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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑪

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

Sさんは印象的な人だった。食堂でいつの間にかできた“同テーブルの仲間”の一人。危うい歩様ながら、いつも人の手を借りずにゆっくりと、微笑みながらテーブルまでやってきていた。きちんと椅子を引き、席に着くと「おはようございます」「こんばんは」と穏やかな挨拶をされた。

僕より少し年下の彼は、隣室の住人。同室のFさんからの情報によると、父親から譲り受けた異常なほどの高血圧に、やがて自分も脳卒中で倒れることになるだろう、と覚悟していたという人だった。食堂では多くを語らなかったが、僕とFさんの他愛もない笑い話のやり取りを楽しそうに聞き、時には自分に向けられる矛先を軽くあしらったりしていた。

食事が終わると「お先に」と一礼して椅子を引き、引いた椅子をきちんとテーブルの下に押し入れてから、ゆるゆると病室へと帰っていた。足元が危ういのだが、断固として手を借りることなく行われる一連の作業を、僕はいつも箸を止めて見ていた。

そんなSさんが、僕に話しかけてきたのは、僕が杖を付いてテーブルまで初めて行った時だった。先に席についていたSさんは突然、「やっぱり!」と言って僕を見た。そして、「K(僕)さんはきっと僕を追い抜いて、先に歩けるようになるだろうと思ってたんですよ」と微笑んだ。祝福の言葉に聞こえなくもなかったが、Sさんの心根を想うと少し辛かった。申し訳ないような気がした。何かしてあげられることはないか、と思った。

退院した後の不都合の有無を確認するための“外泊”を終えた時、“外泊”が近いSさんに、一泊の経験談を話した。それは、“お返し”の“口頭レポート”だった。

“段差は、少し大きいくらいの方が段差と認識できるのでいいくらいです。中途半端なユニバーサル・デザインよりいいみたいですよ”“出っ張りは、危険なものじゃなくて、摑まることができる場所です。指先でつまむだけでも助けになりますよ”などと、お話した。

耳を傾けていたSさんは、最後に一言“不安がなくなりました。ありがとう!”と言ってくれた。なんだか、また祝福されたような気分だった。

                          ‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑩

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

退院したNさんの訪問を受けている間、僕のリハビリは着実に進行していた。一人での車椅子移動にOKが出て、トイレに一人で行くことができるようになり、数歩程度のよちよち歩きもできるようになっていた。

お見舞いに訪れる友人たちに、「同情するなら、金をくれ~~」と動かない左手を差し出して笑いをとったり、「おや、幼児くらいまで成長したじゃない」とからかわれ、「これからは成長が早いよ。もう少し経つと、“ピカピカの一年生”じゃ~~。ランドセル買って~~」とおねだりしたりしていた。歩けることへの希望は、現実のものになりつつあった。

一方、Nさんの来訪は続いていた。Nさんに笑顔が絶えることはなかった。ぢかし、仕事について多くを語らなくなったことに、彼を取り巻く環境の厳しさが感じられた。どうも、支店長職を解かれることになるようだった。

病み上がりのせいだけとは言えないのかもしれない。適任ではなかったのかもしれない。ひょっとすると、売上げ低迷を打破するための組織改革の一環なのかもしれない。真相は、僕にはわからない。ただ、いかにも痛ましい。Nさんの真摯な努力と温かい家族を思い、僕は歯軋りをした。退院後2ヶ月で結果を問うのは、いくらなんでも早過ぎないか!

しかしそれでも、Nさんの訪問は続いた。僕が退院することを知った時は、奥さんもやって来られた。初台リハビリテーション病院入院後、体重が2キロも増え、「病院で太るなんてねえ」とKapparに呆れられていた僕にと、“ダイエット・レシピ”の本を退院祝いに差し出された。その屈託ない笑顔と茶目っ気に、僕は胸を撫で下ろした。そして、Kapparと「“オフィス・リストランテ”にご招待し、激励してあげようね」と話し合った。

