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脳卒中(脳出血、脳梗塞)患者は、いかにしてリハビリテーション病院を選ぶか?!‥‥厳しい選択‥②

脳卒中の死亡者数は減少したが、生き残った人たちの問題が浮上してくる。

比較的高齢者が多いとはいえ、脳卒中発症者の5年以内の再発率30~40%、7年後の生存率は50%である(もちろん、脳卒中発症は生活習慣に起因していることがほとんどなのに、病後に生活習慣が戻ってしまう患者が多いのも大きな要因だが‥)。しかも、ほとんどの場合、なんらかの後遺症を抱えることになる。生活改善をしつつ、継続的に通院もしなくてはならない。となれば、支える家族の負担は大きい。

一方、現在寝たきり介護を受けている人約40万人の、寝たきりとなった原因の約30%が脳卒中。介護による家族の負担は、経済的にも肉体的にも計り知れないほど大きく、社会的な問題としても深刻さを増している。

介護保険は、国民皆保険を標榜してきた日本の保険制度が危機に瀕していることを意識しつつ、介護の負担を新たな保険制度で補っていこうとスタートしたものだと思われるが、介護の負担を軽減する近道は、“要介護”の人をできるだけ減らす、ということにもある。

そこで重視されることになったのが、“回復期リハビリテーション”なのだと、僕は思う。

そして、だからこそ、回復期リハビリテーション”においては、“歩けるようになること”が重視される。つまり、寝たきりからの脱却である。(‥もちろん、それでいいのだが‥)

しかし、多くの問題を内包したまま、回復期リハビリテーション重視の医療体制は組まれていったような気がしてならない。

前提条件として、回復期リハビリテーションは、地域医療の充実と両輪で行われるべきことである。なぜなら、歩けるようになることだけでは本質的な問題解決にはならず、患者本人は継続的な通院ないしは在宅リハビリテーションを必要とするケースがほとんどで、地域医療のお世話にならざるをえないからである。

地域医療が充実しているとは言いがたい状況下で、回復期リハビリテーションの重視と地域医療の充実という二つの大きな問題を同時進行で解決していこう、とする方針には、素人の僕でさえ大いなる無理を感じる。

さらに、リハビリテーションの現場(患者にとっては、これが最も重要なのだが‥)が、いかにも急ごしらえにならざるを得なかったことも、問題点として挙げられるだろう。

リハビリテーションを必要とする人は、脳卒中発症者のみではない。あらゆる診療科からやってくる。したがって、リハビリテーション科は、それらすべての人を受け止めざるを得ない。であるにもかかわらず、日本のリハビリテーション科の歴史は浅く、専門医の数も不足している。回復期リハビリテーション病棟の運営には、本来専門医の存在が不可欠だが、中には専門医不在の病棟もあると聞くくらいだ。

何しろ、2002年度で、全国に800名強。その後、急激に増えたとはいえ、現在約2000名のリハビリ医では、全国150万人(しかも、増え続けている)の脳卒中患者だけでも手に余るはず。しかも、リハビリ医の多くは、リハビリ医のニーズが高まってから試験を受け資格を取ったというもの。リハビリテーションの現場経験を積んできた医者とは言い難い。リハビリ・マインド(患者と向き合い、その生活ニーズにまで踏み込んでいこうとする意識)に富んだ人ばかりとは思えないのである。‥‥リハビリ医の中にも、そのことを問題視している人がいる。

入れ物(専門病棟)はできていくが、中身は覚束ない、ということになっていかざるをえない状況とも言えるのである。したがって、リハビリテーションの現場は、どうしても療法士にお任せになっていく。致し方のないことである。なにしろ、日本は“リハビリテーション創成期”である。

