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百貨店よ、いずこへ?!

VANが倒産して2年後だったと思う。'80年代に突入し、やけに世の中が浮き立ち始めていた頃と記憶している。ステレオと電話を置いただけの事務所を構えて間もない僕に、石津謙介さんから電話が入った。「ちょっと遊びに来ないかい?」とのことだった。「柿本君」という、社長と社員だった頃の呼び方が「柿本さん」に変わっていた。関係値の変化を充分に意識しておられるのだと直感した。とても、会ってみたくなった。しばらく不義理をした父親に、大人の扱いを受けたような気分だった。

数日後、石津事務所を訪ねると、数名の来客があった。元気よくドアを開けた僕は、一瞬躊躇し、「失礼しました」と小声で頭を下げ、ドアを閉めようとした。「いいんだ、いいんだ。おいで、おいで。まあ、座ってください」。石津さんの声にドアを再び開け、招かれるままに石津さんの左隣に腰を据えた。数名の来客はすべて、西武百貨店の取締役の方々だった。紹介を受け、僕の腰は少し浮いた。倒産直後、「広報をやってくれ」と命じられ、取材を受けている間に、口が滑ったことがあったからだった。

倒産の原因は?と何度も尋ねられ、通り一遍の返答をし続けている間に、一度だけ本音を言ってしまったことがあった。強気の生産計画、在庫過多、商社の戦略に翻弄されたあげくのこと、経営のプロの不在、ブームの終焉、‥‥。病気が進行すると出てくる様々な症状をあげつらうように、いろいろな原因を指摘してくる取材記者に、基本的には相手の分析と論理に同調するように応えていたものの、心の底では、大きな要因は二つだ、と僕は思っていた。経営委譲計画の失敗と大手取引先との取引条件の悪化だった。そんな思いが、ある日口に出た。「1に三越、2に丸井、3・4がなくて、5に西武」。倒産の原因を、一度だけそう語ってしまった。倒産は他人のせいにしてはいけない話なのだが、取引条件に対する抑えていた怒りが出てしまったのだった。幸い、広報担当の失言が記事になることはなかったが、そんな発言が西武百貨店の方々の耳に届いていないとも限らない。

突然、質問が飛んできた。僕の狼狽は、杞憂だった。「百貨店は、これからどうなっていくと思われますか?」。「え!?」と、僕は石津さんの方を見た。「柿本さんの考えを自由に言ってみて」と、笑顔が返ってきた。その笑顔に、よし!と思った。すると、また喋り過ぎの悪癖が出てきた。

「20年後には、巨大なショーウィンドーかギフトショップになっていると思います」。象徴的な言い方を選んで口にしたつもりだったが、「ショーウィンドーでは利益を生めない」とか「ギフトでのビジネスのあり方は?」と、根拠や展望を求められ、苦しくなっていったのを思い出す。石津さんは多くを語らず、まるで西武百貨店社内の会議の様相を呈した1時間強が過ぎ去った頃、一人の取締役の方が長嘆息を洩らした。「堤社長から、お前たちは大変だなあ、大きな泥舟に乗っちゃって、と言われるんですよ」。その言葉に、他の人たちは苦笑し、僕は自分の門外漢の発言の数々を恥じ入った。

それから、28年。百貨店は、巨大なショーウィンドーにもギフトショップにもなっていないが、ターミナル型大型ショッピングセンターのみが生き残っていけるかのような状況だ。堤清二さんは、充分に百貨店の限界を予知していたのだろう。ミレニアム・リテーリングの人たちの思いは、どうなのだろうか。

その2~3ヶ月後、石津さんから三越の呉服売り場を何とかする企画を頼まれ、「座売り」の復活と和小物のエスカレーター周りでの展開を30枚程度のボードにして提案した。残念ながら、実現はしなかった。

