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スーパー、東西の戦い② ……ジャスコ参戦

共にチェーン展開で全国制覇を狙うダイエーとイトーヨーカドーには、大きな戦略の違いがあった。ダイエーは“拠点攻略型”、イトーヨーカドーは“エリア攻略型とでも言うべき”戦略。ダイエーがここぞと決めた人口集積地域の中心部を集中爆撃。既存市場の“攻略”を図っていったのに対し、イトーヨーカドーはここぞと決めたエリアを絨毯爆撃。エリア市場を“制覇”しつつ、 順に勢力を不動のものにしていくことを目指した。

先行し、優位に立っていたダイエーに対抗するためには、イトーヨーカドーの“郊外幹線道路沿い大型店”主義による、直接対決を避けた出店戦略と、そのメリット(出店が容易)を活用した早期市場制覇作戦は、正しい選択だったと思われる。

それは、統制された組織力があってこそ展開しうる作戦であり、イトーヨーカドーが、中内功という強烈な個性に依存しているダイエーとは異なる路線を目指していることを示すものだった。

イトーヨーカドーの戦略は、功を奏した。全国制覇には時間のかかる戦略だが、エリアを着実に手中に収めることには見事に成功した。そしてそのたびに、企業としての体質を強固なものにしていった。エリア単位での運営・管理はダイエーの大阪一極集中管理より効率がよく、エリア単位に責任者を配することで個店経営と企業(チェーン)経営の整合性を維持することも容易だった。なぜなら、マニュアルの完備した組織的な作戦展開により制覇・獲得した市場は、その作戦に携わった責任者たちに管理させることでスムーズに征服から経営に戦略移行できるからである。

かつて、総合商社の特徴を表わす時“人の丸紅/組織の三菱”という言い方があったが、関西には個性が現れ、関東の組織と対抗するという伝統があるようだ。個性が組織まで手に入れると、組織力を誇る勢力ともしばらくは拮抗できるが、多くの場合、強すぎる個性は組織を作っても突き破ってしまうことが多く、個性の力に陰りが見えてくると同時に組織のほころびも目立ち始め、遂には敗れ去って行く。ダイエーもまたしかり、だった。

エリア毎に着実に実績を上げながら進めて行くイトーヨーカドーの拡大戦略は、借入金の負担が徒に増大する危険性を回避することにつながるが、競合が存在する場所への強気な出店・攻略というダイエーの戦略は、多大なコストを必要とする一方で実績が上がるまで時間を要し、金利負担が大きい。やがて、イトーヨーカドーは、金利負担の大きさに次第に体力を奪われていくダイエーが倒れていくのを、ただ眺めているだけでいい状態になっていった。

組織も人材も育てることなく、“巨大な個人商店”中内功ダイエーは、消えて行った。そして、スーパーの戦いは次の局面へと展開しつつあった。

東西の狭間、中部地方から次第に勢力を伸ばしてきていたジャスコ、今のイオン・グループの勃興だった。

     ダイエーが銀座にプランタンをオープンした時に、“これで終わりだなあ”と思ったのを思い出す。関西の財界人が東京進出を派手に敢行したり、ステイタスの高い(スーパーの経営者にとっての百貨店)ステージへ踏み出したりした時は、劣等感が作り出す過剰な自負心が判断を狂わせがちで、えてして、したり顔でアドバイザー風を吹かす輩にも騙されやすい。かくして、一花を咲かせるつもりが、最後のアダ花となってしまうことが多くなるのである。

(*     あくまでも、すべて僕の解釈です。)      ……つづく

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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脳出血。失ったもの、得たもの。

いつもより特別に多くもらったお小遣い、50円玉1枚を大切に握り締め、大切に握り締めたあまりに手の感触がなくなり、いつの間にか落としてしまっていたお祭りの夜。買えなかった夜店のおもちゃと引き換えに、大切なものを大切にし続けるためには適度な距離が必要だということを、僕は学んだ。…………はず…だった。

脳出血を発症、左半身不随の状態で初台リハビリテーション病院にリハビリのために転院した約2年前。忙しいリハビリ・スケジュールの合間、ベッドから窓外の空の色が変わっていくのを日々眺めながら、大切にしていたもののことを漠然と想っていた。モノは思い浮かぶことさえなかった。思い浮かぶのは、大切にしていたヒト達と共に過ごしたシーンばかり。ゆったりと過ごす時間が、大きく笑い合う時間が、お酒を酌み交わす時間が、そして、時には真剣な討議の時間が一瞬のシーンを切り取るように思い出され、どれもこれも懐かしかった。すべて失うか、関係の希薄になったシーンばかりに思えた。

