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日常の中のリハビリ

Kapparの「男一人くらい!食わしたる~!」から始まった“KapparのKoura(甲羅)”としての暮らし。それは、「してもらう」よりも「してあげる」の方が気持ちの座りがいいタイプの僕としては、背負われてるだけでは心苦しく、少しでも何か‥と思う日常の始まりだった。

だが、そう多くのことができるわけではない。いや、ほとんどのことはできるのだが、問題が多いと言うべきか。何しろ、のろい!しかも、一部できないことが混ざるため、中途半端にしかできないことが多い!もう一つ。危険なこともある!この三つの問題があるため、してあげようとすることが、かえって迷惑につながることさえある。甲羅としては、ご本体にかける迷惑を増やすようなことは、断じてあってはならないのに、だ。

初台リハビリテーション病院を退院して、まずお互いが困ったことも、そんなことだった。一体何に戸惑い、何が小さなストレスになっていくのか、しばらく経って考えてみると、最も大きな要因は、スピードの違いだった。時間の読みが狂うことは、人が行動する時の大きなストレス要因なのだなあ、と改めて実感した。おそらく、会社に復帰できた人にとっても、大きな阻害要因になっているのだろうなあ、と思った。早くできる、ということも能力の一つとして判定されるものだし、不幸にして脳卒中になってしまう人には、せっかちな気性の人が多いと思われるからである。発症以前は早く物事を片付けようとしていた人は、同じようにやりたいと思いがちであり、周りもそう期待しているはずだからこそ、後遺症によるスピードダウンは、それが小さなものであっても、大きな変化と捉えられるに違いない。。

で、ご本体と甲羅は、話し合った。何でものろくなってしまっていることを理解してもらい、慣れていただきたい、と甲羅はお願いした。Kapparの理解は早く、充分だった。

それから、できそうにないと思われること(蓋を開ける、缶詰を開ける、といったこと)をやっておいてもらい、それから後はゆるゆると自分でやる、といった方式にした(してもらった)。すると、多くのことが自分で最後までできるようになった。多少は、してあげること、しておいてあげることも増えた。‥‥ような気がする。

それで気付いた。日常の中でのリハビリは、日常生活にあえて手間をかけることで、ある程度できるかもしれない、と。能率を悪くして、それを「あれれ~~。ついでにやればいいのになあ。一つひとつやってちゃ駄目だよなあ」と楽しむようにすれば、手足を使う機会が増える。そう思ったのである。「こりゃいいや。さあ、リハビリだ。自主トレだと気合を込め、義務感や使命感で自分を追い立てることも減るだろう」と思った。

で、そうしている。ただ、そんなに意識する必要もなかったことにも気付いた。元々忘れ物や落し物が多いタイプなのだ、と自分を再認識しただけのようなものだったのだ。

失った人は、失ったものを取り戻そうとするあまり、できていた以上、あるいは持っていた以上を目指してしまいがちなものである。それは、無茶な話だ。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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リハビリ、週1回が上限!?

どうも2年単位で見直されている保険制度。リハビリに関しては、ある一定期間を超えると、月間13単位という上限が設定されるらしい。4月からのことだ。セラピーを受ける時間20分が1単位。通院リハビリの場合、通常1回2単位40分なので、13単位となると、週2回のリハビリを受けることはできない。少しゆとりを持たせたまま、週1回に制限していこうとする役人の意図が見え隠れしているようにも見える。あるいは、予算から機械的にはじき出したものか‥‥。いずれにしろ、週1回に制限されることになった。180日を超えると機能回復の可能性がないから一切保険利用は認めない、という2年前に出て現場の猛反発で引っ込められた案に比べれば、ましか。

水ぬるむ春も本格化の兆し。変温動物と化した身には、ありがたい日々が訪れつつある。動く、動かす、もやりやすくなるはず。リハビリは強制されるものではないことを肝に銘じつつ、自助努力だ!楽しいことへ向かって動く春だ!

