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そして、脳卒中後のコミュニケーション ①

小学校5年生の転校をきっかけに、僕なりの“友達の中への飛び込み方”を覚えた僕は、楽しく無邪気に高校入学までを過ごし、高校~大学では“競争意識”や“集団力学”のあほらしさや嘘っぽさを知り、社会に出て“生活する”ことに潜んでいる身勝手さや狎れ合いに触れた。そして、自立する精神のコミュニケーションと、そこから生まれる関係の構築をしていきたいと願いつつ、失敗を重ねていった。

衣・食・住・コミュニケーション…。ヒトが人として暮らしていく限り、きわめて重要な生活のファクターとしてコミュニケーションは位置付けられると思いつつ、僕は上手なコミュニケーターになれてはいなかったような気がする。脳出血を発症した後、そう思った。フェイス・トゥ・フェイス・コミュニケーションよりも、サイド・バイ・サイド・コミュニケーションの方が大切と考えていたのに、そんなコミュニケーション関係の構築にはなかなか至ることはなかったようにも思う。

手足の動きが悪くなっても、充実した暮らしはできる。そう思い、願った時、そこに横たわっていたのは、経済的な問題よりも、やはりコミュニケーションの問題だった。出来なくなったことの前で立ち止まり、必要以上に考え込んでいた僕自身の問題だった。気にしてないよ、と言うくらい気にしていたのは、身体が動かなくなったことではなく、これまでのようにできなくなった、必要とされなくなったという意識にじんわりと苛まれている僕自身だった。自分の心に沈澱していると、サイド・バイ・サイドの位置関係になれてもサイド・バイ・サイド・コミュニケーションは成立しない。一緒に、好奇心の赴くまま、無邪気に対象物に向かうことができなければ、サイド・バイ・サイド・コミュニケーションはできない。介護する人と介護されている人との間のコミュニケーション齟齬や過分な緊張関係は、こうして生まれるんだろうなあ、と思った。

でもそう思ってみたところで、自分の意識をうまく転がし、余分な曇りを取り除くことはなかなかできなかった。

そろそろ、リハビリ転換期?!

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成城リハビリテーション・クリニックに通い始めて3年半。最初の頃は、行き・帰りタクシー利用で週3回(OT2回、PT1回)だったのが、今ではバス利用で週1回(OTのみ)。明確な目標があるわけでもない状態だ。そろそろ、転換期?とも思うのだが、これから何をどうしていくことがいいのか。ちょっと手掛かりがない。

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大人のコミュニケーション・ルール ③

親父と記念写真を撮って間もなくのことだった。夕方、階段に座っていると、親父がそっと現れ、耳打ちした。「散歩に行くか?」。秘密めいた囁き声、にこやかな表情に、“トンちゃん(ホルモン焼きのことを、そう呼んでいた)食べに連れて行ってくれるのかな”と、僕は思った。家族のみんなはそれぞれ、トンちゃんを食べに行く時はいつも、内緒で僕を誘ってくれていたからだった。僕は強く頷いた。親父は背中を向けて“おんぶ”の体勢になってくれた。静かに、しかし勢いよく僕は、親父の背中に飛び移った。

家の中の暗い通路を抜けて表に出ると、もう夕日が落ちかかっていた。薄く染まった空の端に心が弾んだ。楽しい夕食。親父と二人での夕食。しかも、トンちゃんだ!きっと!と思った。曙町の路地をパチンコ屋と反対側の端まで、親父はゆっくりと歩いた。左に曲がると、時々ラムネを買ってもらえる店やトンちゃんの店がある。と、親父は右へ曲がった。そちらは少し行くと木橋がある方角だ。満ち潮の時は海の水がここまで来るんだよ、と教えられた場所だ。

“おかしいなあ、どこに行くんだろう?”と、僕は訝った。親父が一言も発していないのも気になっていた。しかし、僕が感じる親父の背中は、固くコミュニケーションを拒否していた。どんな言葉を発するのもためらわれた。楽しい食事へのときめきは消え去っていた。

親父は立ち止まった。木橋の中央付近だった。僕のお尻を支えてくれていた両手の一方を離した。残った片手の指先に力が入る。僕は親父の首に両腕を巻き、しがみついた。少し目を上げると、向こうにコンクリート橋が見える。人通りが途絶えたのか、耳に届くのは川の水音だけ…。ふっと怖くなった。身を固くして様子を窺った。次の瞬間、身体が前に動いて止まった。親父が川面を見つめているのがわかった。肩越しに僕の目にも川面が入ってきた。僕はとっさに“泣こう!”と思った。大声で嘘泣きを始めた。すると本当に悲しくてたまらなくなってきた。何も言葉は出てこなかった。親父の離れていた手が僕のお尻に戻ってきた。「帰るか」。その言葉に僕は、しゃくりあげながら「うん」と応えた…。

それから約50年後、親父が亡くなる数か月前、肝臓癌と闘っている枕元で、「あの時、飛び込もうと思っていたでしょ?」と尋ねると、「やっぱりそうか。お前気付いて泣いたんだな。あれで思い留まったよ」と親父は笑った。

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5歳になって間もない晩秋の記念写真。何かを予感しているかのような緊張があるような…。

チビの“夏の隠居別荘”

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ふと置いてみた缶ビールの箱にご執心な最近のチビ。ほとんど一日中、中に籠もっている。隠居してもいいお年頃だが、お婆さんがビールの箱はないだろう。と、撤去をもくろんだら、怒られた。

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大人のコミュニケーション・ルール ②

入院費用の負担は重く、通院の費用もままならない。ストレプトマイシンを“大人買い”して、これで治そう!と賭けにでた親父。肺結核が進行しているとはいえ、身体はまだまだ動く。生活保護を受け始めると、身体と時間を持て余した。息子の僕とお世話になっている叔父の家にもゆとりはなく、いなくなってしまった女房の実家でもあるので、居心地がいいわけがない。「散歩に行くか?!」と、僕を連れて毎日出かけることになった。すぐに、行き先も決まってきた。パチンコ屋だった。

