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脳卒中から1年7ヶ月。めでたく、身障者手帳取得へ。

2006年9月6日午後1時頃、僕はパソコンに向かっていた。朝まで酒を飲み仮眠を取った後だったこともあり、頭の芯がふわふわとしていた。メールチェックをし、秋のキャンペーンの企画を進行するために、資料探しのネットサーフィンを始めた。その時だった。両耳から上がふわりと軽くなり虚空に浮かんでいくような感じを覚えた。まだ酔ってるな、と思った。脳がストライキだ~、と判断した。すぐに横になった。

気付くと2時間近く眠っていた。目覚めて半身を起こすと、耐え切れないほどの空腹が襲ってきた。そう言えば、前夜から固形物はほとんど口にしていない。アルコールと紫煙のみだ。起き上がり、インスタントラーメンを作った。はふはふと口に運んだ。まずい!不思議なほど、まずい!箸を置き、改めて一眠りすることにした。今は、身体が睡眠を求めている。そう判断したのだ。しかし、もう眠れなかった。

午後6時半頃、Kapparが取材から帰ってきた。「お土産あるよ~」と、何か作り始めた。「大丈夫?」「インスタントラーメン食べようとしたんだけど、まずくてねえ。さすがにまだ酔ってるみたい。酔いがぶり返したのかも」と、横になったまま一言二言。

「ちょっと、顔を見せて」と、突然Kapparが覗き込む。「救急車呼ぼう!普通じゃない!」「え!何が?大丈夫。酔ってるだけだから」「駄目。言うこと聞いて!」‥‥。

といった訳で、後は緊急入院、初台リハビリテーション病院への転院・退院、成城リハビリテーションクリニックへの通院、と、まさに目まぐるしい1年と7ヶ月となった。日々の時間はゆるゆるとしているのに、曜日の感覚が乏しくなっているせいか、のっぺりとした一枚板のように、日々は間断なく過ぎ去っていく。

そして、一週間後には、身障者手帳が届く。2級である。きちんと押印されたようで、それなりにすっきりとした気分だ。

先週、親父の七回忌法要のために、全日空の超割を利用して島根県益田市に帰ってきた。既に実家はないが、思い出とお墓がある。今でも、僕の故郷だ。住職と二人の法要もいいものだった。

小さな生まれ変わりのタイミングを迎えているのだろうか。心の片隅に新しい空気が入ってきているような気がしなくもない。いい季節を迎えているからかもしれない。心の小さな晴れ間に、梅雨の雨が降り続けることのないようにしなくてはならない。

悔やまないこと。頑張りすぎないこと。焦らないこと。そして、ささやかな喜びを分かち合える人との時間を大切にすること‥‥。夢は、また舞い降りてくるに違いない。

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親父の墓のある医光寺の庭園である。画聖雪舟が造園したことで名高い。4月には、枝垂桜が満開になり、枯山水に彩をもたらす。親父と育てのお袋の結婚式は、この寺の本堂で行われた。僕が小学校二年生の春だった。三々九度のお酒を飲んで、僕は本堂の中を駆け回っていたそうだ。縁あって、高校に入ると、近くに引っ越してきた。それから三年間、時折訪れ、この庭園を眺めて時間を潰した。

2008年4月。春の日差しの中、雪舟庭園は何も変わることなく、静かな佇まいを見せていた。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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初めて新幹線に乗った日

僕が初めて新幹線に乗ったのは、1970年、二十歳の夏のことだった。学生運動に対抗するため、大学がロックアウト。全学休講となったため、これはいいやとばかりに、東京にいる高校の同級生たちを訪ねることにした。どうも小田急線という私鉄の沿線に数名が住んでいるらしいという情報を入手していた僕は、順に泊まり歩けば、一ヶ月近くは滞在できると踏んでいた。

大学入学前から始めていた中華料理店の住み込みを円満に辞め、部屋を引き払い、6畳7000円という学生アパートに転居した直後、残っていた大金3万円を握り締めて、京都駅に向かった。当時流行っていた、折り畳みビニールバッグ一つ、中には、下着1枚、本1冊だけだった。半袖のサマーニットを素肌に、ジーンズ、バックベルトのサンダルといういでたちだったと思う。お金の節約のために、京都駅までは徒歩。暑さを避け、深夜にタバコ片手に歩いた。駅の構内でゆっくり寝よう、という計画。というより、とにかく行けばなんとかなるという考え。そんな脳天気ぶりが風情に見えたのか、職質を2回も受け、何もない!と言っているのに、ビニールバッグを2度とも開けられ、丁寧に下着も広げられた。

京都は小さな街。僕の部屋の近く、北の端の大通り北山通りから京都駅まで、4km程度か。しかし、障害物は数多い。その一つ、三条大橋の下に犬と住んでいる知り合いに立ち寄り、ついつい飲んでしまい、京都駅に着いた頃には、すっかり明るくなっていた。しばらくベンチで仮眠を取りお昼には出発しようと思ったが、適度な空調が心地よかったのか、目覚めるともう午後3時を回っていた。