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ポコペンの不思議!?ーつづき

Kakkyの昭和おもしろ事件簿④ー2

駄菓子屋の主役、“ポコペン”の不思議と悲しい結末。ーつづき

とにかく、モデルガンが欲しかった。五年生の時、日活映画を観て夢中になった「ピストルの早撃ちごっこ」。みんなが安物のオモチャを腰にぶら下げ、宍戸錠や二谷英明を気取っている時に、一人だけ持っていたモデルガンの鈍い輝きと重量感が、頭に焼き付いて離れなかった。それが、暗い駄菓子屋の店先で、「僕を早く連れて行ってよ~。このままじゃ、埃まみれだよ~~」と、声を掛けてくるのだ。

僕は、小遣いを貯め始めた。プラスチック製の、家の形をした貯金箱に毎日、生唾を飲み込みながら。もちろん、毎日駄菓子屋の店先を覗き込み、同じ場所に座り込んでいるモデルガンの存在を確かめるのは忘れなかった。

そして、遂に機は熟した。暗算どおりなら(といっても、簡単。小遣いは毎日10円と決まっていた)充分の金額になっているはずだった。興奮に震える指先で貯金箱の家を分解し、中の10円玉を両方のポケットに分けて入れ、僕は家を飛び出した。

「久しぶりだねえ」。駄菓子屋のおばあちゃんの笑顔に、「うん」とだけ応えて、僕は店先の平台のガラスの蓋の上に、じゃらじゃらと10円玉を出した。「全部、ポコペンね!」。「え!」小さく驚きの声を上げたおばあちゃんが、10円玉を数え始めると、僕は身構えた。「モデルガン、持って行かれると思って驚いたのかな~~?」と漠然と思い、少し勝ち誇った気分だった。

「本当に、全部いいんかね?」。未練がましいおばあちゃんを、「うん!」と力強く制し、僕はポコペンを親指で開け始めた。「全部開けてええよ~」。諦めたような、力のないおばあちゃんの声が追ってくる。構うものか!モデルガンは、僕の方が持つにふさわしいのだ!

1つ、2つ、3つ、4、5、6、7、8、9、10‥‥。小当たりには出くわすが、大当たりには、なかなか出会えない。ちらりとおばあちゃんの方を見ると、奥に入ってしまっているようで、姿がない。後5つくらいで息をつき、ゆっくりと開けることにした。さあ、そろそろだ。

‥‥‥。最後の一つを虚しく開け終わり、僕はたまらず、おばあちゃんに問い詰めるようににじり寄った。「大当たり、ないよ~~~!」。おばあちゃんは、奥から身を乗り出しながら、さらりと答えた。「それには入ってなかったんじゃねえ」。

僕は、その日限りでポコペンを止めた。

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ポコペンの不思議!?

Kakkyの昭和おもしろ事件簿④ー1

駄菓子屋の主役、“ポコペン”の不思議と悲しい結末。

イラスト(どんなものかは、憶えていない)が描かれた大きな箱がミシン線で小さく区切られ、たくさんの小箱に分かれている。子どもたちは5円(だったと思う)を払い、その小箱を指で開ける。その時の、実際には聞こえない音を形容して、ポコペン。ポコペンは、そんな「当てもの」だった。

もちろん、ほとんどが外れ。グリコのおまけのような小さな景品を持って帰ることになるのだが、子どもたちの狙いは、当然“大当たり”。ポコペンの正面に威風堂々と飾られたモデルガンだった。“小当たり”もいくつか用意されていたような気がするが、眼中になかったので記憶にはない。

小学校六年生の時だった。米屋のはす向かいの駄菓子屋は、普通の民家の玄関先に平台を並べたような店。いかにも、おばあさんの生活費の足しになればいいといった商いだったが、その暗い店先には、常連の子どもたちの出入りが絶えなかった。僕もその一人だった。

最初に凝ったのは、“ねぶり籤”。紙製の籤を一枚引き抜き、ねぶる(舐める)もの。ほとんど、“スカ”という外れを示す片仮名が浮き出てきて終わり。なんだかあっけなく、次に凝ったのが“ニッキ”。赤や緑や青の毒々しい色に染められた紙だが、それを噛むと独特のシナモン味がする。紙の色がなくなるまで味わい、白くなった紙を吐き捨てる。チューイングガムの代用品のような代物だ。これが、一時大流行。授業中にもこっそり噛み、先生に「みんな口を開けてみろ!」と突然言われ、近づいてくる先生の形相に、開けずに頑張っている口をそっと開けるのをみんなが注視していると、口内が見事に緑や赤に染まっているのに出くわす、といった光景を何度か目撃した。無様に口を開けたまま先生の拳骨を頭頂部に受け、首をすくめる同級生の姿が忘れられない。

