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侮るなかれ!通り雨。

京都という街は、緩やかに北から南へと下っている。19歳の頃、新聞配達を始めて自転車を持つことになった僕は、そのことを発見した。それで思い立ったのが、北大路で一蹴りして、そのまま一度もこぐことなく京都駅に到達できるかどうかやってみることだった。できるような気がしたが、問題は信号だった。遠くの信号の変化を読み取りつつ、微妙に速度調節しなくてはならない。人通りも少ないほうがいいだろう。歩道を通ったほうがいいと判断した時、人ごみに突っ込むと厄介だ。

というわけで、夏に決行することにした。真夏の京都の昼下がりは、街の人並みも暑さでまばらだからだ。

スタートは、洛北高校前。途中から川端通りに入り、そのまま南下するか、東大路に進路を変えるか、川端三条あたりで判断しようと考えた。下調べは、なしである。

真夏のある日、スタートを切った。出だしは、順調だった。ところが、川端通りに入ってしばらくすると、辺りが妙にざわつき始めた。振り向くと、通り雨だった。僕よりも若干速い程度のスピードで雨が近づいてくる。ジーンズにTシャツ、足元はゴム草履。濡れても構わない。少しうきうきしながら、緩やかな下りに自転車を任せていた。やがて、通り雨は追いつき、僕の前の乾いた道に雨の雫を落とし始めた。かと思うと、グレーの絨毯を敷き詰めていくかのように、順に遠く向こうまで、道路を黒く濡らしていった。そして、瞬く間に通り過ぎていった。濡れた道路は、雲間から改めて顔を出した夏の太陽に照り付けられ、すぐに乾いていったが、その間のにおいと光景は、懐かしささえ感じる真夏そのものだった。

その時から、僕は通り雨が好きになった。アジアに行きスコールに遇うのも好きだ。

しかし、7月12日の夕立は、尋常ではなかった。ミニ台風が通り過ぎたようだった。不覚にも、雨は降らないと踏んでいた僕は、窓を開け放したまま長い付き合いの人と会うために外出していたのだった。

帰宅し、ベランダに濡れて張り付いている洗濯物を見た時、汗の下からまた汗が噴き出すのを感じた。室内に入ると、被害の甚大さに立ち尽くした。部屋半分の床はびしょ濡れになっており、踏むとじっとりと水が滲みだすほど。愛用のノートパソコンもずぶ濡れ。ご丁寧なことに、開いた状態のまま、ときた。持ち上げると、水が滴り落ちる。気が遠くなりそうだった。いかんともし難いと、僕はふて寝を決め込んだ。

夜になってKapparの力で、部屋は復旧。しかし、ノートパソコンは‥‥。翌日になって、電源が入ることとデータの無事は確認できたが、キーボードはお馬鹿さんになったままだ。

‥‥。なかなかブログの更新ができなかった理由である。

中古のノートパソコンを購入するか、キーボードのみ(ノート用‥‥なかなかない)の購入にするか、思案中である。

ちなみに、北大路から京都駅までの坂道任せ自転車行は、なんとか成功した。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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使い切る!ということ

約30年前、ある夏の日こと。石津謙介さんから、「時間がある時に、ちょっと遊びに来ないかい?」という電話をいただいた。当時僕は、渋谷児童会館近く、ヴィラモデルナという一風変わったマンションの一室にカメラマンの寺崎氏と事務所を構えて1年目くらいだったと思う。やっとデスクも購入、床に寝そべって打ち合わせをしていてついつい寝入ってしまうというような状況からは脱していた。その日は、オープンして間もない青山の無印良品で購入したトレパンをアウターとして着用していたので若干失礼かとも思ったが、石津さんからのお電話である。おもしろそうな話に決まっていると思い、「今すぐでもよろしいでしょうか?」とお応えし、「いいの?じゃ、待ってるね」との言葉に、事務所を飛び出した。

強い日差しの中を歩いて約15分。石津事務所に到着すると、まずは目敏い石津さんが「それ、トレパン?」とおもしろがり、その日の下着にまで話が及んでいった。ふと目に入った石津さんの白のBDシャツの袖口がほつれているのが気になり、ついつい目線をむけていると、「これかい?気になる?」とニヤリ。「洗いざらしでいいですねえ」と話を逸らしたつもりだったが、ほつれていることについて、モノに関する哲学を披瀝された。

「このシャツは、すごく気に入っていてねえ。ほら、触ってごらん。海島綿なんだよ。本物だよ。ほつれたくらいで捨てるわけにはいかんだろ。ほつれているということは、質のいい品だという証みたいなもんだよ。誇りに思わないとね」。実に自慢げな笑みを浮かべながら、こうおっしゃった。無印良品のトレパンを普段着にしている僕をおもしろがった直後のことである。複雑な気分だった。

いいものを使い切る。食品に関しても、高くても品質のいいものを適量購入し、食べ切る。数年前からそう決めて暮らしている。洋服は、破れることが惨めなことではない。破れると価値がなくなること。そのようなものを身に着けていたこと。それが、惨めなことなのである。石津さんは、そう言っていたような気がする。もちろん、安いものを楽しむセンスとゆとりがあってのことである。

