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リハビリ3年8か月で、何が変わったか?! ③

左の肩から脇、肘にかけて、いつもシクシクと痛み、時には激痛も訪れる日々。右手は、日常の作業のほとんどすべてをこなしつつ、空いている時は左手の手首を持ちいいポジションに左手を誘導することや左肘、左手を揉むのが習慣となった。「“こいつのカバーだけじゃなく、もっと有効に使ってよ~!”って、右手が言ってるよ」とか「“何でも俺かよ~!そいつにも働かせてよ~!”って、右手が不満タラタラでねえ」と冗談を言っていた間はよかったが、右手が攣るようなってくると、冗談ではなくなってきた。日常生活に不都合が増えることは、避けなくてならない。それでなくとも、「なんで?!一日って24時間なの?」と怒涛の日々を過ごしているKapparの負担を増やすわけにはいかない。

こういう身体になったことを受け入れ、その条件下で最適解に近いライフスタイルを構築していく。それが退院後の最初の目標だとすれば、その目標に向かって歩み出す最初の一歩は、痛みをなくすことだ。……と、大袈裟に考えた。そして、行動に移した。

まずは、こっそり気功の店に通った。隣駅の商店街の外れ。徒歩と電車で35分程度の距離だが、足元が心配だということで、Kapparの付き添い付きのタクシー利用。中国人2人と女性の助手。マッサージベッドに上がってうつ伏せになり、ベッドの脇から腕を垂らすのが痛い。「ジブンデ、ジブンデ!」と、腕を上げてみるようしつこく言っていたオッチャンがマッサージを始めると、「イテテ!イテテテ~!」とあられもない声が出るほど痛い。しかし、聞き咎めたオッチャンの「ツボ!ツボ!ダイジョブ、ダイジョブ~!」というやや「この甘ったれめ!」という蔑みを含んだ言葉を聞いてからは、辛抱した。残酷な1時間が終わって、脂汗を拭いながらベッドを下りると「どう?痛かった?」とKapparが顔を覗き込む。オッチャンに気取られないように顔を背け、小声で「うん!めちゃくちゃ!」と訴えながら、「こりゃ、たまらん!止めた方がいいかな?」と思ったが、日常的な痛みを緩和するための一時的な激痛なのであれば続けるべきだろう、と思い直した。少なくとも、一回で結論を出すのは早過ぎる……。

というわけで、10回の割引回数券を購入して、6回通った。効果は大きくはなかったが、なくもなかった。行く度に聞いた「ツボ!ツボ!」の言葉は本当だったようで、奥深いところから響いてくるような痛みはかなり緩和されていた。

ところが、ちょうどその頃の診察の日。僕は、担当医から意外な提案を受けた。思わず、心の中で「おい、おい!それ、はよう言わんか~~い!」と突っ込むような提案だった。

                               …つづく

閑話休題

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ノンホモ牛乳の空き瓶に入っているアイスティー。通年在庫として、いつも冷蔵庫にあるのだが、容器をポリエステルのものからガラス瓶に換えただけで、清涼感がアップした。飲み物を用意するのは自分の仕事、と決め“ツンドラ・ドリンクサービス”と命名。レギュラー商品は3種とした。

2種のアイスティー(蜂蜜入り)がダージリンとレディ・グレイ。それに、アイスコーヒー。ただ、アイスティーはリーフから。アイスコーヒーは豆から。という本格派なので、“ツンドラ・ドリンクサービス”の評判は、すこぶるいい。この夏は、1アイテム増やそうか、と目論んでいる。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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リハビリ3年8か月で、何が変わったか?! ②

結論から言うならば、“ほとんど何も変わっていない”と言わざるを得ない。しかしそれはあくまでも、脳出血発症以前の身体機能を再取得することをリハビリの目的と限定した場合のことである。残念ながら失った脳細胞の場所と規模によって失う身体機能の場所と深刻さは決まってしまう。それが改善されるには小さな奇跡が脳内で起きてくれる必要がある。壊死した手足がまた生えてくることがないのと同じだ。

僕は早い段階で、リハビリへの過剰な期待を消し去り、頭を“自分にとって必要な機能の取得方法を学び、実践すること”に切り替えようとした。少しばかり悲しい努力が必要だったが、多くの僕よりも深刻な後遺症に悩む患者やその家族のことを想うと、飲み込むことができた。「生きているだけで儲けもの!」と言ってみたりした。

