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初台リハビリテーション病院退院から一年

昨年12月初旬、初台リハビリテーション病院を退院してから一年強、また新しい年を迎えようとしている。

初台リハビリテーション病院は、費用が高い、というイメージが定着しているようだが、そうでもない、という印象を持っている。いくつかにランクの分かれる個室は、月額約150万円~300万円くらい(確かではないが‥‥)と、明らかに庶民のためのものではないが、普通の病室(4人部屋)であれば、月に40~50万円(計算は、週単位)。4人部屋とはいえ、収納とカーテンで巧みに仕切られており、音さえ気にしなければ、個室感覚になっていて、眺めもよい。よくできている。

そして何より、リハビリを中心とした生活が、休日なしで効率的に組めるようになっているのが最大の特徴だ。食事もおいしい(食器が陶器なのが人間的)。その他、細かい点も、再発の危険性を抱えながらリハビリに取り組む脳卒中患者への配慮が行き届いている。きっちりと意欲的に取り組みさえすれば(リハビリは、本人の意志・意欲次第)、症状がとても重くない限り、2ヶ月もすれば、一応歩くことができるようになって退院することになる。

つまり、コスト・パフォーマンスはいいとも言えるのである。

歩くようになる(あるいは、一応歩けるようにさせられる)ことによる、家族・保護者の負担の軽減も考慮に入れるならば、短期集中型で費用を投下する方が適切だとも言える。発症後半年程度で安定期に入るまでに、可能な限り機能獲得をしておく、という観点からも、初台リハビリテーション病院方式は、ベストがどうかは判定しかねるが、ベターと言えるのであろう。

ただそれにしても、短期間の入院・リハビリ費用として、初期の救急入院費用にプラス40~50万円を用意するのは簡単なことではない。事実、恵まれた人たちのための病院、というのが入院した僕の実感。僕などがいいのかなあ、と思ったくらいである。と同時に、社会の表面に出てこない数多くの、充分にリハビリに励むことさえできない同病の方々のことを想い、胸が痛んだ。

病院の近くに魚屋と中華のテイクアウトの店を見つけ、Kapparは、毎日そこに立ち寄り、、病院食の僕と一緒に夕食を取ってくれるようになった。食事が楽しみになった。食事が終わると、Kapparはまた仕事へと引き返していくのだが、しばらくすると、僕のベッドでしばしの睡眠をとるようになった。身の回りのもののチェックをし、仕事のことやスクールのことを話して、8時過ぎから小一時間眠り、10時の面会終了前に病院を出る。それから、バスで事務所へ。「男一人くらい、食わしたる~~」と宣言し、仕事が順調に増えた分、徹夜で仕事、という日も増えているようだった。僕のベッドでの小一時間の睡眠がなかりせば、倒れていたかもしれない。フードコーディネーター・スクールの課題のテーブル・セッティングの予行演習を病室でして、意見を求められることもあった。テーブルクロスや食器の入った大きなバッグを肩に病室を出て行くKapparの後姿は、大きくはないのだが、エネルギッシュで、一途に見えた‥‥。

そして、それから一年強。年末・年始と、Kapparの仕事は途切れることがない。まだまだ「食わしたる~~」は、続いている。

時々疲れて見える後姿が、新年に向かって、また活気を取り戻している。ほっとし、感謝しているKOURAの僕、である。来年は、いい年になることだろう‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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初台リハビリテーション病院体験!ー②

初台リハビリテーション病院が、有名でかつ評価の高い、リハビリテーションに特化した先駆的な病院だとは、Kapparからの情報を耳にするまでは知らなかった。したがって、右手右足を使い強引にベッドと車椅子を行き来できるようになったばかりの僕にとって、リハビリとは、まだ機能回復を意味するものだっただけに、初台リハビリテーション病院に対する期待は高かった。また、転院初日の印象も、それを裏切るどころか増してくれるものだったので、四人部屋の窓側のベッドに腰掛けた時は、確かな回復への道程が見えてきたようで、自分が恵まれていることと、その恵みをもたらしてくれたKapparへの感謝で、胸が温かくなっていった。

元に戻ることはありえない。死んだ脳細胞は再生しないので、失った機能を100%取り戻すことはできない。

そう、救急病院で聞かされていた上に、初台リハビリテーション病院での最初の診察の時にも、念を押すかのように医者に同じことを言われた。リハビリへの過剰な期待がやがて、かえって強い失望を生み出す危険性を配慮してのことだったのだろう。確かに、現実はきちんと認識し、受け止めておかなくてはならない。ただ僕は、どういうわけか、自分が陥ってしまった状況を意外と淡々と受け止めていた。左半身が動かないことも、そんなに悲しくはなかった。挫けてはならない、などと、過剰に力むこともなかった。あまり、自分が可哀想だとも思わなかった。