浜田市内ではまだ珍しかったコンクリート製の橋のたもと、僕の家のあった曙町という花街の入口の角に、親父の行きつけのパチンコ屋はあった。手をつないで店に行き、親父の背中や脇から、ただただパチンコ玉が踊るのを見ているのは、そんなに苦痛ではなかった。なにしろ、親父と二人でずっといられるのだから。僕はパチンコの歌を作って歌ったり、眠くなると裏の通路(当時は、玉の補充やトラブルの対応のために、パチンコ台の裏に通路があり、そこにはいつも女性従業員がいた)に入れてもらってお昼寝をした。そのうち店内に転がっている玉を拾って打つことを覚え、たまに入ると親父に上げたり、小さな景品に交換した。ウィスキーボンボンが好きだった。そして夕方になると、必ず親父と一緒に景品を抱えて帰った。パチンコはいいなあ、と思っていた。後になって、裏にいる女性従業員の数名が教え子で、負けそうになると出してくれたりしていたことを聞くまでは、パチンコが損することもあるものだとは、夢にも思わなかった。パチンコ屋は僕にとって、自分がきちんとしてさえいれば、大人たちがみんな優しく接してくれる、遊園地のようだった。

しかし、僕にとって至福の日々は、そう長くは続かなかった。まず僕に、結核菌が発見された。夏風邪だと思っていた熱が引かず40度を超えた時、医者に「肺結核の初期症状です」と診断された。大きな注射を打たれたことや連日高熱にうなされては見た悪夢の数々やいつも隣に寄り添ってくれていた親父や部屋の片隅にしつらえられた洋服の箱で作った簡易トイレなどしか僕は憶えていないが、その間親父の胸に去来した“俺が息子を殺すことになる”という思いは、相当に親父を苦しめたようだ。それは、言葉のない僕からのコミュニケーションのようにも思えた。「きちんと、治そうよ~!肺結核!」と、僕に言われたような気がしたらしい。幸い、約2週間後、僕は平熱に戻った。

その年の晩秋、浜田市が募集した交通標語に応募入選した賞金で、親父はジャンパーを新調。僕にもベストを買ってくれた。そして、知り合いの写真館で記念写真を撮った。自分の決意の表れでもあった。

この時の決意は、しかし、前向きなものではなかった。……つづく

蝶よ、花よ。…蜂よ~~~!

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玄関へと上がる階段脇の花が元気だ。階段を上がる邪魔になるほどだ。暑さにめげず咲き誇り、多くの蝶も惹き付けている。いいなあ~、と写真を撮っていると、耳元でおぞましい羽音。蜂だ!慌てて玄関に逃げ込み、そっとドアを開けてみると、2~3匹やってきている。蝶に魅力的なものは、そりゃあ蜂にだってねえ。

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百貨店の過去と未来を見てきた!?(水戸京成百貨店) ②

店の中央部に集約されたエスカレーターは、上り2本下り2本。店全体の印象を探ろうと、とりあえず最上階まで上ってみることにした。エスカレーターの上から、ぐるりと首を巡らせてみる。すっきりとした印象は、各フロアとも変わらない。“売らんかな”や“買ってよ”の告知や装飾は4Fのセール以外は、見当たらない。エスカレーターからの見通しはよく、奥の方のディスプレイまで見通せる。エスカレーター前などは、もったいないと思わせるほど広々としている。そこかしこにある休憩スペースの椅子の半分くらいは、中・高年の男女が占めている。

店全体がユーティリティ・スペースかのようなで、心地良く落ち着く。8Fの小さなイベントスペース(?)のTVモニターでは折しも高校野球中継が流されており、数名の男性が食い入るように見つめていた。まるで、心の広いお屋敷の軒先で休憩させてもらっているような風情だ。買い物中の奥方を待っている人もいたが、何となく店に来て涼みながらTVを観ている人もいるようだった。

ざっくりと売場を一回り。百貨店ならどこにでもあるブランドは一通り揃っている。Bigサイズコーナーは、なかなかの充実ぶりだ。力を入れていると思われる家庭雑貨の感度も悪くない。充分!だ。地下の食品売り場(デパ地下)に下りると、食品売り場独特の活気。だが、少し何かが違う。殺伐とした感じがない。客数が多くない(午後4時頃)ことが主な理由のようにも思えるが、どうもそれだけではなさそうだ。

百貨店裏にある専用駐車場ビルとの間の路地風の通路に腰を落ち着けて、印象を整理した。好印象の理由は、店全体に横溢しているホスピタリティだと思った。買ってもらいたい、と言うより、来てもらいたい、来たら楽しく過ごしてもらいたい、という姿勢が貫かれているような気がした。経営に苦しんだ後に行きついた心境かもしれない、と思った。しかし、本当はそれこそ、百貨店という小売業の原点なのではないか、と思った。かつてあったはずの“オープンした時、店の前に並んでくれているお客さんの列”から受けていた感動や喜び。そこに戻った結果なのではないか、と思った。生き残っていく百貨店は、そんな素朴な感動をもう一度思い出す店なんだろうなあ、と思った。原点は、いつも意外と素朴なものなのだ。

鱧だ~~~!