急ぐ旅でもなく、初めての新幹線ということもあって、各駅停車のこだまを選んだ。富士山は暗くて見えないだろうと、自由席の海側の窓辺の席に座った。新幹線は、外観も車内も僕の頭にあるイメージよりくすんでいた。驚きも感慨もなかった。興味はむしろ乗客の方に向かった。しかし、それもすぐにくすんだ。当たり前だが、普通の人たちばかりだった。特別な乗り物とのイメージが残存している僕自身に、改めて田舎を感じただけだった。

夜7時過ぎ、新横浜を通過。港が見えるだろう、と背伸びをしてみた。山あいの殺風景な駅にがっかりした。周囲に対する羞恥心に背伸びを延長し、網棚に上げておいた小さなビニールバッグを下ろした。下車の準備である。地図では、横浜と東京は隣接している。乗客も減ったとはいえ、まだ相当数いる。出口は混雑するに違いない。

と、隣席の女性が声を掛けてきた。「東京は、まだまだですよ」。「え?そ、そうですか」。赤面していくのがわかった。僕は、乙女のようにバッグを胸に、もう一度腰を下ろした。そのご親切な40代と思しき女性の声が車内に響き渡ったような気がした。そして、じっと窓外の一点を見つめながら、東京に着くのを待った。確かに、想像したよりも横浜東京間は、時間がかかった。

ついに、東京が見えてきた。‥‥と、思った。腰を上げた。しかし、まだだった。また腰を下ろした。情けなくなってきていた。アナウンスまで待ち、列車が止まってから立ち上がることにした。最初からそうすればよかった、と思った。

そして、やっと降りることになった。僕は、今度は焦ってはならじと、隣の女性が席を立つのを待った。ゆっくりとご親切な女性は立ち上がった。くるりと振り向いた。またもご親切な一言をかけながら。「もっと向こうまで、東京ですからね」。

大東京の入り口に着いた僕の足は、ホームでよろめいた。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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CI療法を受ける資格

リハビリというものは、本来自らが自らのために行うものである。わかってはいるつもりだが、人(特に、僕)の意志は、さほど強くはない。強制されたり、励まされたりしながらでないと、継続は覚束ないようだ。ましてや、脳卒中の場合は、脳からの指令が途絶えている場所を動かす必要が出てくる。「さ、ここでお尻の筋肉に力を入れて~~!」などと、セラピストに言われたりもする。「自分で動かせたら、こんなことしてるかよ~~!」と声を荒げたいこともある。膝のコントロールができずフラフラするのを「ここで、止められないかなあ」と、不満そうに言われた時は、「僕には、それができないんだなあ」と山下清の口調で洩らしたこともある。

しかし、長嶋茂雄さんの言葉のとおりである。「リハビリは、嘘をつかない」。やらなければ何も起きず、やれば何かが起きる。それがたとえほんのわずかなことであっても、起きることは疑うべくもない。それをつまむように大切にし、それができるようになった腕や足をいとおしんでいくことだと思う。‥‥。自分に言い聞かせているんですけどね。

最初は、だからこそ強制も必要になる。初台リハビリテーション病院は、リハビリを、日々強制してでもやらせようという病院だが、強制を忌み嫌うものではないものに思わせてくれる環境によって、“強制されている感”をとても軽くしてくれていることが、特筆すべき特長だと思う。それは費用を払うに値する価値あることだと思う。そして、ある種日本的だと思う。

一方、CI療法は、僕の少ない知識では言い過ぎになるかもしれないが、知った時、西洋的な療法に思えた。大きなストレスが生まれそうなことに敢えて立ち向かっていかなければ、大きな可能性はつかめない、といった考え方には、どうも僕は馴染めないとも思った。で、以前本ブログで書いたように、ゆるゆるのんびりの道を選んでいる自分を“一人CI療法”などと称して、是認することにした。ただ、少し後ろめたかった。

ところが、いい正当化できる理由(根拠)を見つけた。これで後ろめたさからは、開放されることだろう。それは、診察の折、お医者さんから聞いた“CI療法を受ける資格”の話である。

“CI療法を受ける資格”とは、マヒが残る側の腕を前にまっすぐ上げて水平にし、手首を90度上に曲げることができることらしい。正面から来る人に「ちょっと待って!」とか「ストップ!」と言う時のポーズとでも喩えればいいだろうか。そんなことができたら、僕はもっといろんなことができるだろう、とうれしくなってしまうほど難易度の高いポーズだ。

「なあんだ、参加できるのは、使える腕を緊縛されても大きなストレスを感じずに済むレベルの人たちなんだ」。そう思うと、後ろめたさも、西洋的だなあという誤解も消えた。

僕は、ゆるゆるのんびり、Kapparに見守られながら、やっていくのだ。‥‥あまり、胸を張って宣言することでもないですが‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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初めて、エスカレーターに乗った日