そして、気付いた。大切なものの近くにいることばかりを想い、欲張り、手に溢れそうな状態だったことに。そのために、あくせくしていたことに……。小学校5年生の時に学んだことは、まったく身に付いていなかった。

それから、約2年。失ったと思ったものの多くは、元々得てさえいなかったのだということにやっと気付き、本当に穏やかな気持ちになることができたような気がする。

発症以来沸点の低くなった喜怒哀楽は相変わらずだが、それも穏やかさの証。これから考えていこうとしていることは、明らかに以前とは趣も異なってきている。ゆっくり、急がず、結果を追い求めず、支えてくれる人達への感謝を忘れることなく、考えていこうと思う。

……といった日々だなあ、と噛み締めていたある夜。確実に失ったもののあることが、突然判明した。それは、………僕の大切なプリン1個!

僕は、“尻自慢”だった。プリンとしたお尻を「ほら、ほら、触って~~~」と突き出し、追っかけては嫌われるほどだった。「かわいいプリンちゃん!とお呼び!」と要求し、呆れらりたりもしていた。

その大切な、自慢のプリンの左の1個が、どうも消滅してしまったようなのだ。左半身を使えないのだからやむをえないとはいえ、ガッカリ!である。

しかし、それも50円玉と教訓を引き換えにしたように、穏やかな時間との引き換えならいいとしよう、と思う。今度は、教訓を活かすことも忘れないように……。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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生産者が王様だ!

僕は、島根県浜田市で生まれ、小学校6年間を5つの学校で過ごした。すべて、島根県西部。中国山地奥深い山村、中国地方最大の川・江の川の中流にある商業や林業の中継点の町、日本海に沿って走る国道沿いの半農半漁の町と転校を重ね、6年生になってやっと風土に恵まれた益田市に落ち着き、幸せな中学時代~高校時代をそこで過ごした。

肺結核を病み、休職・離婚。山中の分校から教職に復帰し・再婚。次第に大きな中学へそして高校へと異動していった親父にくっついての転校だった。

僕はどこに転校して行っても、いつもいつまでも余所者のままのようだった。僕が教師の息子だということを始めいくつかの原因を考え、僕はそれを何とか乗り越えようと努力した。余所者のままでいるのは、なんとも寂しいものだったからだ。だが、その努力は、時として友人たちの目にはあざとく映り、またある時は嫌味にさえ思えてしまうもののようだった。僕は、心の片隅にうずくまる“仲間に入れない”という想いが劣等感に育っていくのを、ただ見つめるばかりだった。……。

そして十数年前。僕の中で育ちきってしまっている劣等感に、今まで気づかなかった側面のあることを発見した。目からうろこの気分だった。

僕の周りには、ほとんど給与生活者の子供がいなかった。僕の周りにいたのは、生産者、自営業、職人の子供たち。中でも圧倒的に多かったのが、生産者の子供たちだった。生活に直結した仕事に就き、それぞれが専門の知識やノウハウを持ち、生活費を自ら稼ぎ出している人たち。額に汗する人たちの笑顔や嘆きや怒りは、いつも生き生きとしていた。そして、その営みの一角を担う貴重な労働力とみなされていた子供たちが叱咤されながら立ち働く姿は眩しく、羨ましかった。そして、眩しく見つめているだけの自分が、とても情けなく思えた。

育てる、作る、売る……。それこそ、まっとうな営み。それだけで人の社会が運営できていくとは思わないが、社会基盤を形成する営みには違いない。そこに関与できずにいると、どうも後ろめたい。………という感覚(価値観)が、僕の中に根付いたのは少年の頃だと気づいた。

それからである。生産者や職人の側で役に立つ仕事がしたい、と強く思うようになったのは。60sFACTORYの、原動力はそんなところから生まれたのだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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スーパー、東西の戦い

ダイエーは、大阪~京都間、京阪電鉄千林駅商店街で生まれた(…はず)。“主婦の店ダイエー”という薬局が、その起源(…のはず)。時あたかも高度成長期。銀行も成長が見込めそうな企業には惜しみなく融資をしていた時代。商品も“あればいい”時代から、比較購買され始めた時代。ダイエーは安売りで人気を集め、急激に業績を伸ばしていった。

