« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »

コミュニケーションの話:番外編“本日の街角障害者”(つづき)

バスの中は、ざっと30人ばかりの乗客。立っている人の間を縫うようにして、赤ちゃんを抱いたお母さんは、バスの中央部あたりで座席の背もたれに摑まった。二人分の優先席、僕の隣は同年代の健康なおじさん。向かいの座席には、若い女性、おじさん、おばあさん等が座っている。みんな、俯き加減だ。バスが動き始める。と、一瞬お母さんの身体が少し揺らぐ。危なっかしくはないが、気になる。“次のバス停で、席を譲ろう”と僕は、決めた。

次のバス停で2~3人が乗り込む。一人足元のあやしいおばあさんがいたが、そちらは僕がお母さんに譲れば、誰かが譲るだろうと考え、僕は立ちあがった。左手にもどかしく杖をつかませ、右手で出口付近のバーに摑まり、躊躇するお母さんを「さ、どうぞ」と促した。近くにいた女子高校生二人以外、誰の目線も感じなかったが、嫌な空気を感じた。終点までの約20分間、乗客が降りて行くにつれ少しずつ空気は元に戻っていくように感じたが、嫌な感じは付きまとった。

僕の考え過ぎかもしれない。いや、それもきっとあることだろう。しかし、「これみよがし?」「無理しなくても…」「あざとくない?」といった空気を、僕は感じ続けていた。気になっていたおばあさんが、“この状況は想定内です”とばかりに、運転席のすぐ後ろで足をやや開き気味にして安定させ、しっかりと座席の背もたれに摑まっているのを時々見ながら、ちょっと考えた。

“負けてなるものか!”と過剰に頑張り過ぎたくない。“弱者は、守られるのが当然!”と妙な権利意識を持ちたくない。とても自然に行動ルールを守り続けたい…。自分のできること、できないこと、危険なこと等を自分で判断し、その判断の元、できるだけ自然に行動したい…。その判断を確かなものにしていくことも、リハビリの重要な課題だ…。と、僕は考えてきた。そして、脳卒中経験者が200万人にもなることが確実視されている社会に、経験者の僕ができることの一つは、できるだけ街に出て、どのような存在かを知ってもらうことだと思った(そのことは、以前本ブログで“杖をつき、街に出よう”と書いた)。

しかし、このコミュニケーション方法は、なかなか難しいものでもあるようだ。いいと思うこと、そうしたいからしていることも、他者から見ると様々な解釈の仕方があるからだ。しかし、そこに誤解や曲解があったとしても、僕は続けよう。積み重ねだもんね。と、思った。

そのためにわざわざ出かける、なんてことはせずに、ね。

“干す”から、梅干しなのだ!

「明日から当分晴れが続くみたいだね」と昨日から、Kapparが繰り返す。少しうれしそうだ。劇的に忙しいはずなのに。お母さんの用事は済ませたはずなのに。どこか出かけるつもりかな…。と思っていたら、これだった!

Photo

“3日は干したい”んだそうだ。“風に当てたい”んだそうだ。“カビに気をつけなくちゃいけない”んだそうだ。“1年後位からが、おいしい”んだそうだ。で、“うまくできたら、来年は3kg位作ろうかな”だって…。味見は遅くなりそうだ。*ちなみに、この量(大粒だが…)で、1kg。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コミュニケーションの話:番外編“本日の街角障害者”

週1回、木曜日の午前中40分が、現在の僕のリハビリ・スケジュール(リハビリの主体は、日常生活にあり!…このことについては、また後日…)。木曜日朝9時前に自宅を出てバス停まで歩き、9時9分のバスに乗って成城学園前駅西口へ。エスカレーターで駅ビル(コルティ)の2Fへ上がり、駅ビルを抜けて東口へ下りる。約600メートルを歩いて、成城リハビリテーション・クリニックへ。到着は、概ね9時50分。10時12分から40分(2単位)のリハビリを終え、成城学園前駅に引き返す。途中お気に入りの朝食用のパン“スクウェア”を買うために“Kiriy’s”に。次いで、“スクウェア”4~6日分をぶら下げ、小田急OXへ。買い物をして配送の手配が終わると、12時前後。それからまた駅ビルを抜け、バス停へ。本数が少ないので、長い時はバス停で20分以上待つことになる…。というのが、ほとんど判で押したような木曜日のスケジュールだ。

このスケジュールを狂わせるのは唯一天候のみ。雨が降ると、さすがにこの行程は厳しいので、休む。昨日は弱い雨が強くなるという予報だったので、お休み(電話をするのを忘れてしまった!…ごめんなさい)。となると、買い物をしていないので、冷蔵庫の在庫が心もとない。というわけで、今日(金曜日)は買い物に出かけた。出発は、雨が上がり切ったと判断した11時半過ぎ。1時間1本のバスに合わせ、日差しを警戒してキャップを被って出かけた。そして、曜日が違うだけでこんなに違うの?それとも、たまたま?という思いを抱いて帰ってきた。

まず、小田急OXの店内。老夫婦が多かった。“これから、団塊世代は夫婦での行動が多くなり、また街に出てきます。そんな団塊夫婦が改めてゆったり過ごせる百貨店にしていきませんか?若い女性やキャリアの女性で稼ぐ時代は終わっていると思いますが…”と、百貨店に熱心にプレゼンしていたのを思い出す。ただ、要支援、要介護の奥さんとご主人を三組も目にしたのは初めて。週末の買い出しだろうが、ほほえましくもちょっぴり切ない。店の小さなホスピタリティ施策などを、しばし考えてしまった。

そして、帰りのバス。20分待って、僕が一番乗り。いつものように優先席に座る。しかし、2人分しかないので、パンのビニール袋は一番前の席の後ろ、少し空いた場所に置いた。出発を待っている間にほぼ満席。次の北口前のバス停でさらに乗客があり、立っている人が10人弱という状況。そこに、次の駅で赤ん坊を抱えたお母さんが乗ってきた。……つづく

本日のお出かけスタイル

杖は、“人避け”“目印”として手離せない。ただ、だからこそ、傘と荷物と一緒に持つことになり、雨の日の行動を制限することにもなる。ま、仕方ないんだけど…。

701_055

動く右手で杖を顎まで持っていく時も、肩がすくむ。本当はこんなに肩幅狭くない~~はず……。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

“サイド・バイ・サイド・コミュニケーション”の長所と限界!? ①

小学校5年生の夏休み。一学期の終業式が終わった翌日、僕は散髪屋に駆け込んだ。にこにこと迎えてくれた若い(店主の息子さん?)お兄ちゃんに「短くしてください!」と言うと、それまでの2~3回のように鋏を持って傍に来ると、坊ちゃん刈りの襟足に鋏を入れた。即座に僕は、「バリカンで切ってください」と、鏡越しに訴えた。彼は「いいの?あんなに大切にしていたのに」と、手を止めた。その微笑みには、少しだけ皮肉の色が混ざっているように感じた。“大切にしていた”という言葉が、恥ずかしく耳に残った。僕は、「大丈夫です!」と言って、目を閉じた。

ブイ~ンというモーター音が耳元でしたかと思うと、額に冷たい感触がやってきた。薄く目を開けると、バリカンを額に押し当てて僕を覗き込んでいるお兄ちゃんと目が合った。「本当に、いいの?後悔しない?」と念を押す顔に、「いいんです!お願いします!」と応えて、また目を閉じた。すぐにバリカンは動き始め、思ったよりも速いスピードで頭頂部近くまで到達。顔や耳にたくさんの髪の毛が落ちて行くのを感じた。頭皮が痛かった。しばらくすると、その小さな痛みの連続に、自然に涙がこぼれた。お兄ちゃんに気取られないようそっと前掛けの端で涙を拭いた時、「あ、泣いてるんじゃない?大丈夫?でも、もう止められないよ」という声が聞こえた。“この人、大嫌いだ!”と叫びたい思いを我慢しながら、「大丈夫です!ちょっと痛かったんです!」と応えた。驚くほど大きな声だった。