ところが、ここにも大きな問題が横たわっている。  ‥‥つづく

*リハビリ医になった医者の多くは、元々別の診療科の医者だったようだ。ということは、リハビリ医が増えた分だけ他の診療科の現場から医者が消えていることになる。

自分の時間がもてない、医療過誤問題で訴訟に巻き込まれることが増えている、人の命に関わり続けることのストレスが大きい、など、真面目な医者ほど厳しい環境におかれていることを考え合わせると、自由度が高く緊急性も低いリハビリテーション科に移りたいとする医者が多くなることは頷ける。しかし、それはそれで、患者の側も配慮を欠かさないようにしなければならない問題だ、と僕は思う。医者にも暮らしはあるのだから‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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脳卒中(脳出血、脳梗塞)患者は、いかにしてリハビリテーション病院を選ぶか?!‥‥厳しい選択‥①

脳卒中の患者数は、現在約150万人。ここで言う患者とは、脳卒中を発症し命をとりとめた人(一般にこう言われているようだ‥‥疑問だが‥)。その数は、一説によると、2020年まで増え続け、ピーク時には約290万人に及ぶという。

発症している人は、毎年25万人以上。その内、約10%が脳出血。約90%が脳梗塞ということだ。死亡者は、毎年12万人以上。日本人の死因の第3位だ。知識や予防法、治療法の浸透で減ってきている(かつては、1位だった)とはいえ、まだまだ多い。

ただ、死亡者数は減ってきているとはいえ、問題は多くの発症者が後遺症を抱えることになることだ。

脳梗塞は、脳の血管に血栓が詰まり、血流が途絶えることにより、脳細胞が損傷を受けるもの。

一方、脳の血管から出血し、凝固した血によって脳細胞が損種を受けるのが、脳出血。

一般に、脳出血の方が、重篤な症状になるケースが多いようだ。

ただいずれも、損傷を受けるのは脳細胞。身体のあらゆる司令塔が集積している場所であり、再生することのない細胞であるため、損傷を受ける場所によって、様々な機能を失うことになる。

‥‥<僕は、脳出血で左半身不随となった。舌まできっちり左半分が麻痺し、左側では今でも味がはっきりとはわからない。のどちんこが左半分麻痺しているのを発見した時は、大笑いしてしまった。念の入ったことだ、と思った。

出血は大量ではなかったが、少量だけに気付くのが遅かった。酔っ払っているのだと思っていた。Kapparが異変に気付いてくれるまで、おそらく5時間以上は経っていたと思われる。場所は、右の視床の辺り。ということで、左の運動機能の多くをいきなり失った。

出血痕は、直径4cm。予想される後遺症の重さは、“中の上”と言われた。何がどうなり、どの程度回復するのか、皆目見当もつかなかった。>‥‥

したがって、脳卒中そのものは、血流の回復あるいは止血によって終わるが、その後は失った機能の回復を続けることになる。リハビリである。

脳卒中の回復期は、発症後約半年と言われている。どこまで何が回復できるか、は定かではない。また、半年以降は回復不能、というわけでもなさそうだ。

ただ、できるだけ早く、回復期間中にリハビリに取り組んだ方がいいことは間違いないようだ。

しかし、日本のリハビリ環境は遅れている。なにしろ、回復期リハビリテーション病棟が創設されるようになったのが2000年。介護保険制度の施行や医療保険が利用可能になったことがきっかけだと思われる。

専門学校や大学で、理学療法や作業療法のプログラムが増え始めていたのは90年代後半だが、需要が生まれたことで、それにも拍車がかかった。

要するに、今のリハビリのシステムは、ほとんど2000年以降、ここ10年でできあがっていったものなのだ。

リハビリテーション学会は、2000年以前からあったが、具体的な進展をしていたようには思えない。リハビリ先進国アメリカとの環境やノウハウの差異を確認・研究していただけのように思える。

まさに、需要なくして市場は生まれない、のが医学会。脳卒中の治療の進歩で生き残り、リハビリを必要とする人(患者)の増大、保険制度の変化によって、リハビリ環境は急激に整備され始めたのである。  ‥‥つづく

*脳梗塞に関しては、血管を詰まらせた血栓を溶かす薬が開発され、3時間以内に点滴投与されれば完全回復の可能性が極めて高くなった。ただ、すべての病院に配備されているわけではないようだ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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敗戦記念日とVANの倒産‥‥①