初夏から盛夏の旬の味、鱧。京都の料亭や川床で楽しむべきものかもしれないが、如何せんお高い!では、産地から取り寄せたらどうだ?ということで、淡路島の“海の商人”さんに発注!!今年で3回目だ。

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殺人的なスケジュールなのに、お気に入りの旬の味とあって、Kapparは、嬉々として下準備。どうも、二日間5種類くらいの味が堪能できるようだ。うひひひひ~~~。

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百貨店の過去と未来を見てきた!? ①

都心の大型百貨店は、12年連続の前年割れ、2か月連続の前年割れと売り上げ不振が長期にわたっている。そのためだろうが最近の販促施策は遮二無二売上獲得を目指しているものばかりだ。ただ、これといった有効な集客策見当たらず、売り上げ獲得への焦りは、即物的とも言える“値下げ”訴求型のキャンペーンを増大させている。情けなくも悲しいことだ。わかりやすくかつ安易な“低価格”訴求へと傾いていくことは、自らの立ち位置を見失ってしまうことにつながるはずなのだが…。

そんな、百貨店が自らを見失い、未来まで見失おうとしている中、水戸の京成百貨店を見に行ってきた。不振店を次々と閉鎖。5店舗(だったはず…?)を水戸の1店舗に絞り、企業名も京成百貨店(株)から水戸京成百貨店(株)に変え、心機一転、再スタートを切ったその後を見てみたかったからだ。随分以前、10年くらい前に見た時とどのように変わったのかも、確認したかった。

京成百貨店は、水戸駅からバスで約5分の所に移転新築されていた。すっきりとした外観。壁面に過剰な装飾や告知も見られない。入口付近には待ち合わせ場所が用意されており、帽子を被った(どういうわけか、帽子の色はほとんど白だった…)中・高年の女性たちが談笑していた。新宿京王百貨店を思い出したが、京王百貨店よりもゆとりがある。最上階レストラン・フロアまで直結している入口脇のエレベーターは、営業時間の違いを配慮してのことであろう。無視して店内へ。清潔でゆったり。フレンドリーな空気感が漂っている。外観同様、過剰な装飾や告知がない。静かな印象は、音楽の音量が小さいからだけではなさそうだ。静かだが裏寂しくはない。平日昼の渋谷西武B館のような寂れた感じはしない。20年以上前(だった…?)、ポール・スチュアートが銀座の百貨店を視察した後に語った印象を思い出した。

曰く「どうして、あんなに騒々しいんだ?!あれでは、商品が語りかけてくる言葉が聞こえない!」。いい商品は、商品そのものがコミュニケーション能力を持っている。人や装飾が、その邪魔をするような売り場はよろしくない。というポール・スチュアートの考えに、僕は大いに共感した。CMになると音量が上がるテレビ(それを考えた人の自慢話を聞いたことがある。吐きそうだった)のように、過剰なアピールはコミュニケーションを阻害するものだ。黄色の紙に赤で書かれた“SALE”とか“特価”の文字は、数多くなると店全体の安売り感を醸し出せても、“この商品がお得ですよ~”という告知にはならない。「あれもこれも、売りたい」と欲張る気持ちが「あれもこれも、売れない」事態を惹き起こす。水戸京成百貨店の静けさには、むしろ落ち着きさえ感じた。それは、“すごく儲かっているかどうかはわからないが、きっと経営は安定しているな”と思わせるものだった。……つづく

ありついたぞ!“稚鮎の天麩羅”

週一回のリハビリの帰りに必ず立ち寄る成城コルティ(小田急線成城学園前駅駅ビル)の小田急OX。この店は、複々線化工事に連動した各駅の改装に伴い、“各駅エキナカストア”に変貌しつつある小田急OXのMDモデル店舗ではないかと睨んでいるのだが、そう評価したくなるほどMDの質とバランスがいい。最近は、鮮魚はここで見てから、ということになっているのだが、今週は“琵琶湖産天然稚鮎”を発見!稚鮎の天麩羅は初夏の贅沢、と思っている目にはたまらない煌めきだ(もう盛夏も過ぎつつあるが…)。

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10尾980円!一存では決められる価格ではないので、Kapparに売場からご注進~!「よし!いってみよう~~!」で、めでたく配達商品入り。

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こんなおいしそうな天麩羅になってくれた稚鮎たち。ありがとさん!おいしゅうございました~~~~!!!

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大人のコミュニケーション・ルール

後年、中学生になる頃になって、やっと僕は気付いた。大人同士のコミュニケーションに僕が入ろうとする時、必ずきつく叱っていた親父の心にあったのは、“俺は長く生きることができるかどうかわからない。祖母の家で育つことになると、きっと甘やされることだろう。躾けておくべきことは早く躾けておかなくてはならない。今一番大切なのは、子どもとしての分をわきまえ、大人に対する敬意を根付かせることだろう。年長者やその経験をなめてしまうようになってはいけない。”ということではないか。それは、コミュニケーションを通じて学ぶ姿勢や、何をどう伝えればいいかを考えることによって思考回路を確立させることなどを意図していたものようにも思った。

親父が対等に話せる男と認めてくれた高校2年生の秋、僕は僕のその推論をさりげなく親父にぶつけた。親父は、「う~ん。そんなところだったかもしれない」と苦笑いをした後、「このままではお前は精神的な片輪になる。そう思っていたのは確かだなあ」と続けた。誰にもコミュニケーションに癖はあるものだが、聞く力があれば話す力も身に着く。それを教えてくれたんだなあ、と僕は思った。

聞いている人の心を慮る。話している人の言葉以上のものを感じ取ろうとする。わかってくれること、わかってもらうことを前提としない。あるいは、強要しない。わかってあげようと努力し、わかってもらおうとする努力を惜しまない…。「お前なんかに興味がある人は、そんなにいるわけないんだからな。興味を持ってもらうためにも、ちゃんと話せ。おもしろく話せ」。そんなことも言われていた。いいことを教えてもらった。

ただ一方で、生活は困窮を極めていった。親父は生活保護を受けること決意した。そして、生活保護を受け始めると、そのことを恥じているようだった。毎日家にいることも耐えられないことのようだった。生活は若干荒れていった。

*次回は、ちょっとお休みして、“お出かけレポート”「水戸京成百貨店」を!

これも、農業ビジネスって?!