こうして僕は、クリンクリンの丸坊主で夏休みを過ごすことになった。目を丸くしながら歓迎してくれた近所の遊び仲間と、毎日午前中から夕方まで海に出かけた。毎日が同じリズムで楽しく過ぎてゆき、夏休みはあっという間に終わった。初めて日に晒された僕の頭皮は、日焼けで2回剝けた。

その夏、僕は“サイド・バイ・サイド・コミュニケーション”の心地よさを初めて知ったようだった。みんなが横並びで、同じものを見て、同じような体験をし、同じような喜びや驚きを感じる……。その時の一体感、微妙に質と深度の異なる喜び方驚き方に垣間見える友達それぞれの個性……。それに、個対個、個対グループで向き合う緊張がないのは、僕にとって何よりのことだった。ずっとこうならいいな、楽しいだろうな、と僕は思った。あの不登校だった彼も、一緒に遊べばいいのに、とおせっかいな気持ちになったりもした。

しかし、そうはいかなかった。二学期が始まり秋祭りが近くなってくる頃には、“サイド・バイ・サイド・コミュニケーション”の季節はすっかり終わっていた。6年生が加わった僕たちのグループには、暗黙の規律が存在するようになっていた。そして何よりも僕を困らせたのは、上級生が求めてくる“フェイス・トゥ・フェイス・コミュニケーション”だった。「お前、どう思う?」「お前なら、どうする?」と、想定されている答えを口にするまで訊き続けてくる上級生の圧力に、僕はへこたれそうなくらいだった。

モヘンジョ・ダロの息遣い

Kapparの一人旅は、20歳の時のインド旅行から始まった。きっかけは、「モヘンジョ・ダロに行ってみた~い」。で、モヘンジョ・ダロ~インドと、一ヶ月間の旅行になったようだ。

Photo_2

当時の唯一の思い出の品が、現地で買ったという、この“Dancing Girl”像。現地で発掘されたもののレプリカらしい。台を見ると、B.C.2500~1800とある。4000年以上前の“Dancing Girl”。僕は好きで、よく眺めている。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

“サイド・バイ・サイド・コミュニケーション”の長所と限界!? ①

小学校5年生の夏休み。一学期の終業式が終わった翌日、僕は散髪屋に駆け込んだ。にこにこと迎えてくれた若い(店主の息子さん?)お兄ちゃんに「短くしてください!」と言うと、それまでの2~3回のように鋏を持って傍に来ると、坊ちゃん刈りの襟足に鋏を入れた。即座に僕は、「バリカンで切ってください」と、鏡越しに訴えた。彼は「いいの?あんなに大切にしていたのに」と、手を止めた。その微笑みには、少しだけ皮肉の色が混ざっているように感じた。“大切にしていた”という言葉が、恥ずかしく耳に残った。僕は、「大丈夫です!」と言って、目を閉じた。

ブイ~ンというモーター音が耳元でしたかと思うと、額に冷たい感触がやってきた。薄く目を開けると、バリカンを額に押し当てて僕を覗き込んでいるお兄ちゃんと目が合った。「本当に、いいの?後悔しない?」と念を押す顔に、「いいんです!お願いします!」と応えて、また目を閉じた。すぐにバリカンは動き始め、思ったよりも速いスピードで頭頂部近くまで到達。顔や耳にたくさんの髪の毛が落ちて行くのを感じた。頭皮が痛かった。しばらくすると、その小さな痛みの連続に、自然に涙がこぼれた。お兄ちゃんに気取られないようそっと前掛けの端で涙を拭いた時、「あ、泣いてるんじゃない?大丈夫?でも、もう止められないよ」という声が聞こえた。“この人、大嫌いだ!”と叫びたい思いを我慢しながら、「大丈夫です!ちょっと痛かったんです!」と応えた。驚くほど大きな声だった。

こうして僕は、クリンクリンの丸坊主で夏休みを過ごすことになった。目を丸くしながら歓迎してくれた近所の遊び仲間と、毎日午前中から夕方まで海に出かけた。毎日が同じリズムで楽しく過ぎてゆき、夏休みはあっという間に終わった。初めて日に晒された僕の頭皮は、日焼けで2回剝けた。

その夏、僕は“サイド・バイ・サイド・コミュニケーション”の心地よさを初めて知ったようだった。みんなが横並びで、同じものを見て、同じような体験をし、同じような喜びや驚きを感じる……。その時の一体感、微妙に質と深度の異なる喜び方驚き方に垣間見える友達それぞれの個性……。それに、個対個、個対グループで向き合う緊張がないのは、僕にとって何よりのことだった。ずっとこうならいいな、楽しいだろうな、と僕は思った。あの不登校だった彼も、一緒に遊べばいいのに、とおせっかいな気持ちになったりもした。

しかし、そうはいかなかった。二学期が始まり秋祭りが近くなってくる頃には、“サイド・バイ・サイド・コミュニケーション”の季節はすっかり終わっていた。6年生が加わった僕たちのグループには、暗黙の規律が存在するようになっていた。そして何よりも僕を困らせたのは、上級生が求めてくる“フェイス・トゥ・フェイス・コミュニケーション”だった。「お前、どう思う?」「お前なら、どうする?」と、想定されている答えを口にするまで訊き続けてくる上級生の圧力に、僕はへこたれそうなくらいだった。

モヘンジョ・ダロの息遣い

Kapparの一人旅は、20歳の時のインド旅行から始まった。きっかけは、「モヘンジョ・ダロに行ってみた~い」。で、モヘンジョ・ダロ~インドと、一ヶ月間の旅行になったようだ。

Photo

当時の唯一の思い出の品が、現地で買ったという、この“Dancing Girl”像。現地で発掘されたもののレプリカらしい。台を見ると、2500~1800B.C.とある。4000年以上前の“Dancing Girl”。僕は好きで、よく眺めている。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最良のコミュニケーションは、経験の共有から!? ④

国道9号線をしばらく行き、山並みの方へ向って少し歩く。と、山へ登っていく緩やかな坂道の途中に、石垣が点在するのが見えてくる。その石垣の一つの上に、彼の家はあった。5月の終わりの夕暮れ。田植えの終わった田圃を通る風は心地よく、若笹のざわめきも軽やかにやさしい。陰影が織りなしていた緑の景色が次第に輪郭を失っていくのを、しばしぼんやりと眺めた。“なんていい所に引っ越してきたんだろう”と思った。すると、“心のイボ”が不快でたまらなくなってきた。“止めた!帰ろう!”と思った。一人で人目を避け、覗き見まがいの行為に及ぼうとしている僕自身が、小さく惨めな虫けらのように思えた。そう思い始めると、反省と同情はくるりと反転し、怒りに変わっていった。“仲間になりたければ、本当になりたいんだったら、自分の方からもっと動かなくちゃ。いつも誰かが気にして動いてきてくれるのを待ってるなんて卑怯だ”などと、頭の中で毒づいた。そして、踵を返した。

国道に向かって少しばかり歩いた時、山の湧水が作る小さなせせらぎ脇の道から、ひょいと女の子が出てきた。「こんにちは~~」。弾むような明るい声に一瞬間違えてしまいそうだったが、彼の妹だった。「あ、こんにちは!」と応じつつ、彼女の後方を窺った。こっそり罠を仕掛けようとしているところを見つかった気分だった。彼は、ゆっくりと現れた。左脇に何か黒い物体を抱えていた。が、僕がその方に目を動かすと、ささっと後ろに回してしまった。気まずかった。言葉もなく、動くこともできないような気がした。彼に対する想いや言葉は飛び去っていた。僕はとりあえず、国道の方へ足を動かした。背中に、妹に追い付き妹の手を取る彼を感じた。“あの背中に回した黒いモノは、また左脇に戻ったのかな?”などと思いつつ、僕はちょっとだけ歩を速めた。

暗くなり始めた国道を、僕は走った。学校へと上がっていく坂道の下を駆け抜け、鎌手駅の前を駆け抜け、時計屋や魚屋を駆け抜け、散髪屋の前を駆け抜けそうになった時、立ち止った。走っている間もやもやと頭の周りにまとわりついていたものの正体が、突然閃いたような気がした。漫画やパッチ(メンコ)を“あげる”ことによって“捨て去った”爽快感を取り戻したい、と思った。“坊主頭にしよう!髪、切ろう!”。そう決めた。“みんなと一緒の頭にするんだ!夏休みになったら、すぐにやるんだ!”。友達とのコミュニケーションに関して、一つふっ切ることができた瞬間だった。