しかし、“生きている”ということは、誰かに“生かされている”のだということも痛感した。そこで、生かしてくれている人のためにも必要で、かつ僕が再獲得できる機能は何か?を考えた。「こんなこと、できるようになりますかねえ」と医者に質問をしては、探っってみた。

幸い、なんとか歩くようになれることがわかったが、左手の機能の回復は難しいということもわかった。開きにくい左目、頬の痺れ等は、多少改善される程度だとも言われた。ショックはなかった。そして、ふにゃふにゃと歩けるようになり初台リハビリテーション病院を退院した。

成城リハビリテーションクリニックに通うようになった頃の最初の目標は、“肩手症候群”の解決だった。むくんでグローブのように大きくなっていく左手。指と指は接したままで赤くなり、ヒリヒリと痛み始める。いつもある肩甲骨の痛みは、冷えると倍化。ぴったりと脇に付いたままの左腕が寝起きや立ち上がる時に後ろに少しでも取り残されると、肩に激痛が走る……。といった有様では、明るい気分をキープするのにも苦労する。初台では、「50肩かなあ?」と調べられ、「亜脱臼してないか調べてみましょう」とレントゲン撮影もされたが原因不明。「病院で受けていたこと以外には手を出さないでください」と言われて退院していたため、マッサージや鍼灸に通うこともためらわれる状況だった。

しかし、日常的で継続的な痛みは心を萎えさせる。僕を生かしてくれているKapparにも多大な迷惑となる。まずは、痛み対策だ!ということになった。    …つづく

閑話休題

近所の農協の販売所で買うことに決めているものが、二つある。一つは、豆腐。もう一つが、“ノンホモ牛乳”。

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この牛乳が、とにかく美味い!ホモジサイズ加工という、脂肪分を攪拌する加工をしていないので、牛の乳に近い。蓋を開けると、上の方が若干固まっているが、これがなんと、生クリームそのもの。瓶はガラス製でリターナブル。持って行くと150円だが、今のところまだ持って行っていない。というわけで、週に1本ずつ在庫となり、今や6本。2本には、紅茶が入っている。

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リハビリ3年8か月で、何が変わったか?! ①

初台リハビリテーション病院に転院し、本格的に始めたリハビリ。リハビリ漬けの2カ月の後、成城リハビリテーションクリニックへのリハビリ通院を開始して3年半が経過した。「ハードなリハビリ」「厳しく辛いリハビリ生活」などとよく表現されるが、その間“苦しい”とか“辛い”などと思ったことは、ほとんどない。むしろ社会から一日一日遠ざかっていくことへの“不安”とKapparが負っている負担に対する“申し訳なさ”が心を占めていた。

何ができるのか、もう一度自分に問い直さなくてはいけないと思い、その思いに追われるようにチロチロと小さく活動を始めるのだが、肩に力が入りすぎているのが自分でもわかった。自分の中に沈澱していく焦りが周りに発散されることのないよう気をつけなくてはならないと思った。そんな時は、初めて体験するリハビリの世界を理解しようと、歴史や実態を調べた。パリに行ってしまったPT療法士Sさんと率直な意見交換もした。

やがて、リハビリという世界を冷静に眺めることができるようになった。それは決して努力すれば必ず報われるという世界ではなく、過剰な期待も過小な評価もあってはならない、それぞれの人のためにある世界だということもわかってきた。それにつれ、元の生活に戻るためのリハビリというより“これからの暮らし”のためのリハビリへと、僕のニーズと意識も変化していった。もちろんそれは、僕だけの問題ではない。Kapparと話し合い、共有しておかなくてはならないことだった。

老後のことなど考えず、人生設計とも無縁に56歳まで生きてきた僕は、こうして脳卒中(脳出血)のリハビリを通じて、生き方のリハビリをすることになった。その視点からすると、身体の機能のリハビリは大切なことには違いないが、重大事ではないように思われた。むしろ、いかに“日常生活の安全の確保”をしていくか、という方向に意識は動いていった。

無様であっても安全であればいい。ゆっくりであってもできればいい。使えなかったら方法を考えればいい。……。日常生活で、自分でしていたことやできていたことは、やる!ただし、無理をし過ぎない!危険に対しては慎重に構える!といった考えになった。