そして、ニッキの次に小遣いを投入し始めたのがポコペン。モデルガンの魅力と、開ける時の感触の楽しさに因るところが大きかったが、他に魅力的なものがなかったのも確かだった。僕も、“大当たり”を夢見て足繁く通った一人だが、いつも外れ。次第に、苛々が募り、小さな怒りさえ芽生え始めていた。で、一計を案じた。

ポコペン買占め作戦、である。

ーつづくー

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杖を手に、街へ出よう!

僕は、「なんで?」「なんで?なんで?」と、すぐ質問攻めにして親父を困らせる子どもだった。あり難いことに、親父はいつも面倒くさがらずに答えてくれたが、中学生くらいになると、何とも答えようのない質問が混ざるようになり、禅問答のような“一言の答”が帰ってくることが多くなっていった。

「死ぬって、どういうこと?死んだらどうなるの?」と、死んでいく野良犬を見つめて続けて泣いた3~4日後に尋ねると、「土に帰ること」と一言。「戦場でたくさんの人が死んでいっているのに、命令した人たちが生き残っているのは、どうして?」と、学徒出陣の理不尽な実態の話を聞いた後に問いかけると、「人より自分が可愛い人たちは、生き残る!」と吐き捨てた。

妖怪の存在を半分信じていた中学1年の夏。「一つ目小僧ばっかりの世界に入ったら、僕たちが二つ目小僧っていう妖怪になるのかなあ」と、幼稚な質問を投げかけると、小さな目を見開き、少し苦笑した後、「そりゃあそうだ!数の問題だからなあ」という答が返ってきた。

リハビリの帰路、駅へと歩きながら、そのことを思い出した。ユニバーサル・デザインの普及を進行させるためには、いささか歩行に問題がある人を目にする機会が多くなる必要がある、と思った。創造力は変革の力になるが、想像だけでは、人はなかなか動かない。関係値の低いことのシミュレーションは、シミュレーションにエネルギーを使うだけで終わりがちなものだ。たくさんの例(現実)を目の当たりにすることによる後押しが、実行力を生む。

杖を手に、街へ出よう!

今の患者にしかできない、次の患者のための手助けの一つになるはずだ。

楽しい目的を作ると、出かけやすいですよ~~。‥‥子どもと一緒です。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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昭和30年代、第一次サッカーブーム

Kakkyの昭和おもしろ事件簿(あくまでも個人的なものです)③

第一次サッカーブーム‥‥“蓋サッカー”顛末記

昭和30年代前半、僕の中学校、島根県益田市立横田中学校でも、体育でサッカーの授業が始まった。しかし、その有様は、今から思うとすさまじいものだった。

両チーム合わせて20名の選手が我も我もとボールに集まり、まるで集団で一個のボールに蹴りを入れている状況。四方八方から蹴られてボールは身動きできず、選手の輪の中から外に出ることさえできないくらい。遠目には、大勢の子どもが輪になって、何か得体の知れない動物を苛めているように見えた。勢いあまってボールの反対側をこづいている足を蹴ってしまい、そのまま小競り合いになることも多く、先生の笛は、反則のためにあるというよりも、喧嘩の仲裁のためにあるようなものだった。

それでも、なぜかサッカーに燃える同級生は多かった。当初は、喧嘩好きと“スポーツミーハー”の2種類だったが、釜本、杉山、森の3選手が注目されるにしたがって、一般の生徒にも人気が拡大。ソフトボールに支配されていた昼休みの校庭に、ボールを囲む輪が見られるようになっていった。

そんな頃、学校で始まったのが“牛乳給食”。毎日一本の牛乳が、昼休みに入ると全員に配られるというもの。全員が弁当の横に牛乳ビンを置いた昼食の光景は、最初は異様に映ったが、やがて弁当をパンに替える者、僕もそうだったが、親にお金を渡され、学校の購買(簡易校内売店)でパンを買ってお昼ご飯にする者が現れるようになり、牛乳ビンの存在の違和感も失せていった。