リハビリ帰りの“花道”

成城リハビリテーションクリニックは、成城学園前と祖師谷大蔵のほぼ中間にある。昨年から木曜日だけとなったリハビリが終わると、この上り坂を通って成城学園前駅まで行く。春、八重桜が散った頃は、僕の“花道”だ。パン屋と小田急OX(配達してもらう)に立ち寄りバスで帰宅するだけの道程が、“花道”のおかげで少し浮き立つ。今は、強い日差しだけ!!うらめしい。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最良のコミュニケーションは、経験の共有から!? ③

不登校になっていた彼が登校を再開すると、僕は彼のことを全く知らないことに気付いた。彼のことを“知らない”のは、彼に“興味がなかった”ことにも気付いた。もし、彼の不登校の原因が“みんなと仲良くなれない”ことにあり、それがみんなとのコミュニケーション不足に因るものだとすれば、僕にも責任があると思った。担任が問いかけた時、俯き加減になってしまった者の多くは、「いけない!僕(私)は彼を無視してたかも…。ひょっとすと、気にさえしていなかったかも…」と思ったからに違いない。興味のかけらさえなかった彼を、彼がいなくなることによって意識する、とは!?なんて皮肉なことなのだろう、と思った。だからきっと、言い出しっぺの女の子を初めとしたみんなが過剰反応し、一人ひとりの自責の念を薄めるために集団で行動したのではないか…。ただ、僕は転校生。彼を知らなくて当然と言えば当然だ。しかし、小学校入学以来の級友たちは知らないはずがない。みんなの反応には、理由があったとも考えられる…。反省と疑問が混ざり合ってできた“心のイボ”を除去するためには、自分で行動するしかなかった。そして何より、彼の不登校事件をきっかけに、彼と彼の家庭や暮らしへの僕の関心は高まっていた。

みんなで迎えに行った時、100mくらいの距離から見た彼の家。玄関先に佇んでいた彼。彼の向こうに見えた彼のお母さん。二人の困惑の笑顔……。そして、一帯に漂っていた、穏やかで柔らかく、それでいて少し冷やかな空気……。その景色と印象が心に残り、ざわざわと気になって仕方がなかった。

僕はもう一度行ってみることにした。誰にも知らせず、知られることもなく、遠くから、彼の家とそこから漂ってくる彼の家庭の暮らしの香りを感じ取ってみようと思った。そしてある夕方、友達との遊びの輪を帰宅を理由に抜け、そっと遠回りをして行ってみた…。

リハビリ入院後初めての“散歩道”

初台リハビリテーション病院に入院して1カ月余り。初めて外に出て散歩したのが、この病院脇の道。病院に沿って公道脇に作られた小さな遊歩道が新鮮だった。車が多く行き交う山手通りの空気さえ新鮮で、大きく深呼吸したほどだった。外気の新鮮さに比べれば、歩行の不安定さなど取るに足らない感じだった。これからこんな感じで世間を歩くんだろうなあ、と思った。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最良のコミュニケーションは、経験の共有から!? ②

不登校になっている同級生をお迎えに行こう、という計画は早速実行された。朝早く校庭に集合した第一陣に、僕もいた。1~2名がなかなか現れなかった。彼らを待つ間に、朝から感じていた“逃げたい!”が、どんどん強くなっていた。おとなしく慎ましやかな兄妹を“さらい”に行くような気分に陥りそうだった。「いいことをしようとしてるんだ!」という時の高揚感はまるでなかった。

担任に道を教わりながらの道程…。彼の家が見えてきた時の緊張…。家の前にいた彼の驚きと困惑の表情…。彼を囲むようにして学校へと向かう僕たちグループの普通ではない“明るさ”と“親密さ”…。…。…。彼の少ない言葉に聞き耳を立て、一挙手一投足を見つめながら、僕は僕自身の“身勝手”に心も身体も次第に締め付けられていくようだった。

その日を境に、彼の不登校はなくなった。同級生の過分なまでの思いやりもやがて収まった。始業時間前の縄跳びの“連続二重跳び競争”に彼も加わるようになり、事件は完全収束した。僕はあっけなさに、不満が残った。学校に来なくなった理由も、その解決もできていないまま、彼ら兄妹を“さらう”ように連れてきて、帰ってしまわないように“いじりつづけている”だけじゃないか、と思った。2~3人に、「来なくなった理由、聞いた?」と尋ねてみたが、異口同音に「聞いてないけど…。いいじゃない!学校に来るようになったんだから」という答えが返ってきただけだった。

僕は、次第に居ても立ってもいられなくなっていた。小さなイボが心の中にできてしまったようだった。僕は、同級生たちに気付かれないように、行動に打って出ることにした。

アイバンラーメン!?

旧甲州街道沿いに、“アイバンラーメン”という看板を見つけたのは、引っ越しして来て間もない3月中旬頃だった。アイバンという文字に「EYEVAN」を連想し、思わず立ち止まってしまった。

Photo

EYEVANと言えば、VANが山本防塵眼鏡(だったと思う…)と提携し、“着る眼鏡”をコンセプトに作り上げたブランド(VAN倒産後、現在も、立派に存続しているはず…)。そのラーメンとな!と思ったのだ。だが、当然そんなはずもなく、後日「外人さんがやっている和風ラーメンの店らしいですよ。有名店らしいですよ」と耳にした。そう言われて、「潰れちゃったのかなあ」などと見ていた店先に、時折長蛇の列ができていることも頷けた。列が苦手なので、まだ試していないが、そのうち「外人さんの作る和風だし」を賞味してみたいものだ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最良のコミュニケーションは、経験の共有から!? ①

ちょっと痛い洗礼を受けて始まった小学校5年生。僕は、初登校初日に、なんとなく仲間入り(未知の級友とのコミュニケーション)のコツをつかんだような気がした。“自分の”とか“僕だけの”というものを、きっぱりと捨て去ればいいのだと思った。そう思って行動してみると、僕自身の“こだわり”なんて些細なコトやモノに過ぎないようにも思えた。捨てた分だけ軽くなり、何かを受け止めたり飲み込んだりするゆとりが生まれたような気がした。なんだかさっぱりとした気分だった。少しばかり気の重かった登校が、一転楽しみなものに変わった。

新学期2日目からの僕は、憑きものが取れたように友達の中に溶け込んでいった。小さな頃からずっと遊びの輪の中に入っていくことができず、やや離れた場所から、優しそうな子供に声をかけられるのを待ち続けていた僕自身に起きた変化を、僕は大いに楽しみ始めていた。朝早く登校し、校庭で縄跳び。始業時間になると、意味もなく騒ぎながら教室に駆け込む。休憩時間は、いつも誰かの“アイデア”で始まる“ちょっとバカバカしく無茶な遊び”の輪に飛び込む……。善悪の判断や疑問を置き去りにすることさえ楽しく、10名弱の集団の一員として、僕は跳ねるように楽しく過ごしていた。1か月の間は……。

しかし、5月の連休明け、浮き浮きと学校に出かけた僕は、やがて事件が起きていることに気付いた。同級生の一人が、登校してこないのだ。2~3日は気付かなかった僕が友人の言葉で気付いて、さらに3~4日が経った頃、担任が緊急の話し合いを開いた。彼は、“人間は平等だ”というのが口癖の、怒った姿を見たことのない優しい人だったが、その時の表情には明らかに抑制された怒りが見えた。彼は、こう言った(と、記憶している…)。「先生は、心配で家に行ってきた。学校に行きたくない、と言ってた。理由は、はっきりとは言わなかった。でも、みんなに訊きたい。彼が学校に来ないことが気にならないか?来てほしいと思わないか?」。クラス全員の目を端から端まで順に見つめる担任の目つきに、多くの同級生は俯いた。