成城リハビリテーションクリニックは、一方で在宅リハビリも行っている。暮らしに密着してもいるからだろうか、「痛みを我慢するより、鎮痛剤を使いましょう」「過緊張を和らげることを目指しましょう」といった、機能をプラスするために筋肉を使うことより、過緊張がもたらす危険や不都合を少しでも軽減することを主眼にしたリハビリとなっている。それは、とても有り難いことだった。

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初台リハビリテーション病院~成城リハビリテーションクリニック ②

初台リハビリテーション病院に2ヶ月入院。負の資産と危うい動きの身体のみを抱えて、Kapparの庇護の元へ。折しも、57歳になって間もない年の瀬。久しぶりに嗅ぐ街の風は懐かしく冷たかった。

「何をすべきか…。何ができるのか…」漠と考えながら新年を迎え、リハビリに週三回通い始めたのが、成城リハビリテーションクリニック。

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受付前の廊下が歩行訓練用通路。マシンは2台しかない。しかしどこか温かくインティメイトな空気が漂っている。長くゆっくり通うにはいい病院だというのが、第一印象だった。そしてその通り、それから3年半の通院。今は週1回のOTのみとなっているが、暮らしのリズムであり楽しみともなっている。

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その間に再獲得できた機能に目覚ましいものはないが、極々微細な進歩はいくつかある。その一つひとつを、次回確認してみよう。

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初台リハビリテーション病院~成城リハビリテーションクリニック ①

東邦大学大橋病院で、二週間寝たきりの後車椅子への移動ができるようになり、リハビリを始めた。なんとか立ち上がることはできたが一歩も歩けず、左足を出すと倒れそうになり、ロッキング状態になると激痛が走った。

入院から一カ月、初台リハビリテーション病院に転院。快適な環境の中、リハビリ合宿のような暮らしを始めた。三週間程度で、ぽつぽつと歩けるようになった。その時の左脚の感覚は、竹をつないで作った蛇のおもちゃを縦にしたような感じ。足首、膝、股関節、そのどれもが定まらない。筋トレをしても力が入らないのだから、いかんともし難い。

かつてジャガーとミニクーパーのCM制作をした時、「ミニクーパーの自慢は、走りだ」と言い張るイギリス人のマネージャーに「英国車は電気系統が弱いって言いますよね。それが本当だったら、パワフルなエンジンも無駄になりませんか?」と皮肉を言ったら、困った顔をして「残念ながら、それは今のところ、まだ本当だ」と言ったのを、思い出した。

上半身をしっかりと支えてくれない股関節、ぐらぐらと揺れる膝、引きずりそうになる足首、はコントロール不能。平坦な場所でも躓き、右足でたたらを踏んで踏みとどまる、ということが頻繁にあった。手をつくことができないから転ぶと甚だ危険だが、幸いにして僕は転ぶことはなかった(もちろん、療法士の方々は身を挺して守る態勢でいてくれる)。

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写真は、三週間目に入ったころだったと思う。リハビリの限界を感じつつも、少しずつ再獲得していく機能に期待が高まっていた幸せな時期。シャッターチャンスがよかったおかげで、普通に歩いているように見える。

肩手症候群(無責任な病名だが、原因がわからないからに他ならない)になり、OTがほぼストップ。歩行の進歩も止まってしまう直前。保険不払いの危機にも、まだ遭遇していなかった。

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猫(チビ)受難の物語 ③

6月に入り、Kapparにまた怒涛の日々が訪れた頃だった。朝早く千葉方面へグループ・インタビューの司会にと出発したKapparの姿が見えなくなるやソファから下りてきたチビ。大きく欠伸をして、今や日課のベランダチェックに向かった。しばらくほったらかしにしていると、要求の甘え声。振り向くと、出かけたいよ~とおねだりしている。裏に出て草を食べたいのだろう。夏毛への生え換わりの季節。毛づくろいしては飲み込んでしまう大量の毛を胃から吐き出すためには、食べた草の刺激が必要だ。幸いノタのご出勤も午後型に変わってしばらく経つ。「鬼のいぬ間に、行ってくるか」と、外出許可を出すことにした。

10分も経っただろうか。立ち上がりの遅くなったパソコンでメールチェックを始めた矢先、「うにゃにゃにゃにゃ~~~!」というけたたましい鳴き声。次いで「ふぅうううう~!」と唸る声。いずれもチビだ。慌てて転びそうになりながら、ベランダに出ようとした時、一段と大きい「うにゃにゃにゃにゃ~~~~~~!」の声が響き渡り、静かになった。自身の身体の動きの悪さとはうまくつきあっていけばいいと思っていたはずの僕も、さすがにこの時はゆっくりとして危険な己の動きを呪った。

