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昭和の家族‥‥③

小学校2年生の秋、同級生の女の子の家を訪問したのをきっかけに、同級生の家を時折訪ねることができるようになった。

僕は、小さいとはいえ、島根県浜田市という市部の生まれ。預けられていた祖父母の家は飲食街にあり、ささやかなりとはいえ、都市の香りも漂っていた。農家との接点は一切なく、わずかに交流のあった友達は、本屋、写真館、冷やし飴屋の息子と商家ばかり。肺結核の療養をしている親父の友人も、ほとんどが教師で、生活感を感じさせることはなかった。親父の入院している病院を訪ねると、時折ベッドが突然空になるのを発見するなど、むしろ死の方が近い存在だったくらいだ。

そんな僕には、家族全員が共同作業を行う田舎の暮らしは、貧しいとはいえ生気に溢れ輝いて見えた。ただ、観察者の立場から踏み出すことはなかなかできなかった。生来の人見知りだったとはいえ、中国山地奥深い寒村への突然の引越しが都落ち気分に満ち満ちたものだったことが、農家を訪ねることを阻害していたのだと思われる。

一旦身体ごと入り込み始めると、しかし、農家はどこも懐が深く、暖かく、そして厳しかった。遊びに行っているだけの小さな存在にも、少ない食べ物でさえ分け与えられ、大切にしていたはずのものも気前よく提供された。そして、労働さえも。指を切らない要領だけを教えられて稲刈り鎌を持たされると、稲刈りにも駆り出された。脱穀、藁干し、牛の世話、さらには茅葺屋根の修復、冬には登校前の麦踏み‥‥。戦力として期待されてはいないものの、当然のこととして参加することになった。僕は、戦力として評価してもらいたくて、それらのどの作業も精一杯頑張った。しかし、戦力になることがたやすいことではないことを痛感させられるばかりだった。

“無駄飯食い”。

おばあちゃんから聞いた一言が、身に沁みた。

祖父母と暮らしている時、大人の会話に入ると、「子どもは黙ってなさい!」と叱責され、お姉ちゃんと呼んでいた若い叔母がお土産に買ってきた饅頭を先に食べようとすると、「子どもは後から!」と取り上げられていたのが、少しだけ理解できた。親父が「小遣い貯めて、お母ちゃんにプレゼントするんだぞ!」と、こっそり繰り返していた意味も少し見えてきたような気がした。

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昭和の家族‥‥②

上がりかまちに、おばあちゃんに対して斜めに腰掛け、僕は帰るタイミングを探していた。お盆を持って奥へ入っていった同級生は、家事にとりかかっているようだった。水を流す音や食器がぶつかる音が、断続的に聞こえてきた。「よく働きますねえ」。その瞬間思ったことを、口に出した。「え?」。‥‥。「なんて?」。やや耳の遠いおばあちゃんにもう一度、少し身を乗り出して言った。「本当に、○○君、よく働かれますね」。できるだけ丁寧に言葉にした。「ああ」と、にっこりしたおばあちゃんの次の言葉に、僕はまず驚いた。

「子どもや年よりは、無駄飯食いじゃもんね」。無駄飯食い?‥‥。大切な人じゃなくて?‥‥。「できることはできるだけやって、役に立たんとねえ」。働き者の孫娘に誇りを感じているものの、それは“当たり前のことを手を抜かずにやること”に対する誇りのようだった。「でも‥」。褒め言葉がないことへの不満に僕が口ごもると、「働き手がいないと、家も家族も大変じゃけ」と、おばあちゃんは微笑んだ。

子どもも家族にとっての労働力、という考え方がそこには、はっきりとあった。田植え、稲刈りといった農繁期には、学校さえ短期間休みになる山間部の農村。“無駄飯食い”を数多く抱える余裕はない。家族のために働かねばという意識とエネルギーを持った家族一人一人の日常的な努力によって家族単位で自立すること。それが前提で、それでも苦しい家族は、他の家族が少しずつ役割分担をして助けていく。寒村が存続していくために必要な最低条件である。