不登校になっているO君は、内気な子だった。いつも妹と一緒に登校してきて、始業時間まで彼の傍から離れようとしない妹の面倒をよく見ていた。身なりは決してよくないが、いつもこぎれいにしていた。幼いころから仲間に入るのが苦手だった転校生の僕は、休み時間に時々彼に声をかけていたが、その度に小さな驚きと戸惑いを見せる彼が、次第に疎ましくなっていた。遊びに誘っても態度をはっきりと示さず、「うん……」と曖昧に返事をしたままの時などは、怒りを覚えるようにさえなっていた。そして、強く感じていたシンパシーが薄れていくにつれ、友達の輪の中で楽しく過ごすためには、意識してはならない異物のように思い始めていた。僕はすっかり、かつて入り込めなかった“あっち側の人間”になっていた。

担任の目線に俯きがちのクラスが静まり返り、担任も生徒の側からの発言を待つ姿勢になって少しが経った。一人の女の子が、突然手を上げた。「なんだ?」と、柔和な顔に一変した担任が優しく問うと、「家まで、毎日迎えに行けばいいと思います」と大きな声で言った。後ろめたさが忍び寄っていた僕は、その模範解答に飛び付いた。「みんなで行けばいいと思います」。「え?みんなで?……それは大変じゃないか?」。担任に問い返されて、そのとおりだと思いつつ、「グループに分かれて、当番を決めて行けばいいんじゃないでしょうか?」と、僕は食い下がった。後ろめたさや責任をみんなで分け合いたい一心だった。

一つ方向性が決まると、“遊びに誘ってあげよう”“ドッヂボールがいいんじゃないか?”“妹とも遊んであげよう”などと次々と意見も出てくるようになり、担任が満足の笑みを浮かべる頃には、登校のお迎えグループ分けと当番も決まっていた。

わ~~い!桃だ~~!青山の洋さん、ありがとう!!

今年も、到着!POLO BCSさんからのお中元(?)。おいしい、おいしい桃なり!早速冷やしていただいた。

701_044

美味、美味、美味~~~!!いつも、ありがとうございます。これからも、是非、是非、よろしく~~!……もうなくなりそうなんですけど………!!!!!

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

701_043

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コミュニケーションは、固有のもの!? ⑤

山陰の海岸に沿って走る山陰本線と国道9号線。その線路と道路の間にわずかに広がる田畑。岩場が続く海岸に所々開けた入江……。島根県益田市鎌手は、そんな半農半漁の村だった。浜田漁港近くの歓楽街で生まれ、小学校1年生の夏からは中国山地の山あいを縫うように転校していた僕にとって、経験したことのない種類の村だった。

小学校5年生の春、4回目の転校生の僕はいつものような新学期を迎える気分で登校した。そしていきなり、これまでにない経験をした。裏山に呼び出されたのだ。同級生数名に連れられて校舎の裏から少しばかり上がると、わずかばかりの踏みならしたような場所がある。そこで上級生が数名待ち受けていた。真ん中にいた一回り体格のいい上級生が、「お前かあ、転校してきたのは」とねめまわすように僕を上から下から観察し、続けて威嚇するように何か言ったが、僕には聞き取れなかった。方言の違いもさることながら、明らかに僕は興奮していた。何が起きるのだろうか、と上気していた。すると突然、殴られた。僕は転んだ。何も言わずに立ち上がると、また殴られた。なぜか、痛くも悔しくもなかった。怖いとも思わなかった。殴るのはリーダーと思しき上級生ただ一人。僕を取り囲んでいる数名の集団に、秩序を感じたからだった。三発目の準備に顎に力を込めていると、突然リーダーが「お!泣かないか。気に入った。お前、仲間にしてやる。もう、ええ。帰れ!」と言って、シッシと手を振った。僕を連れてきた同級生たちが脇を固め、僕は教室に帰った。

帰り道、今度は同級生5~6人に囲まれることになった。僕を中心とした台風のような一団は、国道9号線を移動していった。裏山の上級生たちほど秩序はなく、リーダーも判然とはしなかった。しかしそれだけに、むしろ不気味だった。「家、どこ?どこなの?」「近いんか?」。順番に覗き込んでくる顔一つひとつに、曖昧に「もうちょっと…かな?」「まあ、近い…そうでもない…」などと答えながら家の近くまで時間を稼ぎ、畑の向こうに我が家が見える場所まで来て、まだ道に不案内で気付かなかった振りをしつつ「あ!ここ、ここ!」と言って指さした。「え!ここ?!近いのお」と言った同級生の顔には舌打ちの思いが見えた。こいつがリーダー格だな、と僕は思った。そして、我が家へと続く小道を走り始めた。少しだけビビっていた。ところが、走り始めてすぐに、ある考えが閃き立ち止った。僕は振り返り、「漫画あるけど、見る?見たい人、おいで?」と叫んだ。少し待っていると、リーダー格を最後尾に全員がゆっくりとやってきた。

まだ荷解きが終わっていない荷物がそこここにある6畳二間の新居の縁側に、僕はせっせと漫画を見つけては運んだ。集めていたパッチ(メンコ)やビー玉も運んだ。みんな、夢中だった。そして、小一時間、隣の実家から帰ってきたお袋にきちんとした挨拶をする彼らを見て、一気に彼らを好きになっていくのを感じた。心地よくうれしい高揚感があった。僕は、つい「好きなのがあったら、持って行っていいよ~」と口走り、ざわざわと手を出しかねている彼らに押しつけるように漫画やパッチを渡していた。

「いいの?後悔しない?」というお袋の心配をよそに、僕は何故か爽快だった。自分の中でグズグズしていたものを解放した気分だった。きっと友達になれると思った。なりたいと思った。

梅干しだ~~~~!

蜂蜜入りの出汁に漬け込んだ、妙に甘い“高級梅干し”。糠ではなく塩の強い漬け汁に漬けただけの“浅漬け”。お前たちとは、おさらばだぜ!ちゃんと重石を乗っけて作り上げつつある梅干しと“糠床”が、おいらにはあるのさ!……Kappar、よろしくね~~~!

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

701_033

| | コメント (0) | トラックバック (2)

コミュニケーションは、固有のもの!? ④

1980年代初頭、ラジオ番組で話題になり、LPを数枚出して人気を集めたと思ったら、さっさと解散した“スネークマンショー”。小林克也、桑原茂一、伊武雅刀を中心メンバーに多彩なゲストを迎えて、なかなか際どい所にまで踏み込んだ風刺とウィットに富んだ内容で、当時はよく話題になった。中でも、僕が内心“よくぞ、言ったり!”と叫びつつ聴いていたのが、伊武雅刀の「私は、子供が嫌いだ」という曲だ。歌というよりラップ、ラップというより“語り”のこの曲、言いたいことを言っておいて「私は、子供に生まれないでよかった」と笑いを取ることで、非難の矛先をかわしているところも気に入っていた。*興味のある方、懐かしいと思う方は、こちらで。

その内容は、実はディスコミュニケーションの典型も示している。“わかって欲しい”という想いは、下から見上げる目線になりやすく、“理解してあげよう”という想いは上からの目線になりやすい。とかく上下を意識しやすい人たちはある日、目線の高さを問題視し始める。そしてやがて、気になって仕方なくなる。ディスコミュニケーションの始まりである。

小学校6年間を5つの学校で過ごすという“転校少年”だった僕は、お互いの立ち位置や関係値を図るためにほとんどが費やされているコミュニケーションを、たくさん経験した。僕を知って欲しい、僕を気に入って欲しい。そんな想いが僕自身の言動に表出しているであろうことを恥ずかしく思いつつ、それでも僕は、転校する度に“わかって欲しい”コミュニケーションをしようとしていた。そして、必ず悲しい思いに囚われていた。当然のことだった。人はたやすく人に興味を持つことはできても、たやすく理解はできない。しかも“わかって欲しい”の多くは、理解をした上で受け入れてほしい、というもの。そんなこと、簡単に起きるものでもない。親でさえ難しいことがあるくらいだ。

そして、ある時、ある転校をきっかけに、僕は変わった。小さなコツがわかったようだった。

美味い!!“冷製トマトおでん”