ただ、昭和48年に制定された大規模小売店舗法(通称:大店法)の規制を受けたため、当初は商店街との共生を考慮した出店が多かった。駅前から商店街を抜けていくとダイエーがあるといった立地が多かったのは、そんな理由からだったと記憶している。小規模の商店は、法律によって守られていたのである。そのことが、後々商店街の衰退を早め決定付ける要因ともなるのだが……。

それでも、現在では中途半端と言える売り場面積の店を標準店舗として、ダイエーの出店攻勢は続き、あれよあれよという間に巨大チェーンへと成長していった。そこに対抗勢力として出てきたのが、イトーヨーカドーである。

イトーヨーカドーは、ある意味では極めて日本的な成長過程と体質を持ったダイエーに対して、アメリカの大型スーパーの展開ノウハウを日本に移植するという方法論で対抗。ダイエーが関西を基盤に、西日本で圧倒的な勢力を持っているのに対し、東日本で一気に勢力を伸ばしていった。

その戦略とは、郊外の幹線道路沿いに広大な土地を取得、広い駐車場に隣接した低層階の大型店を開発し、規制を受けず、既存の商店街とも無縁に、独自の独立した商圏を形成しようというもの。ニューファミリー層の急増とモータリゼーションの進行、それに伴うライフスタイルの変化、特に購買行動の変化を郊外型大型店舗で受け止めようという魂胆。まさに、“クルマ利用の週末大量買い込み”というアメリカンライフスタイルを提案するものだった。この戦略は、まんまと消費者ニーズと合致した。しかも、幹線道路沿いとはいえ商店街に近接したエリアよりも地価も安く、土地取得も容易だったので、瞬く間に勢力を伸ばしていった。

まるで、豊臣対徳川。スーパーの勢力地図は、ダイエーとイトーヨーカドーによって東西に二分されていったのだった。

                              -つづく-

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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GMSは、百貨店と同じ運命を辿る?!

GMS(General Merchandising Store)とは、所謂“総合スーパー”。食料品、家庭雑貨から衣料品まで扱っている、まさに“総合品揃え型”のスーパーである。それに対して、食品を中心として展開し、その他はせいぜい家庭雑貨の一部を扱う程度にとどめているのが、リージョナル・ストア。リージョナル(Regional)、すなわち“地域密着型”のスーパーである。前者に分類されるのが、イトーヨーカドー、ジャスコ、ダイエーといった大型チェーン。後者の代表選手は、関東エリアでは、OZEKI、マルエツ、三浦屋、といったところ。地域密着型だから、地方にそれぞれ存在する小型のチェーンである。

現在苦戦が続き、次々と閉店していきそうなのがGMS。逆に業績を伸ばし続けているのがリージョナル・ストア、とスーパー(量販店)業界の動向は、ここ数年固定化している。

物販よりもM&Iと、ショッピングプラザ開発とそれに伴う賃貸収入を業績の柱にしてきた感のあるAEONグループにも陰りが見えてきた。やはり、本業の業績が不調では、グループも核を失い迷走してしまうということだろう。

百貨店と同様、「ウチで何でも買ってください」というスタンスのビジネスは、もはや消費トレンドから外れているのであろう。おそらく、GMSは、一部の条件に恵まれた店とリージョナル型に近いMDへの転換に成功した店以外は、ことごとく赤字にあえぐようになるであろう。

以前書き始め中断している「百貨店は生き残れるか」というテーマと合わせて、しばらくは、このことについて語ってみたい。(時々、体調によって中断あるいはリハビリの話になったりするだろうが……)

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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脳卒中、リハビリと「Over Use」

先日、9月4日、脳出血2周年を迎えた。病気と言うより事故のような発症以来、実にいろいろな経験を積み重ねることになった2年だった。短時間に様々なことを決断しなくてはならず、その結果の是非を考える余裕さえないこともあった。そして、支えてくれる人たちのおかげで何とか立ち上がり、歩み始めて2年。初台リハビリテーション病院での集団合宿のような日々からずっと、リハビリを続けている。発症後半年までが機能回復の時期。それ以降の機能回復は、基本的にはありえない……ということを知りつつも、機能回復と言うよりも、機能維持のためにもリハビリ通院は必要だと実感している今日この頃である。

