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昭和の家族と進学

60年代、僕の田舎(島根県益田市)では、進学はまだまだ一大事だった。のほほんと暮らしていた僕は、高校進学も大学進学も、自然の成り行きのような感覚。高校までは義務教育かのような感覚で見つめていた。「進学なんかしない。役にも立たないことを勉強するくらいだったら、大工になる」などと宣言してみたりしていたのも、所詮甘え。さしたる思想があったわけではない。ただ、集団就職をしていく同級生がいることを知り、恵まれていることに対する申し訳なさ、差別や区別が中学を卒業する段階で生まれていくことへの疑問や対象の判然としない憤りががあったことも確かだった。僕だけが道を狭められることもない、ということは我慢できないことでもあった。(集団就職した同級生の物語は、後日)

島根県立益田高校入学の時点でも、そんな甘く霞んだ意識が変わることはなかったが、ある事件がきっかけで、平和な時代は中学で終わったんだということを思い知らされ、次第に変化していかざるをえなかった。

僕の卒業した横田中学校は、益田市の中心部益田駅から山口線で一駅、バスだと約30分の所にあった。地方の小都市の郊外、農村地帯の真ん中である。市部の中学校とは、校風も生徒の気質も大いに異なった。競争意識が希薄で暢気、勉学意欲などないに等しかった。

高校1年生の初夏、その意識の差が出た。放課後、竹箒でずるずると掃除をしていると、それぞれ出身校の異なる市部出身の同級生三人に、突然囲まれた。それでなくても同じ中学出身者がクラスにいなくて心細かった僕は、いじめられるものと思い、身を硬め心構えをした。三人は、しかし、やがて僕の前に横に並んで一呼吸し、誰が代表で話すか、譲り合っているように見えた。僕は、いじめではないと確信し、ちょっと横柄になった。「何?何なの?」。詰問口調で、急かした。一人が進み出た。「言っておきたいことがある。この三人が全員、今年中に、お前より成績が上になるからな!」。そう一気に吐きつけると、どういうわけか、勝ち誇ったように足早に消えていった。

僕は、竹箒を胸の前で少女のように握り締め、呆然と彼らを見送っていた。彼らが醸し出している熱気が理解できなかった。高校は違うんだ、と実感した。寂しかった。

それから二年。3年生の春、三人の内の一人Y君から、呼び出された。彼は2年生からは、別のクラスになっていた。体育館横で話すことにした。相談のようだった。

「俺、大学諦めるよ」。第一声に驚いた。広島大学を志望していると聞いていた。「なんで?お前なら受かるよ。なんで?なんで?」。少し、怒りに近いものを感じていた。彼は、困った顔になり、しばし口ごもった。「金がないんじゃ。弟にも進学させたいし‥‥。高校の授業料もちょっと無理になってきてるけえ」。俯いたままだった。「なんだ!そんなことか。そんなことで諦めちゃ駄目じゃ」。咄嗟に、僕はそう言った。彼は、困った顔を上げた。

次の瞬間、どうすべきか、すぐに思いついた当たり前のことを、僕は、口にしていた。「自分でそれくらい稼げばいいじゃない?」。それに次ぐべき言葉を考えながら、僕は思いっきりの笑顔をして見せた。青春映画の演技をしている感覚に、やや面映かった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和の家族ー大雪事件②

「お父ちゃんが、埋まった~~!」「お父ちゃんが~~!」‥‥、続けざまに聞こえてくるてっちゃんの叫び声に、僕は雪の道路に駆け上がった。近所の家から、男たちが手に手に雪かきの道具を持って飛び出し、石川米穀店に向かっていた。てっちゃんは、叫ぶのを止めなかった。少しずつ向きを変えながら、「お父ちゃんが、埋まった~~!」と訴え続けていた。その足元は、裸足。尋常ではないことがわかる。

