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テッチャンとの再会?

昭和60年(1985年)夏、お袋が子宮ガンで入院した、との知らせが入った。僕は忙しい日々を過ごしていた。と言うよりも、無茶苦茶な日々、と言った方がいいかも知れない。深夜まで働き、それから酒を飲み、3~4時間の睡眠の後、また仕事という日々。帰省などほとんどしていなかった。僕は、決意した。後妻としてやって来て、小生意気なガキを相手に苦労したお袋にしてあげられることは、残り少ない。毎週お見舞いに行こう。蓄財に縁のない僕にとって旅費は痛いが、豊富な質量の仕事さえあれば、それもなんとかなると判断した。

萩・石見空港が開港する以前のこと。新幹線も「のぞみ前・ひかり時代」。最も速い経路は、山口宇部空港まで飛び、そこからレンタカーで夜の山陰道をひた走る、というもの。普通免許取得が33歳と遅かった僕も、運転歴3年、方向音痴も目的意識で克服できる、とタカをくくった。

まずは、お袋の病状を確認するために帰省。本人から「末期だし、転移してるから助からんのじゃあね」と聞かされ、さらに覚悟は強まった。以降、毎週末土曜日の夕刻までに羽田を発ち、深夜までには益田市の日赤病院に到着してお袋のベッドサイドのソファで夜を明かし、翌日のお昼ご飯を一緒に食べて帰ってくる、というスケジュールをこなした。7月に第一報をもらって、毎週のお見舞い帰省を始めたのが8月初めだったと思う。お盆のチケットも何とか取り、お袋の「白身魚の刺身が食べたい」という望みをかなえるために、地元スーパーや魚屋をレンタカーで回っている時、中学の同級生に出くわした。彼女は、誤解していた。「同窓会、楽しみじゃねえ」と、僕の帰省は、同窓会のためのものと思っていたのだ。しかし、おかげで僕は同窓会の開催を知ることができた。

住所がわからず、案内状を送ることもできなかった僕が、会場の割烹旅館の二階に遅れて現れると、小さな静寂の塊が横切っていった。中学時代の疎外感が蘇った。初恋の人がいた。中学卒業後、集団就職をしていった人たちもいた。しかし、テッチャンや三浦のヨン坊や田中のヨン坊の姿はなかった。

わずかの言葉しか交わしたことのない初恋の人に思い切って話しかけたお陰で、彼女の友達グループ3人が後部座席に、助手席にも女性が乗り込んだレンタカーを運転して、二次会場に向かった。ざわざわと、とりとめもなく同級生たちと話をしているうちに、テッチャンのことがとても気になってきた。何か嫌な予感がした。ヨン坊のことから聞くことにした。三浦のヨン坊は、都合が悪くて、ということだった。しかし、‥‥「田中のヨン坊ねえ。死んだあや。あの大洪水の後土木の仕事で稼いどったんじゃけどのお。この前水が出た時、堤防を軽で走っとって、流されてのお」。チビのヨン坊は、溺死していた。僕は、慌てた。「テッチャンは?」。そう言って、言葉を換えた。テッチャンと呼んでたのは僕だけかもしれない。「米屋のテエ坊は?」。「ああ、テエ坊ねえ。ええ奴じゃったねえ。ガンでねえ。だいぶ前に亡くなったよ」。嫌な予感は的中した。お袋のガンがきっかけの帰省で、テッチャンのガンによる若い死を知ることになるとは‥‥。

僕は、カウンターの端で、少しの間テッチャンを思いながら飲んだ。屈託のない笑顔と、最後に見た後姿を思い出した。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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