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春は、ゆっくり始まっている!?

一週間前、春一番が吹く直前、「春到来!」を思わせる二日間があった。散歩にゆとりが生まれ、カメラを持って出かけることにした。

まずは、二階から「お師匠さん宅」の裏庭を一枚。

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裏庭に梅がちらほら。雪を被っていても美しい枝ぶりが、少しばかり華やいでいる。杖を使わずに歩こうと決め、表に出る。

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「しだれ梅」とでも呼ぶのだろうか、「お師匠さん宅」の外壁から道路へと垂れ下がった枝にも、梅の花がぽつぽつ。頬がほころぶ。

環八へと向かう道に入り、ふと右に目を転じると、

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何を植えていらっしゃるのだろうか、東京では珍しい野良仕事中のご夫婦。40代に見えた。言葉も交わさず淡々とそれぞれの役割を果たしていく姿に、またも頬がほころぶ。風は冷たいが、日差しや景色に点々と春の兆しが紛れ込んでいる。歩様も心なしか良くなっているような‥‥。

そんな二日を押しのけるように、また寒気団がやってきた。眉をしかめ、身を縮める。脱ごうかな、と迷ったコートの襟をまた立てながら、人の心と身体の作用のはかなさを痛感する。陽だまりにじっとしていることも苦手なのに‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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一人CI療法!?

脳内出血を発症し左半身が麻痺してから、1年5ヶ月と少々が経った。初台リハビリテーション病院を退院した時には、「肩手症候群」という病名ともなんとも言いがたい“肩と手に何か起きてるみたい”とだけ言っているような症状を抱えていた。杖に頼りつつなんとか二足歩行はできるものの、左腕は左脇から離せない状態。動かすこともほとんどできないのだが、少しでも動かすと肩から腕にかけて痛みが走る。そのため、OT(肩、腕、手のリハビリ)は、完全にストップしていた。初台リハビリテーション病院退院後、リハビリ通院を始めた成城リハビリテーションクリニックで痛み止めを処方していただき、OTを再開した。しかし、上向きに寝るだけで痛む肩(少しでも重量がかかると駄目だった)に四苦八苦。それでも、肩と指先をちびちびと動かす、気の遠くなるようなリハビリの道程を歩み始めた。

やがて暖かくなる頃、毎食後引用している鎮痛剤の効果もあって、痛みを常に感じる状況からは脱却。ほんの少しだけだが、腕も上がるようになった。すると、今度は筋力を劇的に失っていることに気付かされた。それはそうだ!信用ほどではないが、築くのに長期間かかった筋力も失うのはあっと言う間。何しろ、脇にだらりとぶら下がったまま、ほとんど使ってもいなかったのだ。脳からの指令が伝わらなくなったとはいえ、動かしていないのだから筋肉は落ちる。落ちた筋肉を取り戻すのには、落とした期間の3倍が必要だと言われている。これはまた道が遠くなったぞ、と思った。

その時、決めた。左手でやっていたことは、できないまでも左手でやろうとしてみよう、と。

脳は、精密で合理的だ。役割分担を決め、緻密に連携して、外界を巧みに認識し、自分が存在している肉体を効率よく動かし、生きながらえていこうとする。役割を必要としなくなった箇所は、もったいないから他の役割を果たすようにし、全体の負担の均質化を図る。素人判断ではあるが、そう思ったからだ。高齢者向けのドリルが老化防止に効果があると言われるのも同じこと。使わない機能は、「あ、いらないのね。じゃ、他のことに使っちゃうよ」と判断するのが、脳だ。苦手だからと避けていることは、やがてできなくなってしまう。リハビリとは、苦手になってしまったことができなくなってしまわないように、何とか苦手なことの領域には押し留めておこう、という努力なのかもしれない。

例えば、お昼ごはん代わりにバナナ、というパターンに凝った頃には、左手にバナナを持たせて右手で皮を剥くようにした。半月後、やっと左手から口に運び一本食べ切った。思わず、Kapparに電話した。「左手が、猿に近づいたよ」。

