると、やがて丸太橋は僕を乗せて物凄いスピードで上流へと滑り上がっていく。その不思議なスピード感を味わっていても、不意に渓流脇の石に目を転じると動いているのは渓流の方だと瞬く間に判明する、その落差も楽しんだ。後年、その時の僕はきっと「絶対と相対の危うい隙間」にいたんだ、と半ば羨ましく思い出した。

親父の危機感は募った。“こいつは、このままじゃ、まともなガキに育たない。”そう思ったようだ。まず親父は、自身が幼い時に離れ離れになった自分の母親を呼んだ。一緒に住もうというのだ。おばあちゃんは、にこやかに登場したが、すぐに逃げるように親父の弟の許へと去っていった。おばあちゃんとの暮らしに苛立ちを隠さなかった親父は、ちょっとだけ胸を撫で下ろしたように見えたが、面倒な家事と家に籠りがちな僕に再び向き合うことになり、決心した。“こいつは、一旦浜田へ戻そう。そして、自分は何とか再婚だ。暮らしの立て直しは、それからだ。”と。

都落ちして2ヶ月強。僕は小躍りしながら浜田へ帰った。沢谷へ来ることは二度とないだろうと思っていた。

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近付いてくる同級生には、必ず身を固くしていた2ヶ月だった……。

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”②

島根県邑智郡沢谷村に到着し、県道沿いにある「万(よろず)屋」近くのバス停に降りると、親父が笑顔で待っていた。右脇に抱えさせられた大家さんへのお土産を差し出そうとすると、「お前が持っていけ」と言われた。バス停から少し歩き、山の方へと向かう坂道を上がると、二・三軒の農家が固まって建っている。その中の一軒、最も大きな農家の裏庭へと続く小道を、右手に二階建ての納屋を見ながら入っていった。鶏の羽音と鳴き声が、少しひんやりとした裏庭の空気を揺らしていた。

広い土間に足を踏み入れると、右手に牛が顔を出していた。牛の糞の臭いが目と鼻を刺した。牛の穏やかな目つきを、茫然と見つめていると、「いらっしゃい」と、お年寄りの声がした。親父に腕を突付かれ、くるりと向きを変えながら、「こんにちは~」とできるだけ大きな声を出した。ほの暗くひんやりとした空気には似つかわしくないほど大きな声だった。大家のお婆さんは、牛の向かい側の囲炉裏の側に、ちんまりと座布団に座っていた。二言三言言葉を交わしながら、大きく平たい石の上に靴を脱いで上がる。と、お婆さんは立ち上がり、「今、お茶を」と言い残して暗闇へ消えていった。そこで初めて僕に、不安が襲ってきた。どこでどんなご飯を食べるんだろう、もっと暗いはずの夜に電気は点くのかなあ、などと考えると、心が宙に漂った。

ぼーっとしたまま、お婆さんが運んできたお茶と饅頭を口に運んでいると、親父がまた肘を突付いた。僕は慌てて、右側に置いたままのお土産をお婆さんに向けて押し出した。「お土産です」と言って頭を少し下げ、お婆さんの顔を見ないようにした。親父が「つまらないものですが」と、横から僕の頭を押し下げた。その後だった。僕が迷宮に入ったのは。

お婆さんが、にこやかにお土産を手元に引き寄せながら、「だ~んだん」と言ったのだ。僕は、虚を突かれた。下げたままの頭で、なんだ?どう反応すればいいんだ?と考えた。手がかりがなかった。しかしすぐに、だんだん……、だんだん……、段々……、あ!階段だと閃いた。頭を上げ、周囲を見回した。ところが、どこにも階段は見当たらない。そこにもう一度、「僕、僕!……僕」という声。振り向くと、お婆さんのにこやかな顔があった。優しそうな笑顔だった。ほっとした。宙に漂っていた心が元の場所に戻っていくのを感じた。「だんだん」。お婆さんの笑顔から、また謎の言葉が解き放たれる。僕は、お婆さんと親父を交互に見ながら、思わず腰を浮かした。親父も笑顔なのが不気味だった。

世界遺産に指定された石見銀山や山陰の小京都津和野がある島根県西部を石見地方、松江や宍道湖や出雲大社がある島根県東部を出雲地方と言う。この二つの地方、小さな県内で接しているというのに言葉がまったく異なる。松本清張の「砂の器」で広く知られるようになったが、出雲弁はほとんど東北弁と同じ。石見弁は広島弁に極めて近い。考古学者江上波夫博士の「騎馬民族征服説」に後年接し、東北へと追われた先住民の一部が出雲に残ったという推論に、とても納得したほどだ。邑智郡は、その石見地方と出雲地方の境界線辺りに位置する。したがって、二つの言語が交差する土地なのだ。