鉄階段を下りる、裏に出てみる、角まで行って家の脇から往来へ跳び出していないか見てみる…。捜索の動きが実にのろい!その間「チビ~~」と呼ぶ声がかすれているのも情けない。しかもチビは、影も形も声もない。

表にも出てみた。杖を忘れるほど慌てていることに、出てから気づいた。名前を呼び続けてみたが、なんの反応もない。次第に不安が頭をもたげ、どこかに逃げ込み心細く蹲っているチビの姿が浮かんだ。

運を天に任せようと部屋に戻り“待ち”に入った。Kapparにメールした。してから、グループインタビューの邪魔にならないか、と反省した。狼狽気味の己を落ち着かせようとアイスコーヒーを飲もうとしたらこぼしてしまった。……。そんなこんなで2~30分が経過すると、チビのいないソファが気になる。“このまま帰ってこなかったら…”と思うと、心からひとかけら何かが落ちてしまうようで……。「今からペットロスかよ~~」という声が頭の中で響き渡る。とバタバタしているところに、Kapparから「まだ帰ってこないの?しょうがないね~~~。弱っちいからねえ。気を付けてね」との電話。責任を感じつつ、とにかく待つしかないとパソコンに向かったが、気もそぞろ。時々窓を開け「チビ~~~」と呼んでいた。

明日まで待ってみて、帰ってこなければ貼り紙でもするか、と思い始めていた2時間後。白い物体が目の端を通り過ぎたような気がした。急いで窓を開けると、隣家の塀の上をそろ~りと移動するチビ!この機を逃してなるものかと「チビ~~」と連呼。「早く帰っておいで~。また追いかけられるよ~~」と窓を全開にした。しかし、そんな慌てぶりなど意に介していないかのように、チビは静かにゆっくりと塀の上を近づいてきて、ベランダへとジャンプ!最後まで一声も発することなくご帰還あそばした。

まるで何もなかったかのような風情に拍子抜けしながら様子を窺っていると、ゆっくりといつものソファに近づき、両手をつき“よいしょ!”とばかりに身体を持ち上げると、ばたりと横になった。身体に傷がないか、お漏らしはしていないか、などと観察するのだが、何も見当たらない。ただお尻のあたりに少し付着している枯葉や腰に付いた埃に、何処かの縁の下に逃げ込んだと思しき名残を残すのみだった。

やがて夜になり、帰ってきたKapparに事の顛末を話し、同じ体勢で寝たまんまのチビを見ては笑っていたが、その頃になってハタと気付いた。ご帰還以降、チビは飲まず食わずなのだ。「相当ショックだったんだねえ。一気に老けたか!?そうか、元々老けてるか」などとKapparが笑いながら触れても、相変わらず一声も発することなく、“愛想舐め”もやっと一舐めといった状態。やむをえず、放っておくことにした。

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チビのショック症状(?!)は、そうして24時間続いた。24時間飲まず食わず、排泄もせずの状態を餌箱、水入れ、トイレをチェックして確認。Kapparは「もう少し様子を見て、医者に連れていくかどうか考えようかねえ」と呆れ顔をしていたが、僕はまた責任を感じて首を小さくすくめたのだった。

それから三週間。元のチビになるのに少し時間を要したが、今はまた安穏とソファの上の置物のような日々を過ごしている。変化があったとすれば、外に出たがらなくなったことと、相変わらずやってくるノタを威嚇する姿がへっぴり腰で、いつも逃げ腰になったことくらい。

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この箸置きのように二人仲良くベランダでお昼寝、ということにはなりそうもない。

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猫(チビ)受難の物語 ②

「この辺りは野良猫いないのかねえ。全然見かけないよね」。引っ越しの片付けも、遊びにやってくる男性陣に食事を餌に手伝ってもらい落ち着きつつあったGW前の昼下がり、窓外を漠然と見やりつつKapparに漏らした。「そう言えば見ないねえ。新参者を警戒してるのかしら」とKapparも小首を傾げる。怒涛の日々の合間に訪れたしばしの穏やかな時間。、初夏を思わせる日差しに、iPhoneから流れる音楽をビリー・ボーンに変えた。