農業は、一時のブームのように騒ぐ話ではない!フェア・トレードの精神と重ね合わせながら、一人ひとりが抱え続け考え続け、日常生活の中でできることから参加していくべきことだと思うのだが……。

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東京の成城という所では、農業や自給率が話題なるが早いか、こんな所が誕生した。名付けて“アグリ成城”(agriculture…農業)。レンタル家庭菜園だが、そこは成城、駅近で、クラブハウスもあり、しっかりとサポートもしてくれる…んだと。なんだかなあ……である。

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大人のコミュニケーション? ⑥

「死の病」と言われていた肺結核を患い、教職から離れざるを得ず、家族からの支援もなく、ただ幼い子供のみが手元に残った親父。その心の深淵を図り知ることはできない。僕自身が脳内出血を経験してやっと少し覗き見ることができたようにも思うが、僕はその時56歳。親父が自宅療養に戻ってきたのは31歳。戦争も終わり、新たな人生を踏み出したばかりだ。やるせない想いは募り、淀み、狂おしいばかりだったことだろう。しかし、帰ってきた親父は、僕には毅然として見えた。頼もしかった。そして、厳しかった。

いつも横にいる僕が、大人たちのコミュニケーションに混ざろうとすると、親父は必ず叱った。「大人の話に子供が入ってくるんじゃない」「お前のために大人の大切な時間を無駄にさせるな」などという叱責の言葉に、祖母が「まあまあ、聞いてあげようよ」となだめると、「いいんです!甘えさせないでください!」と応え、僕に「黙って聞いてなさい!」と念を押した。二人きりの時は優しく話を聞いてくれるのに、変だなあ。なぜだろう。と僕は思ったが、言いつけを守った。それでも楽しいことがあった時は我慢できず、「あのねえ…」「ねえねえ…」と、話を聞いてもらいたくてついつい割り込んでしまうのだが、そんな時は「お前が楽しいだけの話を聞いても、誰も楽しくないんだぞ!後で聞いてあげるから、今は黙ってなさい!」と言われた。時には、「何を言っているのかわからん!きちんとわかりやすく言いなさい!」などとも言われた。

楽しそうに、あるいは真剣に取り交わされる大人のコミュニケーションは、しかし、とても刺激的だった。僕は、なんとか加わりたいと思い、ついに一つの方法を発見した。それは、「ねえねえ、それはなんのこと?」「どうして?」と質問することだった。質問が無視されることはほとんどないことがわかったからだ。しかも、質問に対する答えがわかりにくい時は、質問を重ねていけばいい。それは僕にとっては、継続するコミュニケーションになる。さらにいいことには、色々なことを知ることもできる。僕は「なぜなぜマン」に変身した。そして、ごく稀にではあるが、幼稚でシンプルな質問が大人たちに発見をもたらすこともあり、親父に「いいことを訊いてくれた」と褒められることさえあるようになった。

ただその一方で、入院生活の費用負担に耐えられずにやむなく始めた自宅療養にも限界が見え始めていた。何かが起きる。という予感は、日々ひしひしと身体に沁み渡っていった。

箕輪さんから、いただいたぞ~~~

とある仕事でKapparと二度目のコンビを結成することになった箕輪さん。「データを消してしまった~」ということで、チャリで受け取りに来られた。その時のお土産が、箕輪家の“緑のカーテン”産のゴーヤと生姜ジャム。

お返しをせねば、とビールを。「チャリだし、帰って仕事しなくては」とのことだったので、やむをえず僕が片づけることになった。想定外だった……。

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大人のコミュニケーション? ⑤

病室に親父を訪ねて行くことを制限されるようになると、僕は大きいおばあちゃん(祖祖母)や一人暮らしをしている叔父さんを訪ねるようになった。4才を過ぎていた。大きいおばあちゃん(当時、50歳手前)はお寺の離れに暮らしていて、達磨さんの掛け軸を背に、封筒貼りの内職をしていることが多かった。お手伝いをすると時々手を休めて、文字を教えてくれたり、口笛の吹き方を教えてくれたりした。お寺の本堂の床下に蟻地獄を見つけ、蟻を助けたことを報告した時は、いいことだけどいけないことでもあるんだよ、と言われた。まるでわからなかった。ただなんとなく、大きいおばあちゃんに会いに行く時にいつも通る大きな肉屋さんの前の広場の片隅に悲しそうに繋がれている牛を思い出し、悲しくなった。口笛を吹こうとしたが、うまくいかなかった。

叔父さんの家に行く時は、少し覚悟が必要だった。暗い入口から急な階段を上がった和室に、叔父さんはいつも静かにいた。出された座布団に座ると、何かないかなあとお菓子を探し、出そうとしてくれるのだが、ほとんどいつも何もなかった。そしてしばらく経つと、シベリアの話が始まった。酷い話ばかりだった。僕は叔父さんの上唇の大きな傷跡を見つめていることに気付いては目をそらしながら、懸命に聞き入った。帰る時はいつも、やりきれない重さと叔父さんに喜んでもらえた晴れやかさが交錯していた。

僕はこうして、大人の間を泳ぐように暮らしていた。それなりに楽しかったが、いつも少し心許なかった。親父が恋しかった。

昭和29年の夏が盛りを過ぎた頃、親父は帰ってきた。周りがたしなめるほど喜び弾んでいた僕は、しかし、帰ってきた親父に戸惑った。病室で見せてくれていた笑顔と同じ笑顔に、薄い被膜がかかっていた。僕の頭を撫でる掌や頬ずりする頬にちょっぴりよそよそしさがあった。僕に掛ける言葉にさえ、よそよそしさは匂った。僕がいつも暮らしている場所は、親父の場所ではないんだ、と僕はぼんやり感じた。親父が持っていた緑(だった?)の大きな缶が、これから親父を助ける、とても高い薬(ストレプトマイシン)だと聞かされても、不安で仕方なかった。

人の動線のない街(?)芦花公園

芦花公園は、京王線芦花公園駅の南側に位置する。高級住宅地として開発するにふさわしいエリアとの判断から、駅近くに高級マンション、やや離れた所には高級住宅地が開発された。ただ、いずれもあまり大規模なものではなかったようだ。一方、駅の北側には旧甲州街道と甲州街道が東西に走っている。甲州街道の北側は北烏山団地ができてはいたが住宅地としての開発は遅かった。南側の公園近くという立地に対し、駅から幹線道路を渡って行かざるを得ない立地では、自ずから地格も違ってくる。大規模な高級住宅地開発ではなく、庶民的な公団住宅が先行して形成されたことも地格形成に影響を及ぼしたしたことだろう。かくして、芦花公園周辺の街は、京王線、旧甲州街道、甲州街道で、細かく刻まれ、南北に通じる人の動線は作ることは意図さえされてこなかった(と思われる)。しかも、分断されたエリア毎に微妙に住民のライフスタイルも異なる街となった。統一性がないのである。