翌春の好天の日曜日、食事会は実現できたが、それ以来、Nさん夫婦とはお会いすることができていない。2年半になる。時々思い出しては、ちょっと心配している。

                                 つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑨

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

そしてNさんは、退院していった。塩分制限が必要なNさんに、Kapparはお茶目なデザインの計量スプーンを退院祝いとして送った。

「診察で来た時は、必ず顔を出しますから~」と手を振って病室を後にするNさんに、僕は廊下まで出て車椅子から手を振った。息子さんが腰にしがみつきスキップして行く後姿に、心が和んだ。

Nさんは律儀に訪ねて来てくれた。スーツ姿と書類の詰まったビジネスバッグに、“世間”の風を感じた。その風は冷たかった。

「あと1ヶ月で今年の予算を達成しなくちゃいけないんですよ」「これから、予算ショートしている2000万をオンすると言ってもねえ」「法人のお客さんは“お前じゃないと”と言う人が多くて‥。担当を付けておいたんですけどねえ。これからじゃ、年末の旅行はほとんど決まってますしねえ‥」と、しばし愚痴になった。

「大変ですねえ。身体の方はどうなんですか?」。肝臓の検査数値のよくないNさん、あまり無理は利かないはずだが‥‥。字が巧く書けるかどうかよりも、僕が気がかりなのはむしろこちらの方だ。

「短期入院を勧められたんで、入院したんですよ、‥ここじゃなくて別の病院でね‥。でも、病院から会社に通うようなことになって。じゃ、まあ、退院するかってことになってねえ」。Nさんは明るいが、その話の内容は、凄まじい。

「なまじっか普通に見えるもんでねえ」と、帰り際に残した言葉が痛かった。脳をやられた身体には、まったく普通なんてありえない。自分のこととしてわかっていたつもりの僕でさえ、ついついNさんの元気な姿に誤解をしていたのかもしれない。会社での日常には多くの誤解が付きまとい、その一つひとつがNさんに無理を強いることになっているのだろう。

「また顔出します!」。そう言って仕事に帰っていくNさんの後姿は、退院の時とは違って見えた。おそらく、僕の方の変化なのだが‥‥。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑧

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

「なかなかうまく字が書けないんですよ。仕事柄、お客さんの前で書かなくちゃいけない書類が多いですからねえ。元々字がきれいなわけじゃないんですけどね」。漢字練習用のドリルを小脇に病室に帰ってきたNさんに、「精が出ますねえ」と声を掛けると、そう言って悔しそうな表情を見せた。競合が激しい業界。好況な訳でもない。新興勢力の台頭に脅かされてもいる。団体旅行への売上依存度の高い老舗の旅行代理店はいずこも、優良顧客のつなぎとめに躍起になっている。Nさんの悩みは根が深い。少し、立ち話になった。僕は、腰掛けたままだったが‥‥・

「うちの会社、待ってくれて半年なんですよ。まあ、悪いほうじゃないんでしょうけどね。半年過ぎると、辞める?暇な仕事にする?って話になるらしいんですよ。降格ってことですよね。そうなると、給料は下がらざるを得ないですからねえ」。苦い笑顔を浮かべるNさんに、僕は言葉がない。Nさんの会社と仕事でお付き合いしたことがあるため、彼に中途半端な慰めの言葉を発する気にはなれない。

「まあ、あと一週間、頑張りますよ」。そう言って自分のベッドに向かうNさんの、普通の人にしか見えない後姿と、すぐにカーテンの向こうから聞こえ始めた鉛筆を走らせる音に、僕は嘆息した。

ベッドに横になると、明るく優しい奥さんと、Nさんと肩を組んで廊下を歩いていた小学校高学年の息子さんの笑顔を思い出した。“どうにかならないものか?”と思った。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑦

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

僕が入院した日、声を掛けてくれたNさんには、翌朝の朝食時からお世話になった。パンに添えられてきたブルーベリー・ジャムを開けられず、どうしたものかと見つめていると、横から微笑みながら手に取り「ストロベリーもありますよ。マーマレードもあるはずですよ。換えてもいいんですよ。どうします?」と声を掛けてくれた。開けられないだけではなく、ブルーベリー・ジャムが好みではない僕の気持ちを読み取ったかのような言葉だった。「じゃ、マーマレードにしようかな~」と呟くと、すかさずNさんは食堂スタッフにその旨を告げ、すぐにやってきたマーマレードを開けてくれた。