酷暑の夜、テーブルの上に出されていたのが、これ。“冷製トマトおでん”だ。実はその日の昼僕は、冷蔵庫から飲み物を出そうとした時、タッパーにスープに浸かった4つの赤い玉を発見していた。“トマト料理だな。湯剝きしたんだな”とは思っていたが、料理として見るの初めてだ。「なんて、料理?」と訊くと、「ん?トマトおでんだよ~」との答。「トマトおでん?」とオウム返しにすると、「夏だから冷やして置いたけどね」。ということで、“冷製トマトおでん”。

湯剝きしたトマトを、出汁に塩、醤油、酒を少々入れた“おでん出汁”に入れ、5分ほど煮たら、冷ます。という簡単なものだが、これがイケル!美味い!スープまで飲み干し、翌日もいただいた。お試しあれ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コミュニケーションは、固有のもの!? ③

決然と自らの意見を言い放った同級生女子のことを、後日考えた。日が経ち、眼前にその姿を見ることもなく、その声を耳にすることもない状況で考えると、彼女の発言の持つ意味をもっと多様に解釈できるような気がした。その多くは“考え過ぎ”“深読み”“おせっかい”の類のものだろうと思いつつも、いくつかの仮説に囚われていく自分を感じた。1.同級生たち(特に、ぶしつけで幼い男子たち)に阻害されている自分をわかってほしい。2.ある特定の男子に“私に興味を持って!”と言いたかった。3.ちやほやされている女子の本当の姿など、あなたたちにはわからないんでしょうね、と言いたかった。4.キレイ事ばかり言うんじゃないよ、単純野郎ども!と怒ってみせた。などなど、彼女の心の根っこを探索してみたが、本当の根っこは知る由もなかった。僕は、いつものように自室の窓から、数百メートル先に見える岩壁を眺めながら“人の真意は伝わらないものだし、わからないものだなあ”と、漠然とした。

しかし、翻ってみると、自分の真意の在り処や有り様も判然とはしない。それなのに、いつも“わかって欲しい、もっと理解して欲しい”と他者には要求している。とも、思った。小学校2年生の時にやってきたお袋に対して、特に顕著だと思った。親父には年数回、「思いやることだ。理解しようとすることだ。できなければ、受け入れることだ」と、膝を詰めて言われているが、僕にはできない、と思った。だって、人の心や真意は玉虫色なんだもん、と思った。

ところが数日経つと、気持ちは少し楽になっていた。“わかって欲しい”でいいんだ、と思えてきたからだった。お互いが“わかって欲しい”をぶつけあい、“わかってもらったような気になれる”ことが大切なんだ、と思った。そのために、言葉を覚え、表現方法を覚え、時には工夫して、錯覚をより確かなものに高めようとするんだもんなあ、と思った。

「うんうん」と、何でもにこやかに聞いてくれて受け止めてくれる存在が、良き理解者とは限らない。それは保護者にしか過ぎない。キイキイ語でも十分通用するかのような保護者との一方通行の会話(訴え?!)から、コミュニケーションへ。大人の関係を創り上げていくためには、まず固有の自己表現方法を確立すべきだ、と思った。

高校1年生の秋。遅い自覚だった。ちょっぴり焦った。

梅干し、着々!

「どんな感じになってるのかなあ?おいしくなってきてるのかなあ?」と、ぐずぐず訴え、Kapparに途中経過を見せてもらった。「そろそろ、カビのチェックを兼ねて混ぜなくちゃあいけなかったんだよね」と、梅干し壺として使われている炊飯土鍋をKapparが開けると、いい色になっている!生唾を飲み込みながら、「いい感じじゃない?」とわかった風な感想を、僕は漏らした。すると、「まだ、もう少し待ってね」。そう言ってKapparはすぐに持ち去り、シンクで炊飯土鍋に手を突っ込み作業を始めた。まるで、僕がまだ育成中の梅干しを指で突っつき、味見をしようとしていたのを察知したかのような素早さだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORYプロデューサー日記は、こちら。

701_032

701_034

| | コメント (0) | トラックバック (1)

コミュニケーションは、固有のもの!? ②

“コミュニケーション”に関しては、いくつかの忘れられないことがあるが、高校1年生のホームルームで“美容整形は是か非か”という唐突なテーマを担任が出した時の、同級生女子の発言は忘れられないものの一つだ。

「親からもらった顔を変えるとは…?」「大切なのは心…」「生まれてくる子供はどうなる?…」「そんなことより、もっと大切なことが……」といった、ありきたりの“常識”的な意見が次々と述べられ、その一つひとつが“したり顔”なのにややげんなりしていた時だった。手を上げ立ち上がった彼女は、決然と言い放った。「見た目で興味があるかどうかが決まる。興味がないと話しかけられもしないし、話しかけてもらわないと、心や人としての中身を理解してもらうこともできない。私は、整形でも何でもして、みんなが美人になればいいと思う。それから中身で勝負、という方が平等だと思う」。僕は、彼女の勇気と正しさに目を瞠った。“えらい!その通り!”と心の中で叫んだ。その後、彼女の意見について論じる奴は一人もいなかった。生半可な“常識”を口にした男どもは、少なからず考えさせられたように、僕には思えた。変化があったとすれば、彼女と気軽に口を交わす人間が減ったことだった。

コミュニケーションは難しい、と僕は思った。そして、僕にとってコミュニケーションはそれまで以上に大きなテーマとなっていった。「衣・食・住・コミュニケーション」などと言うようになっていた。

農協直売所&梅干し

自宅から400m位の距離、旧甲州街道沿いに農協直売所がある。不定期に店頭に並ぶ牛乳を求めて、週に2回は顔を出す。約10日前、引きこもりのようにパソコンに向かっているKapparと久しぶりにスーパーに行った帰りにも立ち寄った。

701_026

701_025

701_027 

いつも以上に混んでいる店内で、ふと気付くとKapparが立ち止っている。「さっきから、この子たちが呼ぶのよね~~」と指さす方を見ると、立派な梅が並んでいる。「仕方ない!仕事の休憩時間にやるか!」と意を決した感じだ。「梅干し?!」と尋ねると、「そう!もうギリギリの感じだもんねえ」。確かに、並んでいる梅は熟れかけている。というわけで、着々とできつつある自家製梅干し。お盆の頃には、間違いなく口にできるようだ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コミュニケーションは、固有のもの!? ①

現在の住まい兼事務所は、Kapparが一瞬のうちに“ここだ!”と決めたものだが、そこには仕事で磨かれたマーケティング・アイと自立する暮らしの中で定着した生活感覚があった(褒め過ぎ?)。予算、ロケーション、家の構造、間取り、光と風の入り方、家の前の道路幅、車の通行量、周辺の家屋とそこに干されている洗濯物から想像しうる近隣の“人的環境”…等々。現地調査のコツとセンスで、瞬時に総合的に判断。基本条件が合格点であれば、さらに“こんなことがあったらいいなあ”と予め想定していた希望項目をチェックしていく。もちろん、すべてが満たされることなどありえないから、プライオリティは付けてある。プライオリティがないと、ぐずぐず悩みタイミングを失することになる。物事の多くは、タイミングの良し悪しでうまくいくかどうかが決まる。ましてや不動産は、人との付き合いに似て、タイミングを失すると縁が無くなるものだ。が、Kapparに、その心配はない。プライオリティを見失うことのない人だからである(やっぱり、褒め過ぎ?被庇護者の気遣い?)。要は、ピンと来た!ということなのだが、プラスオンの希望条件の中の、“近くに公園があること”は諦めた方がいいのでは?と思っていた。この条件はもちろん、僕の“公園デビュー”を意識したものではない。公園の存在は、近隣の住環境の劇的変化を防ぎ、地震発生時の避難場所を確保し、緑と空間がもたらす心のゆとりを与えてくれる、との認識からだ。ただし、公園の近くで問題があるとすれば、騒音。遊びに興じる子供たちの嬌声を防ぐことはできない。しかし、その点も好条件だった!公園と我が家の間に家並みが一列!防音壁だ。ただ、春になってこの防音壁の有り難さを痛感することになるとは、予想もしていなかった。