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東西に走るのは、クルマ専用と言ってもいい道路であり、その両サイドに商店が軒を並べる余地はない。辛うじて生きながらえている商店街は、駅から旧甲州街道までの約200m。しかし、南北をつなぐ数少ない道路が、その真ん中を突き抜ける。歩道にアーケードを乗っけただけでは、そぞろ歩きができるわけもない。しかも、後背地たるべき住宅地は、京王線や甲州街道を挟んで分断されている。人の動線をどこにも設定できそうにない構造の街になっているのである。人の動きの自由度やゆとりが設計できない街に、商店街は育たない。と、僕は思う。残念だ。

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大人のコミュニケーション? ④

僕は次第に、周辺の大人たちを意識分けしていった。小さいおばあちゃん(祖母)は、家の仕事がない時は近づいて行ってもいい人。何でも聞いてくれるからだ。なかなかそれもかなわないが、寝る時は一緒だから楽しい。ミオコ姉ちゃん(叔母)は、言いつけを守っていれば優しい人。小さな秘密が時々あるけど、それをきちんと守ればいいことがある。ヨシキ兄ちゃん(叔父)に名前を呼ばれると、何かしなくちゃいけないことがある時だ。時々勝手に遊んでくれるけど、気が向かない時もある。力が強いから振り回してくれたりして楽しいが、怖い時もある。そして、おじいちゃん(祖父)は、どうしていいかわからないことが多いので近づかない方がいいのに、必ず“お茶”に付き合わされる人。小さな嘘でもひどく怒るので、気をつけなくてはいけない……。といった具合だ。

それぞれがそれぞれの時間を生きているような家族が一堂に会するのは、小さな卓袱台の周り、晩ご飯の時だけだった。それは緊張の時間でもあった。食が細く、すぐに席を離れて絵本の方に行こうとする僕は、いつも作法や食べる量を厳しくチェックされていた。しかも、祖父と祖母の喧嘩がよく勃発する。食事の速いミオコ姉ちゃんとヨシキ兄ちゃんは、早々に自分の部屋に逃げおおせるが、僕はそうもいかずに取り残される。不穏な空気が高まるとお皿が飛ぶこともあるので、卓袱台の下に潜り込むことにしていたが、それを見咎められたこともあったので、タイミングが難しい。うまく潜り込むと頭を守りながらいつも僕は、“みんな優しくていい人なのになあ”“仲良くできないのかなあ”と、不思議な気持ちになりながら、少しだけ悲しかった。

どんな日でも一つや二つはある楽しいことがなく喧嘩も絶えない時は、親父に会いに行った。浜田日赤病院の大部屋に並んでいるベッドの一角に親父の姿を見つけると、それだけで心が和んだ。ちょっと驚いた後の困ったような微笑が、いつも僕にはおもしろかった。少し顔を背けながら、ぽつぽつと僕にいつもの質問をして、大きくなりそうな声を時々たしなめながら僕の話に耳を傾けると、頃合いを見て「あんまり来ちゃだめだぞ」と言って頭を撫でてくれた。大きなドアを開け振り向くと、来るたびに違うベッドが空いていることに気付き、少し神妙な気持ちになった。半身を起こした病室の人たちに「さよなら~」と言うと、ほとんどの人が微笑み、手を振ってくれた。帰り道、ちょっとえらくなったような気分で歩き始めた足は、すぐに重くなった。静かで穏やかな死の淵をそっと覗いた寂しさに、毎回走って帰った。

Kappar、コックピットから二時間の脱出!

20日ぶりくらいの、Kapparとのお買い物。Kapparは、コックピットからでるのさえ一週間ぶりだ。

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足の小さい(間抜けの小足…24.5cm)僕のサンダルは、Kapparのもの。ビルケンシュトックが欲しいが、サイズ、機能、お値段のお手頃なものがない。で、お借りしている。

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芦花公園駅へと続く小さな商店街。踏切を渡ると、構想だけが先行して出来たような、バスもタクシーも来ないロータリーがあり、その向こうにサミットがある。往復30分強。“お買い物リハビリ”(?)にはもってこいの距離だ。芦花公園駅は改修中だが、商店街の未来は明るくないような気がする。仙川にはなれそうにもない。その理由は、次回。

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大人のコミュニケーション? ③

大人に囲まれた暮らしは、基本的には快適だった。まずは、“新生児微笑”を見るような感覚で迎えられた。何しろ僕は、いたいけな孫であり、甥である。しかも、山陰本線浜田駅で母親と別れたばかり。親父は入院中だ。不憫に思う気持ちが、かわいいいと思う気持ちに拍車をかける。ひと時も寂しい思いをさせてはならじと、全員の気遣いは僕に集中した。面倒なくらい、心地良かった。“なんか変だぞ~。でも、心地いいから、いいか~”という気分になったのを、僕は覚えている。しかし、長くは続かなかった。家族それぞれが、それぞれの理由で忙しい。祖父は肉体労働。祖母は家事全般。叔父・叔母は青春真っ只中。幼い子供にかまけている暇はそう多くはない。次第に一人で過ごす時間が増えていった。保育園に一人で歩いて通う道すがら、当時では珍しかったコンクリート製の橋の欄干を撫でたり、大きく見えた小さなビルを真下から眺め上げたり、道路脇の溝の、時々色を変える汚水の流れを見入ったりして時間をつぶすことが多かった。順番に帰ってくる家族は僕を見つけると必ず声をかけてくれたが、その時の声の色や表情から機嫌の良し悪しを判断するようになっていた僕は、簡単には近づいていかなかった。特に、紆余曲折の果てに“落ちぶれた”祖父には、大いに警戒していた。僕の最初の大人とのコミュニケーションは、そんな状況下で交わされた。始まりも終わりも中断も、常に“大人都合”のものだった。

優しく話しかけられると僕は、必ず胸が弾んだ。ささやかな質問にも、浮き浮きと多くを喋った。しかし、いつも途中から“大人都合”の中断を予感していなくてはならなかった。“まだ聞いてよ~”が通用しないことは、すっかり思い知らされていたからだった。“大人都合”への抵抗は、ほとんどの場合いい結果を生まないことを僕は学んでいて、“大人都合”に我慢して従うことが“次の会話”へのより確かな手掛かりになる、と思っていた。僕は“大人にとって都合のいい”(素直な)子供だったのだ。

キイキイ少年、発見!