*暑い!うれしい!!この時期に歩き、手を使い、晩秋~梅春の後退期に備えるのだ!そう思う変温動物と化した脳出血後遺症男である。同期(同じ時期に発症した方々は、みな同期)のみなさんも、暑さにめげずに~~。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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脳出血から、もうすぐ2年‥‥。

目覚めに“後ろめたさ”に襲われがちな「平日の昼寝」。今日は、そいつをやってしまった。ただ、目覚めに襲ってきたのは、“後ろめたさ”ではなく、“しっとりした感慨”だった。

好天に恵まれ、梅雨明けを予感させる陽光の中、ツタヤのレンタル半額キャンペーンを活用しようと、毎日のように千歳船橋店にまで通った先週。ややOver Use気味の左半身の膝と肘が、昨日来の低気圧と湿気に襲われた。足の軽い痙攣と手の“ピクピク君”(「僕は動けます!」と自己主張しているかのように虚空に伸びてぴくぴくと動くので、ちょっとかわいらしく呼んであげている)で、僕はちょっと辛い夢から目覚めた。

「I Had A Dream」。マーチン・ルーサー・キング牧師のあの有名な演説の、やや震え気味の声の最初の一節が頭にリアルに浮かんだ。しかし、僕の夢は高尚なものではない。MRI検査が終了し、ストレッチャーの上で医者の説明を聞いた後、家人の到着をじりじりと待ちながら、お金の心配と今後の暮らしの雲行きの怪しい予感に、“なんとか、一人でひっそりと暮らそう。それが、最良の選択かも‥‥”と思っていた時間が蘇ったのだ。ちょっぴり、寝汗を掻いていた。起き上がり、左腕を揉みながら、1年と10ヶ月後の現実の穏やかさを実感すると、Kapparへの感謝と共に、次々と様々なシーンがフラッシュバックしてきた。

気なる人を二人、思い出した。二人とも、初台リハビリテーション病院5階で一緒だった人で、女性。お話をしたことはない。

一人の方は、僕が入院した06年10月には、退院間近に見えた。ひっそりと穏やかに歩いておられた。いつも上品な笑顔を浮かべている方で、食事の時は、お気に入りのペットボトル入れを片手に食堂に出て来られ、周りの席の方々の面倒をさりげなく見ておられた。その姿をやや離れたところから目にしては、心が温かくなるのを感じていたのは、僕だけではなかった。その方が手すりにすがるようにして覚束ない足取りになっておられるのを目にした時は、思わず息を呑んだ。何が起きたのだろうか、と思った。2~3日後、リハビリ中にセラピストに事情を聞くと、“再発されたんですよ~”とのこと。神様も意地悪だなあ、と思った。温かい心のお裾分けをいただいていた男たち三人は、一緒に深い嘆息を洩らした。

06年の年の瀬、退院することになった僕は、お世話になったセラピストに挨拶をしようとリハビリルームを覗いた。真面目にいつもの笑顔で、リハビリに取り組むその方がいらした。「一足先に出させていただきます」と、声を掛けさせていただいた。すると、突然その方の顔が大きくゆがんだ。「あ~~」と小さく上がった叫び声の後、嗚咽が漏れてくるのが見え、聞こえた。僕は、慌ててもう一度、少し声を大きくした。「ちょっとだけお先に出ます。ちょっとだけですから」。その後はもう、その方の顔を見ることはできなかった‥‥。退院するはずだった頃に入院してきた男を、リハビリしながら見送るその方の気持ち。他人を静かに慮り、穏やかに自らの力で何事もやろうとしている、その方の気持ちを思うと、リハビリルームから出るや涙が溢れてきて仕方なかった。‥‥。どうなさっているのだろう‥‥。

もう一人の方は、退院されるのを陰から見送った方。30代と思しき、明るく元気一杯の女性だった。彼女の存在に気付いたのは、その発声練習を耳にしてからだった。入院して間もなく、毎朝ある時間になると、言語療法のプログラムの一つ「発声練習」の元気な声が遠くから聞こえてくるようになった。声の主はなかなかわからなかったが、僕の病室からは遠いテーブルで行っておられるであろうその姿は、想像できた。挫けずに希望を持った明るい表情が思い浮かんだ。勇気付けられる声だった。

やがて、その方には幼稚園児のお嬢さんがいらっしゃることがわかった。お母さんに会える喜びを全身に漲らせたお嬢さんがエレベーターを降り、受付に向かって走っていくのを偶然見かけたのは、2~3週間後のことだった。装具をつけた覚束ない足取りで現れたお母さんに飛びついた時、笑顔で成り行きを見ていた僕とNさんは、一瞬固まった。しかし、しっかりと片手で受け止めたお母さんの笑顔を目にし、よかったねえ、と顔を見合わせた。その方の元気の源を見た思いだった。

まだ早いんじゃないかなあ、と思われる段階でその方は退院され、リハビリに通って来られるようになった。何度かお見かけした。言語療法も、自宅で続けておられるようだった。相変わらずの元気と明るさだった。しかし、それは元気の源をもう一度得ようという意欲に満ちたものではなく、身近に元気の源を得ている幸せに満ちたもののように見えた。

一つひとつの病室、一人ひとりの患者に、ドラマがあった。みんなが、大きな変化を受け入れざるを得ないはずなのだが、多くの方はそのことを静かに内に秘めていた。それだけ大変な病気なんだ、と、初台リハビリテーション病院は教えてくれたのだった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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