「どうも。助かります」と一礼すると、「何言ってるんですか。大丈夫ですよ。得意ですから、こういうこと。僕はプロですよ。何年、ツアコンやってきたと思ってるんですか」と、Nさんは笑った。

それから彼は、病院内のルール、自己主張すべきこと等を、事ある毎に教えてくれた。素晴らしい“リハビリの先輩”だった。「何事にも先達はあらまほしきものなり」という言葉を思い出したほどだった。

Nさんは旅行代理店の支店長。40代半ば、働き盛りでの脳梗塞発症だった。「会議の時に、突然書類をめくることができなくなったんですよ。そのうち言葉もおかしくなっていって‥‥」右半身の麻痺に陥った。ただ、幸いにも人が多い場所での発症。対処も素早かったおかげで、症状は重篤なものではなかった。

クラウチングスタートでの走る練習やジャンプの練習をしている彼は、退院間近。何事もなかったのように職場復帰していくものと、僕は思っていた。ところが、他人が見るほど事態は楽観的なものではないことが、徐々にわかってきた。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑥

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

間断なく続く“寝言おじさん”の寝言に、病院が何ら対策を講じなかったわけではない。時折悪夢に襲われる“寝言おじさん”には、ベッドから落下する危険もあった。

まず、ベッドサイドまで身体が移動すると反応する特殊なナースコールが敷かれた。スタッフが交代で“寝言対策要員”となる体制もできた。もちろん、夜中に発作に襲われる人もいるので、24時間体制の監視体制は元々整っている。

一声、寝言が響き渡ると、10秒後くらいにはスタッフが駆けつけた。時には暴れる“寝言おじさん”に、1名では対応できないことも多かった。やさしく声を掛け、半覚醒状態になった彼をなだめるのだが、その効果はあまりなかった。なだめる言葉にも妙に論理的に対抗し、次第に怒りに燃えていく“寝言おじさん”は、なかなか手強かった。

やがて、寝言で家族に対して噴出していた憤りは、スタッフに向かうようになっていった。リハビリに前向きになり昼間は親密度を増していたスタッフが、深夜には敵に変わっていくのだった。

そして、“寝言おじさん”は、ある夜ついに証拠写真を撮ることを思いついた。趣味のカメラを奥さんに持ってきてもらい枕元に並べて間もなくだった。

いつもの時間に始まった咆哮に女性スタッフが駆けつけると、フラッシュが連続で光り、「お前か、犯人は!やっぱり、お前か!撮ったぞ!撮ったぞ!証拠を撮ったぞ!」という勝ち誇ったような声が続いた。

しかしそれは、むしろ彼の夜中の蛮行の証拠写真となった。証拠写真を見せながら「もっときれいに撮ってもらいたかったなあ」とからかう“犯人”の女性スタッフに、「被写体の問題じゃないの?」と照れ臭そうに、しかし精一杯の冗談で返している“寝言おじさん”に、もう病院やスタッフへの不信感は感じられなかった。病院側の弛まぬ努力の勝利だった。

それから一ヶ月後くらいに、僕は退院した。“寝言おじさん”は、その半月前に病室を変わっていた。寝言は続いていたが、少し歩けるようになっていた。

‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥⑤

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

“寝言おじさん”の寝言には、夢の中で発せられているとは思えないものが、しばしばあった。最初の一週間くらいの間多かったのは、以下のようなものだった。

「私は現在注射を打たれ、ベッドに横になっております。注射がどんなものか、わかりません。しかし、その注射のせいで、体が動かなくなっているのであります!‥‥」

「この病院のシステムはうまくいかない!間違いない!倒産する!早く、他の病院に移らなくてはならない!‥‥」

「私は歩ける。走ることもできます。しかし、動けないのであります。あの注射のせいなのであります!‥‥」

もちろん、彼は一本も注射などされてはいない。初台リハビリテーション病院の経営に問題があるわけではない。もちろん、歩けるわけでもない。

おそらく、自分の内部で起きた重大な異変のせいで動けなくなったことを認めたくないもう一人の彼が、深夜に目を覚ますのであろう。もう一人の彼は、注射の効力がなくなってしまえばすぐにでも動ける、と信じているようだった。