全体のために個があり、個のために全体がある。身勝手な個と、個のために機能しない全体は否定されなくてはならない。

おそらく農業を通じてできたのであろう共同体の論理が、そこにはしっかりと根付き、自然と受け継がれていた。

小学校低学年の僕は、明治の女の言葉に聞き入りながら、僕自身の生活に対する甘さを、なんとなく恥じていた。後妻としてやってきたお袋の「お父ちゃんが毎日働いて稼いだお金だから、一円でも大切にしないとね」という言葉を思い出していた。毎月5冊も取り寄せていて、お袋から減らすように言われていた月刊誌を減らす決意もしていた。

「昔は、間引きと言ってね‥‥」。おばあちゃんの話は続いた。弱い子どもが切り捨てられていく悲惨な昔話も耳にした。次第に背筋が伸びてきているのを感じている頃、同級生の女の子が顔を出してきた。「おばあちゃんの話し、長いから~」。その顔はやけに活き活きとして見えた。

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昭和の家族‥‥①

昭和の家族について考え始めた時、最初に思い出したのは、どういうわけか、J.F.K.の大統領就任演説だった。1961年1月に行われたこの演説の一節、「諸君のために祖国が何をしてくれるかを問うのではなく、諸君こそ祖国のために何ができるかを問う」は、若者の積極的な祖国への関与を鼓舞する言葉として、当時は歓迎され評価された。僕も、深い意味にまで踏み込むこともなく、強大な国の若者たちの意欲を結集しようとしている若い大統領の輝きを、眩しく見上げていた。その言葉が今頃になって、違う様相を帯びて思い出されたのだ。

発展し続ける戦勝国にはびこりがちな国家依存ムードを払拭し、国民(特に若者)のエネルギーに新たな目標を設定しよう、それができるのは自分だ。そうJ.F.K.は宣言したのだろうが、いかんせん彼自身が多くの力への依存から生まれた存在だったため、ニュー・フロンティア・スピリットだけが徒に残り、具体的な行動方針を見出せずに終わった。しかし、その問題意識は正しく先取りをしていた。高度経済成長を経て経済的に豊かになってきた日本は、昭和が終わる頃に同じ問題を抱え始めたとは言えないだろうか。

ちょっとおおげさになってきたので、昭和の家族に戻ろう。

J.F.K.の演説の“諸君”“家族”に置き換え“祖国”“家庭”に置き換えてみるとどうだろう。昭和の家族と平成の家族の違いが見えてこないだろうか。

最初に衝撃を受けたのは、小学校2年生の時だった。

学校のすぐ近く、山へと棚田が連なる坂道の下、県道脇の埃っぽい小さな平屋に住んでいる同級生の女の子がいた。転校生で、一人遊びの多かった僕は、学校帰りに家とは反対方向の棚田の脇道を、時々上の方まで上がって、峡谷を挟んだ反対側の山並みを見るのが好きだった。ぽつんぽつんと山肌に人家があり、夕方になるとどの家からもかまどの煙が立ち昇った。その暖かさが、少し切なく、それでいて懐かしく迫ってくるのだった。

そんなある秋の夕暮れ、生活用水として山から引かれている湧き水の溜まり場に屈んでいるその子を見つけた。「こんばんは~」と遠慮がちに声を掛けた。驚いて振り向いた彼女の目は、僕を捉えてはにかみ、微笑んだ。小さく会釈をして、彼女は元の作業に戻った。大きな釜の中の米を懸命に研いでいたのだ。横では幼い弟が、彼女の手元を覗き込んでいた。僕は、そっと水に指先を入れてみた。切れるように冷たかった。夏休みの転校。もう秋も深まりつつあった。僕は、小さな秘密を共有したような気分だった。

それがきっかけで、時々言葉を交わすようになった。ある日、「お茶飲む?」と言われ、平屋の玄関をくぐった。入る前に、「おばあちゃんがいるからね」と言われていた。「おばあちゃんは、毎日コップ一杯の酢を飲むんだよ」とも聞いていた。「サーカスにいたの?」と冗談で言ったつもりの言葉が、かえっておばあちゃんへの小さな恐怖心に変わっていた。

「こんにちは~」。暗い家の中に入った。開けた扉から差し込んだ一条の夕日におばあちゃんの姿が浮かび上がった。僕は一瞬、たじろいだ。おばあちゃんは、人懐っこい笑顔で「こんにちは~」とかすれた声を返してきた。それを見て、彼女は家の奥へと走るように入っていった。上がりかまちに腰掛け、おばあちゃんと少しだけ話した。心がおばあちゃんとの間の空中で光の中に漂う埃のように浮いていた。