親父の後を追って、てっちゃんの家に到着。台所の土間を、大人たちと一緒に駆け抜ける。中庭に到着すると、大きな雪の山ができている。2~3段重ねの鶏のケージが、小さな養鶏場のように並んでいた所だ。「鶏小屋見に行ってて、雪が落ちてきて‥‥」。駆け戻ってきたてっちゃんが、後ろから大声で状況説明をしている。男たちは、雪山との格闘に次々参戦。「おじさんを傷つけないようにね」「そっと、そっと」と声を掛け合いながら、急ピッチで山を崩していく。てっちゃんは、裸足のままただうろうろするばかりだ。

数分経った頃だったろうか、てっちゃんのお母さんの声が聞こえてきた。「お父ちゃん、見つかったよ~!」「お父ちゃん、いたよ~!」。男たちの一部の手が止まる。しかし、事態ははっきりしない。掘り起こす作業は続いた。

てっちゃんが、「え~~?何~~?どうしたって~~?」と、お母さんの声のした台所の方へ向かおうとした、その時、「わしが埋まったって~~?」と、てっちゃんのお父さんが中庭にひょっこり現れた。雪との格闘を続けていた人たちが順に振り向く。中には、二度見をする人もいる。お父さんは、煙草を片手に寒そうに肩をすくめている。てっちゃんは、一瞬事態が飲み込めず立ち尽くし、それからお父さんの胸に飛び込んだ。「馬鹿~~!お父ちゃん!‥‥馬鹿~!」と叫んで大泣きを始めた。お父さんは、「いやあ、わしが埋まったって聞いたから戻ってきたんじゃ」と、のんびり声。「だって、‥、だって、‥、鶏小屋見に行ってたじゃない」と、途切れ途切れになじるてっちゃん。「行ったで。行ったけど、すぐに出かけたんじゃけどのお」と、あくまでものんびりのお父さん。お母さんと、お姉さんが「どうも、すみませんでした」と連呼し、駆けつけた男たちの「まあまあ、無事でよかった、よかった」の笑顔で、事件は笑い話で決着。10分少々くらいの出来事だった。

一大事と緊張に包まれた石川米穀店の中庭は、一転和やかな笑いに包まれることになったが、僕は、てっちゃんの家庭の温かさに触れた思いだった。

僕が遊びに行った時のてっちゃんは、お母さんとはいつも言葉険しく衝突し、お父さんには注意をされてはうるさそうにしていることが多かった。その裏にある情愛に気付くまでの間、僕は、商売をしている家は大変だなあ、とぼんやり思っていた。てっちゃんが、包丁を持ってお母さんに向かって行き、お母さんが平然と正面から向き合っている場面を目にしたり、お父さんに殴られるのを目撃したりしていると、時には、てっちゃんが可哀想になることさえあった。

てっちゃんのお父さんとお母さんが口喧嘩をする場面にも、何度か遭遇した。どちらが正しいのか、よくはわからなかった。ただ、謝っている姿も、勝ち誇った姿も目にしたことはなかった。いつの間にかそれぞれの仕事に向かいながら、それでも大声で言い合い、「わからん奴じゃのお」といった、少し大きめな音の独り言で自然に収束していたような気がする。

僕は、ずっと後になり、大学で最も気に入っていた鯵坂二夫教授の教育学の講義を受けた頃、ふと気付いた。てっちゃんの家族は、とても健全な昭和の家族だったのだ。だからこそ、昭和のガキ大将は、生まれたのだ。

二律背反。競合と調和。信頼と責任。分担と協力。‥‥。今からではいいところしか思い出せなくなっていることを割り引いても、てっちゃんの家族、石川米穀店一家は、いいバランスの上に、成り立っていたのだと思う。

はっきりと気付くには、病気になる必要が、僕にはあったようだ。‥‥。嗚呼‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和の家族ー大雪事件