                                    ‥‥つづく

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島根県益田市の憂鬱

僕は、島根県益田市の出身である。小学校6年生と中学3年間を益田市横田町で過ごし、高校入学と同時に、益田市染羽町に引っ越した後、矢の羽を染める職人たちが住んでいたという、細い路地に小さな家が軒を連ねる一角で、高校の3年間を暮らした。しかし今は両親もなく、その実家も他人の手に渡り、帰るべき場所を持たない。今やわずかに、4月の親父の命日とお盆の時期(と言っても、混雑を避け7月)に、両親たちが眠るお墓にお参りするために帰省するのみ。定宿を益田サンパレスという萩・石見空港近くのホテルに決め、空いた時間に同級生の車で市内をあちこち走り抜けている程度である。

かつて、日本全国の地方都市がそうであったように、益田の賑わいの中心は、駅の近くに形成された、狭い旧国道沿いの商店街だった。小さな商店が思い思いに店を構え、夕方にもなると、主婦や子供たちと家路を急ぐ父親たちが行き交い、そこかしこで立ち話に花が咲いていた。やがて、夕餉の支度をする音と匂いに帰心を煽られ、挨拶の声を残して人影は徐々に消えていくのだが、そこに人の営みの温もりはいつも漂っているようだった。

中心部からやや距離のある家から、僕はよく駅前まで自転車で出かけた。電気屋の一角にあるレコードショップでレコードを手にとっては嘆息し、駅前の本屋で読んだこともない本の多さに圧倒された後、ゆるゆると自転車を押しながら家に向かっていると、必ず誰か知り合いに遭遇した。少し面倒ではあったが、人とつながっている安心感は間違いなくあった。

それから40年、益田は激変した。帰省のたびに道路ができていて、そのほとんど混むこともない道路沿いには様々な業種の大型店が次々と出店。それに歩調をあわせるように、駅前の商店街はほぼ消滅。買い物籠片手の主婦やそぞろ歩きの親子の姿など、まったく見かけることもなくなった。

6年前、偶然参加することになった中学の同窓会で、土木関係の仕事を生業としている同級生が半数近くを占め、そのほとんどが1台か2台の土木機械を所有している独立事業者であることに驚いた。洪水の後の治水・復興事業を請け負ったのを機に独立した、という者が多かった。同級生の間で発注者と受注者という関係も生じており、複雑に入り組んだ公共土木事業の裏事情を見る思いだった。仕事で行った沖縄でも感じた矛盾と憤りを禁じえなかった。

自宅から大型店へ。点から点へ、家族だけで、クルマという密室に乗り、新しい道路を利用し、スピーディに移動する‥‥。それが、益田市あるいは地方都市が目指すライフスタイルなのだろうか?それが、文化的な暮らしだとでも言うのだろうか?人と人が肩を触れ合うように接していた町が、やけに懐かしい。そんな思いがしてしまうのは、遠く離れて暮らしていて、たまに覗く程度に帰ってくる僕だけなのだろうか?‥‥などと、いつも帰省のたびに思っていた。

‥‥、先日、続けざまに、益田市の名前をニュースで目にすることとなった。隣接する津和野町での殺人事件と益田市の診療所で発覚した注射器使い回し事件である。

僕は、しばし憂鬱な気分になった。家族単位に分断され、人と人の交感が減少した、一見便利な社会に巣くう病いが、あののどかで穏やかな空気に包まれた町、益田をも侵しているのだと思った。形にならないまま茫漠と頭に棲みついていた嫌な予感が、現実になったのだと思った。

運転手に挨拶をしながら次々と乗車してくる老若男女でかしましい、石見交通のバスの車内が懐かしい。‥‥‥‥。昔に戻ろう、では決してないのだが‥‥。

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リハビリと成長曲線

スポーツ、勉強、技術、ノウハウ‥‥。身に付けていくために努力しなくてはならなくなる場面はいろいろあるが、それぞれにおける成長を曲線で示すとしたら、ほぼ同じ形になるものと思われる。何事も、成長曲線は同じ、ということである。

初心者から初級へ。入門編の頃は、上昇も急カーブ。この段階で、「なんだ、簡単じゃ~ん!」と誤解し、習得した気になる人は意外と多い。初級に突入すると、カーブは緩やかになる。飽きず、懲りずで頑張らざるをえない。そしてある日、ピタッと成長が止まったかのような状況になる。踊り場状態である。肝心なのは、ここでさらに飽きず、懲りずで続けること。これが、難しい。あらゆることに関して、世の中に初級レベルの人が断然多いのは、この踊り場状態に徒労感や限界を感じて挫けてしまう人が多いからであろう。