以来、少しずつだが、できることは増えている。いや、やっていたことをやらせている。袋は両手で破る(これは、初台入院中に、歯を使わないことに決めていた‥やむをえないこともあったが‥)、歯磨き粉をチューブから押し出す、スプーンを持ち一杯分の醤油やみりんを受け止める、壁の電気のスイッチを押す、そして、親父のために、毎日線香を一本持ち、右手のライターの火をつけたら、線香立てに刺す、等々。一番時間をかけて取り組んだのが、味噌汁をちゃんとお椀を持って食べきるということだった。

そのどれもが、安定はせず、日によって成果は違うが、なんとかできるようになった。

それでも、たまに右手がストライキをする。「なんだよ~~。なんでも、俺かよ~~。そっちの奴にもやらせてよ~~」と、ひきつけを起こす。疲れた左手や左腕のケアもしているのだから、気持もわかる。歩く時には、杖も担当している。大変だ。せめて、軽い荷物くらいは担当できる左手、左腕にならなければ、悲鳴を上げる機会が減ることはないだろう。

右手を束縛してまで左手に役割を強要はしないが、元々やっていたことは忘れないように気をつけて、のろくても不十分であっても、とにかくやらせようとしている毎日である。

これって、一人CI療法?

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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駄菓子屋のおばあちゃん

Kakkyの、昭和事件簿。

古本屋は、おじいちゃん。駄菓子屋は、おばあちゃん。田舎の町にも必ずあった、二つの子どもたちの行きつけの店は、店番の人が決まっていた。古本屋でおばあちゃんに会ったことはなく、駄菓子屋でおじいちゃんから買ったことも、僕はない。

●駄菓子屋のおばあちゃん(の指先)事件

小学校5年生。島根県益田市鎌手小学校に通っていた時代。お袋の実家は、広大な敷地に建つ、築100年以上にはなるというお屋敷。その横に貼りつくように建っていた離れで、僕たち家族三人は、鶏数羽と暮らしていた。山陰本線の線路まで続く家の脇の小道を逆に歩くと国道9号線。出た角に、駄菓子屋があった。冬は水仙、夏はさざえ、とちょっと小遣いを稼いだりしながら、ほぼ毎日僕は、その駄菓子屋に通っていた。

たまにトラックが通ると、舗装されていない国道からは土埃が立ち上り、駄菓子屋の中にも舞い込んだ。木枠に板ガラスを嵌め込んだケースとアルミの蓋付きのガラスのボックスが並んだ店内の奥に、平然とおばあちゃんはいた。

夏の日だった。バスの土埃が治まるのを待って、声を掛けた。「こんにちは~~~!」。「はぁ~い」。少しだけ腰の曲がったおばあちゃんが、上目遣いで微笑みかけてくる。「五厘玉くださ~い」。一個五円の大粒の飴玉のことを、なぜか僕たちは“五厘玉”と教えられていた。昔は、五厘で売られていたのだろうか。アルミの蓋付きのガラスボックスは、その大きな飴玉や煎餅のためのものだった。

「どれがいい?」。おばあちゃんがボックスを指差す。「え~と、その青いの~」と、僕。蓋を開けて一個つまむおばあちゃん。「あ!ごめん。赤いのにして!」と、変更。「こっちのかね」。と言いつつ、嫌な顔一つせずに青い飴玉を元に戻すおばあちゃん。

そして、‥‥。僕は目を疑った。‥‥。おばあちゃんは、赤い飴玉の入ったボックスの蓋を開けると、右手の親指と人差し指を交互に丁寧に舐めて、一個つまみ出したのだ。店内にぶら下げてある新聞紙の切れ端をひょいと破りとって、その上に赤い五厘玉を乗せて「はい」と差し出されても、すぐには受け取れなかった。心なしか、赤い五厘玉は、新聞紙に粘りついてるように見えた。僕は急いで持ち帰り、洗ってから口にした。

