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情報不足?!脳卒中とその後。③‥障害者基礎年金

突然事故に見舞われたように襲ってくる脳卒中。

いきなり襲われるのは肉体だけではない。会社員や公務員ではない限り、経済的困窮にも襲われる。

無論、会社員であるからといって安穏とはしていられない。会社は、病に倒れた人材を、そんなに長くは待ってくれない。無事退院し、多少の後遺症を抱えつつ復帰しても、仕事の現場では同情など瞬く間に掻き消え、“不必要”“邪魔”といった空気が漂い始める。社内制度で保障される期間を過ぎれば、苦しい判断を迫られることになる。組織というものは、突然できた穴は、たとえそれが大きなものであっても、自然に埋め尽くし補正してしまうものだ。

懸命のリハビリで脳梗塞から復活!などというニュースや美談をよく耳や目にする。マスコミは、ハッピーエンドや奇跡や美談しか扱わない。が、その陰に隠れた多くの厳しい現実の方が、はるかに“現実”だ。

ダメージを受けた脳細胞の場所と量によって、脳卒中の症状は変わる。完全な社会復帰は、症状が軽い場合に限定される。多くの脳卒中患者は、後遺症に苦しみながら、病後の生活を送っている。そして、経済的な問題は、病後も形を変えて続くのである。

入・退院とリハビリ、そして、ままならない社会復帰と病後の暮らし‥‥。それを支えていくためには、いくらくらいの蓄えがあればいいのか‥‥。

脳卒中発症者とその家族の、暮らしの根幹に関わる情報は、世の中にはない。あまりにも“生っぽい”せいか、マスコミは取り上げない。ベストセラーになる種類のものではないので、不況にあえぐ出版社がノウハウ本を発行することもない。

僕自身、麻痺が残る左半身の、日常的にざわざわとする不快感や雨や寒さに影響されて起きる痛みよりも、その暮らしの根幹に関わる問題の方が気になり続けていた。

そして、脳内出血発症から2年と少々。靄が少し晴れてきた。なんとか暮らしていけそうな気がしてきた。

発症以前はもちろん、発症後も、その存在さえ知らなかった「障害者基礎年金」、「障害者手当」。友人の尽力のお陰で、その二つが支払われることになったのだ。

僕は、痛感した。病気とその後の生活に関わる費用について、いかに知識不足だったか。各種保険、社会保障制度にいかに無知だったか。

知っておくべき事柄である。知っておけば、精神的ストレスは間違いなく軽減される。そして何よりも、経済的に大いに救われる。

‥‥。このことについて、もう少し触れてみたい。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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情報不足?!脳卒中という病気とその後。②

真屋順子さんと大島渚監督のTVドキュメンタリーでは、真屋さんのご主人高津さんの言葉と大島監督の言葉が象徴的に使用されていた。

高津さんの言葉:「新しい回路を見つけようね」(真屋さんに語りかけた言葉)

二度目の発症後、リハビリの経過が思わしくない妻真屋順子さんに、これから二人で生きていくための姿勢を語った慈愛に満ちた言葉だ。共に歩んでいこうという、愛情に裏打ちされた強い意志がある。

大島監督の言葉:「これからは、周囲の人間にとって風のような存在になりたい。爽やかな、心地よい風のような‥‥」(ご本人の手になる文章‥原文のままではないかもしれない)

自立して生きていくことができない存在であることを痛烈に意識しつつ、人の存在に意義があるとすれば、周囲の人(特に、身近な人)に何をもたらすことができるかということにあると考えた挙句の言葉であろう。邪魔にならず心地よい、そして、存在を自己主張しない風、‥‥。今の大島監督の境地そのもののように思える。

前者は介護する側、後者は介護される側の言葉。ではあるのだが、介護する側の人の努力があってこそ、介護される側の意識も開放されていくことに変わりはない。

以前、本ブログで「介護される側の論理」に触れたが、それも介護(あるいは支援)あってこそのもの。障害を持つ者が、一人で生きていくことは、決してたやすいことではない。

風は空気に外的力が作用して生まれ、外的力の強弱によって、そよ風から烈風まで、その姿を変える。自ら姿を選べない風が、心地よいそよ風でいることができるのは、外的力がやさしく作用しているからに他ならない。大島監督が行き着いた境地は、妻の小山明子さんと共に辿り着いた境地なのだ。