一人の女の子の連続する“キイキイ”という声が、家と家の隙間を縫って鋭く届くようになってきたのだ。遊びに興じて発せられている声だとは思うものの、頭頂部に突き抜けるような断続的な声に慣れるのは難しい。もし、公園に面していたら…と思うと、いささか背中が寒いほどだった。それがやっと気にならなくなってきた2~3週間前、表の方から件の声が聞こえてきたので、そっと窓を開けて覗いてみた。驚いた!男の子だった。彼は多くの友達と集団で帰宅中だった。手や足を跳ね上げ、あるいは道路にぺたりと座りこみ、あるいは寝転び、その度に奇声を発している。女の子を含む友人たちは、時には無視し、時には声をかけ、あるいはからかい、彼の相手をしながらゆっくりと移動している。そこにあるのは、のどかな小学校2~3年生の集団下校風景である。

僕は、はたと気付いた。彼の奇声は、彼のコミュニケーション、彼独自の表現方法、あるいは言語なのかもしれない、と。そして、3日前。彼が往来を通過した頃、裏の公園の方から“キイキイ”が聞こえてきた。やはり、女の子がいるようだ。公園の名前を“キイキイ公園”と決めていた僕は、早速Kapparに報告した。「どうも、“キイキイ言語圏”の住民は、男女1名ずつ。合計2名はいるようだよ」と。それからというもの、コミュニケーションについて、やけに考えさせられている。“キイキイ効果”か……。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら

Photo

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高名な木登り

高校の古典の教科書に載っていた話である。概ね以下のような話だったと記憶している。

木登りの達人として高名な老人がいた。ある日、彼がその木登りの技を披露した時、一人の若者が進み出てきた。「な~んだ。それが達人の技かよ!のろくって話にならねえや!おいらの方が断然うまいってもんだ。まあ、見てな」と観衆に大見得を切るが早いか、スルスルスルっと木に登り始めた。さすが腕に自慢の若者、瞬く間に木のてっぺんにたどり着いた。その速さは、名人のそれとは比較にならないほどだった。観衆のどよめきに気をよくした若者が木のてっぺんから辺りを睥睨している時、それまで一言も発していなかった名人が大声を発した。「下りる時に気を付けるんだぞ!」。その声が届いた時、若者の顔にほんの少し蔑みの色が浮かんだように見えた。彼は、すぐに勢いよく木を下り始めた。その勢いには「馬鹿言ってんじゃないよ。こんなに簡単に登れたんだ。下りる時に、何に気を付けろってんだい!」という反発が込められているように思えた。しかし、果せるかな、後わずかというところで、足を踏み外し転落した。若者を助け起こした名人は、「木登りの極意は、下りるところにこそあるんだぞ」と静かに諭し、去って行った。

原文とは相当に異なるはずであり、かなり僕の脚色が入っていると思うが、ざっとこんな話だった。印象深かった。そして40年以上が経過して、同様の話を耳にした。それは、「人生を登山に譬えるなら、下山のことも考えるべきだ。登っただけでは遭難だ。下山して帰ってきて初めて、登山は完結する」というものだった。高名な木登りを思い出した。下山を楽しむ術を探ろうと思った。…いつの間にか相当下りてきているはずなのだが…。

常備在庫、丸新醤油の“だしぽん”到着!

Photo

田舎(島根県益田市)に墓参帰省するたびに空港売店で購入していた丸新醤油の“刺身醤油”に“だしぽん”が加わった。合計10本を入手し友人にも配ったものの、3本(300ml入り)を自宅用に確保。しばらくは安心と思っていたら、使用価値の高さから1ヶ月に1本費消されていく。慌ててネットで購入して一息ついていたら、到着したのが720ml入り。あれ?2ヶ月半?と、今から気になっている。何しろ、申し込んでから到着まで約3週間を要した!

新鮮!できたて!ということなのだろうが、卓上になくなることがあってはならないと思う者とすれば、冷や冷やである。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORYプロデューサー日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

危険なこと ②

食べてくれる人さえいれば、料理することが決して苦ではなかった僕も、左手がほぼ使えない状況ともなると、さすがに料理からは遠ざかるを得なかった。しかし、完全庇護の元で“のうのうと”食事をしているわけにもいかない、と、多少はリハビリ効果もあるぞと自分に言い聞かせ、料理にもチャレンジしていた。

本来包丁はよく切れるものの方が安全なものだが、片手で使うとなるとやはり緊張する。トントンと刻んでいた記憶のまま、長ネギやキュウリを刻もうとすると、なんとか押さえていたつもりの左手の甲がつるりと滑り落ちる。そのうち左肩と左腕の緊張が増し、左手はほぼ左胸のあたりで固定されてしまう…といった次第。鰻をさばく時のように、まな板に釘で打ちつけておくという手もあるが、“長ネギやキュウリで、大袈裟な…”と、その手を使う気にはなれない。まな板がもったいない!とも思う。豆腐の味噌汁を作るとなると、どうしても左手の上に豆腐を置いて賽の目に切りたくなる。ぺたりとまな板の上に豆腐を置くのはどうも…。鍋に移す時はずるずる包丁で押すわけ~?などと、いちいち気になることばかり。

しかし、背に腹は代えられない!と、煮物、炒め物、味噌汁、と準備をしている時、小さな事故は起きた。煮立たせてはいけない味噌汁が沸騰直前になったのに気付き、慌ててスイッチを切ろうとしたところ、またも左手がぶらりと動いた。左側のガスレンジで煮ていた金目鯛のアラ煮の鍋にピタ!おっと!と上げた直後、五徳にピタ!2連発。手の甲に軽い火傷を負った。…残念ながらKapparには労災に認定してもらえず、「気を付けてね!無理しなくていいからね」というお言葉をいただいただけだった…。が、うまくできそうな(危険性の低い)料理には、これからもチャレンジするつもりだ。

閑話休題

20歳の時のインド一か月一人旅から始まったKapparのアジアン・マダムへの道は、アジアを朝鮮半島を除いて制覇した後、中央アジアへと向かい、今は中近東を視野に入れている。写真やお土産の少ないKapparだが、小物は少しある。

Photo_3

Photo_4 

謎の小さな置物。用途はわからない。蛙がお皿を掲げてる。「小さなチャク・モール?」と言ったら、Kapparは「まさか!」と言って、お香を乗せた。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

危険なこと ①

初台リハビリテーション病院退院からこれまでの危険体験は、ちょっとした火傷2回。尻餅3回。ヒヤっとしたこと2回。といった程度。3年半余りの間のことだから、決して多くはない。脳卒中を発症していなくても、この程度の経験はありそうだ。ただ、その一つひとつが、一歩間違えると大きな怪我になりそうな危険性を孕んではいた。

2回の火傷はいずれも、だらりと垂れた左腕が思わぬ揺れをしてくれたため。尻餅3回のうち2回は猫(チビ)を踏んで驚いたため。ヒヤっとしたのは、2回とも小田急線のホームの上でだった。猫の踏んづけ以外は、後遺症のある方ならどなたにでも起きておかしくないこと。お気を付け召されたし。

火傷の1回目は、アイスコーヒーを淹れている時だった。飲み物はすべて僕の役割と決め、アイスティー、アイスコーヒーの在庫を切らさないようにし、それを親しい友人たちに自慢しては「良妻君とお呼び!」などと言っていた矢先に事故は起きた。いつも少し曲がっている左肘が薬缶を持ち上げる右手に付き合って動いたために、微妙に狂っている“人幅感覚”にさらに狂いが生じた。左肘がポットを押し、ドリッパーを落としたのだ。僕の右手はどろりとした熱々のコーヒー豆に覆われ、慌てて水道水にさらしたが、軽度の火傷は免れなかった、という次第。

やや大袈裟に包帯をしてもらい、写真を撮ってメールに添付。「良妻君が、労災君になっちまったよ~~」と友人たちに送り付けた。その時の“事故機”(澤井珈琲のサービス品)のアイスコーヒードリッパーが、これ。横にあるのは、労災の代償に、1年かけて勝ち取った“ドリップポット”。

Photo

包帯をしてリハビリに行き、「ほら、こうして右手を使えなくして“一人CI療法”してんだよ~」と言っていたら、その場でOTからPTに連絡が行きやってきたMさん、「すごい!アイスコーヒー療法やってるんですって~~」と大笑いして去って行ったのだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いやはや、困っております!