ところが、長い踊り場の先まで行くと、突然ふわっと上昇感覚を味わえる瞬間がある。中級へのレベル・アップである。コツを掴んだ瞬間である。「私は、○○をやっている者です」と名乗る資格ができる瞬間でもある。

そして、また長い長い踊り場が続く。しかし今度は、一度上昇感覚を味わった後だけに、セルフ・モチベーションがしっかりとできる。続けるエネルギーも違うというものだ。‥‥。こうして、上級へ。さらには、才能に恵まれた人は“悟り”を経て、名人へと上りつめていく。‥‥‥‥。

さて、脳内出血発症後、救急病院を経て、初台リハビリテーション病院でリハビリに突入し退院した僕は‥‥‥、初級かな?‥‥‥。などと思いながら、せめて普通に歩いたり、掴んだりできるようになりたい、と日常生活の中でリハビリを続けている日々である。

しかし、しばらく続いた“戻り冬か?!”と言いたくなるような季候にさらされるだけで、あっさりと挫けてしまう。まさに、変温動物。身体の筋肉が内側へと収縮し、丸くなってしまいそうな感覚だ。冬篭りだ~~。団子虫になっちゃうよ~~。と叫びたくなる。目指すのは回復ではない、身体の機能の獲得だ、元に戻るという意識は持つべきではない、と改めて自分に言い聞かせつつ、後戻りしてしまう冬に備えた夏の過ごし方を思案している。

あくせくしない蟻さんになるのだ~~。

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百貨店、驚きの取引条件とその変遷

1975年、僕はVANもアイビーも知ることなしに、VAN(株式会社ヴァン・ヂャケット)に入社した。後でわかったことだが、縁故採用のみだったVANが一般公募での大卒採用に踏み切って、まだわずか3年目のことだった。その年、全国で約180名(くらいだった?)の大卒が採用され、VAN社員の総数約2400人、その歴史上最大となっていた。

VAN99ホールでの入社式には、出身大学名と名前の書かれた札を胸につけた、東京勤務の新入社員が集められ、それぞれの所属部署が告げられた。圧倒的に販売部が多かった。最初の間、販売部とは小売店に商品を販売するセクションだと思っていたが、営業部というのも発表されるのを聞くに及びそのセクションの役割がわからなくなった。隣の同期生にこっそりと尋ねた。「販売部って、何するところの?」「派遣社員の部じゃない?」「派遣社員ねえ」。なんのことか、わからなかった。やがて、僕はID(情報室)勤務と告げられた。たくさんの同期生の視線が集中した。申し訳ない、と思った。

試用期間の3ヶ月で、様々なことを学んだ。ファッション用語、業界用語、VAN用語‥‥。販売部のことも理解できた。同期生の言葉どおり、派遣社員のための部。百貨店と月販店(丸井など、クレジットの店)のためのセクションだった。

販売部が必要となる背景は、取引条件だった。その実態に、僕はまず驚いた。最初に聞いた時は、「百貨店はじゃあ、一体何をしてるんですか~?」と、小さく叫んだくらいだった。

掛け率(上代=販売価格に対する、納入価格の比率)が、当時、VANショップで概ね80%(お店の利益が、20%)だったのに対して、百貨店、月販店が72~75%。それも、大先輩からの話によると、当初は80%前後だったのが、取引が拡大するにつれて下がり75~76%になっていたのが、また下がっているのだということだった。しかし、ここまではまだいい。なぜならスケールメリットがあることは確かだからだ。