結果は出てしまっている。出てしまった結果を変えることはできない。結果には、必ず原因がある。どんな結果でも、自分に影響を及ぼす結果であれば、その原因にも自分が大きく関与しているものだ。人のせいではない。そう思っていた。しかも、原因として悔いるようなことは、過去にあまり見出すことができなかった。大仰だが、満足できる人生だった、と思っていた。

これからは、身体の機能の異なる僕の、もう一つの人生が始まるのだと思った。もちろん、そう思えるのもKappar(そして、大切な友人たち)のおかげであることは自覚しつつ‥‥。機能を回復する、というより、これから機能を獲得するんだなあ、と僕はぼんやり思っていた。

初台リハビリテーション病院の環境は、リハビリに専念できるように整えられていた。それは、患者本人だけではなく、患者の家族、保護者まで配慮したものになっていた。よくできていた。ついつい甘い希望を抱きかねないほどのものと言ってもいいかもしれない。ただ、充分に評価できる病院だったのかどうかは、まだ結論は出せていない。どんな施設にもプラスとマイナスはあるものだ。*気になる方は、個別に、お問い合わせください。正直に、細かく、個別にお答えします。

いずれにしろ、新しい事務所からバスで通える初台リハビリテーション病院への転院で、Kapparは少しは楽になった‥‥はずだった。

ちょうど、フードコーディネータースクールが卒業に近づいていた。仕事も増えていた。Kapparの体力勝負は続いていた。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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初台リハビリテーション病院体験!ー①

当たり前のことだが、脳出血は初めての体験。起きていること、これから起きること、起きていかざるをえない変化、変化への対応策‥‥。すべてが、未知のことである。まずは情報収集、と思いはしても、ベッド脇にパソコンはなく、病室にネット環境などあるわけもない。

倒れる前に課題となっていたことに関するアイデアが、眠ると必ず頭の中を駆け巡るのも、仕事がなくなってしまうことへの不安に起因しているに違いない、と考え、ベッドに起き上がれるようになるとすぐ、中古のノートパソコンを購入してもらうことにした。その費用はもったいないが、再びデスクトップが使えるようになれるかどうかも定かではなく、ノートパソコンはいずれ必要だと判断した。PHSでネットもと思ったが、それはさすがにもったいなかった。気になる企画を書き留めることを優先し、情報収集はKapparにお願いすることにした。

しかし既に、Kapparの情報収集は先行していた。

パソコンが到着する前から、知っておくべき情報はプリントアウトして渡され、それを読んで気になることがあると、質問をしておけば、次の機会にはまたプリントアウトが届くという状況だった。病気の輪郭やこれから必要なことなどは、まさに市場調査の結果を見るかのように、次第に明確になっていった。ネット環境は必要なかった。

ただ、ケーススタディは、さすがのKapparをもってしても、ほとんど収集できなかった。毎年14~5万人が死亡(僕の故郷、島根県益田市が毎年丸ごと約3個消滅している計算になる)し、おそらくその数倍の人が後遺症を抱えて生活することになっているというのに、だ。麻痺を抱えた人は社会から隠されているかのようだ。

これは容易ならざることだ、と僕は思った。それだけ悲惨な話が多いということだからだ。見事仕事に復帰、とか、新たな生きがいを見出した、とか、明るい話か美談でないと話題にされない傾向が、今の社会にはあるからである。特に、一家の大黒柱が発症したケースは悲惨な結果になることが多い、というのは想像に難くなかったが、実際にそのようだった。大きなでくの棒になってしまった大黒柱が、家族から見放されるケースが多いことも、やがてわかった。無理もない話である。

かくして、不安を抱えつつも、なんとか当面の費用は自分で工面できるとわかり、エントリーして一週間で初台リハビリテーション病院にベッドの空きが出る、という幸運にも恵まれ、10月8日(かな?)、初台リハビリテーション病院へと、僕は転院していった。

初台リハビリテーション病院の名前が出た段階で、Kapparは既に動いていた!「評判だけでは判らないから、見学してくる!」ということだった。マーケティングや販売促進の鉄則(by KAKKY)“ヒントと答は、共に現場にあり!”である。写真、パンフ、Kapparの取材結果と印象を聞いて、納得。お任せする気でいても、判断に参加できるのはありがたかった。言わば、インフォームド・コンセント、である。だから、安心はしていた。

しかし、予想していた以上だった。初台リハビリテーション病院は、いきなり僕の心を明るくしてくれた。Kapparの負担も軽減できるという予感がした。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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リハビリ入院、十人十色