しかし、二週間目あたりから寝言の内容は変化していく。

「お前たち!きちんと言うことを聞きなさい!廊下に並びなさい!何度同じことを言わせるんだ!‥‥」

「おい、新聞取ってきてくれ!いや、もう来てる。5時には来てるはずだ。もう6時じゃないか!いいから、行ってみてくれ!‥‥」

彼の中で、現実を容認しようとしている彼と、あくまでも認めまいとする彼の相克に決着が付きかけているようだった。家族への苛立ちや怒りの言葉は、認めたくない方の彼の最後のあがきのように思えた。ほっとすると同時にやるせない展開だった。

そして、また寝言は変化していった。今度の彼は仕事に戻っていた。

「このデータがそのことを示しています。○△×値と△×○値の相関関係は、当初予想していたほどのものではなかったことがわかります。‥‥」

OHPを使いながら、多くの聴衆を前に説明している“寝言おじさん”。その口調にはっきりと表れている誇りと自信は、機械系か電気系の優秀な技術者であったと思われる彼の往時を偲ばせた。ベッドの上で目を閉じたまま僕は、“寝言おじさん”にスーツを着せ、中ホールの壇上に立たせていた。その彼は50代前半だった‥‥。

その頃からしかし、彼はリハビリにやや前向きになっていった。相変わらず、“大放屁一発!”は欠かさなかったが‥‥。

                          ‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥④

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

“寝言おじさん”は、リハビリに真剣ではなかった。僕が入院して2週間以上、リハビリルームに行くことさえ拒否し続けていた。やむをえずセラピストの人たちはベッドの上とベッドサイドでリハビリを行っていたが、車椅子への移動の要領を覚えることさえままならない状況だった。

前進しないリハビリに、家族のモチベーションのための努力は続いていた。いつも傍らで見守っている奥さんは優しく励まし続け、退院に備えて進んでいる改築のことや孫たちの近況を、写真を見せながら語った。息子さん二人は、病院の仕組みやリハビリに疑問を呈する父親に、自分たちがリハビリテーション病院をどれだけ探し、見学してきたかを熱く語り、“考えられる最善の環境”にあることを理解してもらおうとしていた。しかし、気のない返事や感情的な反論に、肩を落として帰って行くことが多かった。

珍しく明るい笑い声が洩れてきたのは、孫の訪問を受けた時だった。足の装具を孫に見せながら、「どうだ。おじいちゃん、これを着けて家の中を歩くんだぞ。ロボットみたいでカッコいいだろ~」と笑っている“寝言おじさん”の姿が垣間見えた。その時は僕も、“よかった~~。これで進展するかも‥”と胸を撫で下ろしたものだった。

ところが、それでもリハビリは進まない。他人事ながら、“回復期を過ぎてしまわなければいいが‥”と僕は気を揉んだが、ご本人は意外とお気楽で、リハビリ中はずっと冗談を口にし、後ろから支えられつつ立ち上がる時などは、大きな放屁一発。セラピストの笑いを取ったりしていた。

セラピストの人たちのモチベーション努力も辛抱強く続いていた。その押し付けがましくなく、淡々と明るく仕事をこなしていく姿に感心しながら、一方で僕は、“寝言おじさん”の心根を思い描いていた。ヒントは毎夜耳にする“大いなる寝言”にあった。

 ‥‥つづく

*先週の三連休明けに急にひどくなった左腰の痛みの原因は、やはり“オーバーユース”だったようだ。週に一度通院している成城リハビリテーションクリニックで、PTのIさん(AK法の熟練者)に診ていただいた結果、腰の関節に不具合が生じており、それは“頑張り過ぎ”とのことだった。指先で関節の調整をした後、Iさんは「三日間くらいおとなしくしててみてください」と笑った。