お盆にコップと湯飲みを乗せて、彼女が出てきた。「はい」と湯飲みを渡され、ぬるいお茶を一気に飲んだ。すると、彼女が少し声を大きくした。「おばあちゃん、ほら」。注意を喚起されているのだと気付き、彼女の指先の方を見た。一杯のコップが差し出されていた。彼女がちらりと振り向いた。少し悪戯っぽい微笑があった。「酢だ!」。僕はとっさにそう思った。「いつも、ありがとう」。穏やかな笑みを浮かべながら、おばあちゃんは両手でコップを受け取った。僕は固唾を呑んで見守った。一瞬だった。あっという間に飲み干し、「ありがとう」とコップを孫娘の手に返し、おばあちゃんは幸せそうに微笑んだ。僕は、もう一度生唾を飲み込んだ。

充分に衝撃的な出来事だった。本当に酢だったのか、それはわからない。しかし、もっと衝撃的だったのはその後のおばあちゃんのお話だった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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消えていく?!昭和の家族。

約一週間前、10数年ぶりに会うことになった女性の紹介を兼ねて打ち合わせをした時のことである。一通り打ち合わせが終わり、雑談になった。

参加していたヒヨコに、女性が尋ねた。「彼氏は、いてはるんでしょ?」。ヒヨコは、いつもの調子で応えた。「いえいえ。それがいないんですよ~~。何とかなりませんか~?」。「まあ、きれいな人やのに、なんで?紹介しようか?」。

久しぶりに会った彼女は大阪出身の50代。なかなかの美人で女丈夫。ご主人と10数年前に上京し、様々な事業を展開している。若くして一回目の結婚をし失敗したが、二人の男の子を立派に育て上げている。

「是非!お願いします!」。「どんなんがええの?なんぼでもおんで~。あんたやったら、選び放題やわ~」。「いやあ、でも年が‥‥」。「え?!若う見えるけど‥‥。いくつやの?」。すっかり打ち解けている。大阪の女性の特徴だ。「先日、四十に‥‥」。「なんや、びっくりしたわ。若いやないの~。女の華は、40代よ」。「ほんとですか~?」。「うん。ほんと、ほんと」と僕。「でも、そろそろ子どもが‥‥」。「高齢出産?何言うてんの?まだまだ、そんな、焦ることないて。もっと年いってから産んではる人い~っぱい、いてはるやん」。と、そこで彼女、ふと表情が変わった。

「子どもなんか、産まん方がええよ。な~んもええことあれへんよ。なあ」。眉をしかめながら、僕を見る。僕は、「う、うん。そうかもね~」。と曖昧に応えて、彼女の話の続きを待つ。何かあったのだろう。ちょっと話に勢いがついている。「大事に、大事に、お金も愛情もいっぱいかけて育てて、大人になったらなったで、困った時に頼ってくるだけやからなあ」。大きな嘆息を洩らした。僕は、よく通っていたタバコ屋のお婆ちゃんがまったく同じ台詞を吐いていたのを思い出していた。

「大学にも行かせて、海外旅行にも行かせてあげたんよ。どうしても、勉強のために行きたいって言うから。でなあ、家にいる時は私らに全部頼ってて、出てしもうたら、あんた、来ることもないからねえ。来たって、うれしいことなんか何もないしねえ」。お婆ちゃんが愚痴を洩らすその脇で、85歳になるお爺ちゃんは、深く頷いていた。お爺ちゃんは、一言「来てくれんでええわ」と言っただけだったが、最近何事かがあったことを窺わせるには充分な一言だった。

「夢を見させてくださいよ~」。これから彼氏を紹介してもらおうというヒヨコの目が、少し泳いだ。「先輩の言うことやから聞いといた方がええよ~。絶対産まん方がええて。ほんま、な~んもええことないよ~」。「そ、そうですか~?」ヒヨコは、ちょっと俯いた。

僕は、その後考え込んだ。彼女の言うこと、わからなくもないからである。昭和の家族は、もはや消滅し、家族そのものが幻想と化しているのだろうか?大きなテーマが残った。小学生から中学生にかけて見たり聞いたりした「昭和の家族」を思い出してみようと思った。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和の町にいた、ある盲目の夫婦‥‥。