そんなことを思いながらドキュメンタリーを見ていたら、涙が流れてきた。しかしその一方で、いつもの疑問も頭をもたげてきていた。

「経済的には‥‥?時間はどうやって作っておられるのか‥‥」

人に何かをしてあげようとすると、お金がかかる。してあげたいと思えば思うほど、お金は必要になってくる。そして、必要なお金を得ようとすれば、時間を必要とする。介護や支援に必要な時間を割かざるを得ない‥‥。幼児保育と同じだ。

そこが、知りたい。 と、思った。

          つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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情報不足?!脳卒中という病気とその後。①

真屋順子さんと大島渚さんが、相次いで地上波のドキュメンタリー番組で取り上げられた。いずれも、TVのドキュメンタリー番組で僕がお見かけするのは、2回目。

舞台で脳出血を発症した真屋順子さんは、夫で俳優の高津住男さんの大いなるサポートを受け、麻痺の残る身体で舞台復帰をされていた(そのことは、以前ドキュメンタリー番組で拝見していた)が、残念なことに再発。改めて、車椅子のままの舞台復帰を目指しておられる。

大島渚さんは、確かヒースロー空港で脳出血に倒れられ、妻の女優小山明子さんの介護の甲斐あって監督復帰をされたものの、再び病(脳出血ではなかったと思うが‥)に襲われ、車椅子生活を余儀なくされている。

番組は、いずれもほぼ同じ視点で構成されていた。「苦難を乗り越えて到達した、新たな夫婦愛の形」とでも言おうか、マスコミお得意の“美談”や“成功譚”の作りである。

しかし、2年前同じ病気に倒れた僕には、一つひとつのエピソードや、画面の中のお二人とその伴侶の一挙手一投足と、その裏に隠された語られざる軌跡や努力が、響き伝わってきた。

几帳面さや涙もろさを克服し、より力強く、男らしく生きていかねばと10代の頃から意識し、一枚一枚皮膚の上に貼り付けてきていた虚勢が、病気を契機に一気に剥げ落ちてしまった僕は、ほろほろと涙しながら、食い入るように見入っていた。

出た言葉は、ただ一言。支える夫や妻の、苦難を乗り越えた後の透明でおおらかな、慈しみに溢れた言動に対するものだった。‥‥「えらい!」。

しかし、見終わった後に、小さなわだかまりも残った。

マスコミを通じて“美談”や“成功譚”を見たり聞いたりした時にいつも感じる「途中経過をきちんと教えて~~~!」という不満に似ていた。そして、具体的だった。

経済的な背景が見えないこと。そのことに、わだかまりのすべては収斂されていった。それは生っぽく、番組制作者には避けて通りたいことに違いないが、病気とその後に最も大きく関わる現実である。

そんな時間はどうやって?そこに行くにはどんな手段で?で、その費用は?と、一つひとつ気にかかって仕方なくなっていた。

‥‥。11月初旬。そんな気分の僕に、一通の文書が届いた。ちょっと、目の前が開けた‥‥。

             つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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スーパー、東西の戦い。大将(経営者)の差異。

ダイエー、イトーヨーカドー、ジャスコ(イオン・グループ)を、競合するGMSチェーンとしてみるならば、その優勝劣敗は決着が付きつつあるように思えるが、それはそれぞれの出自、すなわち経営者の志向性に因るところが大きいと思われる。

またそれは、中内氏、伊藤氏、岡田氏、それぞれの性格と、いかにして巨大企業の経営者へと成長していったか、ということと決して無縁ではないように思われる。

一言で表現するならば、

中内氏は、安売り王を追及している間にスーパーという業態を学んでいった経営者。

伊藤氏は、スーパーという業態を学んでから、スーパーの効率経営に乗り出した経営者。

そして、岡田氏は、アメリカ型の金融資本主義型企業経営を学んでから、スーパーを核とした企業グループの運営に乗り出した経営者。

と言える。それぞれの性格と志向性の差異がはっきりと窺える。

中内氏は、言わば“たたき上げ”。伊藤氏は、“職人”。岡田氏は、“プロデューサー”といった表現で評することもできるかもしれない。

中内氏の上昇志向は、東京進出、デパート経営を最初の大きなゴールとしていたと思えるが、東京本社、銀座プランタンの二つがそのゴールであり、かつ崩壊のスタートでもあったのは、いかにも“たたき上げ”を象徴するかのような皮肉な結果である。京の都を手中に収めた時から滅亡のカウントダウンが始まる権力者に似ていなくもない。

