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昭和の町にいた、ある盲目の夫婦‥‥。

小学6年から中学生の四年間を過ごした島根県益田市横田町の借家は、今風に言うなら、2DK。水は井戸。お風呂は、薪で焚く五右衛門風呂だった。しかし、水道(簡易型)のある生活は生まれてから一年間しか経験したことはなく、下水道が完備した暮らしなどしたこともなかったので、不便と感じることなど少しもなかった。

国道から一筋入った、こじんまりとまとまった町内の一角、匹見川の堤防に上がっていく坂道の下にあった僕の家の向かいは、二階建ての立派なお宅だった。その隣、空き地の一隅にひっそりと佇む平屋に、盲目の夫婦が引っ越してきたのは、僕が中学に入った年だったと思う。その家の佇まいのように、夫婦の存在は控えめで静か、周囲に包み込まれているかのようだった。僕の両親を始めとする近所の大人たちの気遣い、心使い、さりげない対応のおかげのようだった。子どもたちにもその空気は伝わっていたので、なんとなく遠巻きになっており、話題にもしないように心がけているのを強く感じるほどだった。按摩の看板が出されたその家は、まるでエアポケットの中にあるようだった。それは、地域社会の掌の真ん中で大事にされているからに他ならず、とても素晴らしいことだと思えた。‥‥少なくとも、半年の間は‥‥。

そのご夫婦には、小学校低学年の男の子があった。身体は小さいものの、視力も確かな健康に恵まれた子どもだった。だからこそ、ご夫婦が一人っ子に注ぐ愛情は強く深く、僕たちの目にさえ“溺愛”と映るほどだった。そのことに、僕たちは惑わされた。

その男の子、なかなかわがままでやんちゃなガキだったのである。いつも小銭をポケットに、年上の子どもたちにまでお菓子をちらつかせたりしながら、自分の我を通そうとした。ご両親のことがあるため、「可哀想な子」というイメージを持ってしまっている僕たちは、その子の実体と自分たちの「守ってあげなければ」という意識との狭間で、戸惑い続けていた。

やがて、日が経つにつれ、僕たちの意識にも少しずつ変化が訪れた。ご夫婦の周囲の気遣いを逆なでするような言動を垣間見たり、ガキの持っている小遣いがまさに両親の目を盗んで手に入れているものだと判ったり、時々現金が消えていく理由を、わが子の言辞をまさに盲目的に信用し、近所の子どものせいだと誤解しているご両親の風情などを目にしたりしていたからである。もちろん、大人たちの言動にも、明らかな変化が生じていた。

そんな秋のある日のことだった。ついに件のガキに対して、僕たちの堪忍袋の緒が切れた。具体的には覚えていないが、彼のいつもの身勝手な態度に激高した上級生が、強く叱ったのだった。手は出してはいなかった。激しく強い言葉で抵抗するガキは、やがて2~3人に囲まれ、強く叱責され、その悔しさに大声を上げて泣き出した。そして、誰もかばってくれないと判ると、突然駆け出し、家へと帰っていった。

その10~20分後。いつもひっそりとしている小さな平屋の玄関が、大きな音を立てて開けられた。「しょうがない奴じゃのお」などと、言い交わしながら帰宅していた子どもたちの2~3名は、その音とその後に続いた、盲目の父親の大声に家を飛び出した。何度か繰り返された父親の言葉は、今でも覚えている。

「うちの子を苛めたのはどこのどいつだ~!顔を見せろ~!」。玄関先で、小さな肩を怒らせ仁王立ちしている父親の姿は、暮れなずむ夕暮れの中に異様な影を落としていた。僕は、どうなるのだろう、と少しばかり心配をした。

お袋が玄関先にやってきた。いきなり声を押し殺して笑い始めた。僕は、驚いた。「見せたって見えないのにねえ」。お袋は、まだ笑いの残る喉から、搾り出すように僕に言って、また笑いながら台所へと戻っていった。大人たちの変化を象徴していた。何も起きなかった。盲目の父親は、しばらく叫び続けていた。

守るということは難しく、人の心理の襞は複雑なものだと学んだ夕べだった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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