小学6年から中学生の四年間を過ごした島根県益田市横田町の借家は、今風に言うなら、2DK。水は井戸。お風呂は、薪で焚く五右衛門風呂だった。しかし、水道(簡易型)のある生活は生まれてから一年間しか経験したことはなく、下水道が完備した暮らしなどしたこともなかったので、不便と感じることなど少しもなかった。

国道から一筋入った、こじんまりとまとまった町内の一角、匹見川の堤防に上がっていく坂道の下にあった僕の家の向かいは、二階建ての立派なお宅だった。その隣、空き地の一隅にひっそりと佇む平屋に、盲目の夫婦が引っ越してきたのは、僕が中学に入った年だったと思う。その家の佇まいのように、夫婦の存在は控えめで静か、周囲に包み込まれているかのようだった。僕の両親を始めとする近所の大人たちの気遣い、心使い、さりげない対応のおかげのようだった。子どもたちにもその空気は伝わっていたので、なんとなく遠巻きになっており、話題にもしないように心がけているのを強く感じるほどだった。按摩の看板が出されたその家は、まるでエアポケットの中にあるようだった。それは、地域社会の掌の真ん中で大事にされているからに他ならず、とても素晴らしいことだと思えた。‥‥少なくとも、半年の間は‥‥。

そのご夫婦には、小学校低学年の男の子があった。身体は小さいものの、視力も確かな健康に恵まれた子どもだった。だからこそ、ご夫婦が一人っ子に注ぐ愛情は強く深く、僕たちの目にさえ“溺愛”と映るほどだった。そのことに、僕たちは惑わされた。

その男の子、なかなかわがままでやんちゃなガキだったのである。いつも小銭をポケットに、年上の子どもたちにまでお菓子をちらつかせたりしながら、自分の我を通そうとした。ご両親のことがあるため、「可哀想な子」というイメージを持ってしまっている僕たちは、その子の実体と自分たちの「守ってあげなければ」という意識との狭間で、戸惑い続けていた。

やがて、日が経つにつれ、僕たちの意識にも少しずつ変化が訪れた。ご夫婦の周囲の気遣いを逆なでするような言動を垣間見たり、ガキの持っている小遣いがまさに両親の目を盗んで手に入れているものだと判ったり、時々現金が消えていく理由を、わが子の言辞をまさに盲目的に信用し、近所の子どものせいだと誤解しているご両親の風情などを目にしたりしていたからである。もちろん、大人たちの言動にも、明らかな変化が生じていた。

そんな秋のある日のことだった。ついに件のガキに対して、僕たちの堪忍袋の緒が切れた。具体的には覚えていないが、彼のいつもの身勝手な態度に激高した上級生が、強く叱ったのだった。手は出してはいなかった。激しく強い言葉で抵抗するガキは、やがて2~3人に囲まれ、強く叱責され、その悔しさに大声を上げて泣き出した。そして、誰もかばってくれないと判ると、突然駆け出し、家へと帰っていった。

その10~20分後。いつもひっそりとしている小さな平屋の玄関が、大きな音を立てて開けられた。「しょうがない奴じゃのお」などと、言い交わしながら帰宅していた子どもたちの2~3名は、その音とその後に続いた、盲目の父親の大声に家を飛び出した。何度か繰り返された父親の言葉は、今でも覚えている。

「うちの子を苛めたのはどこのどいつだ~!顔を見せろ~!」。玄関先で、小さな肩を怒らせ仁王立ちしている父親の姿は、暮れなずむ夕暮れの中に異様な影を落としていた。僕は、どうなるのだろう、と少しばかり心配をした。

お袋が玄関先にやってきた。いきなり声を押し殺して笑い始めた。僕は、驚いた。「見せたって見えないのにねえ」。お袋は、まだ笑いの残る喉から、搾り出すように僕に言って、また笑いながら台所へと戻っていった。大人たちの変化を象徴していた。何も起きなかった。盲目の父親は、しばらく叫び続けていた。

守るということは難しく、人の心理の襞は複雑なものだと学んだ夕べだった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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東京オリンピック、田舎を走る!ー②