伊藤氏は、単品管理という手法(当たり前の手法だが、その徹底振りには驚嘆せざるを得ない)によりスーパーの効率経営に成功するが、そのノウハウはむしろコンビニエンスストアの経営に適していたとも言える。その結果、子会社であったはずのセブン・イレブンの売り上げがイトーヨーカドーのそれを上回ることとなった。そして今や、出店が一巡したために近年売り上げが頭打ちだったセブン・イレブンは、セブン銀行の拠点、医薬部外品の販売開始、タバコと“気兼ねついで購入”といった追い風もあって、単品管理の弊害を克服できないまま低迷を続けるイトーヨーカドーに替わって、IYグループの主役になろうとしている。生活者にいかに近づいていくかが、流通の生き残り戦略の核となることを証明するかのような事態である。

岡田氏は、2代目。創業者ではなかったように記憶している。そのことが、安売りやスーパーという業態にのめり込まず、客観的に経営的見地から見つめるスタンスを作り上げたのだと思われる。スーパーの勃興期に、数々の栄枯盛衰を冷静に観察できたことも幸いした。おまけに、その一つひとつを取り込む判断もゆっくりとできた。経営するのではなく経営管理をする、という立場に徹していったのもイオン・グループの成長を促す大きな要因だったであろう。ただ、プロデューサーの真の手腕が問われるのは、むしろこれから。多くの外様大名を束ねつつ、グループに向かうべき確かな方向性を示し続けるのは、たやすいことではない。急激な成長を続けている時は、内在する問題は顕在化しないものである。次の成長に向けてひと息ついた時、“本能寺の変”は起きるものだからだ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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秋の宴会!VAN、IVY、家庭教師、リハビリ‥‥。

秋の宴会、無事楽しく終了!25人分の料理(和洋8種類のメニュー)をほとんど一人で完成させたKapparも、最後には少しくつろぐことができた。(‥どんなメニューだったかは、Kapparのブログでやがて紹介されるかも‥)

御年78歳の穂積和夫さんが一番乗り。最近とんと目にしなくなった“ハリスツイード”のジャケットが決まっていた。様々な職業の友人たちが続々とやって来る中に、今回は懐かしい顔が二人。一人は、VANの新入社員時代に家庭教師をしていた男の子(当時暁星高校3年生)。今や50代で、本人の希望していた歯科技工士として仕事をしている。約10年前に知り合ったTさんと話していたら、なんと彼とその男の子は同級生だったことが判明。同窓会での久しぶりの再会の後、連れて来られたのだった。

もう一人は、初台リハビリテーション病院で同室だった、言わば病院の後輩。レコード会社で働く40代初頭の男性。僕の入院一ヶ月後に隣のベッドにやってきた彼を襲ったのは、脳梗塞。当時の僕には軽そうに見えたが、退院以来続く後遺症との苦闘は、僕よりもきつそうに思えた。

谷敏夫さんが披露するVAN創生期の話を楽しみ、勉強を真剣に教えない家庭教師の話を他人事のように聞き、ボタンダウンシャツやブレザーへのこだわりを披瀝し合ったり‥‥。

長い付き合いの友人や知人との楽しい時間の中で「脳卒中の後遺症」の話をしていると、自分の歴史の中に刻まれる事実の一つとして受け止めているような気分になる。

Sさんの、僕の左手と同様、何をするわけでもないのに握りこみ、握ったらなかなか離そうとしない右手との付き合い。あやふやでなかなか蘇ってこないという脳梗塞発症前2年間の記憶。‥‥。

自分を自分のコントロール下に置くことができない不便、不都合、不快は、場所やパターンは異なろうとも脳卒中患者共通。重さや軽さではないことを改めて痛感した。

そんなSさんにも、宴会は楽しんでいただけたようだ。無理せずに‥。と他人には言えるが、ある程度無理をしないと社会生活には同化できない。せめて、時には楽しみましょう!

また、次回も‥‥。とはいえ、Kapparの負担軽減も考えなければ‥‥。楽しさや安寧は、誰かの苦労の上に成立し続けることはできないものだからねえ‥‥。

あ!また、写真撮り損ねた~~~~。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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