「倍、働けばいいんだもん」と、明るく胸を叩いたKapparだったが、体力と気力がどこまで続くのか、どきどきしていた。何しろ、僕にゆとりはない。睡眠導入剤を飲んで眠りに着こうとするのだが、脳出血発症の10年ほど前から苦しんでいた胃腸の不調のせいと、深夜になるとあれこれ考えてしまうネタが浮かび、眠ることができない。胸が苦しくなり、外気を吸おうと窓に手を伸ばし開閉しようとするのだが、それもうまくいかない。ぺたりと背中をベッドに付けたまま首だけを巡らし、遠くに見える“MAZDAユーノス”の看板を見つめながら、夜が白々と明けていくのを待つ日々。頭の中では好きでもなかった“虎舞龍”の「ロード」のサビの一節「なんでもないようなことが、幸せだったと思う」が、グルグルと回り続けている。「おはよう!」と現れるKapparの元気な笑顔に、救われるような気分で次の一日を迎えるという状態。心配ではあるものの自分の都合が優先してしまい、「さあ、仕事だ~」と九時過ぎに病室を後にしようとするKapparに、「大変だね。ありがとう」と感謝はしてみるものの、「また夕方に顔を出すからね」と言われると、ふと心細くなり、「夕方って、何時頃のこと?」などと口走る有様である。

仕事仲間で友人のKenちゃん、e-poohちわわんが、僕へのお見舞いを、Kapparに「病院へ通うタクシー代」として渡してくれたと聞いた時は、心から感謝した。何が病人のために必要かをきちんと考え、配慮してくれた、その思慮と思いやりの深さ。お見舞いが、時として「私、心配しています!」という気持ちの発露や押し付けに過ぎず、病人と病院の事情に対する配慮に欠けたものになりがちなのとは大いに異なる、まさに大人の心配りが行き届いた、本当にありがたいお見舞いだった。

それはやがて、やはり行き当たることになる様々な費用負担の問題を前にした時も、「これは、タクシー代」と意識分けすることで、大いにKapparの行動を自由にしてくれた。またそれは、とりもなおさず、増大する先行きの不安に時として気持ちばかりか血圧さえ乱れてしまう僕を支えてくれることにつながったのだった。

水が嚥下できることを確認し、普通食になった頃、主治医から「初台リハビリテーション病院」のことを聞かされる。費用を耳にし、一瞬逡巡していると、また横でKapparが胸を叩いた。「お願いします。最善のことをやりたいんです。どうすればいいんですか?」。脳出血あるいは脳梗塞を発症した人の行く末は、ここら辺りから微妙に異なってくるのだろう。僕は、そう思った。どうなっていくものなのか、どんな選択肢があるのか、どれだけの費用が必要なことなのか、そしてそれは、どんなタイミングで行動に移さなくてはいけないものなのか、下調べを充分にしておき、即断しなくてはならない。時間との勝負。遅れれば遅れるほど、失う心身の機能は重大なものとなる。Kapparは、仕事とお見舞いの合間を縫って、下調べも充分にしてくれていたのだった。

さらに、である。その2年前に取得していた“野菜のソムリエ”の資格に、今度は“フードコーディネーター”の資格を取ろうと、Kapparは学校に通い始めていたのである。

倒れなければいいが、‥‥。僕というKouraは、ご本体Kapparが次第に本気で心配になっていった。

発症から約一ヶ月、初台リハビリテーションへの入院がなかったら、Kapparはもたず、Kouraを背負ったまま倒れることになったかもしれない。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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脳出血男、Kouraになる!

MRIフィルムに白くくっきりと映し出された直径4センチの脳内出血痕は、その鮮明さゆえか、自分の中で起きていることとは思えなかった。「ほう~」と感心しながら写真に見入り、「左半身が動かなくなりますからね」という説明に、「動くもんね~~」と左手足を派手に動かしてみせたりしていた僕も、ピタリと動かなくなってしまうと、さすがに少し神妙になった。「どうですか?」と現れた主治医が「ほら、動かなくなったでしょう」と、若干誇らしげに確認した時は、「さすが!先生。的中!まるで専門のお医者さんみたい~」と強がって見せたものの、「頭は大丈夫みたいですね」と一蹴され、さっさと病室に運び込まれてしまった。

少しの間眠りについて、背中をトンと押されたような感覚で目覚めた。事態を素早く追認した。「大変だ!」と、初めて思った。目を覚まさなければよかったのに、と本気で思った。すぐに暗算をした。自分の事務所の今後の入金予定、支払い予定、これから必要になると想定される費用など、要するに、お金の計算である。