そして三日後。Iさんの予言どおり随分と楽になっていた。頑張り過ぎと調子に乗り過ぎは、やはり禁物だ。

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥③

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

初めての夜、“昼夜逆転の体内時計”が少し狂ってくれたお陰で、10時を過ぎる頃には眠りに付いた。しかし、突然の大声に飛び起きた。と言っても、首を起こし廻らせただけだが‥。

「そこの若い奴!鏡の前に立て!」。その声は、はっきりとそう言っていた。空耳などではなかった。が、病室内は何事もなく静まり返っていた。“若い奴”を自分のことと思い飛び起きたことが可笑しく、布団をかぶって笑った。

しかしその声が同室の人から発せられたものだということが、3時間後にわかった。午前2時過ぎ、数分間の演説が聞こえてきたのだ。内容までは判然としないが、どうも何らかの研究発表のようだった。

翌朝、7時過ぎには、スタッフに起こされ車椅子への移動を手伝ってもらい、洗顔と着替えを済ませた。睡眠約2時間。さすがに目の奥には眠気が留まっていたが、新しい朝は爽やかだった。

車椅子を押してもらい食堂に着くと、隣のベッドのNさんが、隣席へと誘ってくれた。「おはようございます」と声を張って挨拶すると、Nさんの人懐っこい笑顔がいたずらっ子のそれに変わり、僕に近付いてきた。「よく眠れました?」。そう問われて僕は、正直に「いやあ、眠れなかったですねえ」と応えて笑った。

それから約2ヶ月、深夜の演説、独白、罵声は休みなく続いた。悪夢に苛まれた結果の、“大いなる寝言”のようだった。覚醒さえしていればさしたる問題のない人であり、日々朝から夕方まで付き添いにやってくる奥さんの同室者への平身低頭ぶりが痛々しいほどだったこともあって、苦情を言う気にはなれなかった。Nさんも、そう思っているようだった。

同病のよしみ、というものであろう。むしろ夜な夜な聞こえてくる寝言の内容に、70歳くらいと思しきその人の人生や病気がもたらした変化を想い、胸が痛むことさえあった。

睡眠不足を心配するKapparには、「初台サファリパークのナイトクルーズや~~」と笑い話にしていた。 ‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥②

-初台リハビリテーション病院で出会った“リハビリの人たち”-

脳出血で入院した東邦大学大橋病院の主治医から初台リハビリテーション病院の存在を教わり、Kapparが色々調べた結果、4人部屋の一般病室約40万円/月なら、2ヶ月くらいであればなんとかなりそう、ということで早速エントリーした。救急車で搬送されて3週間位経った頃だった。

幸いなことに一週間もすると、“左麻痺用のベッドが空きそう”との連絡が主治医に入った。すぐに準備を始め、4日後には初台リハビリテーション病院5階奥の一般病室に入院することになった。

僕のベッドは、窓側。はるか遠くに、うっすらと富士山が佇んでいるのが見えた。遠くに見える首都高の“ユーノス”の看板を見つめながら過ごした大橋病院も僕は決して嫌ではなかったが、収納とカーテンで個室風に仕切られた初台リハビリテーション病院のきれいな病室は、“身の程知らず”と自らを叱りたくなるほど言うことなしだった。

車椅子に座ったまま漠然と窓外を眺めていたら、窓に向かって体操に余念のなかった人が声を掛けてきた。アロハシャツにジーンズ、足元はスニーカーといういでたちの彼は、もうすっかり普通の人に見えたが、隣のベッドの人だということが判明した。まず名前を名乗りあって、二言三言、言葉を交わすと、「よかった~~、お話ができる人で。そのベッドにいた人、言語障害がある人で、ずっと会話してないんですよ」と、実にうれしそうな笑顔を見せた。お互いの脳卒中発症体験や職業について簡単に紹介しあった。「何かあったら、遠慮なく聞いてくださいね」という言葉に、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と頭を下げた。50歳。7歳年下の彼が、とてもいい先輩に思えた。心強かった。すべてがタイミングよく順調に展開しているように思えた。