そんな時だった。「あ!茶トラが通った!」。Kapparの声に振り向くと、お隣二軒の境界となっているブロック塀の上に、ゆっくりと過ぎ去る茶トラの尻尾が見えた。「いたねえ。もっといるのかもね」。陽だまりに寝転ぶ野良猫を見かけるエリアには、住民にも心のどけき人が多い、というのが僕の自説。無駄な命や余分な命が無理なく迎えられる場所に住みたい僕は、茶トラの尻尾に安堵した。

ところが、それがチビの新たな受難の幕開けだった。やがて時々ベランダに訪れるようになったノタ(ベランダでのた~っとしていることの多い茶トラを、またも安易に名付けた)との確執の始まりだ。

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室内をじっとのぞきこむノタに心を動かされ、キャットフードをあげるようになって数日。ついにご対面となった。以前の家では、毎日出かけては時々隣家のマナブ(巨大な雄猫)に追われ、恐怖にお漏らしを2度もしたことがあるチビ。「弱っちいんだから、偉そうにしないのよ!」と言うKapparに歯向かうように威嚇を始めた。

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結果は見えていた。目を合わせることのないにらみ合いの後、ノタが網戸に手をかけ一声唸っただけで決着。チビは2~3歩後ずさりをしてテーブルの下へ。負け猫の遠唸りをするばかり。一方ノタはさっさと横になり、チビの唸り声などどこ吹く風と、のた~っと居眠りに入っていった。

勝負はついた!新居に慣れてくるにつれ、一時期過ごしていた野良生活の習性が頭をもたげていたチビも、これでよもや外に出たがることはないだろうと、むしろ安心したのだった。

ところが、ところが、である。事件は起きてしまった。

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猫(チビ)受難の物語 ①

ある日窓を開けたら跳び込んできた野良猫。警戒心旺盛だが出ていく気配もない。ほとんどの毛が抜け落ち、みすぼらしくやせ細っている。

「追い出すのもねえ」と見つめていたKapparが、「どこか悪そうだから、病院に連れて行って診てもらってから、本人がどうしたいか見てみようか…。女の子のようだから、避妊手術もしなくちゃいけないし……」と僕を見る。「本人ていうか、本猫次第だよね」と同意。

なんとか捕獲し洗ってやろうとすると、シャワーホースにしがみつくようにして逃げ惑う。

伸びきった爪に引っ掻かれ、猫洗いは断念。バッグに詰め込んで獣医の元へ向かった。

診察を受けて驚いた。避妊済み。顎骨折。左目失明。蚤アレルギー。「虐待されていたようですね。逃げて野良になったのか、捨てられたのか…」と医者は嘆息し、「いい人のお宅に跳び込んだねえ」と付け加えた。“チビ”と安易なネーミングをされた元家猫は、こうして新たな家に迎え入れられた。

骨折した顎のために、食事は下手くそ。全身が痒いらしく、毛を食いちぎる。物音にびくりと反応してしまい、睡眠は浅い。……いかにも不憫で、撫でてあげようと手を出すと、唸り声をあげる。時には、引っ掻く。噛み付く。しかし、時々見せる安堵の姿に、虐待の末のPTSDによる不安と安心がないまぜになっているチビの心の有り様を思い、手に付く傷は我慢……。といった状況が、延々と続いた。

頭を撫でさせてくれるようになるだけで2年。他の部分、特にお腹と下半身には敏感で、毛に触れただけで威嚇し、噛み付こうとする状態はずっと続いた。

その間も、アレルギー対策、眼の治療、蚤除去、尿道疾患等々、医者の世話になることは多く、Kapparの手を煩わせること頻繁だった。

そして、この2月末の引っ越し。

いつものバッグに詰め込まれ、最後の荷物としてやってきたチビ。お手伝いしてくれた友人たちとおでんを突っつき、お酒を飲みながら様子を見ていたが、鼻先を出して匂いを窺ったまま出てこない。そのまま、ほぼ一晩。やっと出てきて少しずつ行動範囲を広げ、ほぼ落ち着くのに約1週間を要した。

そしてその結果、驚くべきことが起きた!チビは、まるで猫が変わってしまったかのようだった。

起きる音に反応し、階段下で甘え声を出しながら待ち受けている。時には、待ちかねて呼びに来る。身体にすり寄り、膝に乗りたがる。寄りかかって眠る。どこに触れても怒らない……。といった変貌ぶり。「よほど、引っ越しが心細かったんだろうねえ。この人たちにすがって生きるしかなさそうだ、と思ったのかねえ」などと言いつつも、穏やかで親密な飼い主と猫の関係ができたことが、うれしかった。