僕は、2歳の頃親父と二人で神戸にお袋を訪ねて以来、大学受験まで島根県から出たことがなかった。したがって、18歳以降は、「初めて」だらけ。小さな驚きや感動の、ちょっとお得な日々が続いた。

初めて、エスカレーターに乗ったのは、昭和43年、18歳の時。京都四条河原町の高島屋でのことだった。百貨店という所を見てみたいと、一人で市電に乗って出かけた。僕にとっては、なかなか勇気ある行為だった。

高島屋正面入り口から入ると、目の前にエスカレーターが悠然と動いていた。上がり口には、エスカレーター・ガール。制服に身を包み、膝に白い手袋に包んだ両手を置き、「いらっしゃいませ」と、艶然と微笑みながら(そう、見えた!)一人ひとりにお辞儀をしていた。正面からそのお辞儀に出会い、僕は一瞬ひるんだ。そして、曖昧に微笑みながら、エスカレーターに近寄った。少し胸が高鳴った。次々と顔を出すステップから目を離さず、タイミングを計りながら、足を乗せる前に「いらっしゃいませ」の一言に何か応えなければ、と突然思った。口をついて出てきたのは、「お邪魔します~」の言葉。すぐに、「違うぞ」と思い、顔が赤らんだ。しかし、その小さな興奮のお陰か、エスカレーターには苦もなく乗っていた。手すりに摑まり、ゆっくりと上がっていきながら、「あんな女性と付き合える男もいるんだなあ」と、そっと振り返ると、お辞儀のためにきれいに曲げられた背中が見えた。

ただひたすらエスカレーターを乗り継ぎ、僕の百貨店探訪第一回目は、あっと言う間に終わった。

下りのエスカレーターで一階に到着すると、降りる直前、エスカレーター脇から丁寧な言葉がかけられた。その「ありがとうございました」には、心が篭もっていた。。最初の記憶がまだ残っていた僕は、迎えてくれた女性だと錯覚した。「お邪魔しました」。小さな声で挨拶をしていた。すると彼女は、ひらりと笑顔を僕の方に向け、「何もお構いしませんで‥」と返してくれた。一瞬、足が止まった。そして、ほんわかとした気分で、店を出た。

いい時代だった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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「初めて」の時代、昭和。「もっと」の時代、平成。

昭和という時代は、「初めて」の時代だったと思う。様々なモノやコトが次々と登場し、暮らしの中に入り込んできて、ライフスタイルを多様化させていった。いや、ライフスタイルという言葉と概念さえ、昭和に「初めて」登場したものだった。「初めて」のモノやコトは、新鮮で刺激に満ちている。豊かになっていくことが約束されているような錯覚さえ与えてくれた。

やがて、「初めて」は少なくなっていき、平成を迎える頃には、ほとんど見かけなくなっていった。「初めて」と言われるものも、かつて経験したもののマイナーチェンジであることが多くなった。広告、商品企画、業態開発などの現場では「何か、新しいことない?」とか「それ、もう見たことあるよ!」といった言葉が飛び交い、新しくあるためだけに汲々とした挙句消耗することが多くなり、次第に“新奇性”を“差別化”や“差異化”に求めるようになっていった。

そして、「もっと」の時代、平成に突入していった。「もっと」は、徒に欲求を肥大化させる。比較する心を生む。妬みや嫉みを生み出す。素直な驚きのあった昭和への郷愁をもたらす‥‥。

一方、田舎育ちの僕にとって、昭和に経験した「初めて」は都会育ちの人より数多く、かつインパクトも強かった。30代の頃、「Kakkyの“初めて”シリーズ」を話すと、驚き笑われることが多かった。かつて本ブログに書いた、お袋の「絵が出るラジオができたらしいよ~」という言葉に象徴される“田舎者の驚き”は、どこかのどかで滑稽だ。

そんな「Kakkyの初めて物語」を、ちょくちょく書いていこうと思うが、その前に‥‥。

どんな田舎にでも「下には下がいる」の例を‥‥。僕の田舎に、子供たちの間で語り継がれていたお話。

「初めて海を見た兄弟」の話。

山奥に生まれ育った兄弟が、「お兄ちゃん、海を見てみたいよ~」という弟の言葉がきっかけで益田市まで出てきた。高津川の河口にまでたどり着いた時、弟が歓声を上げた。「海だ~~。お兄ちゃん、海だよ~~。広いね~~」。兄は、弟を慌てて引き寄せ、声を押し殺しながらたしなめた。「馬鹿!こんな所で驚いちゃ駄目だ!海はもっと広いんだぞ!この3倍位あるんだから、な!」。ーー「目くそ鼻くそ」の話である。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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