お婆さんの笑顔に送られ、僕たちが暮らす部屋に向かう間、ずっと茫然としている僕に、「“だんだん”って“ありがとう”ってことだよ」と親父が教えてくれた。しかしその時僕は、今度は違う衝撃に気を奪われていた。親父が連れて行ってくれた僕たちの部屋は、なんと庭へと入ってくる時に見た、あの二階建ての納屋の二階部分だったのだ。鶏がバタバタと飛び交う間をすり抜けるようにして階段を上がっていきながら、僕は心の中で誓った。「浜田に帰ろう。ここを、逃げ出そう!」と。

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そう!気分は、こんな感じだった………。

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昭和の少年たち…“中国山地の寒村、沢君兄弟”①

中国地方で最長の川、江の川(ごうのかわ)。その河口付近に位置する町江津市と中国山地のほぼ中央部に位置する小都市広島県三次(みよし)市を結ぶ三江線という田舎路線がある。この三江線、全線開通は、なんと1975年。モータリゼーションの本格化から約10年。陸の孤島島根県の利便性を高めようと、鳥取県と岡山県を結ぶ伯備線のような活用を意図していた三江線は、生まれた時から廃線同然だった。

僕の初めての長旅は、2歳半の時。親父が女房(つまり、僕の生母)を連れ戻しに行った宝塚までの往復の旅。後年耳にしたところでは、しばらく宝塚に住んでいたようだが、僕の微かな記憶には、宝塚動物園での楽しい思い出と二人きりの空しい帰路しか残っていない。米子に立ち寄り、友人の家を訪ねた時、寂しく速い親父の足取りを追うのに精一杯な僕に一度だけ振り向き、「もう少し頑張れ。絵本買ってやるから」と言った親父の笑顔の向こうに、僕を突き放してしまいそうな強張りがあったのが忘れられない。

次の長旅が三江北線での引越しである。前述の三江線、江津、三次双方から工事が進められ、江津からを三江北線、三次からを三江南線と呼ばれていた。まだ、全線開通には程遠い状態だった。1956年初秋、小学校1年生の夏休み明け。肺結核の手術・療養から復職した親父と二人暮らしを始めるためのものだった。親父の勤務地は、島根県邑智郡の奥深く、沢谷村というところだった。何しろ地名が沢と谷。まさに寒村と呼ぶにふさわしい所だった。三江北線の終点浜原からバス。右は眼下に渓流、左は切り立った山肌の道を、お婆ちゃんと大きく揺られていると、身体の芯から悲しさがこみ上げてきて、ただひたすら祖父母の元へ逃げ帰りたくなった。「都落ち」の感覚に苛まれていた。無理もない。田舎にも差はあるのだ。

僕が生まれたのは、島根県浜田市。山陰有数の漁港である。漁獲量は多く、戦後の復興期、缶詰工場や蒲鉾工場も稼動を始め、街には活気が溢れていた。活動写真の弁士を辞めた後、カフェのオーナーになっていた祖父は、戦後、進駐軍相手の経営に切り替え、一時は繁盛していたようだが、進駐軍がいなくなるや倒産。僕が保育園に行く頃は、ニコヨン(日雇い労働者)をしていた。家だけは何とか手放さずに済んだのが幸いし、高校を出てすぐにトラックの運転手になった長男、近所のカフェ(今のスナック)で働き始めた次女の収入に助けられながら、なんとか暮らしていた。教師だった親父と結婚し同居している長女が一番親孝行だったはずなのに、肺結核という病気と19歳の終わりに出産した僕というコブのせいで、皮肉にもお荷物と化していた。しかし、幼い子供の日常は、別の次元で回転している。貧しさも不自由さも寂しさもあまり痛感することなく、僕はそんな大人たちの間を漂いながら暮らしていた。そんな僕にとって、小学校入学は、暮らしを大きく変える大イベント。しかも、同級生は数多い。まるで、別の社会に飛び込む感覚である。

美緒子ネエチャン(生母の妹。本当は叔母だが、そう呼ばないと怒られた)が買ってくれたデニムのサロペットに、良樹ニイチャン(生母の弟)が買ってくれたランドセルを背負い入学式に行った僕は、学生服の集団に腰が砕けそうになった。仲良くなって、毎日味噌汁ご飯をあげていた野良犬のメリー(おじいちゃんの命名。弁士らしい!?)の連日の校門までのお迎えがなかったら、僕の腰は砕けたまま、友達を作ることなど出来なかったに違いない。生まれつき胃腸が弱く、1つだけあった養護クラスに入れられた僕は、教室の後方にある畳敷きのスペースに授業中に横になることもなく、保健の先生に険しい顔で連れて行かれることもなく、いたって順調に夏休みまでを過ごした。人気者になったメリーのお陰で友達もでき、なんだか明るく楽しい日々がやってきそうな予感もし始めていた。