国内で大量に生産される小麦の輸出先に日本を育てるべく、小麦製品すなわちパンを食べる習慣を日本人の食生活に定着させようとする、アメリカの占領政策の一環だと知ったのは随分と後のことだが、学校の机の上に牛乳とパンのある風景は、「なんか、アメリカみたいじゃのお」と目を輝かせた友達がいたくらい、僕たちの多くは、文化的な進歩のように、純朴に受け取っていた。

その牛乳が、横田中学校のサッカー事情も変えた。校庭ではどうしても肩身の狭いサッカー派が、校内に目を付けたのだ。

サッカーボールの代わりとして注目されたのが、牛乳ビンの蓋。廊下にチョークでゴールを描き、そこに蓋を蹴り込んだら勝ち、という簡単なルール。足を使ったホッケーと言った方がいいのだろうが、ホッケーというスポーツの存在を知る者など、ほとんどいない。いつの間にか、お昼休みに「サッカーやるか~」というのは、“蓋サッカー”を始める合図となっていた。

しばらく経ったお昼休み。蓋を真ん中にぐちゃぐちゃとつま先をぶつけ合っているところに、連日の騒ぎに堪忍袋の緒を切らせた教師が駆けてきた。「コラ~~~!」。尾を引く怒声に、サッカー選手たちは、さっと廊下の壁に貼りついた。教師は、まっすぐ一人のせいに向かい、その前に仁王立ちになった。「何やってんだ~~!お前は~~!」。みんな、微妙に頭を垂れた。一瞬の静寂が訪れた。教師に睨み付けられた友達が、顔を上げた。「し、し、審判」。か細い声だった。しばらく我慢したが、僕は吹き出した。何人かが、一気に吹き出した。教師の怒りは、一気に増した。鈍い音がした。審判は、頭に拳骨を食らったようだった。

教師が去った後、涙ぐんでいる審判を見て、改めて大笑いした。その時、わかった。笛を持たない審判は、小競り合いの仲裁のために、いつも大声を張り上げていた。その声が、教師には最も耳障りだったのだろう。

やがて、“蓋サッカー”のブームは去った。審判は、ずっと審判だった。きっと好きだったのだろう。

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リハビリは、苦難か?!

また、リハビリを巡る保険制度が変わるようだ。保険制度は、「どうぞ、お使いください」という優しい顔付きをしたものから、「しっかりとした理由がないと、使わせないからね」という厳しい顔付きのものへと、どんどん変わってきているようだ。それぞれが“自分の周りの環境さえよくなればいい”とする社会で、平等を重んじる制度運営は、なかなか難しいことではある。ただ、数少ない制度の不正利用に対する対策が、多くの利用者のニーズとメリットを阻害していくのは、愚かである。民間の医療保険の不払いに遭いそうだった僕は、その時の不快、憤り、失望、疑問が忘れられない。それだけに、国民健康保険の制度改革には敏感にならざるをえない。四月からの、リハビリに関する変更は、まだその実態が明かされていないようだが、わかり次第、お伝えしたい。

この世は、苦難に満ちている。そして、その克服に溢れている。

ヘレン・ケラーの言葉である。記憶間違いの部分はあるかもしれないが、意味は変わらないはずだ。ヘレン・ケラー女史の言葉だけに、有無を言わせない重みがある。すべての人に、希望を与える言葉だ。

好きな言葉だが、僕にはどうも重過ぎていけない。もし、ヘレン・ケラーではなく、近所のおっさんの口から出た言葉だったら、「苦難てほどのこと、おっさんの人生にあったの?」などと、茶化してしまいそうだ。

箴言集という種類の書物は、一冊だけ読んだ。ラ・ロシュフコーの、ずばり「箴言集」である。残念ながら、40年近く前のことだから、その内容は全く憶えていない。ネットで調べてみると、「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」という言葉が、代表選手としてよく引用されるらしい。今読んでも、確かに、シニカルに本質を突くエスプリが、そこにはある。箴言集を読み進んだ時、なかなか屈折したおじ様だったんだなあ、と思わせられたことを思い出した。エスプリは、そんな場所から採れるエキスなのかもしれない。僕のような、努力が苦手で、求道などとは無縁の男は、若い時からそんなエキスの一滴を飲んだつもりだけで充分だったのだろう。