今日(1月23日)、東京に雪が降った。大都会に降る雪は、都市的なものをすべて自然の色に染めてくれる。白く染まったビル群を目にするのは悪くない。昨日、リハビリの指導を受けながら、セラピストの方と「ふがいない天気だったねえ、日曜は。久しぶりに真っ白な景色を見ることができるはずだったのにねえ」などと、いさぎよくない天気にいちゃもんをつけまくったばかりだっただけに、ちょっとばかり気分が浮き立った。お気に入りの借景を眺めに、階段をうんしょと上がり、二階のベランダへ出た。寒さに身をすくめながら、ポケットに入れて運んだデジカメのシャッターを押した。

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はす向かいの「小唄のお師匠」さんのお宅の裏庭。平屋、長い濡れ縁、雨戸、庭には梅の木‥‥。懐かしく、心の和む典型的な「日本の家」である。お師匠さん、お元気なのだろうか、残念ながら、小唄を耳にすることはない。‥‥。

記録的な豪雪が日本を襲ったのは、昭和38年だった。

中学1年生の僕は、大雪になるという予報にわくわくしながら、はらはらと降り始めた雪を掌で受け止め瞬く間に溶けていくのを確認してから、床に就いた。朝早くだった。親父の慌てる声で飛び起き、窓外の深い雪景色に驚いた。ちょっぴりにんまりとしながら玄関に向かうと、入り口の引き戸と悪戦苦闘している親父がいた。一晩で降った雪の重みで戸が開かないと言う。ガラス越しに見えるのは、雪一色。道路も見えない。道路が白い壁となって軒先近くにまで達している状況。見たこともない事態に、しばし茫然とした。

「洋一!手伝え!」。額に汗が滲んでいる親父に、なじるように言われ、急いでセーターを被り、たたきに飛び降りて手を貸したが、ぴくりとも動いてくれない。心なしか、玄関の引き戸はたわんでいる。電話がないから、助けも呼べない。閉じ込められるのかなあ。食料は大丈夫かなあ。学校は‥‥。と、馬鹿なことばかり思い浮かべながら、お袋が運んでくるお湯を桟にかけては、親父と戸を引き続けること数十分(‥に思えた‥)。ずずずっと隙間ができた。親父は、小さなショベルを持ってすり抜け、まず路上に上がるための刻みを階段状に作り、「屋根の雪、降ろさんとのお」と屋根に上がっていった。上がっていった方法は覚えていないが、しばらくすると、家のすべての窓や戸が、なんとか開くようになった。

学校は、お休み。まだそれぞれ家のことで忙しく、遊びに出てくるものもいない静かな通りに、米屋のてっちゃんの叫び声が響き渡ったのは、お昼前のことだった。

僕はその頃、小学校2年生の時にやってきたお袋と、まだどこか折り合いがつけきれずにいた。そんな僕にとって、他人の家庭は、たまに垣間見るだけのもので、強く印象に残るものではなかったが、てっちゃんの家は違った。“昭和のガキ大将”てっちゃんは、気楽に友達を家族の輪の中に入れてくれたからだ。普通の家族のやり取りを、同じ空気を吸いながら、僕は体感できた。

二つの価値観がぶつかり合い、絡み合いながら家族というものを織り成していた「昭和の家族」。‥‥僕とっての最初の典型は、てっちゃんの家族だった。

大雪の日の事件は、そんなてっちゃんの家族らしい事件だった。(本ブログで、以前にも書いたが、また触れてみたい‥‥雪の東京にちなんで‥‥)

                 -続くー

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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リハビリというビジネスー③