東京オリンピックの聖火リレーは、4つのルートに分けて行われた。日本を挙げての大イベントであること、日本国民一人一人のためのイベントであることを聖火リレーを通じて意識してもらおう、という目的だったのだろう、全都道府県を通過するようきめ細かく設計されていた。リレー参加者の総数は、なんと約10万人。聖火リレーそれ自体が、大イベントだった。聖火リレーが終われば、オリンピックはすべてテレビの中の出来事になっていったが、それが現実味を帯びて見える一つの大きな要因は、聖火リレー体験に違いなかった。

山陰を通るルートは、国道9号線をひた走る、僕の田舎を突き抜けるものだった。大人たちは、つつがなく聖火を通過させるべく、それぞれの立場で働いた。織物を編みこむように見事に連係し機能が重なり、一本の太くて安全な綱を作り上げていくようだった。その一端には、子どもたちも織り込まれ、役割がきちんと担わされた。島根県益田市立横田中学校でも、全校集会での説明や、担任からの注意事項伝達などが丁寧に行われた。

伴走者の一人に選ばれていた僕は、「たかが火なのに、大げさだなあ」と思っていた。近所の人や同級生が沿道にずらりと並んでいる中を走る恥ずかしさと、ただぞろぞろと付いて走る無意味さに、途中で聖火が消えてしまい計画が変更になることを密かに願ったりしていた。

しかし、その日はきちんとやってきた。僕は、大した距離でもない(正確な距離は残念ながら覚えていない)のに準備運動をさせられながら随分と待ち、ちょっとだけの本番を終えた。どうせなら、全校生徒で走ればいいのに、と走りながら思った。東京に無事につないでいくために、町中ほとんど総出でやっていることに奥深いエネルギーと生真面目さを感じつつも、それが自分たちに残すものが何もないような気がして虚しかった。走り終わると、急激にばかばかしさが足元から全身を浸していくようだった。

「ちゃんと勉強すれば、どんなこともできるようになるし、どんな人間にもなれるんだよ」といった類の親の台詞に噛み付くようになったのは、その頃からのような気がする。「東京には行きたくない」と言い始めたのは、間違いなく聖火リレーの後からだった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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東京オリンピック、田舎を走る!ー①

中学3年間は、いつも余震に揺られているようだった。日本で、つまりほとんど東京で次々と起きる激震は、そのニュースがやってきてしばらく経つと、ささやかな余震波を田舎に送り込んできた。穏やかに大きな変化を見せないまま過ぎていく田舎の暮らしも、余震に小さく揺られているうちに、微かに変化を遂げていくようだった。

電化製品が次々と入り込んできて、一見大きく変わったように見える田舎の暮らし、生活文化。その実態は大きく変わることはなかったが、変化していくんだという意識、遅れてはならないという焦り、きっとよくなっていくんだという期待と希望は、変化へのエネルギーとなっていたようだ。ただ、どこへ向かうべきか、どこへ向かえばいいのか、はっきりと自覚している大人はいなかったように思う。「古い」「今は」「これからは」といった言葉が大人たちの口の端の上ることが多くなり、変化は盲目的な信仰の対象にさえなっていくようだった。やがて次第に「あんたも変わらんとなあ」とか「わしもこのままじゃあいけんけえ」とか「今はこれでええが、すぐに古うなるけえ、考えとかんとねえ」といった言葉が積極的な反省として語られる場面をよく目にするようになり、農作業や小さな商いの現場でさえ、変わっていこうとする動きが見られるようになった。

僕は、変化の実態がはっきり見えないまま「みんないい人たちだなあ」と、素朴な目で眺めていた。音楽の趣味はアメリカン・ポップスからリヴァプール・サウンドへ、ロックへと変わっていき、それが進化だと錯覚していた。東京志向はさして強くなかったが、実感もなく、事実として見たことも聞いたこともないことだらけの東京に強い興味はあった。

しかし、東京オリンピックの情報が氾濫し、聖火リレーが田舎の道を駆け抜けていくことになって、僕の中に小さな「アンチ東京」が芽生えていくのだった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和の田舎の中学校でのできごとー②

