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脳卒中、リハビリの限界と今後‥‥。

脳内出血を発症して、あとわずかで2年。右の視床の直径約4センチの出血で陥った左半身不随からは立ち直ったものの、左半身の股関節、膝、足首、肩、肘、手首、指関節のコントロールは、未だままならない。身体の運動機能は、多くの不随意筋を巧みにコントロールしていてくれる脳の働きがあってこそもたらされているものだと実感する。自分の身体とはいえ、意のままにならないことばかりである。

しかし、脳細胞が再生することはない。運動(と言うより、日常行動)の改善を図るためのリハビリも、したがって、コントロール機能の回復はありえないことを前提に行われることになる。当然、発症前への回帰は諦めなくてはならない。せめてもう少し、を繰り返しつつ、自分の身体の機能との折り合いをつけていく。そのためのリハビリだと解釈すべきであろう。ただそれにしても、確かな方法は確立されていないようだ。

初台リハビリテーション病院は、指令が届いていない筋肉をなんとか動かしつづけ、末梢神経の方から指令系統を刺激して、脳細胞にバイパスを形成しようという手法、のように感じた。「そういうことなんだろうなあ」と推測しつつ、指導を受けたとおりの動きをしようと、入院中は努力をした。何しろ、自分のことだ。しかも、初めての経験。専門に学んだ人の指示に従った方がいいに決まっている。しかし、動かせない筋肉を使い、できない動きを何とかしようということの繰り返しには、疑問も感じた。他の筋肉・部位で行ってしまう代償行為で動かしているにしかすぎないような気もしてくる。それでは意味がないはずなのだが‥‥。では他に何か方法でもあるのか‥‥。自分の知識、経験、考えでは遠く及びもしないことを、ぼんやり考える日々もあったが、そんなことはもう止めた。無理はしているが、できなくはない‥‥。そんなことで積み重ねられていく日常でいいじゃないか。退院して1年も経つと、そう思えるようになってきた。

ただ、微かな他力本願の希望は、なくはない。「万能細胞」(だった?)の発見である。再生しない脳細胞だって、作れるのであれば問題ないではないか。我が後輩たちには、大いに頑張ってもらいたいものだ。

急いで~~~。1年と少しで還暦!老い先は、長くはないんだぞ~~~~~!

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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“ゆとり”のある人、ない人?!

お金は、塩水のようなもの。飲めば飲むほど喉が渇いて、もっと飲みたくなる。

TV番組で耳にした言葉だと思うが、言いえて妙だと思った。

お金とゴミは、汚い所に集まる。

これは、いつどこで耳にした言葉かは定かではないが、うまい!と思った。貧乏人の負け惜しみのように聞こえなくもない言葉ではあるが、お金持ちになることを恥ずべきこととして教えられてきた僕には、なかなか響いてくる言葉である。

そんなことをよしとしているせいか、お金持ちになれたことがない。そればかりか、いつも周りを見渡すとお金のない人ばかり‥‥。たまにお金持ちが加わると敏感に察知し、嫌なところを見つけると、お酒の勢いを借りて「この~~!心の貧乏人~~!」などと、悪態をついたりする。

気がつくと貧乏自慢に花が咲き、ふと我に返り「自慢はやめようよ。貧乏は、自慢するもんじゃないよ。じっくり味わうもんだよ」などと、気の利いたようなことを口にしてみるのだが、その楽しさに負けてしまい、延々と貧乏自慢をしていることさえある。

最近、連続して様々な人とじっくり話す機会を得て、改めて思った。お金持ちであるか否かは、大きな問題ではない。それは、ほくろがある人・ない人、背が高い人・低い人といった、その人の特徴の一つにしか過ぎない。それを魅力的だと思うかどうかは、人それぞれなのだ。

“ゆとり”のある人は、お金のあるなしは関係なく“ゆとり”を感じさせるし、そうではない人もお金のあるなしには、関係ないようだ。

どうも、“ゆとり”とは、大いに心の問題のようだ。

人の喜び・幸せを慮るゆとり、人と分け合うことを喜びとするゆとり‥‥。それは、持っている量の多寡とは無縁だ。むしろ、持たざる人の方が、分け合い、助け合うことに抵抗がない傾向さえある。