チビの心からも安心とないまぜになっていた不安が消えたようだった。

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こんな毅然とした猫座りなどほとんど見せることもなく、

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一日のほとんどをお気に入りのソファで寝て過ごす、という平穏な日々……が続くようになった。

そう、アイツが現れるまでは…。

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雨と気圧と私

梅雨入りした。憂鬱な季節がやってきた。脳卒中後遺症を抱えるすべての人が、寒さに固まる身体の苦労から解放された直後にやってくるこの季節を恨めしく思っていることだろう。

気温の変化に敏感になり、身体と心が気温とともに上下動するようになって“変温動物になっちまったー”と言っていたが、気圧の変化の方が始末が悪いことを痛感させられている。

入梅宣言の3日前、汗ばむ日差しが陰り始めた夕暮れ時、出にくくなった声で「雨が来るねえ。梅雨入りかな?」と宣言。Kapparは「調子悪そうだもんね」と、私設気象予報士の言葉が、その風情から当たるだろうと確信したようだった。気温よりも気圧!と、雨の前後には思う。

「気圧の変化には気を付けてくださいね」。初台リハビリテーション病院を退院する時に担当医に言われたが、「え?!どうやってですか?」と聞き返すと、「しばらく飛行機には乗らないでくださいね」と訂正する口調が返ってきた。

因果関係の説明はあやふやに終わったが、気圧が低くなるとヤバイんだとはわかった。4ヵ月後、親父お袋の墓参帰省で飛行機に乗ったが、さしたる不調も不都合も感じなかった。

しかし、梅雨が近づいてきて痛感した。このことか!と思った。麻痺のある側、左の瞼が上がりにくい。頬の痺れがひどくなり、呂律があやしくなる。左側の味覚が鈍感になり、声までくぐもる。歩行にも危険度が増す……。

そして何よりも嫌なのが、悲観や後悔といった忌み嫌っている情念が頭をもたげてくることだ。さらにそれを、Kapparに感じさせないようにと思う気持ちが無口にさせる。顔に翳をさす。……。困ったもんだと思っていた。

気圧や天気のせいにすることを潔しとしない感覚を排除するようにして、しかし、少し楽になった。口に出している間に、Kapparも不機嫌や暗さの理由が僕の内よりも外にあることがわかるようになってくれたようだった。そして、僕の不調は“気圧変化の符牒”であり“雨の予兆”であると解釈するようになっていった。

かくして僕は、Kapparの私設気象予報士へとなることができのだった。馬子にも衣装…ていうか…麻痺もいいっしょ!と、減らず口も叩けるようになった次第。

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理学療法士、パリへ。②

Mさんは、とてもいい理学療法士だった(?)と、僕は思う。

担当する患者の身体の状況、個性、背景、ライフスタイルを、総合的にイメージしておこう、という明確な意識がある人だった。

目線が麻痺している患部にのみ行きがちな理学療法士ではなかった。患者を一人の人として見つめる力を持っていた。そしていつも、今のリハビリの世界と技術に限界や疑問を感じ、それを少しでも解決すべく努力することを忘れなかった。

度々講習会に参加し、新たな理論や技術に接すると、その長所・短所を教えてくれた。僕で実験してみてくれたりもした。

ただ、以前も本ブログで触れたように、日本はリハビリ後進国であり、療法士の待遇は決してよくない。広がっていく可能性のない活躍の場、上がっていく可能性のない待遇など、Mさんの未来が開かれているとは言い難い。

2ヶ月に一度、酒を酌み交わすようになったMさんとは、そんな話が尽きることはなかった(もちろん、楽しい話の方が多かったが‥)。

そして1年前、「今までの経験を活かして、エステティシャンになろうかと‥。どうせなら、パリへ行って本格的に学びたいんですが‥」と相談を持ちかけられた。

よく聞いてみるとそれは相談ではなく、決断だった。出発までのロードマップは、完璧に出来上がっていた。耳を傾けていた僕、S夫婦、Kapparの4人は、「いいじゃな~い」「いいなあ、夢があるねえ」「言葉も独学である程度できるようになってるし、大丈夫だよ」「ついでに、いい男でも見つけておいで~」などと、口々に賛同した。

ちょっと、残念ではある。前向きに自己変革をしていこうとする療法士を、今のリハビリの世界には留め置く力がないのか‥。

そして、彼女は6月1日、旅立った。31歳での再出発だった。すべて自費での1年間の留学だが、彼女の逞しさを知っている僕たちは「もっと長くなるんだろうなあ」と思っている。

どんな技術を身に付けて帰ってくるのか、誰かを連れて帰ってくるのか、楽しみだ。

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というわけで、“ダッフル3姉妹”(2対1なので、僕が娘になることにした)は一旦解散!