脳卒中後遺症を抱えている方々に、お尋ねしたいほどだ。「いかがですか?あなたは、涙や鼻水に困っていませんか?」と。

何しろ、わずか数百メートルの店にお使いに行く時でさえ、ポケットティッシュが手放せない。少しばかりの気温の変化や一陣の風が刺激となって、つつーっと涙が流れ出る。鼻水が、上唇に到達する。時にはティッシュが間に合わず、俯いた鼻先から路上に垂れ落ちてしまうことさえある。秋から春にかけては、移動時間の中に“鼻かみタイム”を計算に入れておかないと、バスや電車に乗り遅れることさえあった。もちろん、涙、鼻水は、麻痺が残る左側のみ。匂いには過敏になっている鼻を指さしながら、「麻痺と過敏の相乗りだ~~~」とふざけている間にも、垂れてくる。

思い起こせば、Kenちゃん、e-pooh夫婦と、ホテルの新サービス提案のための下見に横浜に行った一昨年冬。「あ、あ~~、は、洟が~~」とポケットをまさぐる間もなく垂れてくる鼻水に、大慌てでティッシュを差し出しながら近づいてきたe-poohの顔が、堪えきれないほど可笑しがっていたっけ。こっちは、笑いごとではありません!それでなくとも“どらえもんポケット”状態のパンツの右ポケット。ポケットティッシュと使用済みティッシュが場所を取り、携帯が行き場を失うことがあるほどなのだ。

「だから!バッグを持ち歩きなさ~い!」という声が聞こえてきそうだが、バッグ、財布、手帳という、過去持ち歩いたことがないものには、どうも抵抗がある。慣れないといけないのかなあ……。                                                             

閑話休題

玄関に鎮座まします“お香猫”。時々アジアな香りをたなびかせてくれている。“アジアンマダム”Kapparのささやかなコレクションの一つだ。

Photo

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リハビリ3年8か月で、何が変わったか?! ⑦

考えて決めたことの多くは、所詮“仮説”。内側から湧き出てくるものに触れないことには、なかなか夢中にはなれないものだ。Kapparに四谷シモン氏の絵を略奪されたKちゃんと、20年ばかり前、バーの一隅でそんな話をして酔い潰れたことがある。「こんなことをしたかったわけじゃないんだよね…、きっと」「死ぬ直前まで、“本当にやりたいこと”って見つからないのかもね」「やだねえ、“あっ!”と発見した直後に召されていくのなんて、ねえ」「それが、未練となって漂ってるんだよ。ほら!そこにも、ここにも!」……。NTTの広告制作が終わり、一息ついた時だった。不思議なことに、二人とも「こんなことしてていいのかなあ」という気分だった。

しばらく経って、林家三平(もちろん、先代の)が臨終を迎えようとしている時、医者が「三平さん、三平さん!お名前をおっしゃってみてください!」と問いかけると「加山雄三です」と言った、という話を友人から聞いた。涙が出た。カッコいい、と思った。彼は、僕が見つけられないものを見つけていたんだと思った。自分が殉死できるものを見つけていたんだ……。

気分は18歳、実年齢60歳の男は、とりあえず自分を漂わせ、遊ばせてみることにした。Kapparの庇護を申し訳なく思い、きりきりと“何かをせねば…”“収入の道は…”と過剰に思い悩むことを止めた。障害者基礎年金がもらえるようになったことも大きかったが、リハビリに対する意識が変わった大いなる副産物でもあった。やがて、「ねばならない」と自ら付着させていた角質がハラハラと落ちていくのを感じるようになった。“Struggle”という文字とイメージが消えていき、心が活性化されたようだった。それが、庇護者であるKapparへの大きなプレゼントになっていることも、わかった。

まだ、見つかってはいない。見つかるかどうかもわからない。しかし、それは停滞でも退歩でもない。だって、ずっと見つけられていなかったんだから。違うとすれば、力みが軽減されたことだろうか。力みが無くなれば、ふんわりとつかむことが、そのうちできるかもしれない。不定形で柔らかなものは、掴み取ろうとすると指の間から抜け落ちてしまうものなんだ、きっと…。

てなわけで、僕にとってのリハビリは今、1.痛みの除去2.安全な日常行動の確保3.過緊張の軽減、の3点がポイントとなっている。それは、合宿状態の初台ではなく、個別対応の成城で得ることができたことだと思う。そして何より、心のリハビリは大いなる成果を上げている……ようだ。                                                  ……つづく                                                                   

閑話休題

7月7日。七夕。それは、()ケイズの誕生日。Kapparが、飲んだ勢いで女性デザイナーと設立して、なんと丸20年が経った。毎年7月7日頃事務所で行っていたパーティは、すべてKapparの手作り料理で、楽しみにしている人も多かったはずだ。残念ながら、僕の病いのせいと、この時期はいつもKapparがスケジュールに追われているために、ここ2年は休止している。

Web

そんな折、昨日久しぶりに一緒にスーパーに出かけた。引きこもりのようにキーボードに向かっていたKapparが見つけて向かったのが、店内の笹飾り。すぐにサービスカウンターに置いてあったピンクの短冊にマジックを走らせ、笹飾りに参加していた。願い事を聞いてはいないが、きっと「楽しく暮らせますように!」だろう、と僕は思っている。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リハビリ3年8か月で、何が変わったか?! ⑥

「クルマのシフトレバーを動かせるようになれたらいいな…と…」。初台を退院する際の診察の折、「どうですか?後は、どんなことができるようになるといいですか?」と訊かれ、そう僕は答えた。それは、入院の際に受けた同様の質問に対する返答と同じものだった。すると「無茶言ってはだめですよ。そりゃ、無理だなあ」という言葉が即座に返ってきた。入院時同じ医者に「それくらいのことだったら、できるようになるでしょう」と言われたことを僕は憶えていたが、「でしょうねえ」と曖昧に微笑んで、「」右脇が痒い時に掻けるとか、茶碗を持ってご飯を食べられるとか、……。後は、日常生活の中のことですかねえ」と言葉をつないだ。落胆も怒りもなかった。

リハビリに対する意識が変わり始めたた時、僕はそのことを思い出した。そして改めて、日常生活の中での左半身の役割を考えた。が、具体的なシーンは思い描けなかった。しかし、シャンプーする時に「僕も手伝いたいなあ」とばかりに上がろうとしていた左腕が、最近すっかりだらけているのを思い出した。機能の記憶を失い、努力を忘れ、やがて自らの役割を放棄する。そして、どんどん能力を失っていく。それが右腕の負担を増やしているというのに……。僕は「大事にされ、甘えている間に、こいつめ!と左腕を叱ってやりたい気分だよ」とKapparに告げ口をした。そして思った。“リハビリで大切なことは、後退しないようにすること。前進は、オマケだと考えよう。”比較にはならないが、村田兆次、君原健二、杉原輝夫といった、もっと評価されるべきアスリート3人を思い出した。

人と比較し、どう見られているかを思い悩んだりすることを止めてしまえば、自分のしたいことに手が伸びていくはず。“かく、ありたい”“かく、あり続けたい”という想いに支えられた努力は、きっと楽しいに違いない……。そこで必要欠くべからざる左手の機能は、何としても獲得したくなるだろう。道具の補助を得てもいいではないか……。と思った。

気持が楽になり、明るくなった。自分の中にあるはずの“かく、ありたい”を探し始めた。汚れに霞む海中に湧水を探すような気分だった。18歳の少年のようだった。

                                  ……つづく                                                                   

閑話休題

随分以前のことだ。親しい制作プロダクションが引っ越しをした。引っ越しパーティに招待され、僕は「飲めるぞ~~。社員旅行のつもりで行くか~~」と、スタッフ全員で出かけた。Kapparにも招待状は来ていた。青山通りから一本入ったこじんまりとしたマンション。長い付き合いの顔が並び、生き生きと輝いていた。