毎夜起きることになる事態は、まだ想像さえしていなかった。 ‥‥つづく

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脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。‥①

「こんなに急に寒くならないで~~」と、天に向かって叫びたいくらいの、いきなりの秋到来。気温の変化に微妙に反応する身体のあちこちの不具合に、涼やかな秋風さえ恨みたい気分の日々が続いた。「徐々に徐々に秋になってくれれば、身体も馴染んでいくのに‥」などと愚痴っていると、大型台風の到来ときた。

台風の到来は、どういうわけか気持ちを高揚させる。危険を孕んだ出来事の予感は、興奮剤として作用するものだ。しかし、脳出血から丸3年の身体には、しんしんとこたえる。週一回のリハビリもサボり、電気ストーブの前で、猫と一緒に丸くなって過ごした。

そして、からりと晴れた三連休!少し歩くと痛み始めるはずの膝も、なぜか快調とあって、さくさくとお散歩をした。踵に体重を掛けることができるようになったことが膝の快調につながったのであろう、と自己判断。それを意識しながら歩いた。買い物もした。荷物も持ち歩いた。

すると、次の日の夜あたりから、じわじわと左腰から左脇に掛けて痛み始めた。そして一昨日の夜には、ほとんど眠れないほどになった。右側にあるものを取ろうとするだけで、痛みが走る。それをいいことにいろいろなことをサボり、転んだ仏像のように動かず一日を過ごした。

そして、飽きた。鎮痛剤を飲み、Kapparが自分の慢性の膝通用に処方してもらってきた塗り薬を擦り込んで、ちびちび動いた。で、少しは良化してきているような気がする今日である。事務所への往復も、もう大丈夫?だろう。

改めて、思った。“脳卒中それぞれ。リハビリそれぞれ。”である。

僕は、回復期のリハビリが終わった後のリハビリは、「安全の獲得・維持と痛みの軽減による、QOLの向上」がポイントだと思っている。が、リハビリが持つ意味は人それぞれによって異なると思う。QOLも人それぞれだからである。

思い起こせば、初台リハビリテーション病院で同期だった人たちも、それぞれ異なるニーズや想いを抱えて、リハビリに向き合っていた。 ‥つづく

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島根県益田市、故郷はどこへ?!‥⑥

小学校2・3年生を、僕は中国山地奥深い島根県邑智郡邑智村沢谷という所で過ごした。昭和32年、沢谷に点在する農家の多くは茅葺の屋根だった。数件の共同作業で行われる茅の葺き替えも目撃した。

再婚間もない親父が借りた陋屋の大家の家は、沢谷にでは富農に属していた。その家は、入り口を入ると土間があり、一方に牛が飼われており、もう一方には広い板の間があった。その中央にある囲炉裏を囲んで、何度かご飯をご馳走になった。「おいいしいから蝿が来るんだよ」という奥さんの言葉を信じて、ご飯の上に次々と覆いかぶさってくる蝿を片手で追い払いながら、急いでご飯を掻き込むのだが、時折牛の鳴き声が聞こえてくると、牛の糞の上を黒く覆っていた蝿の大群を思い出し、途端にご飯が喉を通らなくなったものだった。

涼やかな秋がやってくると、秋風は容赦なく家の中も吹き抜けた。いずこの家を訪ねても大同小異、夕方になるとしんしんと冷え込んだ。冬には、家の中でさえ、氷が張った。

そんな沢谷で、僕が初めてアルミサッシの窓を見たのが、移住して2年目、小学校3年生の時だった。隙間風が入ってこないことに驚いた。その家は、屋根は茅葺、窓はアルミサッシという、外観は奇妙な家だったが、部屋の中は以前とは比較にならないほど快適だった。文化って、こういうことなんだろうなあ、と思った。