つゆだく?英語のK先生

英語のK先生の授業は、慣れるのに時間がかかった。中学入学当初は、小さかったために、僕の席は、最前列だった。僕は英語には、親父が自宅で低額の英語塾(6畳の部屋に、近所の子どもが集まって教えてもらう程度)をやっていて襖越しに発音練習を耳にしたりしていたので、妙に馴染みがあり、興味を抱いていた。しかし、K先生のキャラクターは僕の肌に合わず、それが授業への熱意を阻害していた。

K先生は、鋭い目付きとふくよかな頬を持ち、にこやかな笑顔に人の良さを滲ませたかと思うと睨みつけるような鋭い眼光に気の短さを表す、なかなか難しいおじさんだった。油断ならないのだった。しかし、僕を大いに悩ませたのは、そのことではなかった。K先生のふくよかな頬にいつも蓄えられているかのような唾液だった。要するに、飛沫が飛んでくるのだ。警戒すべきは、「SH」。Dish、Fishが、特に飛んだ。先生が生徒の方に向かって「続けて」と言い、みんなが先生の発音に声を揃えてついていく時などは、特に危険だった。正しい発音を、みんなに聞こえるように、と、いつもより入るK先生の気合は、大量の飛沫を生み出すことになっていくのだった。大げさではなく、頭にパラパラと降りかかってくる感じがした。先生の目の前で拭うのも申し訳なく、それも、手で拭いたくはないとあって、授業が終わるまで頭に乗ったK先生の唾液の一滴一滴が次第に肌に浸透していく感覚と戦い続けなくてはならなかった。授業に身が入るわけないのである。

ところが、すばらしい対処法を、やがて僕は身に着けることになる。周囲の被害者たちにも教えたかったが、止めた。みんなが同時にその方法を採ると目立つからである。簡単な方法ではあるが、テクニックは必要だ。開いた教科書を頭に被るのである。もちろん、授業が始まってからずっと被りっぱなし、というわけにはいかないから、「SH」が出てきそうなタイミングを計り、さりげなく、しかし、きっちりと被らねばならないのである。教科書の先読み、あるいは時として予習さえ必要になる、奥深い防御策である。僕は、K先生の飛沫を被りたくない一心で授業というよりも教科書に集中した。そしてついには、すばらしい技を会得するに至った。開いて両手で持った教科書を、「SH」が出現する数秒前からさりげなく机から浮かし、目の高さにまで持っていく。「SH」の瞬間、しかも飛沫がK先生の口から出て空中に拡散した瞬間だけ、教科書をさっと上に上げる。早業である。しかも一滴たりとも頭に到達させない完璧な技である。やがて左右の被害者も真似を始めたが、その技はわざとらしく稚拙で、到底僕に及ぶものではなかった。僕は誇らしい気分だった。

二学期になった。僕は夏休みの間に、5cmも背が伸びた。席が少しだけ後ろになった。うれしいような寂しいような、複雑な気分だった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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60年代、田舎の中学校でのできごとー①

島根県の中学校で、60年代に起きた(起こした)小さな事件の数々‥‥。

偽デモ事件

安保闘争が新聞紙面をにぎわし、東大生樺美智子さんの死亡が衝撃的だった昭和35年(1960年)、僕は初めて丸刈りになり、田舎の小学生になりきった。浜田市の飲食店街生まれの“似非町っ子”は消えたのだった。そして、遊び友達のグループにも無事入ることができてから迎えた中学校生活。浮き立つ気持ちが、たくさんの小さないたずらを生んだ。

夏休みが終わって間もない頃だったと思う(この頃は、背が先に伸びていた同級生の女子に、「洋ちゃん、静かにしなさい」と頭を撫でられたりしていた)。放課後の掃除の時間は、一方では遊び時間。当番だった僕が、「デモやろうか~」と言い出した。「デモって、なんじゃ?」「やり方あるんじゃろう?」などとざわつくのを、「並んで、同じこと言うて歩けばええんじゃあや」と抑えて、先頭に立った。しかし、形にもならなければ、何を言っていいかわからない。で、僕はブリキ製のチリトリを目の前に掲げて、ハタキで叩きながら歩き始めた。なんだか違うなあ、とは思った。縦ではなく横に並んだ方がいいのかなあ、とも思った。ま、いいか、と歩き始めた。何かに反対し、何かに賛成しなくてはならない、と思い立った。