*CVS物語(番外編)をちょっとお休みして、敗戦記念日に想うことを‥‥。

真夏の陽射しと蝉時雨で必ず思い出すのは、小学校~中学校時代の夏休み。そして、高校野球、原爆、太平洋戦争である。

親父は学徒出陣。古参兵の苛烈な苛めに遭い身体を壊し、心やさしい小隊長の配慮で広島の陸軍病院に入院。病状がよくなったからと転院して間もなく、原爆投下。命を永らえ、島根県浜田市の親戚に身を寄せて、教職に。従姉妹と結婚して、やがて一男をもうけた。それが、僕である。*その頃のことは、以前本ブログで書いた。

僕が生まれたのは、昭和24年。少年の頃は、まだ戦後が色濃く残っていた。生まれ育ったのがこじんまりとした歓楽街だったこともあり、夜は往来から酔客が高唱する軍歌が流れ込み、昼に大人たちから聞く話には戦中の苦労話や理不尽な国(上官)からの命令に絡む話が多かった。

中でも、シベリヤから復員した叔父の抑留生活の話は、小学校入学前の少年にはあまりにも強烈で刺激的だった。

犬はご馳走だった。虻は甘かった。鼠や蛇は、みんなの好物だった。膠を煎餅のように食べた。少量の小豆の数を数えながら取り分ける正月の善哉は、手元に来ると凍っていた。壁に頭をぶつけ始める仲間がいた。‥‥‥。一つひとつ場面を想像しながら、正座した膝に両手を乗せて聞いていた。

以来、ずっと、なぜそんなことが起きたのか。なぜ、そんなことにならなくていけなかったのか。僕の頭には、大きな疑問と怒りと悲しみが巣くっていたように思う。そしてそれらは、夏休みになると、報道やお盆の行事に連れられて大きく頭をもたげてくるのだった。

やがてそれら、疑問、怒り、悲しみと向き合うようになったのは、中学生になってからだった。きっかけは、親父が契約した“図説国民の歴史”というB4サイズ程の配刊本が届き始めたことだった。

図説と謳っていることに恥じない豊富な写真、中でも太平洋戦争の写真資料には、想像の中にあった戦争の実体を見せつけられた。奇妙に明るいもの、正視に耐えないもの、涙なくしては見られないもの、‥‥‥。食い入るように見つめ、繰り返し読んでいる僕を止めることもなく、「戦争、どうだ?」と時々聞いてくる親父に、当初、僕は言葉を返すこともできず、いつも「ん~~~~」と唸るだけだった。

しかし、ある頃から、親父は逆に、僕から質問攻撃を受け続ける羽目になった。すべて、シンプルな質問だった。シンプルな質問しかできなかったと言うべきかも知れない。

大将某、作戦参謀某の写真を指差しながら、「ねえ、この人生きてるの?」「ああ、その人は生きてる」「なんで?」「命令する側だから」「なんで?自分の命令でたくさん死んでるのに?」「‥‥」

行軍の列を撮った写真を示しながら、「失敗だったんだよね。この作戦」「何?」「インパール作戦」「最初からな」「なぜ、途中で止めなかったの?」「止められなかったんだ」「なんで?」「‥‥」

水杯を交わす特攻隊員の写真を見せながら、「誰が決めたの?特攻やらせようって」「誰かはっきりとはわからん」「決めた人や行かせた人は生きてるの?」「きっとな」「なんで、生きてられるの?」「‥‥」

図説国民の歴史を閉じ、ケースに入れながら、「万歳突撃って、攻撃してないよね」「そうだな。集団自殺だな」「戦ってるのに、なんでみんなで自殺なの?」「負けることがわかってるからだ」「なぜ、負けました!って降参しないの」「降参はしないことになってたんだ」「なんで?」「‥‥」

そんなことを繰り返している間に、僕の中に巣くっていたものの姿が少しずつ鮮明になっていくようだった。僕は、太平洋戦争のことを見聞きすると、強い怒りにとらわれるようになっていた。ぶつける対象がはっきりとしない怒りだった。だからこそ、やるせない怒りだった。それはおそらく、親父の「‥‥」に封印されたものと同質なものだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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CVS(コンビニエンスストア)物語④-救世主“コンビニ弁当”の登場!

