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昭和34(1959)年、小学5年生で学んだこと。

島根県益田市鎌手。お袋の実家のある農村である。国道9号線沿い、一方に日本海を臨む狭い農地が連なっている、豊かとは言えない所だ。海岸に貼り付くように小さな漁村も点在し、漁業と農業を兼業している家も多かった。お袋の実家は地主だったらしく、終戦(敗戦)後の農地解放で所有地を失うまでは、なかなか裕福だったらしい。長男、夭逝した次男の兄二人と姉、二卵性双生児の弟と妹、上下それぞれ三人に挟まれたちょうど真ん中の次女としてお袋は生まれ、女学校までは田舎の資産家のお嬢さんらしい、習い事の日々。戦後は、バス会社で経理の事務員として働いていた。そんなお袋がこぶ付きの親父となぜ結婚したのか。ずっと疑問だった。その真相は、後年子宮癌で亡くなる直前にお袋の口から明らかにされるまで、僕にはわからなかった。

小学校5年生の1年間、僕たち家族は、お袋の実家の“離れ”で過ごした。町でもない、山奥でもない、言わば村らしい村の暮らしに次第に慣れ、丸刈りの頭、いつも日に焼けた顔と肌の“田舎の少年”に、僕はじんわりと変貌していった。その後益田市横田で満喫した4年間の“田舎の少年”生活は、この一年の助走期間のおかげだったと言ってもいいだろう。

そんな秋のことである。農村のお祭りは、収穫祭。どこか幸せで晴れがましい顔ばかりの、明るい賑わいがそこかしこに現出する。子供たちの楽しみは、ごちそう、夜店、そしてメイン・イベントの石見神楽だ。神話を題材とする演目がまだ明るいうちから始まり、明け方の「ヤマタノオロチ」退治で最高潮を迎える。子供たちも、この夜は起きていることが許され、眠い目を凝らしながら舞台の袖に群がる。最後まで起きていること、それが子供の誇りなのだ。

僕も、近所からいただいた重箱入りのごちそうを早々と平らげ、神社へと急いだ。家を飛び出す直前に、お袋が「はい」と50円握らせてくれた。大金だ。ぎゅっと握り締め、駆け出した。紐を引っ張ると勢いよく空へ舞い上がる「ヘリコプター」を買おうと、走りながら決めた。友達に次々と出くわした。そのたびに、そっと握った左手を開き、50円を確認した。嫌な笑みが浮かんでしまうのがわかった。やがて、4~5人のグループになった。夜店を冷やかして歩きながら、僕は「ヘリコプター」を探した。夜店の店頭にはいつもあるはずの「ヘリコプター」に、しかし、その日はなかなか出会えなかった。少し高いからかなあ、などとちょっと諦めかけた時、緑のプラスチック製、PPの袋に入ったそれを僕は見つけた。しゃがみこんだ子供の脇に身体を滑り込ませながら、「おばちゃ~ん」と呼びかけ、右手でそれを指差した。左手は、しっかりと握ったままだ。「はい」と、おばちゃんの手がその袋をつまんで伸びてきた。受け取り、そのままお金のために開かれたおばちゃんの手に、お金を渡そうとした。左手を右手を添えて開いた。ない。掌は、空を握り締めていた。下を見、後ろを振り返った。背中を電気が走った。「なんてことだ。あんなに大切に握っていたのに!」後悔の念と無限の悲しみが襲ってきた。「あれ?あれ?」とおどけた声でごまかしながら、「ヘリコプター」を返した。僕は、その夜石見神楽を、「ヤマタノオロチ」まで眠気を感じることなく見切った。

大切にするということは、握り締め続けることではない。僕は、そのことを学んだ。握り締めた時の感触は、やがて失われていくものなんだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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