ところが、驚いたのは、付帯条件の多さと身勝手さだった。ハンガーやラックといった什器類から売り場の装飾まで、一切がVANの負担。さらに、売り場の販売員も。となると、売り場のすべてが、VANの負担だ。それだけではない。広告費用で関連のあることに関する協賛金の供出、販促プランの提案と販促物の提供、海外視察や工場見学への招待も行われているという。さらに、それだけでは終わらない。商品は、シーズンが終わっても残っているものに関しては、返品だ。買取ではないのである。消化売り上げ、という言い方を初めて聞いた。僕は、愕然とした。田舎で、ニュースや記事でしか目や耳にしたことのない百貨店の、それが実態だった。

もちろん、VANも共犯ではあった。「百貨店の中に直営店があると思えばいいじゃないか!」と、疑問を隠さず口にする僕を諭す取締役もいたくらいだからだ。どの売り場でも売り切れていた頃の記憶が言わせていたのだろう。しかし、僕の心はいつも落ち着かなかった。同期生の7割以上が、派遣店員となっていて、厳しい労働環境におかれていたからである。百貨店社員からは、取引業者の人間として扱われ、自分の会社からは、売り上げ確保・向上と商品とデータの管理を厳命される立場。しかも、ほとんどまともな訓練や教習のないままである。自分の会社に行くこともほとんどない、実に中途半端な立場である。内勤の情報セクションに所属となっていた僕は、いつも心苦しく、申し訳ないと思っていた。

6月のボーナス・シーズン。内勤のスタッフも大量に販売応援に駆り出されることがわかった時、とうとう心苦しさが怒りに変わり、人事に抗議に行った。「まず、全員販売部に所属。それから、適性判断や試験制度で内勤を決めていくべきだ」と、主張したが、まあまあと帰された。

それから、3年。倒産に向かっていく間、取引条件はさらに悪化していった。「専門店で稼いで、百貨店に寄付しているようなもんだ」と、僕はよく悪態をついていた。倒産前には、遂に、一部の取引先では、掛け率は70%を割っていた。

ところが、その後数年。百貨店のよさも理解するようになっていた頃。とある著名デザイナーズ・ブランドのディレクションの仕事に携わっている時、VANの頃は、まだいい時代だったんだ、と痛感させられることがあった。

重衣料(スーツやジャケット、スラックス)は、買取で掛け率60%を切って取引している、という話を耳にしたのだ。もちろん、販売員も付けて、だ。

                                      ‥‥つづく

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百貨店、いずこへ?!

中国産キャビアがロシア産として売られていた。百貨店で、である。吉兆などステイタスを誇っていた店の相次ぐ偽装。百貨店よ、お前もか。と言いたいところだが、百貨店のステイタスの危うさは70年代に始まっていたことだと、僕は思う。

島根県益田市出身の僕にとって、百貨店は長い間、ニュースの中でしか出会うことのできない存在だった。どんな場所で、どんな物が販売されているのか、想像することさえできなかった。見えてくるのは、いつも断片(それは、今でもそうだが‥‥)。全体のイメージがどうしても結べず、大食堂のメニューくらいが、辛うじて理解できるものだった。島根県には、松江市に一畑電鉄系の百貨店が1店舗あるのみということもやがて知ることになったが、どうも、必要不可欠な店とも思えず、どんな商売をしているのかさえ、理解不能だった。

学生時代、京都で百貨店を経験するが、購買経験は地下の食品売り場のみ。夏には涼む場所、待ち合わせ場所として利用したが、冬にわざわざ足を向けることもなかった。そして、ファッションも百貨店もよく知らないまま、VANに入社。いきなり、百貨店の裏側まで見ることになってしまった。それから、約25年。取引先の一社員から始まった百貨店とのお付き合いは、仕事を通じて、あるいは消費者として、様々に展開してきた。その間、いくつかの提案をする機会もあり、広告や販売促進のお手伝いをする機会もあった。しかし、その間ずっと、僕の中に同じ疑問が居座り続けていた。それは、自力で商売をする気がない企業(人たち)だ、ということだった。お客さんさえ見ていないような気がすることまであった。

百貨店の長引く不調は、その他力本願体質に起因していると、僕は思う。これから数回、その問題点について書いてみたい。

‥‥それにしても、“戻り冬”は身体に応えた。冬来たりなば、春遠からじ。そう信じて待ち続けた春だったというのに‥‥。

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手力!