その矢先である。単身で赴任していた親父がやってきて、祖父母たちと夏休みを過ごしている僕を見て、こう判断し、決断した。「おじいちゃん、おばあちゃん、叔父さん、叔母さんたちと暮らしていると、わがままになっていけない。このままでは先が思いやられる。彼らと引き離すべきだ」。僕は、親父と祖父母のやり取りをこっそり聞いて「なんて余計なことを!」と歯ぎしりしていたが、親父の意思どおりに事が進んでいくのはわかっていた。暗澹たる気分だった。チャンバラ専門の映画館や無料で入れてもらって「エデンの東」を観た洋画専門館にはもう行けない。お隣の「冷やしアメ」も二度と飲めないだろう。角を曲がったところにあるパン屋さんのコッペパンは‥‥。などと、布団の中で思っていると、親父に対する殺意さえ生まれてくる夜もあった。しかし、僕が身を捩っているのをよそに、結論はあっさりと出てしまい、引越しの準備もさっさと終わってしまった。そんな朝のことだった。味噌汁ご飯をあげようと「メリー!メリー!」と、表に出て呼んでいる僕に、おじいちゃんがそっと近付いてきて耳元で言った。「メリーは、市役所の人が捕まえていったから、もう会えないよ」。僕は、「うそ~!」と叫んだまま立ち尽くした。涙も出なかった。

それから2日か3日後のことである。大きく揺れるバスは、僕に起きた激動そのもの。これから、これまで以上にいいことがあるなんて、とても考えられなかった。

ところが、ところが、である。沢谷村の1学年1クラスの小学校には、僕を揺さぶる、新たな社会があった。僕は、おばあちゃんの膝の上から世の中を見ていたに過ぎないことを痛感させられたのである。   ‥‥つづく‥‥

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保護犬佐助に感じるシンパシーは、僕の幼いころの体験と決して無縁ではない。

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やっと出てきた!Windows7搭載のタブレットPC

http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022これでやっとタブレット端末が本格的なタブレットPCとなった。発売したのは、なんとONKYO。かつては著名なオーディオ・メーカーだったONKYOだからこそ、一歩先を行き製品を思い切ってリリースできたのだろう。各社入り乱れて新製品発売ラッシュになっていきそうなタブレット端末と一線を画そうと、“スレートPC”という製品呼称にしているが、これはいっそタブレットPCと呼ぶべきだったように思う。ちょっと弱者の匂いがしなくもない。

Onkyo

ただ、この“スレートPC”(TWシリーズ)、そのパフォーマンスにおいて、圧倒的にipadを凌ぎ、きちんとPCとして使いこなせそうだ。液晶画面も11.6型ワイドで、ipadよりも広い。ノートPCの代わりにだってなりそうだ。その分少し重いようだが、せいぜい1㎏。障害者や寝たきりの人が持って使うのは難しいが、スタンドに立てれば、ノートパソコンよりも使いやすいはず。ipodiphoneの母艦(データストック、音楽ストック等)としても使えそうだ。いい感じになってきたなあ~~~~~~~。

*驚いた~~!なんと、サムスンがipad「4S」の販売差し止め請求を検討しているらしい。ヨーロッパ市場ではappleに敗訴しているので、販売差し止め請求による巻き返しを図るに違いない。

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僕は、疑問だ。“悪貨は良貨を駆逐する”(グレシャムの法則)し、失った良貨の再生産は大変なことだし……。いいものをきちんと残せば、それに接ぎ木されて、また次のいいものが生まれてくる可能性もあるし……ね!

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無礼講に隠された危険!

冬将軍がもうやってきたようだ!?温かいものが恋しい。豚汁はもういただいた。おでん、焼き鳥、熱燗、鍋、……。暖房の利いた個室での打ち上げや忘年会(気が早過ぎ??)がうれしい季節がやってくる。そこで注意しなくてはならないのが、“無礼講”という甘い誘い水。言いたいことを言っていいのは“ブレイン・ストーミング”の席くらいだと思っておかないと、後で痛い思いをすることもしばしばだ。お調子者の僕は、無礼講と言われた席での発言を言質に取られたことが何度もある。粗忽な話だ。