「勉強反対!弁当賛成!」。一声上げてみると、語呂がよくて気持ちいい。ガシャガシャとチリトリを叩きながら、行進を始めた。「勉強反対!弁当賛成!」と声に出していると、すぐに10人近い人数の列になった。みんな、思いは一緒だ~と思うと、勢いがついた。ついに、偽デモの列は、教室を出て廊下をじぐざぐに練り歩き始めた。すると間もなく職員室のドアが開いた。僕たちの教室の隣が職員室だというのを、僕は首をすくめるように思い出した。

「何を馬鹿なことやっとるんじゃ~。お前か、張本人は。こっち来い!」。耳を引っ張られて職員室に連れて行かれた。「中学生にもなって何やっとるんじゃ、お前は。掃除はちゃんとしたのか?」。頭を掻いていると、親父と目が合った。「お前、テレビは好きか。よく観とるか?」。親父の目線が気になりながら答えた「はい!」。「何観とる」。「NHKの教育テレビ!」「嘘つけ!ほんとは~!?」「チロリン村とクルミの木!」「馬鹿か、お前」。目の片隅で、親父が机に突っ伏すのが見えた。同じ中学じゃ、親父苦労するなあ、と思った。

後年、学生運動やデモに参加することがなかったこととこの事件は関係ない。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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柳行李とブルゾン

僕の親父は大正11年生まれ。八幡製鉄(新日鉄の前身)に勤めるサラリーマンの長男として生まれた。中等学校野球(高校野球の前身)フリークだった父親は、福岡県久留米市から甲子園まで観戦に出かけるほどだったという。カンカン帽を被り嬉々として出かけていく父親を、幼い弟をおぶった母親と見送った記憶がある。肝臓ガンの病床で懐かしそうに語っていた親父を思い出す。

しかし、親父の父親は30代半ばにして脳卒中で突然他界。親父は、親戚を転々とさせられた後、遠戚にあたるお寺に預けられ、そこの小坊主となった。尋常小学校入学直前のことである。お寺を継ぐことを条件に龍谷大学に進学させてもらうが、京都の自由な学生生活を経て学徒出陣から帰還すると、英語の教師になっていた。

「そんなんだったけえのお。栄養がのお」と、親父は自分の身長の足りなさを生い立ちのせいにしていた。本人は、「158テンハッセンチ」とカタカナ部分を強調して言っていたが、それが過大申告であることがやがてわかってきた。中学入学時140cm弱だった僕は、遺伝の心配を抱えつつも、順調に背を伸ばし、2年生になった時は148cm、3年生になったときは158cmと、毎年ほぼ10cmずつ親父に近付いていった。いや、近付いているはずだった。しかし実際には、中学3年生になった頃には、明らかに追い抜いていたのだ。親父はおそらく、155~6cmくらいだったと思われる。そんな、ほぼ同じ背丈になった中学3年を前にした冬休みのことだった。

冬の陽だまりの中で居眠りをしていると、押入れの奥からごそごそと柳行李を出していた親父に起こされた。「おい、これ着るか?着るんだったらやるで」。元々の素材の良さのなごりはあるものの、いかにも古ぼけたブルゾンだった。「このジャンパー、高かったんで~」と眼前に差し出されると、なぜかほのぼのと見覚えがある。「それ~」と、首を傾げていると、1枚の写真を引出しから取り出し、説明してくれた。

Photo_2 親父の頬にまだふくらみはあるが、肺結核が進行していた時期。親父31歳。僕は3歳。死を覚悟した親父が記念写真を、と撮ったものである。この時着ていたブルゾン(親父に言わせると、ジャンパー)だった。生活保護をもらいながら、女学校の教え子が働くパチンコ屋(僕の遊び場だった)に通って玉を出してもらったり、浜田市の標語募集に応募して少しばかりの賞金をもらったりしていた時代。たまたま何かの懸賞に当たったお金で買った、なけなしの晴れ着だった。僕のベストもその時買ったものらしい(なんで子供はベストなんじゃ~!)。「ふううん、約10年前か~」と、僕は手にとり、親父の思い出と一緒に受け取ることにした。

やがて高校を出て引っ越した時、衣類を入れた柳行李の中に、このブルゾンは丁寧に畳まれていた。そして、京都の底冷えのする冬、僕はこのブルゾンを着て寒さを凌いだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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