「チームで対応します」という初台リハビリテーション病院のリハビリ体制は、しかし、発展途上のものに思えた。

患者一人ひとりに理学療法士、作業療法士、言語療法士の担当がつき、さらに、看護士、ケースワーカーなど、必要と思われるフォローをするスタッフも決まる。その全員と顔を合わせ、状態のチェックを受け、「私たちが、チームで対応します」と紹介されて始まったリハビリ入院生活だったが、三日目には、担当のセラピストの一人がお休みで、「替わりに、○○が担当させていただきま~す」と現れ、その状態が数日続いた。リハビリの指導を受けつつ、チームとしてのコミュニケーションはどのように取られ、僕に対する指導法や判断の共有はどの程度行われているのか、読み取ろうとするのだが、何も伝わってこない。結局、退院に至るまで、チームとしての姿は見えてこなかった。

療法士の担当が決まっているだけでは、本来はチームではない。お互いが一人一人の患者を巡って情報交換を行い、今に対応するだけではなく、先を考えていくべきである。お休みを取ることに対しては、患者は納得している。問題は、継続的に何を目指し、何をチェックし続けるか、そのために、スタッフが替わろうとも、患者を巡る情報は的確に伝えられていくこと。それが、チーム制の基本だと思われる。

療法士の数不足、リハビリの歴史が浅いことに由来するスキル・知識の標準化の難しさ、ハードな現場、それに対して増え続けるリハビリ・ニーズ。‥‥。それは、医療とは異なる事情を数多く含むものであるがゆえに、医者を頂点とするチーム、という考え方では対処できないのかもしれない。しかも、療法士の数とスキルの向上は、彼らを取り巻く労働環境の改善無くしてありえない。

リハビリというビジネス。そのあり方とノウハウの蓄積が問われる所以である。

患者との接点が現場のリハビリ。療法士と患者との接点から、学べるケースでは徹底的に学ぶ必要があるだろう。医者も療法士も、患者にはなれないのだから。そのためには、「診てやる」という一方的な姿勢になりがちな医療の考えを、インタラクティブなコミュニケーションを基本とする考えに、まず切り替えていくべきであろう。患者は、情報の宝庫だと考えなければ、そして、ノウハウの蓄積は情報収集から始まると認識しなければ、リハビリというものを、患者と一緒に変化させていくことはできない。そして、患者と一緒に変化させていくことが、ビジネスとしての側面に対する理解を深めていくことにつながるはずなのである。

そんな、強く熱い意志は、初台リハビリテーション病院で患者をしている間は、あまり感じられなかった。一番残念だったことである。

WillなくしてSkillは身に付かず、Skillなくして、Willは成就できない。

少し、現実というものに流され始めているのかなあ。

*次回より、“昭和の家族”再開!

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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リハビリというビジネスー②

リハビリのノウハウは、現場に集積されていく。言い換えれば、療法士の元で磨かれていくものである。それを組織のもの、すなわち経営のノウハウと連動させていく、というのはなかなか難しいことである。それはまるで、商社においては商権が商社マンの手元にあることが多く、広告代理店においてはクライアントの信頼が一人のAEやクリエイターに集中するのに似ている。信頼やノウハウ、さらに言えば情報も、人に向かって集まることが多い。当然、優秀な人にはより多く集まるものである。優秀な人材を集め、そこに集積されていくノウハウや情報を組織のもの、すなわち企業の資産へと転換していく、その方法論とノウハウがビジネスを生み出す。リハビリの世界において、初台リハビリテーション病院は、より高度なリハビリの提供と経営の両立を、どのようなビジネスモデルを構築することで実現しているのであろうか?儲けてはいけないかのような風潮があり、他方ではリハビリに携わる人たちの待遇が恵まれていないことを問題視し、また一方では危機的状況にある保険制度が取り沙汰されるという、リハビリを取り巻く環境の複雑さを切り開くのは、新しいビジネスモデルであろう。そう思っていた。

初台リハビリテーション病院を下見し、いろいろヒヤリングしてきたKapparの話を聞いて印象に残ったのは、「理学療法、作業療法、言語療法など専門の療法士がチームで対応してくれるんだって」という言葉だった。縦割りで起きる問題を排除しつつ、一人ひとりの患者に総合的に対応していこう、という言わば“チーム医療”のようなリハビリ体制だと思えたからだった。