この世は、苦難に満ちている‥‥ように、見える。

とか、

この世は、苦難に満ちている。そして、ほとんどの苦難は、チャーミングな横顔も持っている。

とか、どうしても僕は、ちょっと肩を透かした言い換えをして、何とか苦難と向き合わないように自分を仕向けていく。苦難は、余程意志が強くない限り、まともに向き合い触れてしまうと、甲羅のように貼りついてしまう危険性があるものだ‥‥、ま、まずい、ではないか。

リハビリは、楽しいことが多いものである。苦しいものだとは、思わない。そう思われることの方が、苦しい。

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健康優良児!!

Kakkyの昭和おもしろ事件簿ー③

昭和35年。小学校6年生を迎える春。僕は、それから四年間を過ごすことになる、島根県益田市横田町に引っ越した。島根県浜田市に生まれて以来、五回目の引越しだった。

引越し慣れした三人家族の荷物は、少ない。長屋のような作りの借家の押入れに布団袋と柳行李を放り込み、箪笥、水屋(茶箪笥)、鏡台、机の配置を三時間程度で決めると、僕はもうお役御免になった。早速往来へと飛び出した。滅多にない引越しを遠巻きに見ていた小さな子どもたちが、危険な動物に遭遇したかのように、一瞬身を寄せ合い、またゆっくり広がっていった。右手の、堤防へと続く坂道が曲がって向かっているのはどこだろう、としばし思案した後、左に首を転じると、町の体を成している家並みが整然と連なっているのが見えた。駄菓子屋も発見。その2~3件向こうには、パーマ屋らしき看板。本を売っている店先も遠くに見える。心が浮き立った。そして、その奥から、小さな不安も浮き上がってきた。‥‥今回の転校は、油断ならないかもしれない‥‥。

登校初日。しかし僕の不安は、朝のうちに弾けるように消えた。近所に多い同級生たちをそこはかとなくまとめているように見える一人の少年が、人見知りの僕を仲間にいざない、気を配りつつ、学校までまるで引率するかのように、連れて行ってくれたからだ。“昭和のガキ大将”、米屋のテッチャンだった。豊田小学校までは、普通に歩けば約15分。それを遊びながら二倍くらいの時間をかけて行った。校門を入ると、左手に講堂(兼体育館)、正面に平屋の校舎、右手に少し新しい二階建ての校舎が建っていた。6年生の二クラスは、その二階に並んでいた。一階の二クラスは五年生だったと思う。

数人で登校してきた僕は職員室に行き、先生と一緒に教室に向かった。転校生のルールには、もう慣れている。教室に入ると、すぐに紹介される。名前だけを名乗り、挨拶をして、先生の指し示す席に好奇の視線を浴びながら移動し、そこにランドセルを置き、顔を上げると顔の反転が遅れたあるいは遅らせた2~3人と視線がぶつかる。かなり、危険な一瞬だ。さりげなく目を逸らし‥‥、と思ったら、勝手が違った。

まったく前が見えないのだ。目の前にあるのは、大きな学生服の壁‥‥。それが、同級生の背中だと理解するのには、数秒を要した。その壁、いや背中は、やや緊張しているように感じた。僕は、「せんせ~い。せんせ~い!」と、身体を大きく左右に倒しながら、手を上げた。「おう!誰だ?どこだ?」と返事は聞こえるが、姿が見えない。思いっきり身体を倒し、やっと見つけてもらった。

「そうか~。三浦の後ろじゃあ、前が見えんわのお」と、先生は笑い、多くの視線が集まった後、女の子たちの抑えた笑い声が響いた。

その頃、僕は身長130cm台。三浦君は、島根県の健康優良児として表彰された子だと、その日のお昼休みに聞いた。170cm。60㎏台だった。

席を替えてもらえたのは言うまでもない。ただ、なぜかちょっぴり残念だった。

三浦君とは、いい友達になった。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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