「リハビリは、嘘をつかない」というのは、初台リハビリテーション病院で何度かお見かけした長嶋茂雄氏の言葉だが、それは「頑張ってやれば、必ず効果が表れる」ということは意味しているものの、「やがて必ず、元に戻ることができる」ということを意味しているわけではない。最も誤解されがちなところである。

僕自身、「きちんとリハビリやってるの?」とか「もっと頑張らないと駄目なんじゃない?」と何度か言われ、複雑な思いに陥ったことがある。

初台リハビリテーション病院で多くの同病の方々とリハビリを共にして感心したのは、みなさんのリハビリに向かう姿勢の真面目さである。若いセラピストの指示に懸命に応えながら、なかなか指示通りにできないことを恥じ、その思いを照れ笑いに置き換えている女性たち……。淡々を装いつつも、行動や作業に向かう目線に、秘めた懸命さを感じさせる男性たち……。事故のような病気とはいえ、患うことになった責任とその結果への対処の義務を背負った人たちの静かな苦闘の姿がそこにはあった。

そんな人たちに、“もっと!”を要求してはならない。むしろ、みんな“やり過ぎ”の危険性を孕んでいると考えるべきであろう。“自主トレ”の必要性を過度に意識付けすると、「Over Use」に結び付くかもしれない、と考えておくべきであろう。

オリンピック女子マラソン代表選手の野口みづきさんが、故障で金メダルを棒に振った(僕は、最も金メダルの確実性の高い選手だと予想していた)のも、言わば「Over Use」。鍛えれば鍛えるほどいい、とするのは、言わば日本的な幻想。その考えを押し付けられ、選手生命をまっとうできなかった才能は数多いことだろう。

これ以上は難しい。そうわかっていても努力をしてしまう真面目さや懸命さに、“もっと!”は酷というものである。意外といつまでも下手くそで身に付かないのは、「上手な休息のとり方」なのである。そこまで指導してこそ、真の指導者あるいはセラピストなのではないか。つくづく思った北京オリンピックだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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親子三代、因縁の京都?!

僕は、島根県浜田市で生まれた。昭和24年。まだ戦後が色濃く残っていた。生家は、歓楽街(数年前訪ねてみたが、路地裏の風情を漂わせる一角だった)にあった。当時では珍しい鉄筋コンクリートの2階建て。1階はカフェ(僕が生まれるころには、人の手に渡っていたらしいが……)になっていて、その脇を往来からトンネル状の通路を抜けていくと右手に上がりかまちがあり、そこから二階の住居に上がれるようになっていた。通路の行き当たりは土間と台所。裏に抜けると井戸があり、小さな中庭から相撲くらいはできる裏庭へと続いていた。裏庭の奥には小さな平屋が建っており、朝鮮人親子が住んでいた。貸している、とのことだった。2階の4部屋の一つにも、母子家庭が下宿をしていた。山下君という4~5歳年上の男の子がいた。

僕は、生まれてから小学校に入学するまで、そこに暮らしていた。様々なことを経験した。断片的にたくさんの記憶が残っている。楽しく切ない思い出が詰まった場所だ。

その家の不思議な構造は、長く僕の疑問だった。1階がカフェ。戦前に無声映画の弁士からカフェの店主に転身した祖父が決めたというその構造には、何らかの理由があるのではないか。そう思っていた。そして、その疑問さえも忘れていた昨日。CATVで久しぶりに「東京裁判」を観ていたところ、ふと啓示のように答が降りてきた。

京都の町屋の構造なのだ!そう思った。すると、いくつかの因縁が絡み合っていたのは京都だったのだ、ということも発見した。

親父の叔父にあたる祖父は、映画の脚本家の卵だったが大成せず、夢破れて「活動の弁士」になった男。親父は父親が若くして脳卒中で亡くなったため一家離散し、預けられて育ったお寺の期待を背負って坊主になるために大学に進学した男。いずれも、青春の多感な時期を京都で過ごしている。そして、僕も、なのだ。

初めて京都の下鴨の下宿を訪れた時、玄関から奥へと続く通路の、その薄暗さになぜか懐かしさと安堵感を覚えたのも、ゆかりの場所が持つ癒しの力だったのかもしれない。

前世や魂を信じたことのない身ではあるが、古都に潜む多く魂の歴史に、思いを馳せてしまった深夜だった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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