入院初日、病院の、リハビリのための施設として配慮が行き届いた環境、迎えてくれた、チームのスーパーバイザーかと思ったスタッフの対応、病室のレイアウト、等々、期待は高まるばかりだった。

弱い立場になると、期待は過剰になりすぎるものであり、落胆は必要以上に深くなりがちなものである。それは自制しなくてはならない。そう思っていたところ、それは最初の診察で、しっかりと言われることとなった。

「余談」

*昨年は、近い人が合計三人、癌の手術を受けた。一人は、回復。一人は、未だ入院中。そして、一人は‥‥。ということになった。語るべき言葉もない。ただ、脳卒中に倒れた時に、いろいろ思ったことの一端を披瀝しておきたいと思う。

本来、存在というものは不確かなものだと思う。

高校三年の時、哲学を中途半端に齧った友人が、「お前たちに見えているものだって、俺には見えないと信じ込んでしまえば、俺にとっては、存在しないんだ」と、放課後の掃除の時間に言い始め、しばらく付き合った僕も、ついには「いいから、いいから。早く机を移動させて!」と投げ出したことがあるが、ストレッチャーの上で、ふとそのことを思い出したりしていた。五感なんて脳の作業。脳細胞を損傷すると、他人には存在するものも僕にとっては存在しなくなる、なんてこともあるんだなあ。と、哲学半可通友人のかつての言葉を改めて噛み締めていたのだ。

人やモノを愛するということは、その存在そのものを慈しむことだと、僕は思う。与えられるコトやモノに置き換えることができるものではない。

だから、人は人に触れたがるのだと、僕は思っている。五感の中で、存在を最も実感できるのは、触感だからである。暗闇でも、ひどい臭気に溢れた場所でも、温かい人の肌に触れると、きっと安心できるはずだ。ハグをする。鼻先と鼻先をこすりあう。初めて会った者同士が握手する。ETは。指先をちょんとつき合わせる‥‥。すべてそうやって、存在の確認をし、慈しみあう関係になれるかどうかの確認作業を開始する(つまり付き合いを始める)のである。手も握る勇気がない、というのは、存在の確認を始めることに対する怯え、つまり自信のなさかもしれない。

存在がなくなってしまう。ということは、本来不確かな存在というものの確認作業ができなくなっただけ。存在は、基本的にはそれぞれの心の作業よって存在する固有のもの。簡単に消滅もするが、不滅のものでもある。残った者の心の持ちようなのだ。

Skillは引き継がれていく。しかし、Willは、連鎖はするものの、継がれていくものではない。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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リハビリというビジネスー①

約30年前、仕事が順調でややゆとりがあった頃、「シルバーマーケット」という言葉を初めて目にし、まず大きな疑問を感じた。マーケットと呼ぶからには、シルバー(この表現も、その頃始まったように記憶している)と呼ばれる人たちに消費力がなくてはならない。“老後のための蓄え”を、潜在的消費力と呼んでいいのであろうか。シルバーマーケットを真剣に考えていくのであれば、シルバーをいかに“生産者”にしていくか、を考えなくてはならないはずだ。そう、思ったのだ。 *団塊マーケットにも同様な問題はある。

で、僕は考えた。シルバー同士が生産者と消費者になればいいのだ、と。早速、ゆとりがあるのに任せて、企画書を作った。

養老院専門のフリーペーパー企画だった。それ以前から、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と一律に呼ばれ(今はそういうことはないようだが)固有名詞をなくしていく養老院に入居している老人たちの心根を想像して残念に思っていた。また、京都の下宿先のおじいちゃんが、80歳を過ぎても現役の宮大工だったのが強く印象に残っていたからかもしれないが、人は誰でも死の直前まで生産者たりうる、と信じていた。だから、養老院で暮らす人たちにも生産者でい続けてもらいたい。そのために、生産されたものを販売するための通販機能のあるフリーペーパーがあればいいのでは、と考えたのだった。