しばらく経った頃、友達からこんな話を耳にした。

都会からやってきた親戚の青年が、「茅葺の屋根っていいなあ。アルミサッシなんかにせず、そのまま残すべきだと思うけどなあ」と言ったというのだ。友達は戸惑っていた。「不便なのにねえ」と苦笑いをしていた。浜田市からやってきた時、僕にも茅葺の家が印象深かったのを思い出した。しかし、それから約1年半。茅を葺く作業を目撃し、厳しい冬を経験した僕にとって、茅葺の屋根は“のどかな田舎の風景”を象徴するものから、“苛酷な生活環境”を象徴するものに変わっていた。

やがて長じて、学生時代を過ごした京都で古きよきものに触れ、社会人となった東京で近代的なるものに次々と変貌していく街に浸り、茅葺屋根を残すことと茅葺屋根を根こそぎ変えてしまうことの双方に一長一短があることに気付いていった。

暮らしの中にある身近なものの希少性に、人は気付きにくいものだ。不満の解消をする時その希少性をも失ってしまっていることに気付くことになるのだが、それは概して随分後になってからのことが多い。

“後の祭り”を避けるためには、目の前の不満を解消する時にも、ビジョンを持つことだと思う。多くの人が関わることであれば尚更である。しっかりと情報を交換し、ビジョンを共有すべく語り合うべきだと思われる。利害の不一致を超えることができない場合であっても、語り合っておくことは大切だ。どんなビジョンにも影は付きまとう。それも語り合うのが、“ビジョン・コミュニケーション”だと思うのだ。

*バブルの時代、アンティーク家具が流行った。随分と高価なものが飛ぶように売れていた。その頃のことである。

まだ共産圏だった東欧諸国にアンティーク家具の仕入れに行く“商売人”たちがいた。彼らの手口は、こうだった。

彼らは、古い農家を次々と訪問する。めぼしいものを見つけた農家で、小脇にしていたIKEAのような北欧家具のカタログを開いてみせる。そして、こう問いかける。「全部、このカタログにあるような家具と交換しませんか?」。

ほとんどの場合、大歓迎される。そうして手に入れた古い家具を手直しして販売。“商売人”たちは荒稼ぎをする。“わらしべ長者”のような商売である。

お互いが喜ぶ、いい物々交換のようにも見えるが、北欧型の家具が東欧の農家の住環境に適さないことは、やがてそれを手にした人たちが痛感することになるのである。

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島根県益田市、故郷はどこへ?!‥⑤

エリンギの栽培&販売は、前(?)益田市長の肝いりで始まった“障害者支援事業”の一環らしい。それが、思惑通りに売れずに赤字を抱えて困っているということ(らしい)だった。

山陰道の件同様、詳細は判然としないが、エリンギと障害者支援事業という二つのファクターを耳にするだけでも、その事業の行く末は心配になるというものだ。

「え?!エリンギ?ちょっと遅いかなあ‥」。それが最初の僕の言葉だった。

エリンギの栽培を選んだことには、1.「雪国マイタケ」という地方興しに成功したビジネスが先行例としてあること。2.馴染みの薄かった外来種のエリンギが日本の食卓に定着してきていること。の二つが大きな理由としてあるような気がしたからだった。

もしそうだとしたら、だが、実態を精査してのことだったのだろうか、と思った。

「雪国マイタケ」の成功は、それまで困難とされていたマイタケの大量栽培を新技術の導入により可能にしたことと、そのことによりマイタケの価格を一気に押し下げたことによるものであり、そこには長期にわたる研究・努力とそれに伴うリスクを抱える覚悟があってのことである。

また、エリンギの普及は、やはり長期にわたる流通の“新しい売れ筋商品探し”の努力が、新しいメニュー開発の動きと合致して生まれた“洋野菜ブーム”とその定着によってもたらされたもので、数年前には常態化してしまっているもの。エリンギはもはや珍しいものではなく日常の食材となっており、したがって当然栽培農家も増え、その分価格も下がってきている。