再結成は、いつになることやら‥‥。

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“心の角質”って? ②

どうも“心の角質”は、生まれてこの方繰り返してきた“仲間入り”のその度毎に生成してきたもののようだ。

この世に生を受け、赤く幼稚な肌を大気に晒した時から、それは始まった。

赤子(まだ人間でもなく“精霊”だとする考えもある‥)から人間へ。人間から家族へ。家族から友達社会、学校社会と訓練を重ねて社会へ。次々と仲間入りを果たしつつ、やがて自分も家族という最小単位の社会を構成していく‥‥。

犬が尻を嗅ぎ合い相互確認をするように、どんな小さな単位の社会でも入団テストを受ける。一つひとつうまく合格しなければ、異端の者と見なされる。‥‥。

そんな繰り返しの中で、“心の角質”生成は進行していった。

脳出血発症から3年半。社会的なものを数多く失って、そのことに気付くこととなった。

大人になり、自立する。そのために、その過程で手に入れたと思っているものは、実は大したものではない。手に入れたと思うほどに“心の角質”化が進んでいるだけなのだ‥‥。

そんな気がしてならない。

‥‥などと考え、感じることができるようになれたのも、Kapparのお陰なのだが‥。

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理学療法士、パリへ。①

成城リハビリテーション・クリニックに通い始めたのは3年前、2007年の1月だった。前年末初台リハビリテーション病院を退院して、1ヶ月も経っていなかった。

東邦大学医療センター大橋病院に救急車で運び込まれてから、ほぼ4ヶ月。杖を頼りに、1km程度は歩けるようになっていた。

Mさんが、PT(理学療法)の担当として紹介された。29才(後でわかったことだが‥)。体力と意欲が横溢している人だった。

最初、僕はやや戸惑った。立ち姿を眺め、腕を取って一緒に歩き、観察に終始していた彼女に「悪い方を使おうとしてますね」と微笑みながら言われたからだ。

言われるままにセルフ・チェックすると、確かに左足に体重が乗っていた。しかも「大切な右足の筋力が落ちてますよ」と指摘され、右足の筋トレもすることになった。

弱い部分を強くしようとする意識が、強く頼らねばならない部分の弱体化を生む‥‥。ありがちなことだ。だが!脳卒中のリハビリの場合は、看過できる事態ではない。右の弱体化は生活に大きな支障をきたす可能性がある上に、転倒の危険性を増すことにもなる。

「ほら!立ち上がる時に左足に体重をかけてるでしょ」。そう言われて前の鏡を見ると、思っていた以上に左に傾ぎながら立ち上がる己の姿がある。「安全に暮らすことを先に考えましょうね」というMさんの言葉には、説得力があった。

ライフスタイルを把握し、リハビリを行っていくに当たって留意すべき点を確認しておこう、という姿勢も強く感じた。

「成城、どうだった?」。いろいろ調べ、下見や費用の下調べなどに奔走してくれたKapparに尋ねられ、「“リハビリのための生活”じゃなくて、“生活のためのリハビリ”だって、きちんと認識している人が担当だから、すごくよかったよ」と、僕は応えた。

そんなMさんが、6月1日、パリへと旅立った。

その動機と目的は‥‥次回以降。

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“心の角質”って? ①

脳出血発症後、“心の角質”があっと言う間にぽろぽろと剥がれ落ちた。そして、喜怒哀楽の激しい振幅に襲われた。僕は、困惑させられ、閉口した。

自分の喜怒哀楽だから予測はできるのだが、対処ができない。セルフ・コントロールしなくてはと思う間もなく感情は暴発し、笑い、怒り、涙に押し流されてしまう‥‥。

救急車で運ばれて一晩、ほとんど眠ることなく、これから必要となる費用や仕事のことを思案していた時の冷静さは、かりそめだったのか?