夕方以降の農作業でも熱中症になるという日々なのに、公園からの“キイキイ語”は、相変わらず。「子供たちだけで遊んでいるとしたら、危険じゃないかなあ」などと、生来のお節介が頭をもたげ、行ってみることに。

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キイキイ少年(坊や)、発見!お兄ちゃん、お父さんと一緒だった。ブランコを大きく押してもらっては、喜んでいる。いい風景だ。思わず、しばらく眺めて帰ってきた。それから以降、“キイキイ”はほのぼのする声になった。

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大人のコミュニケーション? ②

以前本ブログランニング、カレーライス、あんぱん…。①、②、③で大雑把に触れたが、僕は3才になる直前の秋、祖父・祖母と暮らすことになった。本来は親父と二人でお世話になったのだが、親父は肺結核を患っており、成功するかどうか分からないと言われていた手術を受ける決心をして一年間松江市の病院に入院するまで入・退院を繰り返していたので、いないも同然だった。祖父・祖母と言っても、僕の母親の両親。親父の伯父・伯母に当たる人たちでもあった。肺結核になった親父を支えるための“売り食い”の日々にも限界がきていた母親は「お金を稼いでくる」と、親父の弟を頼って神戸へ行き、そのまま帰って来なかった。昭和27年のことである。

祖父・祖母の家は“元カフェ”。活動写真の弁士だった祖父が一念発起して始め一時は盛況だったらしいが、その頃には倒産していた。当時では珍しいコンクリート造りの2階建てで、裏庭の離れを朝鮮人家族に、2階の6畳の和室を山下さんという母子家庭に、それぞれ貸していた。しかしその頃、叔母(母親の妹)は女学校(現在の女子高)の2年生。叔父(母親の弟)は、高校3年生。教師をしていた親父の収入が肺結核のために掻き消えた上に、療養費の負担ものしかかっていた家計が楽なはずもない。当時50代中盤の祖父は、かつての映画青年。手に職があるわけでもないので、天気のいい日は日雇労働(ニコヨン)に出かけていた。そんな中での暮らしだった。大人とのコミュニケーションの只中にいた3年間だった。たくさんのことを覚えている3年間、性格形成やコミュニケーションに対する姿勢や考え方に大きな影響を及ぼした3年間だった。

チビ、疲労困憊の日

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アレルギー持ちのお婆さん“チビ”は、いつもどこかが痒い。辛抱できないから、掻く。掻いて、掻きこわす。掻けないところは、噛む。噛んでも効果がないと、毛をむしる……。そんなこんなで、喉元や胸元がちょっとした騒ぎになっていた。コックピットから出る時間さえ惜しいKapparには内緒にしていたが、つい昨晩口が滑った。で、「だめだ!気になるから医者に連れて行く!」と始まった“チビ、疲労困憊の日”。リュックに入れられ、毛を刈られ、薬を塗られ・飲まされ、包帯をされて帰ってきた。ちょっと怒っている。なんて恩知らずだ!“河童の心、猫知らず”とは、このことだ!

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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改めて思う、脳卒中リハビリのこと。 ②

当たり前のことだが、発症した時の年齢・状況、症状の重さなどよって、病気になった時の環境は人それぞれ異なる。病後の生活もまたしかり、である。脳卒中の場合は、突然とんと押され、これまで過ごしたことのない部屋に投げ出されるようなもの。まずはなんとかドアを開け、元いた世界に戻れないものかと思うが、すぐにそれはかなわないことだとわからされる。徐々に失うのであれば覚悟も固まっていくのだが、それもないから、失ったことにどぎまぎし、慣れることがなかなかできない。失ったもののことばかり考えてしまう…。

そして、リハビリが始まる。いや、リハビリを早期に始めることができる幸せに僕は恵まれた、と言うべきだろう。重篤でリハビリをするにまで至らない人、病院に置き去りにされてしまう人、悪質な“おざなりリハビリ病院”で大切な時期を無駄に過ごしてしまう人…等々、適切なリハビリを受けることができない人は、数多い。病み上がりの視線で街を見るようになり、そんな人の存在とその数の多さにに気付き、しきりに胸が痛み、憤りを覚えた。そして、翻って自分の状況と環境を考え、いかにも恵まれていることに気付かされた。

失ったものを取り返すこと、失った場所の空虚さを埋めるために何かを得ようとすることなどに汲々とせず、まず今を是認し、現状の自分を認識し、そこから再スタートだ!と思った。突然放り込まれた部屋の景色が変わったのではなく、突然変わったのは自分なんだと認めよう、と思った。しかも、変わったのは、身体の動きや生活スタイル。価値観、美学まで変わったわけじゃない。もう一度、暮らしを組み立てていこう、と思った。Kaparの庇護に対しても、感謝しているだけではKapparが報われないのではないか、と思った。無事に暮らしていくこと。それを前提に、できることをまた見つけていくこと。年齢に追い立てられず、ゆっくりとできることとしたいことをする…。

そんな気持ちにやっとなることができて半年。徐々に進もうとしていた、その矢先である。前提条件の“無事に暮らすこと”に、転んでしまった。へこむはずである。……しかし、転べば立ち上がる。身体が立ち上がらなければ、心が立ち上がればいい。と、気を取り直している。な~~んだ~~!ちょっと心細かっただけなんだ~~!Kapparが仕事で留守の時だもんね~~、転んだのは。などと、友人たちには言われることだろう。それに対しては、はっきりと答えよう!…そ・の・通り!・です!