僕の仕事は、受注仕事。相談し、利用していただき、お役に立ってギャラをいただく、「よろず相談所」のようなもの。ゆとりがあるわけではない。おまけに、僕に貯蓄性向はないに等しい。金銭的体力は、すぐに尽きてしまう。なんとか入院費としばしのリハビリ生活は工面できたとしても、それから先の暮らしが描けない。寝たきりになるのだろうか?そんな奴に相談なんかしたくないよなあ~。収入途切れるなあ。事務所の維持は、どうしよう~。毎日誰かが訪ねてきていたけど、静かになるんだろうなあ。‥‥。パラパラパラパラ、次々に苦しい半年後ばかりが浮かんでくる。申し訳ないと思いつつ、一つひとつを抱え切れなくて、ずっと付き添っていてくれたKapparに、その一部をぽつりぽつりと吐露した。

捨てる神あれば、拾うKapparあり!困った時のKappar頼み。神様、仏様、Kappar様。Kapparは、とんと胸を叩き、「命が助かったんだから、今は余計なこと考えないの!大丈夫!任せなさい!男一人くらい!」と微笑んでくれたのだった。そして、「大丈夫?」と心配する僕に、「倍働けばいいんでしょ!」と、また微笑んだ。

その瞬間、僕はKouraになった。大きく重いKouraである。Kapparの怒涛の一年の始まりである。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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番外編:「脳出血、退院一周年!」

“昭和の家族”のお話は、しばらくの間お休み。

12月8日の個人的な一周年記念のお話を‥‥。

昨年9月6日、脳出血を発症。右脳の視床に直径4センチの出血痕があるのを、ストレッチャーの上で、MRIの写真で確認して間もなく、ピタリと左半身が動かなくなった。止血剤、降圧剤、水分、養分など五本の点滴に絡みながら寝たきりで一週間を過ごした。ベッド上にやっと起き上がった時には、まずKapparと大笑い。座ったつもりが、ゆっくりころりん、左に倒れたのだ。きょとんとした目をしたままだったらしく、あ~~~っと小さく叫ぶKapparの目が不思議な光景を面白がっているのがわかった。次に笑ったのは、両の鼻の穴をピクピクと動かせて見せた(つもりの)時だった。左側が麻痺で動いていないのを、知らせるべきかどうか迷っているKapparの表情が、僕からすると、たまらなくおかしかった。左半身の麻痺は、見事に左半身!鼻の頂上からきっちりと左半分に影響が出る。左の鼻の穴が動かせるようになるのに、約一ヶ月を要した。

実は、のどちんこまで左半分が麻痺しているのを知ったのは、初台リハビリテーション病院を退院し、後日通院を始めた成城リハビリテーションクリニックでのことだった。左曲がりになっているのどちんこ、こいつは貴重だぞと、大口を開けて写真を撮ってもらった。

リハビリテーション専門の病院としては先駆者の初台リハビリテーション病院に、運良く入院できたのが10月初旬。一日数時間、休みなし、のアスリート並みのメニューを楽しんでいる間に、何とか歩行できるようになった。もちろん、左足首、左膝、股関節などがコントロールできないため杖はまだ放せないが、今は大きな不安なくヒョコタン歩きができるようになっている。ぶらりと垂れ下がったままで“肩手症候群”という、症状に大雑把な名前をつけただけの、麻痺患者に時折見られるという原因不明の痛みに苦しんでいた左肩と左腕も、右手一本の作業に少しくらいはお付き合いできるようになった。一度死んだ脳細胞は再生することがない、というのが常識。どこまで能力が獲得できるかわからないが、麻痺や痛みの不快感がない時は、自分の身体との折り合いもつくようになった。周囲の友人たち(e-poohちわわんヒヨコなど)のお陰で、酒席、宴席も楽しんでいる。さあ、後は退院の際強く心に刻んだ“こうなったら、ささやかにでも何か人のお役に立ちたい”という思いを、何を通じて実践していくか、である。

60sFACTORYは、入院前に準備していて、入院中に活動が始まったブランド。くろすさんや穂積さんには、寝たきりの時から、呂律の回らない電話や乱文乱筆のお手紙でお世話になった。僕と同じ、ヒョコタン歩きのブランドだが、ウィンスロップさん、サントップさんなどにお付き合いいただける僥倖を生かしていかなくてはならない。

ちょっと感慨深い一周年だった。‥‥しかし、早いっす~~。

次回は、Kapparの怒涛の一年と、それに対する感謝を‥‥。(曲がったのどちんこの写真も探してみましょう)

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和の家族‥‥⑤

子どもなんて、贅沢する必要なんかない。大人になって、稼げるようになってから、自分で好きに贅沢すればいいんだ。‥‥沢君のお父さんの言葉である。

あんぱん、ラムネが贅沢か?という見方もある。贅沢は人によって、基準も領域も異なるものだ。ただ、当時の沢家の収入を思えば、あんぱん、ラムネも贅沢品に入るのだろう。しかし、となると、お父さんは贅沢をしていいのか。しかも、子どもを差し置いて、である。

というのが、かつての僕の考えだった。その考えからすると、沢君のお父さんは酷い人、とんでもない父親ということになる。僕の中の沢君のお父さんはそのままのイメージのまま、時間の経過にしたがい消えていきそうだったのだ。ところが、僕が少しは大人に近づいていたせいか、高校二年生の時蘇ってきた沢君のお父さんのイメージは、そんなに悪いものではなかった。

ほとんど山に篭もっているに等しい沢君のお父さん、中国山地の寒村という環境にあって、一人で家庭を維持し、家族を支えている沢君のお父さんは、まさに沢家で唯一人、贅沢をする権利があるのかもしれない。そう思えてきたのである。優先されるべきは、家族を支える父親。父親が倒れれば、家族全体が崩壊する。精神的なストレスを緩和するためなら、過度にならない程度の贅沢はしてもいいだろう。子どもも一緒に贅沢をすると、結果として全体では過度なものになってしまう危険性がある。しかも、子どもたちはまだ、経験すること一つひとつに確かな意識があるとは思えない年齢である。しかも家庭に貢献する術も持っていない。贅沢をしない、我慢をする、というのは、彼らができる唯一の父親への協力かもしれないではないか。

家族の役割分担なのである。狼は、父親が中心になって捕らえた獲物を口にする時、まず父親がお腹一杯にするのを、母親と子どもたちはじっと待たされる。そこに働いている自然の摂理は、人間の社会、家族の中で働いてもいいはずのものではないか。

僕はちょっぴり反省した。沢君のお父さんは、大変だったのだ。あの時の一本のラムネ、一個のあんぱんは、山の中でしっかりと働いてきた自分への誇り高き、ささやかなご褒美だったのかもしれないのだ。

幼い僕を抱え、生活保護を受けざるをえなかった僕自身の親父とパチンコ屋で過ごした日々を思い出した。親父をいとおしく思った。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和の家族‥‥④

小学校低学年の時に目撃した、ラムネを“子どもには毒だ”と称して決して子どもに分け与えようとはしなかった父親(本ブログで07年7月中旬から9回連載した「蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん、‥‥。」で登場)を、僕は長い間「酷い父親」と決め付けていた。同級生の沢勝年君の父親で森林労働者だった彼の、沢君の弟が引く袖を振り払う時の姿は、今でも忘れられないくらい冷酷に見えた。

しかし後年、僕が高校二年生の時、音信不通だった沢君から“父親死す”との短い手紙をもらった頃から、僕の中に異なる見方が生まれ始めた。

かつての“村の庄屋さん”の広大な庭の一隅に立つ陋屋でひっそりと暮らしていた沢君家族三人。お母さんは、沢君が小学校に入学する頃、病に倒れ亡くなっていた。沢君と弟を養うべく、お父さんは山中での過酷な労働に精を出していた。山中で寝泊りすることが多く留守がちな父親に代わり、家事は沢君が行うことが多かったようだが、小学校低学年の、ましてや男の子、その手と気配りは行き届くわけもなく、何度か覗いた彼の家の中は惨憺たるものだった。近所といっても、人家そのものがまばらな地域、しかも貧しい農村とあって、野菜など農作物のおすそ分けはあったようだが、家事労働にまで手を貸す家はなかった。ただ、時折夕飯を振舞っていたお袋の風情から、手を貸して上げにくい事情もあるように感じた。僕は、万屋の店頭での、子どもに対する言動を目の当たりにして、沢君の父親がかなり気難しい変わり者であることに起因していることだ、と決め付けた。

小学校三年生の終わり、次の転地へと出発する時、沢君兄弟は涙を流して見送ってくれた。彼らに時々手を差し伸べる家族はなくなってしまうんだなあ、と思うと、僕は寂しさよりも彼らに対してこみ上げてくる憐憫の情に涙した。

それから10年弱、消えかかっていた記憶が、一通の手紙で鮮明に蘇った。しかし、なぜかその色合いは、随分と異なるものだった。特に、沢君のお父さんのイメージは大いに変化していた。それは、彼が山中で作業中の事故で亡くなったからというだけではなさそうだった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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