自分で運営しようと思っていた。企業からの商品広告、協賛広告の獲得と、通販を通じて得ることができる少しの利益があればやっていける、と考えていた。そのためには、まずは養老院の協力を得なくては、とプレゼンをした。駄目だった。残念だったが、いつか実現したいという思いは、むしろ強く残った。

親父が肝臓癌を再発した際、「Quality Of Lifeの方が重要だ。ただ生きていて何の意味がある?!」と、放射線治療を止めて自宅での普通の暮らしを選んだ時、50歳を少し越えていた僕は、改めて思った。僕は、これから何らかの生産者でい続ける道を選んでいかなくてはならない、と。

ビジネスと言うと大げさに聞こえる。しかし、生産者でい続けるということは、規模の大小は別にして、経済行為に関わっていくということである。趣味と仲間の世界に沈殿することとは違う。

そんな思いが強く、僕にとっての生産とは?を考え、準備していた矢先の脳卒中発症であり、入院生活だった。したがって、初台リハビリテーション病院への入院は、リハビリを受ける側の視点だけではなく、リハビリというビジネスがいかにして成立していくのか、実態はどうなっているのか、という視点からも興味があった。いろいろと考えることが多かった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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過去からの贈り物?!

昨年11月、とある女性から突然連絡があった。MFU(メンズファッション協会)の委員を仰せつかり、あれやこれや企画を始めていた頃にご一緒した女性で、なかなか魅力的で仕事のできる人だ。大阪女の気風のよさをもっている人で、同い年。最初にお会いしたのは29歳で、MFUの長良川花火大会見物の時だったように思う。最後にお会いしたのは、40歳。大阪で彼女が副業で経営していたバーのカウンター越しだったと思う。‥‥。

それから、約18年。電話をいただき、会うことになった。彼女は関東に移住してきていて、ご主人と興した会社を盛り立て、相変わらずクルマで東奔西走する日々。近くで落ち合い、ファミレスで話すことになった。

杖を突いてひょこ歩きの僕に、「まあ、こんな身体になって~」とニコニコした後、「変わらへんなあ。でも、これ以上悪うならんといてや」と、昔と変わらない口調の彼女に、「悪くなるって‥。あのねえ。ここまで良くなったんだから~」と返しながら、どうしても笑顔になってしまう僕。珈琲だけで四時間、これまでを話していると、18年なんて短いものだと思った。あれこれ相談を受け、協力を誓い、その後仲間に紹介してみんなにも気に入ってもらったりしていると、やがて彼女は、過去からの贈り物のような気がしてきた。

不思議なことに、その後相次いで20年以上会ったことのなかった旧知の人が訪ねてきた。何かが動いている感じがする。プレッシャーに押されるように動いていた時には経験しなかった感触だ。どこかに安心感がある自然な胎動‥‥。何かを成さねば!と気張ることなく、自分の役割とできることを見つめていればいい、という感じは、初めてかもしれない。

スタートもゴールも意識せずにレースを始めてしまっている自分に気付くのもいいかもしれない。ちょっと、楽しみだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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新年、暮らしのリハビリの始まり‥‥。

別に特別な朝でもないのに‥‥と、子供の頃から疑問を抱えつつ、また新たな年の朝を迎えた。Kapparは、仕事の年明け。しかも、連日だ。区切りも何もあったものではない。しかし、だからこそなおさら、「今年は‥‥」などと、考えてみる。希望とか夢とか、前向きとか努力とか、年賀状に並ぶ種類の言葉は一切浮かばない。空虚な力みは、無意味な失望やとりとめのない喪失感をもたらす。それは、得ているものを超える欲望のために生じる不満の渦に巻き込まれていくNew Poorの心情に通じる。