茄子の糠漬けが食べたくて!

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漬け物なしには生きていけないのよね~、というほど漬け物が好きなわけではないが、時折無性に食べたくなる。できれば、糠漬けがいい。ところが、スーパーの店頭ではなかなか見かけない。見かけたとしてもキュウリがほとんど。それも、人参や大根との根菜糠漬けセット。茄子は見かけない。流通しにくいのはわかるが、ないとなると尚更食べたくなる。で、探しました、ネットで。見つけたのが、この糠床。やや塩が強いが、その代わり一日でおいしく出来上がる。…お陰で、ほぼ毎日一本の茄子の糠漬けが食卓に登場するようになった。今のところ、飽きていない。

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改めて思う、脳卒中リハビリのこと。 ①

脳卒中のリハビリは、最初が大切…。90日程度で取り戻した機能以上の機能は、もはや帰ってこない…。以前、厚労省の役人が、「よくもならないのに、ダラダラと保険を使われてもなあ~」と、強制的に外来リハビリの国民健康保険利用を制限しようとした時も、90日が目途にされていたように記憶している。後期高齢者医療制度の導入同様、目線が患者や高齢者の側に立っていないばかりか、医療の現場に携わる人たちの側にさえ立っていない“制度と費用”の側の人間の小賢しい考え方である。しかし、本来制度の受益者であるべき人たちの負担増によって制度改革を図ろうとする“小手先改革”がうまくいくわけもなく、今は妙にうやむやになっている。完全に消えた話なのかどうかわからない、いささか気味の悪い状況である。いつまた大量に湧いてくるかもしれないコバエのようだ。

ただ、脳卒中経験者として日々の生活の中で実感したのは、脳卒中リハビリの限界である。確かに、90日くらいを境に機能の再獲得の目立った進展はなくなった。90日よりももっと早くからだったようにも思う。残念なことだが、ペットロスのように“機能ロス”に陥っていても仕方ない。ここは一発、頭を切り替えよう!と、僕は思った。

そして“これからの、僕にとってのリハビリ”というものを3つのポイントに絞った。……なにしろ、社会人になるにあたって“5カ条の御誓文”を決めたくらいだ。何か決めておかないと、心の安寧が得られないタイプなのだ。……1.痛みの緩和・解消。2.日常生活の安全の確保。3.過緊張の緩和。の3点が、それである。三つ目の“過緊張の緩和”に、それでも完全には諦めていない機能回復への思いが込めてある。

ところが、昨日理由もなくふらついた。転んだ。痛かった。少しばかり傷ついた。そして、ややへこんだ。……

今度は、鰯の味醂干しだ~~!

山彦さんの次は、海彦さん……転んでリハビリにも行けなかった僕に代わって、Kapparがコックピットを飛び出し、チャリでお買い物へ。帰ってきたら、顔が輝いている。「今日は、鰯の味醂干しだ~。活きのいい鰯が安かったのよね~」と、早速捌き始める。1尾はタタキ用に冷蔵庫へ。残りが、味醂干し用に。一方で、コトコト味醂出汁が沸騰中。

で、数日前には梅を引き受けたベランダが、今日は鰯を引き受けることになった。そして約2時間半、デデデデデと階段を駆け上がる音がしたかと思うと、「旨そうだぞ~~」という声が下りてきた。

実においしかった!Kapparは、「原価50円~~!」と自慢そうだった。

*昨日の転倒の、科捜研写真。生っぽいので、小さめで。

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高名な木登り…続編

自分への戒めの意味も込めて以前書いた“高名な木登り”だったが、戒めの甲斐もなく、僕自身が失敗をしてしまった。今日、久しぶりに転んだのだ!脳卒中経験者の方々は、何度も転倒の危険を感じておられることと推察されるが、立ち上がった時、振り向いた時、何かを拾おうとした時、驚いた時、等々。麻痺の残る側の手足が硬直し、あるいは足首や膝が思うに任せず、バランスを失うことがある(猫を踏むのは、特に危ない!)。元々バランス感覚が良かった僕でさえ、一日何度かは“おっとっと”状態で踏みとどまることになる。引っ越ししてほぼ半年。猫の尻尾を踏んで尻餅をついた(2回)以外は、無事に踏みとどまり続けてきた。幸い、往来での不安定な歩行もほとんどなくなっていた。

そんな矢先のことである。“もう大丈夫”と思う頃が一番危険なんだよな、と思っていたのに、である。慣れてきた頃の海外旅行、自信が芽生えた頃の仕事、近くなれた頃の恋愛……油断禁物である。いつも、危なっかしい時のために、動く時には摑まるべき場所を目で確認しておくのだが、それを怠ったのがいけなかった。テレビを背にしていたので、転びそうになった時に、“テレビにぶつかるとやばいぞ!”と一瞬思ったのもいけなかった。心の動きが身体の緊張と直結するのが、脳卒中後遺症の特徴でもあるのだ。気をつけなくてはならない。

腰を打ってしばらく唸ったが、それよりも肘を擦り剥いたらしい(確認しようとしたが、見えない!)のが、痛い。「沁みるぞ~~~」と、メールで知らせたKapparに脅された。

鮎の塩焼き

ちょっと焼き過ぎだが、これくらいの方が僕は好きだ。なにしろ、高津川漁業協同組合から取り寄せた、正真正銘の天然鮎。妙に脂の乗った養殖物とは、香りも身の締まりも格段に異なる。サイズも、20㎝強と食べ頃サイズ。我が故郷、島根県益田市の清流高津川産。

おまけに、高津川漁業協同組合、請求してこなかった。「お金いらないのかな?お試し?2kgも?」などとしばし遊んで、「お金、払いたいんですけど…」と電話した。「そうですか~?」と暢気な対応だった。