“ゆとり”は、人が人にもたらすもの。‥のような気がする。人の心を満たすことができるのは、やはり人なのだろう。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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介護する人たちの、心の汗‥‥。

連日の猛暑。週に2~3度のスコール。心配してくれる友人たちに言っていた、暑いくらいが身体の動きがいい、という言葉が強がりのように思えてくる日々である。

会社に毎日行くことが社会復帰とは限らない。無為に過ごしている時は、自宅にいても、会社にいても、実態は同じ。人のために何を為すべきかを目標とすることができ、それを実践していくことができるようになり、多少は上げることができた成果を評価され、その成果によって少しは助けられた人たちから感謝される‥‥。それを社会復帰と言う。

と、思っていた。特に、まだ二足歩行さえ覚束ない頃は、強くそう思っていたような気がする。しかし、身体の機能も人それぞれ。健康という概念さえ怪しいものだと思うようになるにつれ、肩の力が抜けてきた。

もちろん、病床で最初に思った「なんとか、一人でひっそり生きていこう」などということが実態として現実のものになっていたら、肩の力が抜けた、などと暢気なことは言っていられなかったことだろう。しっかりと、しかもひょうひょうと支えてくれる人や友人たちがあってこそのことである。終わらないかもしれないモラトリアム‥‥。その中で、いつも誰かに何かしてあげたい、と思い続け、小さなことでも日常の中でしてあげ続けること。それは、身体が不自由でも可能だ。

ごくわずかのお金でも構わないから、一緒に楽しいことに使う。どんなことが楽しいか、まず考える。費用を抑える工夫を、惨めな気持になるのではなく、楽しんでみる‥‥。

介護する人にとって、介護される側の人の終わらないかもしれないモラトリアムは、終わることのない負担になりかねない。暑い!と動きにくい身体をよじる介護される側の人の汗を拭きつつ、とめどない心の汗をかいている人も多いことだろう。いつか次の目標や経済活動への門が開くまで(起きないことかもしれないが‥‥)、いかに日常の些細なことに共通の楽しみを見出していくか。‥‥。それは、共同作業で行っていくべきものだ、と改めて思う猛暑の日々である。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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健康体と麻痺の狭間

極めて動きののろい一日。

クーラーを使わない日を増やそうと決めたこの夏。区の障害者手当てが毎月7500円振り込まれてくるとわかったことに意を強くし、1980円の卓上扇風機を代々木八幡駅前の雑貨屋で購入。フル回転させても22Wの消費電力だからいいだろうと、全開の窓から外気を呼び込む作戦で日中を過ごすことにした。

しかし、今日は、Tシャツ3枚が順に汗で濡れそぼってしまう暑さ。夕方になるまでは、難行苦行に近い状況だった。しかも、膝が痛くてあまり動けない。健康体であっても、脳からの指令が途絶えている左半身の動きは、ままならない。また、Over Useしてしまったのだろうか、と反省していたところ、最近の膝痛発生に法則性のあることに気付いた。

かなり飲んだ翌日なのだ!

健康体で座っていると、意識だけは脳出血発症前へと里帰りする。そこに、目の前にいる親しい友人、楽しい会話、おいしい芋焼酎‥‥となると、少しだけだよ、とみんなに言われながらも、ついつい意地汚く「もう一杯!もう一杯だけ!」とグラスを重ねていくことになる。「本当に!あと一杯だけだから~」などと言い始め、気を使って極薄の水割りにしてくれた友人に「これはないんじゃない?これは水です!いじめ?」などと言い出す頃には、立ち上がると、少しよろけ気味になっている。「元々ふらついいてるんだから、逆方向にふらつけばちょうどよくなるじゃん」などと言いつつ、同じ方向にふらつき、「おっと~!」と思わず声を上げ、友人たちを心配の混ざったあきれ顔にさせる頃に、やっと終了‥‥。

といった楽しい夜の翌日に、膝は痛くなっているようなのだ。「おいおい!ちゃんと使ってくれよ~」という膝からの抗議なのか、お調子者の受ける報いなのか‥‥。

しかし、たまにやってくる楽しい夜を無駄になどはできない!!ここは、しばし膝を大切にし、次の機会に備えるしかないであろう。

幸せには、すでに不幸せの種が潜んでいるものなんだ‥‥。と、大仰に嘆息している真夏の夜である。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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