「Hand In Hand」。かつて、こんなタイトルのキャンペーンがラジオの深夜放送で展開されていたような気がする。70年代の後半だったか‥‥。谷村新司が力を入れていたように記憶しているが‥‥。

上腕部から肘にかけて曲がる方向に力が入ってしまうことの多い脳卒中の後遺症。初台リハビリテーション病院の仲間の間では、「どうしても、演歌歌手のようになっちゃうねえ」と笑いのネタにしていたが、実は不都合の多い、困った症状なのである。筋肉痛はもちろんのこと、不快感も溜まりこみ、気持ちが落ち着かなくさえなってしまう。時々伸ばしてあげようとするのだが、なかなか抵抗もしてくれて、思わず眉をしかめてしまうこともある。

ところが、大発見!手をつなぐと、すっと伸びることがわかった!安心感なのだろうか、強く支えてもらわなくても、腕がほっとするのがわかるような感じだ。

ただ手をつなぐ、そんな人と人のつながりの大切さを実感した!「Hand In Hand」!ただ手を添えることも、充分に人を支えることになるのだ。

散歩は、手をつないで!手力は、伝わります。

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脳卒中のリハビリ、困る誤解!?

「もっと、真面目にリハビリしないと!」。そう言われたことがある。同種のことは、何度か言われたことがあるが、こんなにはっきりと言われたのは一度きりだ。悪意があってのことではない。むしろ、激励の言葉だったのだが‥‥。

VANのアメリカンフットボール・チーム“VANGUARDS”は、倒産直前までの数年間、日本国内では無敵だった。弱いチームとしか戦っていなかったのでは?と誤解している方もあるかもしれないが、そうではない。社会人チームのみならず、学生のチャンピオン・チームと戦っても負けることはなかった。理由は簡単だ。学生の有名選手がVANに集まってきていたからだ。しかも、練習時間や道具は優遇され、ヘッドコーチ、マネージャーのコンビもしっかりしていた。ラグビー同様、社会人になってから充実する要素のあるスポーツでもある。VANの企業キャンペーンの重要な要素の一つとして、広報・宣伝戦略の一つに組み込まれてもいた。しかも、競技人口が少なく、社会人、学生ともにチーム数がまだ多くはない。ときたら、弱くなるはずがないのである。

そんなVANGUARDSの主要メンバーだった人が、約25年ぶりに事務所を訪ねてきてくれた。「中・高年向けビジネス企画」に関する相談だった。概略をお話した後、ついつい僕の病気の話になった。おもしろおかしくお話したつもりだったが、彼の顔は次第に同情と憐れみに曇っていくようだった。まずは、ビジネス・コンセプトと戦略フレームを書くことをお約束し、早く切り上げようとした。彼の表情の変化が僕にも苦しくなってきたからだった。

「じゃ、よろしく!」。とても風合いのいいカシミヤのチェスターコートを無造作に羽織りながら、彼は事務所の玄関で激励の笑顔を僕に向けた。僕は、事務所内では杖を手放しているので、左足をやや引きずりながら見送りに出ていた。ついつい習慣で、左手首を右手で握っていた。その姿を見て、彼は玄関から一歩出て立ち止まり、振り返った。

「もっと、真面目にリハビリしないと!」。冒頭の台詞は、その時彼の口から吐かれたのだった。“きちんとやれば、元に戻るもの”。一流のスポーツマンで、大怪我から復帰した経験もある彼のリハビリに関する認識が、言わせたのだろう。僕が面倒くさがり屋であることを知っているから、ということもあるだろう。「頑張りま~す!」。ちょっとおどけた返事に、彼は苦笑を残して帰っていった。

司令塔が壊れてるんだけどなあ。クウォーターバックがちょっと残念な奴になってしまってるんだけどなあ。ま、いいか。‥‥。彼を見送った後、僕はそんな独り言を口にしながら、打ち合わせテーブルに戻った。初台リハビリテーション病院の若いセラピストに関する愚痴を患者同士で吐き出しあう時にも、同様の表現を使っていたのを思い出していた。

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