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大人のコミュニケーション? ①

僕はどうも、“大人のコミュニケーション”ってやつが苦手だ。「それを言っちゃまずいだろう!」とか「言っていいことと悪いことがあるだろう!」とか「確かに、そうだけどさあ!」などと先輩諸氏によく言われながら、還暦にまでなってしまった。30歳直前に一人で会社を作った時も、「きれいごとでは会社はやっていけないぞ!」とわざわざ忠告に来てくれた先輩(VAN時代の)が数名あり、異口同音に“率直な話し方がいいとは限らない”“理想を追求していては、会社はつぶれる”と厳しく言われた。しかし、それらの忠告は、ついぞ僕に効くことはなかった。何故か?それらの忠告の前提になっている“自分の立場やメリットを守るための方法論として”というスタンスが、僕は大嫌いだったからだ。

相手を思い、思うからこそ考え、その考えをきちんと伝えようとする時、多少の言葉のミスやロスは構わない。伝えたい、という強い意志があれば、真意は伝わるはずだ。“ウィルは、スキルを凌駕する!”のだ。もちろん、会話にもスキルは必要だ。伝えたい、という意志の元に磨かれたスキルは、多少拙くても用をなす。が、伝えたいことと、伝えようとする熱意なくして、人には何も伝わらない。当たり前の話だ。相手を慮っているような物言いで、実は自己防衛に励んでいる、実に“大人な会話”の会議や営業トークを僕は何度も経験し、その度に気持ち悪くなった(そんな気持ち悪いスキルを教えたり学んだりしている人がいる…どうかと思う!)。

それは、僕の中で、ある種の反作用として芽生え、何度かの失敗によって育っていった価値観であり、大袈裟に言えば美学だった。……話は、僕が3歳の頃に遡る。

1年待つのじゃ!…ハイ!!

カンカン照りの酷暑に恵まれ(?)、梅はめでたく3日で干上がった。コックピットをしばし抜け出たKapparが、「よし、よし、いい感じだぞ~」とほくそ笑みながら、最後の作業。

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梅を壺の底に敷き詰める。砂糖をぱらり、焼酎をひと吹き。二段に重ね、紫蘇を乗っけて、砂糖をぱらり、焼酎をひと吹き。「さ!これでよし!1年待つのじゃ!」。「ハイ!!」。と、コックピットへ戻っていった。禍福はあざなえる縄の如し、である。

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“サイド・バイ・サイド・コミュニケーション”の長所と限界!? ②

夏休みの間、僕たち5~8人(小学校2~5年生)の仲間の中心にあったのは、“楽しいことに向かっていくエネルギー”だった。誰がスタートを切るでもなく集まり、線路を歩き、茂みの小道を行き、岩浜へと出て行く。役割が決まっているわけではない。得意だと認められている者が、その度にリーダーになる。磯遊び、魚釣り、サザエ獲り、水上鬼ごっこ、火おこし、ご飯炊き(米と空き缶を持参し、米を海水で研ぎ、小さな貝の炊き込みご飯を作ることもあった)……。それぞれに、自然に決まった“指南役”がいた。2~3年生の子たちは、無視されたり置き去りにされないよう、無駄な質問をしたりわがままを言ったりせずに指示に従う。彼らの兄たちが、さりげなくそれを見守る(弟や妹は連れて行くが、足手まといになりそうな下級生を連れていくことはなかった)。ほとんどすべてが初体験の僕は、教えてもらったことに早く熟練したいと、2~3年生の仕事から頑張った。それは、スキルに差があってもウィルを共有しているグループだった。教える・教えられる、という関係も明確にあり、それが不満な者などいなかった。不満や疑問を抱いたり、口にする時間がもったいなかった。

しかし、上級生がリーダーとなった秋からのグループは、違った。何をして遊ぶか、誰と誰が何をするか、いつ終わるか……。そのすべてがリーダーの掌中にあった。そしてそれなのに、明らかにいいリーダーであろうとしている上級生は、一人ひとりの意思を確かめるかのような行動に出る。フェイス・トゥ・フェイスで向かってくるその行動は、平等であろうとする空気に包まれているだけに、面倒で鬱陶しくて仕方なかった。

さらに残念なことに、みんなが一緒に楽しめることは、そんなにはなかった。鬼ごっこや、缶蹴りなどは、すぐに飽きた。相撲、チャンバラ、西部劇ごっこなども同様だった。小さな子、おもちゃを持っていない子(僕もそうだった…)が置き去りにされる遊びも嫌だった。しかし、じゃあ何をするかとなると、僕にも思い当たるものはなかった。

やがて僕には、上級生が時折見せる苛立ちが何を意味しているのか、ぼんやりと見えてきた。ウィルを共有できる状況を作り出せないこと、同じ温度で興味や関心を持つ者がいないこと、さらに、それでも自分が年長者としてリーダーシップを発揮しなくてはならないということ…。そんなことが綯い交ぜになっているようだった。そして思った。僕たちが分け隔てなく横並び(サイド・バイ・サイド)で経験を共有し、楽しく会話できたのは、海と夏のおかげだったんだ!

興味・関心を共有できる魅力的なものを前にした時、サイド・バイ・サイド・コミュニケーションはやっと成立する。向き合い、お互いをとことん見つめあう厳しさ、苦しさ、馬鹿馬鹿しさを回避するためには、サイド・バイ・サイドになればいい。サイド・バイ・サイドでコミュニケーションすればいい。介護というコミュニケーションについて考え、悩み、そんな結論に達した時、僕の頭に鮮やかに蘇ったのは、あの海辺の時間と空気と、ジリジリと焼ける頭の皮の記憶だった。

Kapparの“コックピット”(“コクーン”?)

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打ち合わせ、取材等がない日。Kapparは、一日の10~15時間を、こうして過ごす。…もちろん、ただ座っているわけではない…仕事のコックピットなのだ。ただこのコックピット心地よいらしく、ごくごくごくごくごくたまにだが、“コクーン”ともなるらしい。

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