それから以降、僕が観察している限り、おばあちゃんはいつも指先を舐めてから飴を取り出し、新聞紙に置いた後もきれいに2本の指先を舐めていた。不思議なことに、僕はいつの間にか、洗わずに食べるようになっていた。

60sFACTORYプロデューサーKakky(柿本)

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リハビリ日和

初台リハビリテーション病院5F、ほとんどが一般病室(4人部屋)のフロアの一角、食堂スペースの廊下よりのテーブルが、なんとなく僕、Fさん、Sさんの指定席になっていた。いつも笑いが絶えなかった。2006年、晩秋から初冬にかけての2ヶ月は、瞬く間に過ぎた。車椅子で入院した僕は、杖に頼りながらも、歩いて退院した。それから、1年と3ヶ月。様々な環境の変化に洗い流されることもなく、いい人たちに支えられて、「変わらないねえ」と久しぶりに会った人に言われるKakkyでいることができている。

時には、身体の動きの悪さや痛みに心が澱んでしまうこともあるが、「僕は、変温動物になりました」と親しい人たちに言っている通り、気温と好天に恵まれさえすれば、歩行の不安も身体の痛みも減少し、心の澱みなど瞬時に一掃されてしまう。寒さこそ大敵。暑いくらい暖かい方が望ましいのである。元来、晴れ男で夏男の僕としては、変温動物も悪くはない、というところ。

初台リハビリテーション病院5Fの食堂から窓外の景色を見ては、病院内の環境に恵まれているのをいいことに、寒風が吹き荒れ始めると「いやあ、今日はリハビリ日和ですねえ」などと笑っていたのを思い出す。ゴルフが大好きだったというFさんなどは、晴れ渡った景色には「今日は、リハビリには向かない日ですねえ」と、渋面を隠さなかった。今はきっと、晴れた日を素直に喜ぶ変温動物になっているはず。まともな話である。

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退院数日前、美容家のかづきれいこさんのパーティに出かけた。「脱走するぞ~」と叫びながら、エレベーターに乗った。会場への往復はタクシー。会場内をぽつぽつと歩くたびに、不安が募った。お酒を飲んで、記念写真を撮られながら、これからどうしよう、と内心思った。

25年以上も愛用していたマドラスチェックのジャケット(写真のもの/少し関わっていた新ブランドの製品)を思い切って捨てたのは、このパーティの後だった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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脳卒中のその後

初台リハビリテーション病院仲間のFさんから一ヶ月ぶりの電話あり。NHKの特集を観て思い出してくれたようだ。「発症後3~6ヶ月で、リハビリ効果はストップ。その後は後遺症を抱えていかなくてはならない。という常識が覆るかもしれませんよ」とのことで、要するに、激励をしてくれたようだ。

(Kakkyの昭和おもしろ事件簿は、一つ前に②があります。)

CI療法という、最近話題の療法に関して、Fさんは熱く語り、ちょっとずつでも前進しましょう、と締めくくった。番組を録画したDVDを送ってくれるようだ。“同病相憐れむ”という言葉があるが、マイナスのものではない。少しでも経過良好な人間が、同病の人の支えや情報提供者になろうとする、というのが最も効果あることだと思う。大学の同窓生と飲み歩くことや、懐かしのアイドルのコンサートに結集することと大差はない。何かできないか。ずっと考えていることである。

経堂のピーコックの店内で数度見かけた、スーツ姿でリュックを背負い、杖をつきながら不安定な歩行で、買い物をするわけでもない同年代の男性。明らかに脳卒中発症者だった。最近見かけない。ホームレスには厳しいこの寒空である。どうされているのであろう。家族に見放されたのでなければ、いいが(よくあることのようだ)‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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Kakkyの昭和おもしろ事件簿②

Kakkyの昭和おもしろ事件簿

*前回の“遠足バナナ事件”。以前友人に話した時、「お母さんが、切手おいてあげればいいのに~」という感想があった。そのことに関連して、いくつか思い出すことがあった。当時、沢庵は各家庭で作っていたが、僕の家は、いただいていた。小学生の記憶でも、沢庵は今より細かった。大根の収穫を楽しくお手伝いしたこともあるが、農法の違いか、種類の違いか、やはり今より小ぶりだったように思う。切らずに丸齧りする沢庵の食べ方。僕は好きだった。切った沢庵をお皿に盛り、それを口にしながらお茶を飲む、という姿が老人のイメージだったからかもしれない。

