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柳行李とブルゾン

僕の親父は大正11年生まれ。八幡製鉄(新日鉄の前身)に勤めるサラリーマンの長男として生まれた。中等学校野球(高校野球の前身)フリークだった父親は、福岡県久留米市から甲子園まで観戦に出かけるほどだったという。カンカン帽を被り嬉々として出かけていく父親を、幼い弟をおぶった母親と見送った記憶がある。肝臓ガンの病床で懐かしそうに語っていた親父を思い出す。

しかし、親父の父親は30代半ばにして脳卒中で突然他界。親父は、親戚を転々とさせられた後、遠戚にあたるお寺に預けられ、そこの小坊主となった。尋常小学校入学直前のことである。お寺を継ぐことを条件に龍谷大学に進学させてもらうが、京都の自由な学生生活を経て学徒出陣から帰還すると、英語の教師になっていた。

「そんなんだったけえのお。栄養がのお」と、親父は自分の身長の足りなさを生い立ちのせいにしていた。本人は、「158テンハッセンチ」とカタカナ部分を強調して言っていたが、それが過大申告であることがやがてわかってきた。中学入学時140cm弱だった僕は、遺伝の心配を抱えつつも、順調に背を伸ばし、2年生になった時は148cm、3年生になったときは158cmと、毎年ほぼ10cmずつ親父に近付いていった。いや、近付いているはずだった。しかし実際には、中学3年生になった頃には、明らかに追い抜いていたのだ。親父はおそらく、155~6cmくらいだったと思われる。そんな、ほぼ同じ背丈になった中学3年を前にした冬休みのことだった。

冬の陽だまりの中で居眠りをしていると、押入れの奥からごそごそと柳行李を出していた親父に起こされた。「おい、これ着るか?着るんだったらやるで」。元々の素材の良さのなごりはあるものの、いかにも古ぼけたブルゾンだった。「このジャンパー、高かったんで~」と眼前に差し出されると、なぜかほのぼのと見覚えがある。「それ~」と、首を傾げていると、1枚の写真を引出しから取り出し、説明してくれた。

Photo_2 親父の頬にまだふくらみはあるが、肺結核が進行していた時期。親父31歳。僕は3歳。死を覚悟した親父が記念写真を、と撮ったものである。この時着ていたブルゾン(親父に言わせると、ジャンパー)だった。生活保護をもらいながら、女学校の教え子が働くパチンコ屋(僕の遊び場だった)に通って玉を出してもらったり、浜田市の標語募集に応募して少しばかりの賞金をもらったりしていた時代。たまたま何かの懸賞に当たったお金で買った、なけなしの晴れ着だった。僕のベストもその時買ったものらしい(なんで子供はベストなんじゃ~!)。「ふううん、約10年前か~」と、僕は手にとり、親父の思い出と一緒に受け取ることにした。

やがて高校を出て引っ越した時、衣類を入れた柳行李の中に、このブルゾンは丁寧に畳まれていた。そして、京都の底冷えのする冬、僕はこのブルゾンを着て寒さを凌いだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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