目標は、高ければいいというものではない。

根拠と実体のない自信とプライドは、他人迷惑な自惚れに過ぎない。

自分の身体のことばかりに意識が向いてしまいがちなリハビリ入院を通じて、僕が一番強く感じたのは、自分自身をトータルに事実として認識しなければならない、ということだった。小さくか弱い生き物ほど分け合うことを知っているのは、ひょっとして自分を事実として知っているからかもしれない。

要するに、自分自身が弱くなればなるほど人を助けることに目を向けなくてはならない、と、僕は昨年考えていたわけだ。今年は、できることから動いてみる年かもしれない。それが、僕自身の“暮らしのリハビリ”になっていくのかもしれないだ。

で、まずは激励に。と、昨日(1月2日)、意を決して出発した。

第一の目的地は、青山。暮れのブログが気になってならなかった「ロンバルディ」へ。“三が日も営業しています宣言”をした古戸君の陣中見舞いだ。*この件は、60sFACTORY活動日記へ。

滞在時間5分で「ロンバルディ」を後にし、次の目的地「都立駒込病院」へと向かう。友人の建築士「西やん」が長期入院している病院である。

彼とは40歳の時、小田原の“山県有朋の元妾宅”「山水館」の改造プランを提案するという話で初めて現地でお昼に会い、そのまま翌朝まで飲み続けて以来のお付き合い。いくつか仕事も一緒にした友人で、お人よしでちょっととぼけたところのあるいい奴だ。

一昨年、僕のお見舞いに来てくれてからしばらく経って、喉頭ガンを発症したと聞いた。その後、本人から、手術をする、声帯に少し転移しているので、声帯を守り声を確保するために放射線治療を併用する、と、僕を気遣いながら、携帯にメールで報告があった。既に退院していた僕は、こちらからメールを入れていい環境にあるのかどうか、お見舞いを受ける心境にあるのかどうかなどが判定できず、共通の友人に調べてもらった。彼は「西やん」の奥さんとコンタクトを取り、メールをしていいタイミング、お見舞いに行ってもいい頃を教えてくれるようになった。

そして、ついに彼から月に一度程度はメールが来るようになっていた。その最初のメールが、放射線治療を受けるというもの。二度目は、その限界を知らせるもの。三度目は、手術で全摘になるので、声を失うことになるというもの。四度目は、「お前より先に大酒を飲めるようになれそうだぞ!」というもの。そして、五度目が術後に再度放射線治療を始めたというもの。そして、昨年末のメールは、「ここは、景色がいいぞ。富士山が見える。年末から正月にかけて外泊許可が出た。家で過ごす。しばらく入院しているから、顔を出さないか」というものだった。毎回冗談交じりの返信をしていた僕の心の奥に、会いに行かなければ、という強い意識が生まれた。

百貨店の初売り状況を見て回っていたKapparと溜池山王駅で待ち合わせ、本駒込へ。そこからたっぷり歩き、下着に汗を滲ませながら到着した。午後4時半になっていた。受付を済ませ、13階のナースステーションへ。大橋病院を思い出し、ちょっとだけ神妙な思いになる。Kapparが「西○さんの病室は?」と、確認する。ホワイトボード片手の「西やん」の笑顔が浮かぶようだ。‥‥。

「え?!」。という声に振り向く。「外泊ですよ~」。“知っとるわい。今日帰ってきているはずだわい。本人からメールもらってるもん!”と、僕は心で叫ぶ。「今夜8時ですね。病院に帰って来られるのは」。予定表を見ながら、ナースが微笑む。「みたいだねえ」。Kapparも微笑む。「下手こいた~~~」。僕の心の叫びが、変わる。‥‥。

というわけで、お見舞いツァーは長い長いリハビリ散歩に終わった。僕の今年は、こんなことを繰り返すのだろう。

飽きないことだ。続ける意志だ。  ‥‥と思わないとねえ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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