●肥えつぼ転落事件

小学校3年生の晩秋だったと思う。秋晴れの日が続いていた。稲刈りが終わった田圃は、絶好の遊び場だ。学校では、教師が時々注意を促していた。「肥えつぼに落ちないように気を付けるんだ~~」。畦道沿い所々に、肥えつぼがあるのは田舎の常識。大切な肥料として各農家の排泄物は、そこで熟成される。ECOつぼである。好天が続くと、何がそうなっていくのか、肥えつぼの表面は白く固まってくる。まるで、大きな白い煎餅がぽっかり浮いているようだ。

遊び道具に乏しい沢谷の子どもの一人が、その巨大煎餅を目にして危険な遊びを思いついた。その煎餅の上を走り抜けよう、というのである。確かに硬そうで、一歩だけ瞬時に踏みつけて通り越すのであれば、大丈夫だとも思える。しかも、その頃はちょっとした忍者ブーム。右足が沈む前に左足を出し左足が沈む前に右足を出せば、水の上だって歩ける、ということを真顔で熱く語る子どもがいたくらいだった。「やろう、やろう!」と、あっという間にまとまった。

ところが、子どもは5~6名。縦に並んで、順に跳んでいくことになる。さすがに、列の後ろになるのは不安だ。で、じゃんけんをした。僕は、真ん中辺りだった。嫌だったが、最後尾の友達の不安そうな顔を見ると、なぜか安心した。

始まった。確かに、硬い。しかし、足がぴょんと乗るたびに、ちょっと嫌な音もする。僕は、自分の順番が来たとき、できるだけ踏みつける時に体重を乗せないように意識した。そんなことできるわけなかた。メリ!っと裂けていく音がした。無事わたって振り向くと、次の子の強張った表情が目に入った。しかし、彼も無事だった。そして、最後尾。みんなが無事だったせいか、安心にちょっと頬を緩ませながら、彼はスタートした。トンと、巨大煎餅を踏んだ瞬間、それは割れた。「なぜ~~?」といった不思議な表情を見せて、彼は落ちた。みんな遠巻きになった。なんとか抜け出した彼は、川の方へと走っていった。

後日、「あの中って、温かいよ~~」と、落ちた子から聞いた。その時も、聞いたみんなは一歩飛び下がった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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Kakkyの昭和おもしろ事件簿

僕(Kakky)は、田舎者である。島根県という、日本で一番場所がわかりにくい県(ハナワ、がばいばあちゃん以前は、佐賀県の後塵を拝していたのに‥‥)で生まれ育ち、京都、東京と上ってきた、お上りさんである。だから、「初めて」をたくさん経験してきた。

昭和が注目されているのは、昭和という田舎(時空を越えた、それぞれの心の故郷)への郷愁であろう。具体的に場所として田舎を持っている田舎者にとっては、昭和は郷愁だけでは語れない、ちょっと痛い思い出もある時代。ただ、さすがに時間が経つと、痛みは薄れ、妙に笑いだけが残る。

そんな僕(Kakky)の「昭和おもしろ事件簿」を、しばし綴ってみよう。

●遠足“バナナ”事件

昭和33年、小学校3年生の春のことである。島根県邑智郡沢谷の沢谷小学校という、中国山地の奥深い山間の小学校に、僕はいた。団塊世代だというのに、クラスは一つ。中学校は、分校だった。その春、遠足を前にして、ガリ版紙が配布された。PTAと協議した結果の通達だった。遠足に持参してはいけない物リストだった。貧しいのが普通の村だったが、ごくわずかの裕福な家庭の存在を気にしてのことだった。“平等”が金科玉条のように叫ばれた時代。平等は、頭を出す存在を抑えることでもたらされる、という安易な考えが、そこにはあった。