入口に入ったところで、Kapparが立ち止った。「この絵、いいなあ。誰の作品だろう?」と覗き込んでいる。そこに巨体を揺らして現れたKちゃん、「四谷シモンさんのだよ」と言って鼻を鳴らし「仕事をした時もらったんだよね」と付け加えた。それが、いけなかった!すかさずKapparが言った言葉は、「もらったんだ~~。じゃ、ちょうだい!」だった。

思う壺!跳んで火に入る…だ!当然Kちゃんは、「いやいや……、駄目です!油断ならないなあ」と、消えていった。が、その絵、今は我が家の窓辺に…。

Photo

宴たけなわの隙に、“売約済み!Kappar”と札を貼っておいたKapparの勝ち。後日、「売約済みになってるんだもん、しょうがないなあ」とKちゃんが、プレゼントしてくれることになったのだった。Kapparは、「売約なんだから、買わせてもらいます。いくら?」と言い財布を引き寄せたが、本気だったのかどうかは定かではない。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

リハビリ3年8か月で、何が変わったか?! ⑤

最初左右のバランスを観察し、「いつも左に体重をかけてますよ」と指摘してくれたPT担当のMさんは、「○○しましょう」とか「××に気をつけましょう」といった言葉を発することの少ない人だった。初台で「膝の前後に力を入れてみましょう」とか「お尻の筋肉に力をいれるよう気を付けてください」などと言われ、「え?!不随意筋を随意筋化するってこと?」と戸惑ったことが頻繁にあった僕には、それはむしろ新鮮なことだった。

「右脚が弱ってますよ。意外でしょ?」と言われ、試しにテストしてもらうと、確かに驚くほど筋力が落ちている。「本当だ~」と驚く僕に、Mさんは「テレビの所まで歩きましょうか」と言って右腕を持った。麻痺のある左側のサポートに回らないことを不思議に思いつつ歩き始めると、右足が床に着くたびにMさんは、ひょいと右腕を下に引く。一日に3~4度繰り返すことが続いてから、僕は尋ねた。「その“くいっ!くいっ!”って引っ張ってるのは、なんのため?」。すると「右足にしっかり体重がかかるでしょ?」ということだった。“体重をかけましょう”と注意するのではなく、“体重がかかるように仕向けて”くれていたのだった。「ああ!なるほど!」と、ちょっと手を離してもらうと、少し右足の踵への力の入り方が変わったような気がする。離れて見ていたMさんは、さらりと「うん。右足の使い方良くなってますよ」と言って微笑んだ。

僕は、その日、忘れかけていた大切なことを思い出していた。“できないことを人並みにできるようにするより、そのエネルギーは長所を磨くために使うべきだ!”。僕は、ずっとそう思っていたはずなのに、まるで、“出来の悪い子ほど可愛い”とばかりに、だめになった左半身を過剰に意識していたのだ。それが最も大切なバランスを悪くしていたようなのだ。

そのことを改めてMさんは教えてくれたような気がした。そして、気がついたおかげで、僕のリハビリは変わっていった。     ……つづく                                                                   

閑話休題

VANの2年先輩の旧友に会ってきた。今は、伊豆高原で暮らしている彼は、時間の経過を感じることなく話ができる。気付くと、5時間のお喋り。お互いの微妙な変化も楽しかった。

Jpg

VAN99ホールでデビューしたダウンタウンブギウギバンドが着ていた“ツナギ”を、当時VANが提携していた作業着メーカー自重堂のために、カジュアルウェアとして広めようと仕掛けたのが、この写真。彼と二人でツナギを着て原宿辺りで撮影。“今、原宿でツナギを着る若者急増中!”と、新聞や雑誌に流した。

そんな彼から届いたのが手作りの“梅ジャム”。初夏の味がした。

Photo

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リハビリ3年8か月で、何が変わったか?! ④

「肩の痛みはどうですか?辛いようでしたら、鎮痛剤でも処方しましょうか?」という言葉に、思わず僕は「え?いいんですか?」と聞き返した。

通院リハビリを始めた時から処方してもらっていた薬は4種。ディオバン(降圧剤朝用)、ノルバスク(降圧剤夜用)、リビトール(高脂血症治療薬)に、胃炎対策の薬(僕は長年胃が不調で、睡眠障害の状態だった。3~4種を次々と試した)。鎮痛剤に話が及んだことは、ついぞなかったからだ。主治医の説明が続いた。「痛みでリハビリも思うに任せない状況のようですし……。おそらく過度の緊張が原因ではないかと思うんですが…。筋肉弛緩剤という手もあるんですが、それだと脚の筋肉も弛緩させてしまう可能性があるので、歩きを阻害するかもしれませんから……。どうなさいますか?」。成城リハビリテーションクリニックは、初台リハビリテーション病院と同じ系列。初台での診立てや初台の指導や方針に対する気遣いや配慮があるようだが、僕には“セカンド・オピニオン”のように聞こえる。当面の目標達成への道が開けた気分だ。一瞬で胸の奥から重いものが抜け落ちていくような気分だった。「是非、そうしてください!」。説明の言葉を遮るようにお願いし、「他の薬との“飲み合わせ”とか、問題はないんですよね」と一応聞いてみたが、「用量を守っていただければ、問題はないと思いますよ」と、返ってきたのは頬笑みだった。

そして、処方してもらったのがロキソニン。歯医者でお馴染みの鎮痛剤だった。安心しつつも肩透かしを食らったようでもあったが、兎にも角にも、痛みから解放される扉が開けたことがうれしかった。

ただそれからも、相当な痛みに襲われない限り、できるだけロキソニンのお世話にはならないようにした。薬はリスクでもある、という考えが僕にはあったからだ。しかし、ロキソニンの“お守り効果”もあったのか、あまり服用することもなく、痛みは改善されていった。

そしてこの間に、僕の中には、成城リハビリテーションクリニックに対する信頼感が醸成されていったようだった。一番大きかったのは、一人の患者を巡る情報の共有がきちんと、しかもスピーディに行われていることだった。PTとOT、それぞれのセラピストが患者の情報や異変をすぐに報告しあっていて、それは医者の手元にまで伝わっていく。医者を頂点とした組織論や“男社会”的な管理体制ではなかなか難しいことが、いとも簡単にできているのは、“女社会”的な横コミュニケーションがあるからだと思った。

当時僕のOT担当だったKさんに、血圧測定をしながら「何か変わったことありませんか?」と雑談のように聞かれ、「そう言えば、一昨日尻餅ついちゃった。座卓の上にだけどね」と答えた次の日のことだった。OTのMさんに「尻餅ついたんですって。ちゃんと報告来てますからね」とからかわれ、「あ!Kさん、ちくったなあ」と説明を回避しようとするところをすかさず、「どんな風に尻餅ついたんですか?説明しましょうね」とたたみ掛けられたことがあった。そして、診察の時も主治医に同様な質問を受けた時、思わず「すごい!何でもお見通しなんですねえ」と笑ったが、“とても大事なことがきちんとできている病院だなあ”と思ったのだった。

おそらく風通しのいい職場なのだろうが、OTとPTが直接行き来できる病院の構造も関係しているのかもしれない。

Otpt

ともかく、こうして僕はやっと本格的なOTができるようになった。“肩手症候群”の左半身を抱えて初台を退院してから、ほぼ半年が過ぎていた。  ……つづく                                                                   

閑話休題

e-pooh、雷花(ライカ)母娘から、Kapparが誕生日祝いにもらった“お楽しみ袋”のようなプレゼントに入っていた一品。

Photo

“鼻毛切り”だと言う僕に、“眉毛切り”だと主張するKappar。女性が女性に“鼻毛切り”をプレゼントする、というのは確かに???ではあるが、あの奇想天外?な母娘のこと。それを面白がっているのかも…。あるいは、姿形がおもしろいからってだけか…。

Photo_2

口を開いて嘴の先が丸いのが、“鼻毛切り”であることを物語っていると思うのだが……。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

60sFACTORY活動日記は、こちら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »