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昭和の家族‥‥③

小学校2年生の秋、同級生の女の子の家を訪問したのをきっかけに、同級生の家を時折訪ねることができるようになった。

僕は、小さいとはいえ、島根県浜田市という市部の生まれ。預けられていた祖父母の家は飲食街にあり、ささやかなりとはいえ、都市の香りも漂っていた。農家との接点は一切なく、わずかに交流のあった友達は、本屋、写真館、冷やし飴屋の息子と商家ばかり。肺結核の療養をしている親父の友人も、ほとんどが教師で、生活感を感じさせることはなかった。親父の入院している病院を訪ねると、時折ベッドが突然空になるのを発見するなど、むしろ死の方が近い存在だったくらいだ。

そんな僕には、家族全員が共同作業を行う田舎の暮らしは、貧しいとはいえ生気に溢れ輝いて見えた。ただ、観察者の立場から踏み出すことはなかなかできなかった。生来の人見知りだったとはいえ、中国山地奥深い寒村への突然の引越しが都落ち気分に満ち満ちたものだったことが、農家を訪ねることを阻害していたのだと思われる。

一旦身体ごと入り込み始めると、しかし、農家はどこも懐が深く、暖かく、そして厳しかった。遊びに行っているだけの小さな存在にも、少ない食べ物でさえ分け与えられ、大切にしていたはずのものも気前よく提供された。そして、労働さえも。指を切らない要領だけを教えられて稲刈り鎌を持たされると、稲刈りにも駆り出された。脱穀、藁干し、牛の世話、さらには茅葺屋根の修復、冬には登校前の麦踏み‥‥。戦力として期待されてはいないものの、当然のこととして参加することになった。僕は、戦力として評価してもらいたくて、それらのどの作業も精一杯頑張った。しかし、戦力になることがたやすいことではないことを痛感させられるばかりだった。

“無駄飯食い”。

おばあちゃんから聞いた一言が、身に沁みた。

祖父母と暮らしている時、大人の会話に入ると、「子どもは黙ってなさい!」と叱責され、お姉ちゃんと呼んでいた若い叔母がお土産に買ってきた饅頭を先に食べようとすると、「子どもは後から!」と取り上げられていたのが、少しだけ理解できた。親父が「小遣い貯めて、お母ちゃんにプレゼントするんだぞ!」と、こっそり繰り返していた意味も少し見えてきたような気がした。

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