禁止になった物で、みんなが「そんな物持ってくる奴、おるんか~?」と話題にしたのが、チョコレートとバナナ。いずれも、口にした経験を思い出話で語る権利があればいい方だ、という代物。生活保護を受けながらパチンコ屋に入り浸り教え子の店員にこっそり玉を出してもらっていた親父の横で、背伸びして玉を弾き、出るとウィスキーボンボンを食べるのを楽しみにしていたことなど、とても友達に話すことはできなかった。明治の板チョコは、いつも垂涎の的。駄菓子屋の棚、子どもたちの手の届かないところで宝物のように輝いて見えた。

遠足の当日、入梅前の好天。時折、牛が草を食んでいるのを見かける小高い丘まで、にぎやかに歩いていった。「牛のうんこに気をつけて!」と注意しながら、早速お弁当。三人で車座になり、おにぎり、いなり寿司、玉子焼き、ソーセージがきれいに並んでいる弁当箱を開けた。みんな似たような内容の弁当だった。澄んだ空気。穏やかな日差し‥‥。おにぎりを一段とおいしく感じた。満足そうな顔が並んでいた。平等に、平和だった。

ところが、突然一人のおにぎりを口に運ぶ手が止まった。「誰か、ほら、向こうで、バナナ食べてる!」。上ずった声だった。車座になった三人は、一斉に一人が指差さした方向を見た。谷へと急傾斜で下っていく際の辺りに、一人佇んでいるのが見えた。少し距離がある。目を凝らすと、確かにその手にはバナナが握られている。やがて、それが口に運ばれていく。「禁止なのに!」。一人が呻く。と、三人は一斉に立ち上がっていた。奴を懲らしめよう、という連帯感が生まれていた。走り始めた。僕は、殴りかかってやろうと、こぶしを握り締めた。

全速力だった。彼がずんずん近くなった。と、ある距離で、三人の足は急激に止まった。ほとんど同時に気付いたからだった。彼が握っていたのは、沢庵だったのだ。三人とも無言で、静かに自分の弁当に戻った。やけに照れくさかった。

それから後のことは、まったく記憶にない。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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家族>個人の、昭和の家族

進学に関して、同級生にこんなケースもあった。

農家の息子の場合、家庭にキャッシュフローが乏しいのが大きな問題になることが多い。農協がこと細かく面倒を見るようになるまでは、現金が必要となると、農家は大変だった。「一家に一人は欲しい、給料取り」というのが、合言葉のような時代。中学や高校を卒業した娘が給料をもらうようになることが、農家にとっていかに大きな意味を持ったか。当時の農家の暮らしを知る人も少なくなりつつある。

そんな普通の農家の息子にとって、受験・進学は、現金を必要とするということが大きな問題だった。生きていく、すなわち食べるということにおいてはいかに豊かであっても、貨幣なしにはなんとも不自由な時代に突入していることを、彼らは思い知らされるのだった。

ある同級生は、両親が農業の合間に作った時間で得た現金(祖父も、頑張った)が、進学を可能にしてくれた。彼は、そんな家族の姿を目の当たりにし、近代的な農業のあり方を探ろうと、農学部への進学を決めた。両親の強い反対を受けたが、彼の強い意志は変わらなかった。僕は、「えらい!頑張れ!いいことだ!」と、心から応援したのを覚えている。彼は、鳥取大学の農学部へと進学していった。きっと、すばらしい農業研究者になっていることだろう。

またある同級生は、悩んだ末に、両親の前で土下座した。「お願いします!田圃を、売ってください!」。そう懇願した。両親は、「わかった、わかった。大丈夫」。にこやかにそう言って、本当に田圃の一部を売ってくれた。彼は、そのお金で進学できた。

