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昭和30年代、第一次サッカーブーム

Kakkyの昭和おもしろ事件簿(あくまでも個人的なものです)③

第一次サッカーブーム‥‥“蓋サッカー”顛末記

昭和30年代前半、僕の中学校、島根県益田市立横田中学校でも、体育でサッカーの授業が始まった。しかし、その有様は、今から思うとすさまじいものだった。

両チーム合わせて20名の選手が我も我もとボールに集まり、まるで集団で一個のボールに蹴りを入れている状況。四方八方から蹴られてボールは身動きできず、選手の輪の中から外に出ることさえできないくらい。遠目には、大勢の子どもが輪になって、何か得体の知れない動物を苛めているように見えた。勢いあまってボールの反対側をこづいている足を蹴ってしまい、そのまま小競り合いになることも多く、先生の笛は、反則のためにあるというよりも、喧嘩の仲裁のためにあるようなものだった。

それでも、なぜかサッカーに燃える同級生は多かった。当初は、喧嘩好きと“スポーツミーハー”の2種類だったが、釜本、杉山、森の3選手が注目されるにしたがって、一般の生徒にも人気が拡大。ソフトボールに支配されていた昼休みの校庭に、ボールを囲む輪が見られるようになっていった。

そんな頃、学校で始まったのが“牛乳給食”。毎日一本の牛乳が、昼休みに入ると全員に配られるというもの。全員が弁当の横に牛乳ビンを置いた昼食の光景は、最初は異様に映ったが、やがて弁当をパンに替える者、僕もそうだったが、親にお金を渡され、学校の購買(簡易校内売店)でパンを買ってお昼ご飯にする者が現れるようになり、牛乳ビンの存在の違和感も失せていった。

国内で大量に生産される小麦の輸出先に日本を育てるべく、小麦製品すなわちパンを食べる習慣を日本人の食生活に定着させようとする、アメリカの占領政策の一環だと知ったのは随分と後のことだが、学校の机の上に牛乳とパンのある風景は、「なんか、アメリカみたいじゃのお」と目を輝かせた友達がいたくらい、僕たちの多くは、文化的な進歩のように、純朴に受け取っていた。

その牛乳が、横田中学校のサッカー事情も変えた。校庭ではどうしても肩身の狭いサッカー派が、校内に目を付けたのだ。

サッカーボールの代わりとして注目されたのが、牛乳ビンの蓋。廊下にチョークでゴールを描き、そこに蓋を蹴り込んだら勝ち、という簡単なルール。足を使ったホッケーと言った方がいいのだろうが、ホッケーというスポーツの存在を知る者など、ほとんどいない。いつの間にか、お昼休みに「サッカーやるか~」というのは、“蓋サッカー”を始める合図となっていた。

しばらく経ったお昼休み。蓋を真ん中にぐちゃぐちゃとつま先をぶつけ合っているところに、連日の騒ぎに堪忍袋の緒を切らせた教師が駆けてきた。「コラ~~~!」。尾を引く怒声に、サッカー選手たちは、さっと廊下の壁に貼りついた。教師は、まっすぐ一人のせいに向かい、その前に仁王立ちになった。「何やってんだ~~!お前は~~!」。みんな、微妙に頭を垂れた。一瞬の静寂が訪れた。教師に睨み付けられた友達が、顔を上げた。「し、し、審判」。か細い声だった。しばらく我慢したが、僕は吹き出した。何人かが、一気に吹き出した。教師の怒りは、一気に増した。鈍い音がした。審判は、頭に拳骨を食らったようだった。

教師が去った後、涙ぐんでいる審判を見て、改めて大笑いした。その時、わかった。笛を持たない審判は、小競り合いの仲裁のために、いつも大声を張り上げていた。その声が、教師には最も耳障りだったのだろう。

やがて、“蓋サッカー”のブームは去った。審判は、ずっと審判だった。きっと好きだったのだろう。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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