個店販促の有効な方法論も見つからず、既存店の売上低迷に悩んでいたCVSチェーンに、救世主が現れた。‥“弁当”である。

それまでの、コンビニらしいチルドや冷凍を主体としたメニューに調理弁当を加えたところ、これがヒット。瞬く間に売上の核となっていった。コンビニ弁当が売れ始めた頃のランチ予算が平均6~800円程度(男女で違った)。昼休みに通える店もそう多くなく、同じ時間帯に集中しがちなため、ランチ難民になりがちだったサラリーマンとOLにとっても、5~600円台で温かく食べられ、購入に手間取らないコンビニ弁当は、お昼の救世主だった。

慢性化している競合状況もプラスに働いた。各社の、競合他社と差別化するための新商品開発が、日々弁当を必要とするユーザーの刺激策にもなっていたのだ。

しかし、いくつかの問題がやがて生じてくる。まず問題視されたのが、添加物。味覚障害を持つ人が増えたのはコンビニ弁当のせいだ、とまで言われたりした。ampmなどは、セブンイレブンに対抗し、冷凍にこだわった展開をして“私たちの弁当は、安全です”とアピールしていた。

ところが、もっと大きな問題が生じてきた。弁当専業各社の攻撃である。オリジン弁当などは、盛業のコンビニの近くに出店するということを明確に出店戦略の基本においていたくらいだ。

同じエリアの同じターゲットの同じニーズを奪い合うわけだから、売上は落ちていかざるを得ない。しかも、弁当専業店は、キッチン併設。味と鮮度では勝てない。おまけに、価格もコンビニを下回るゾーンで設定してある。とにかく、分が悪い。企業力で対抗せざるを得ない。タレント弁当、旬の素材(スーパー系だからお手の物)弁当など、話題性や新奇性で対抗する策が採られた。

何しろ、セブンイレブンなどは、売上において既に親会社イトーヨーカドーを抜き去り、ヨーカドー・グループを支える存在。ライセンシーとの不平等条約のおかげで、利益体質も揺るぎない(もっと凄いのは、楽天だが‥)。コンビニ・ビジネスがうまくいくかどうかは、グループ全体の財務体質に影響を及ぼす問題なのだ。

おまけに、力のあるライセンシーの反乱も起き始めた。力のあるライセンシーの力の根拠は、顧客サービス、顧客管理のノウハウと在庫管理、店頭管理の能力。要するに、しっかりとした“独立性を持った小売店”だから、本部と交渉する覚悟も力も持っている。明治維新から数年経ったの日本のようなものだ。不平等を改善しようと、自ら動き始めた。訴訟も起きた。結果は、本部の敗訴。*数年前、東北で起きていた‥はずである。

そこにやってきた金融恐慌である。ユーザーの弁当ニーズは、手作りへと大きく傾いていく。健全な傾向なのだが、コンビニ、特に本部にとっては不都合な傾向である。で、採ることになったのが、低価格化作戦。この価格だったら、わざわざ作る手間を省いて買った方がいいんじゃないですか?作戦である。

しかし、これは明らかな消耗戦。なぜなら、安くなったからといって、食べる量は増えないからである。売上増に大きく貢献できる作戦ではないのである。

さらに追い打ちをかけたのが、排除命令。不平等条約に支えられた本部の利益は大きく、その分ライセンシーが苦しんでいるわけだから、当然のことだと思うが、この一歩は大きい。

約50%のライセンス料を払っているのに、廃棄した弁当の仕入れ金額にもライセンス料がかかるとあっては、ライセンシーの負担は大きすぎる。

あちこちで起きている低価格合戦(余分なものとゴミが多いような気もするが‥)。この、世を挙げての消耗戦市場が落ち着いた時、コンビニの弁当市場とコンビニのあり方、つまりはコンビニ・チェーンのビジネス・モデルが、ライセンシーも一緒に幸せになれる方向に落ち着いていればいいなあ、と願うばかりである。

     元禄寿司は、ちょっと変わったフランチャイズチェーンだった。そのことを、次回に。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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