「いろいろ大変なことが一気に起きたんだもんねえ‥‥」と、親しい友人たちは同情を寄せてくれるが、「脳卒中の後遺症?」と訝る目になることもある。だからといって、僕に接する態度や僕への評価が変容するわけではないのだが、心穏やかでないのは僕自身だ。激しい感情の起伏は余韻を残し、時には後悔の種をしっかりと植え付ける。

左半身は思うに任せないばかりか、時にはざわざわと不快で痛みを伴うこともあるのだ。せめて、心穏やかに暮らしたい。そう思っているのに、小さな刺戟に過敏に反応する心。

深刻ではないが、身中に火薬を抱えているようで落ち着かないことおびただしい。

そんな3年を過ごした。そして、引越し。事務所と住まいを合体させた。そして、3ヶ月余りが、また経過した。脳内出血発症から3度目の春も過ぎ去ろうとしている。

今は、望んでいた暮らしができつつあるような気がする。心穏やかなのだ。

だからこそ、“心の角質”というものに向き合い考えてみることもできるのだろう。

ある朝、ふと気付いた。“心の角質”は、自分で作り固めてきたものだ、と。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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島根県益田市に、絶品あり!‥‥“天然鮎”

6月の声を聞くと、心がざわめく。毎年のことだが、今年は格別だ。

6月1日は、鮎漁の解禁日。中学生時代を過ごした島根県益田市横田町では、大人も子供も鮎漁の始まりに浮き立つ。

友釣り、“チャグリ”(浅瀬で竿を使って行う“引っ掛け漁”)、網を使った追い込み漁といった、漁協から鑑札を入手して行う「合法的な漁」から“サイタケ”(針を付けたテグスを竹の中を通し、竹の先から出した針で鮎を直接狙って引っ掛ける)、“手掴み”(夜、眠っている鮎を、指先を抜いた軍手で手掴みする)といった「違法な漁」まで、それぞれ思い思いに準備に取り掛かる。

僕は、小学校6年生の時転校してきた新参者。“サイタケ”を習った(漁協の人たちが違法な漁を見回りに来る、その目を盗む快感も少年たちの楽しみだった)が、どうもうまくなれなかった。

それでもたまに獲れた1尾2尾を、夕飯のおかずにと差し出す時の誇らしい気持ちと、獲れたての鮎の塩焼きの味は忘れることができない。

今や鮎もすっかり養殖が主流となってしまったが、天然の鮎は島根県益田市高津川漁業協同組合からお取り寄せ可能だ。漁が天候次第なのはやむをえないとしても、昨年の雨続きはがっかりだった。漁ができず、結局あきらめざるを得なかった。

今年は5月末から気合が入っていたせいか、今のところ天候OK!

FAXでの注文も完了!発送は漁があり次第、というアバウトな対応だが、それも天然の証! 待ち遠しい!!

高津川漁業協同組合(ネット対応は、まだできていない。‥天然ですから‥‥)

*そう言えば、あの横井庄一さんが、「日本に帰ってきて、一番変わったと思うものは?」と訊かれ、「故郷(和歌山だったか?)の鮎の味。まずくなった」と答えていたような記憶がある‥‥。まさか!養殖ものを食べさせた?

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これも、脳卒中の後遺症?!“心の角質”、ポロポロ‥‥。①

初台リハビリテーション病院入院中はまだしも、退院直後からの“心の角質”の落ち方は尋常ではなかった。

理不尽、不義理、無礼に対する沸点は低くなり、気遣い、優しさ、情愛に触れた時の涙腺の決壊は驚くほど速くなった。

脳出血発症以前、ほとんど毎夜訪れる人たちの、辛い、悲しい、苦しい話などを聞き、なけなしのアドバイスをする時も、よくもらい泣きをしてしまい、「もれなく“もらい泣き”付きの相談所」などとからかわれていた。しかし、レベルが違う!

サザンオールスターズのライブ映像を観ていた時のこと。桑田佳祐が“明日、晴れるかな”を熱唱している場面、観客席の女性が手にしたタオルに顔を埋めているのを目にして、「辛いことがあったんだよねえ」と、泣いてしまうのは、我ながらどうかと思った。

「こんなことで‥」「馬鹿馬鹿しいなあ‥」と頭の片隅で思いつつ、決壊する涙腺。しかも、他人がいる時でさえ止めようがないという状況。

これも、脳卒中の後遺症の一つと思おうとしてもいささか情けなく、また妙に可笑しいから始末が悪い。

という状態を、さすがにやや脱してきて、考えた。

“心の角質”ってやつのことを。

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