ある同級生の悩みは、むしろ弟妹のことだった。彼の進学は、弟妹の高校進学を不可能にする。むしろ、お金はもっと必要だったのだ。高校2年生の時からずっと悩みを抱えたまま、真面目に勉強に取り組む彼の姿に、どんな解決策があるのか、他人事とはいえ、気になって仕方なかった。3年生の春、突然ぽっこりと抜けたような笑顔の彼が僕の前に現れた。「防衛大学に行くよ」。そう言って、晴れ晴れと微笑んだ。なんだかもったいないような気がした。すると、その気持を察したのか「大学生でも給料が出るんだって、防衛大学は。仕送りできるんじゃけえ、僕にぴったりじゃあ」と、誇らしげに説明してくれた。知らなかった。彼は、大阪大学も受け、両方合格して見せ、防衛大学へと進学した。

40代、実にきちんとした立派な防衛官(幹部)になって、彼は僕の事務所にやってきた。奥さんは保険の仕事をバリバリこなす明るい人だった。少年時代、彼の心の隅にわだかまり続けていたことを解決できるエネルギーを持った人だった。

高度経済成長が、田舎の暮らしの根本さえ変えていく直前、昭和40年代前半のことである。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和の家族と進学-②

「学費なんか、自分で稼げばいい!」。そう言い切ってみたものの、田舎の町に高校生がバイトをする場所など皆無だ。バス会社の奨学生制度を利用し、登下校の際、車掌として働くなどというのはあるが、喫茶店も数件しかなく、外食店も数えるほど。おまけに、バイトどころか喫茶店に行くこと自体、60年代の田舎の高校の校則では禁止。坊主頭をなんとか隠し、店内の片隅で慣れない珈琲の苦味を大人の味とばかりに噛み締めているところを見つかり、停学一週間の処分を受けた同級生がいるくらいだ。

「家庭教師やればいいんじゃない?!」。何も思いつかず、僕は苦し紛れにそう言った。Y君、意外だったらしく「え?誰の?どこで?」と、反応。しかし、その言葉のために、思いつきは現実味を帯びてしまった。「見つかったら停学じゃのお」と、Y君腕を組む。それ以前に、家庭教師の口があるのか、僕は妙に自分の吐いた言葉に責任を感じ始めていた。そして遂には“えいや!”の気分。「俺が、見つけてやるよ。停学が怖いんなら、俺も家庭教師やるから。二人ならええか?」。宣言してしまった。

それからどうしたのか、家庭教師の口をどうして見つけたのか、夢中だったのだろう、覚えていない。ただ、いつの間にか中学生の家庭教師にY君は収まっていた。学費の捻出程度はできたようだった。

30代中盤、バブル直前、突然同級生から電話があった。僕は、マーケティング&広告制作の会社“オフィス・フライデイ”(毎日が金曜日の気分で過ごしたい、という意味)を始めて数年になっていた。「Y君が東京に来てるから、今夜飲もうぜ」というお誘い。もちろん、OKだ。

池袋のサントリー・パブで会った。Y君は、めでたく広島大学に合格した後、卒業して都市銀行に就職。その時は、中部地方のとある都市の支店長になったばかりだった。思い出話に花が咲いた。「進学諦めなくて、よかったよ」と感謝された。しかし、一点、気に入らないことがあるようだった。ずっと言いたかったことのようだった。「何だよ~~」。お酒と感謝の言葉に少々酔っていた僕は、Y君の肩を叩いた。

「お前結局、一緒にやると言いながら、家庭教師やらなかったよな」。含み笑いのY君は、一緒に飲んでいた同級生たちにもわかるようにゆっくり言い、僕の肩を叩いた。「あっ!」と小さく叫びそうだった。すっかり忘れていた。「お前に譲ったんじゃなかった?」と咄嗟の嘘で切り抜けようとしたら思い出した。

僕の親父は、他の高校の教師をしていて、しかも補導係。家庭教師をしようとしているのに気付かれ、こう言って脅され、止めさせられたのだった。「校則違反をしてお前が停学になったら、俺は退職する!」。

そのことは言えなかった。「停学になったらやばいしな」とは言った。Y君は「そうか、そうか。俺だけが危険な思いをしていたんだ」と笑った。

大切なことが記憶から欠落することもあるもんだなあ、と実感した夜だった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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