で、「価格は?」と聞いてみた。600円台の返事が返ってきた。内容量によって違うのだろうが、“高い”と思った。少なくとも、都内のスーパーでは価格競争力がないと思われた。「高いねえ」と僕が言うと、横からKapparも「それは高いんじゃないですかねえ」と言った。すると従姉妹は、「だから、今は乾燥させて“乾燥エリンギ”にしてるみたいよ」と言った。僕たち二人は同時に驚いた。「加工すればいいといっても、“乾燥エリンギ”はどうかと思うけどなあ」と僕が言うと、Kapparは「佃煮にして瓶詰めにするとか、混ぜご飯の素として提案するとかすればいいと思いますよ」と言葉を足した。

流行りそうなもの、安定供給が求められているものを作り、素材としてそのまま出荷すれば価格競争に巻き込まれるのは当然だ。後発であればなおさらである。それぞれの地方の独自性は、魚沼産コシヒカリのような素材そのものの圧倒的な差別性(気候風土の独自性があるからこそのもの)や素材を生かす加工の独自性で作られていくもの(三陸の三宝漬けや若狭の焼き鯖寿司など)である。エリンギを生かす加工のあり方を研究し、加工も地元で行って出荷すべきだと、僕は思う。

そして、もう一点気になったのが、高価格にならざるをえない要因に、それが障害者支援事業による生産物だということがあるのではないか、ということだった。

障害者支援は必要だし、障害者支援事業は推進すべきことだが、そこに社会経済論理が欠けることがあってはならない。誰が一生懸命作ったものであろうと、そこにどんな思いや努力が込められていようと、生産物が商品として店頭に並ぶ時には、その品質と価格は他の商品との比較の目に晒されることになる。そこには配慮や温情が絡む余地もない。

そのことを視野に入れ、合理化や効率アップを図っていかなければ、障害者支援事業はたやすく暗礁に乗り上げてしまうことになる。綿密で繊細な計画の立案とその厳しい遂行は、障害者支援事業を事業として成立させるためには欠くべからざることのはずなのだ。

安易なスタートだったのではないか、と僕は思った。

そして、そんなことの一つひとつが、日本でも上位に入る島根県の公共事業予算がもたらした弊害のように、僕には思えてならなかった。 ‥つづく(次回で最後)

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島根県益田市、故郷はどこへ?!‥④

従姉妹の話は、いきなり「山陰道の工事は継続されると思う?政権変わったけど‥」という質問から始まった。

僕は、「山陰道は、続行すると思うよ。幹線道路だから」と応えた。年に1~2回帰省するたびに増えていくように思える道路の一つひとつは、“クルマ利用者のための生活道路”に見えていたからだ。最早旅行者に過ぎない僕に利用実態は把握しきれないが、国道9号線の整備がおざなりになっているように感じていた。

いくら政権交代に伴う予算の見直しがあるとはいえ、幹線道路は産業道路でもある。特に東西に長い島根県にとって、海岸沿いを横断する国道9号線は、県内各地域の生鮮、加工品等の重要な流通ルート。中国山地を越えて山陽方面へ、あるいは中国縦貫道を利用して中央へというルートだけでは片手落ちだ。県内需要と県内交流も、視野に入れておくべきなのである。

生活道路の工事が先行してしまう理由は、それなりに理解はできる。生活者にとって身近で目に付きやすいのは、むしろ生活道路。ちょっとした不便や不都合が気にかかる。それが解消されることは、決して嫌なことではない。工事に関しても、地元の土木建築業者への発注なので、素早く遂行できる。生活者、業者ともに選挙民だから、選挙対策としても手っ取り早い。

一方、市町村を横断する幹線道路となると、それぞれの地元の事情や為政者の思惑が交錯する。工事分担の棲み分けも容易ではない。

そんなこんなで、ついついやりやすくわかりやすいことから手を付けていく。その結果、枝葉の後に幹を作ろうということになる。本末転倒である。

公共事業には地元の様々な利権や損得勘定が絡みやすく、なかなか理想論では進まないとは考えられるが、幹線道路の整備は、必要なことのように僕には思える。

従姉妹の話を聞きながらそんなことを考えていると、話題は微妙に変化。障害者支援事業としてスタートしたらしい“エリンギ栽培”の話になっていた。

事業としての全体像までは把握し切れなかったが、大いなるミスを犯している事だけはすぐにわかった。 ‥つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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