あるクルマメーカーの人事課長に聞いた話:日頃の業務とはあまり関係のないテーマ(企業ビジョンのあり方と方向性、とか……)の会議が開かれる。招集されるのは、中堅幹部たち。「自由闊達な議論を期待しています」と司会者に言われ、日頃の不満や疑問もあって、議論百出。大いに会議は盛り上がる。……実は、その有様を隠しカメラが撮っている。外部のコンサルの会社がその記録を精査。出席者を一人ひとり評価する。…何のため?そう、リストラ候補を決めるため!…その話をしてくれた課長さん、会議に呼ばれると身が竦むようになったとおっしゃっていた。

どんな実力者でも、抜けた穴が埋まるのは速い。人や組織の自然治癒力は、なかなか侮れない。誰でも、明日は我が身、なのだ。仕事に対するセルフ・モティベーションの低い人には、あまり関係のない話だが……。

努力を忘れない“雑草の似合う男”

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そこは、“サラダバー”であり、“おやつ”(ミミズの干物とか…)に出会える場所でもある。だから、決して探索を休むことはないのだ~~~。

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饅頭は、なくならない!?

中学2年生の時の教師で面白い人がいた。以前にも触れたが、“放たれた矢は、的には当たらない”という詭弁の代表的な例題を黒板に書いてみせ、僕たちの首をひねらせてみたり、黒板に書いた“To be to be ten made to be.”の一文を「これを訳してみよ」とにやにやして、みんなが匙を投げると「飛べ飛べ、天まで飛べ!と読むんだ」としたり顔になったりした人だった。残念ながら、お名前は憶えていない。そんな先生を思い出したのが、40歳の時。ある友人に酒の席で「これは守りりたい、ってこと、何かある?」と訊かれ、「“何でも半分こ”かな」と答えた時だった。「饅頭は、なくならない。ずっと半分だけ食べ続けてごらん?ほら?わかるよね。絶対になくならないでしょう」と僕たちを煙に巻いたのも、その先生だったような気がしたからだった。もちろん、なくならないから“何でも半分こ”なのではないが……。

もう半分も使いたいよ~~。と思うのは、こんな時。

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甘えてくる佐助を右手だけで撫でていると、突然思うことがある。「両手でグニグニ触りたいな~~」と。

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甘噛みされたりすると、猶更である。

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急ぐ仕事は忙しい人に!

 “2:8の法則”(パレートの法則…8割の仕事は2割が行っている)と同様、いい仕事を効率よく成し遂げるために意識しておきたい鉄則だ。と大袈裟なことを言いたくなるほど、Kapparが忙しくなってくると、実家で何かが起きる。今朝7時20分、お父さんの検査入院に付き添うために出発。心細さと心配に、いささかちぐはぐな電話を繰り返し掛けてきていたお母さんのフォローと、今後のための手配に一日を使っている。

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100歳近くまで元気だった義母の面倒を見ていたお母さん。その苦労が愚痴になることも多いが、今はその姿を見て育った娘にしっかりとフォローしてもらっている。まさに、因果応報。情けは人の為ならず、である。忙しい時に、緊急を要することがやってくる、その理由の一つはお母さんの娘を頼り、娘に甘える心かもしれない。おそらく娘もそれがわかっているからこそ「しょうがないなあ、ったく!」と言いながらも、笑顔で、お土産を持って、足を運ぶのだろう。

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佐助も笑顔でお見送り……ん??ひょっとすると、大好きなお兄さんとお姉さんのいる預かり所に行けるから??

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リードの長さ分の自由

どこかでしっかりと安全・安心を確保しておいて、勝手にふるまうことを自由と誤認識しているケースは多い。リードが長ければ長いほど、「おいら、自由だ~~」と思えるらしい。ふと心配になりククッと引いてみたり、少し不安を覚えるほど遠くまで行ってみて、リードがピンと張る感覚に安心し、そこまでの距離範囲の中では“自信を持って”“自由を謳歌”する。“飼い犬はよく吠える”所以だ。親や組織のへその緒を引きずりながら、辺りを睥睨する人間も同じかもしれない。そういう人たちは群れるのが好きでもある。

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佐助は、リードなしでは不安なようで、「あれ?!僕リード付いてないんだ!」と気付くと、一目散に帰ってくる。リードに慣れて、安心してくれている証である。かといって、安心に依存して吠えかかることもない。……エディプス・コンプレックスの人間よりも、ましかもしれない。……などと思えるようになった、我が家にやってきて1周年がもうすぐだ。

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身体中に鳴り響く“サトウキビ畑”の歌(森山良子)

意地悪な天候の変動で、身体中が不愉快で、あちこちが痛い!眠れない。ふと気付くと、頭の中で、“ざわわ、ざわわ、ざわわ、ざわわ”という一節が流れている。その部分だけなのだが……。

 60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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