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テッチャンとの再会?

昭和60年(1985年)夏、お袋が子宮ガンで入院した、との知らせが入った。僕は忙しい日々を過ごしていた。と言うよりも、無茶苦茶な日々、と言った方がいいかも知れない。深夜まで働き、それから酒を飲み、3~4時間の睡眠の後、また仕事という日々。帰省などほとんどしていなかった。僕は、決意した。後妻としてやって来て、小生意気なガキを相手に苦労したお袋にしてあげられることは、残り少ない。毎週お見舞いに行こう。蓄財に縁のない僕にとって旅費は痛いが、豊富な質量の仕事さえあれば、それもなんとかなると判断した。

萩・石見空港が開港する以前のこと。新幹線も「のぞみ前・ひかり時代」。最も速い経路は、山口宇部空港まで飛び、そこからレンタカーで夜の山陰道をひた走る、というもの。普通免許取得が33歳と遅かった僕も、運転歴3年、方向音痴も目的意識で克服できる、とタカをくくった。

まずは、お袋の病状を確認するために帰省。本人から「末期だし、転移してるから助からんのじゃあね」と聞かされ、さらに覚悟は強まった。以降、毎週末土曜日の夕刻までに羽田を発ち、深夜までには益田市の日赤病院に到着してお袋のベッドサイドのソファで夜を明かし、翌日のお昼ご飯を一緒に食べて帰ってくる、というスケジュールをこなした。7月に第一報をもらって、毎週のお見舞い帰省を始めたのが8月初めだったと思う。お盆のチケットも何とか取り、お袋の「白身魚の刺身が食べたい」という望みをかなえるために、地元スーパーや魚屋をレンタカーで回っている時、中学の同級生に出くわした。彼女は、誤解していた。「同窓会、楽しみじゃねえ」と、僕の帰省は、同窓会のためのものと思っていたのだ。しかし、おかげで僕は同窓会の開催を知ることができた。

住所がわからず、案内状を送ることもできなかった僕が、会場の割烹旅館の二階に遅れて現れると、小さな静寂の塊が横切っていった。中学時代の疎外感が蘇った。初恋の人がいた。中学卒業後、集団就職をしていった人たちもいた。しかし、テッチャンや三浦のヨン坊や田中のヨン坊の姿はなかった。

わずかの言葉しか交わしたことのない初恋の人に思い切って話しかけたお陰で、彼女の友達グループ3人が後部座席に、助手席にも女性が乗り込んだレンタカーを運転して、二次会場に向かった。ざわざわと、とりとめもなく同級生たちと話をしているうちに、テッチャンのことがとても気になってきた。何か嫌な予感がした。ヨン坊のことから聞くことにした。三浦のヨン坊は、都合が悪くて、ということだった。しかし、‥‥「田中のヨン坊ねえ。死んだあや。あの大洪水の後土木の仕事で稼いどったんじゃけどのお。この前水が出た時、堤防を軽で走っとって、流されてのお」。チビのヨン坊は、溺死していた。僕は、慌てた。「テッチャンは?」。そう言って、言葉を換えた。テッチャンと呼んでたのは僕だけかもしれない。「米屋のテエ坊は?」。「ああ、テエ坊ねえ。ええ奴じゃったねえ。ガンでねえ。だいぶ前に亡くなったよ」。嫌な予感は的中した。お袋のガンがきっかけの帰省で、テッチャンのガンによる若い死を知ることになるとは‥‥。

僕は、カウンターの端で、少しの間テッチャンを思いながら飲んだ。屈託のない笑顔と、最後に見た後姿を思い出した。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和のガキ大将、テッチャンとのその後

大人たちに対する控えめな自己主張の方法が身に染み付いていた僕のもの言いは、テッチャンにとっては、プライドの高い奴の嫌味な自慢に映ったことだろう。僕は、そんなつもりはないと意識してはいても、自覚せざるところで、さりげないからこそより強い自慢をしていたんじゃないか、などと反省したりした。そして、その反省の気持ちがまた、テッチャンに対する僕の言動を、少しぎごちなくしたりもした。

薄い皮膜がかかったまま拭いきれないような感覚を抱きつつテッチャンとの交流は中学卒業まで続き、高校進学と共に途絶えた。違う高校へ行くことになったことと、とりわけ僕の引越しによるものだった。もっと時間をかけて友情を育みたかった僕は、中古の我が家への引越し、初めての二階の自分の部屋に、空虚な思いしか抱くことができなかった。高校生活が予想だにしなかった大学受験の色を帯びたものであることを実感し始めると、中学時代への懐かしさは募った。

そして、テッチャンとの接点がなくなってほぼ丸3年、高校3年生の冬休み、思いがけないことが起きた。

「洋ちゃん、お友達よ~」。炬燵に寝転んでテレビを観ていた僕に、玄関が開く音にそそくさと出ていったお袋の声が届いた。受験前の冬休み、行き来を遠慮しあっている高校の同級生だとしたら、特別な用事かもしれない。ぴょんと跳び起き、僕は玄関に向かった。俯いた学生服姿が、顔を上げた。「あれ~」。僕は、上ずった声を上げていた。テッチャンだった。

「忙しい時に、ごめん。一言言いたくてね」。挨拶もなくテッチャンは切り出した。「俺、洋ちゃんのこと誤解してたような気がして‥‥。それが気になって‥‥。ごめんね。悪かったね。それだけ。元気でね。また会おうね」。18歳の高校3年生の男は、少年のようにそれだけの言葉を吐くと、にっこり笑って背を向けた。一言も僕に語らせることもなく。慌てた僕は、テッチャンの背中に「ありがとうね」と言ったが、玄関の戸が閉まるのと同時くらいだった。テッチャンに聞こえたのかどうかわからないまま、玄関の戸は閉まり、テッチャンは去っていった。

そしてさらに17年後‥‥。    次回に続く。

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昭和のガキ大将、テッチャンとの4年間ー③

僕は、テッチャンが大好きだった。でも、テッチャンは少しだけ僕が苦手で、そのことが指先のささくれのように、いつも気になって仕方ないように見えた。僕は、その理由が僕の方にあることに薄々気付いてはいたが、直そうとしても直るものではないことも、薄々知っていた。

幼い頃、大人たちに囲まれていたせいか、僕は子どもらしいストレートなもの言いができなくなっていた。感想や欲求をまっすぐ言葉にしては、大人たちの険しい目やきつい言葉の攻撃を受けている間に、婉曲的なもの言いや遠慮がちで控えめな挙動がすっかり身に付いていたのだ。それが、時として嫌味な印象を与えたり、意図していないにもかかわらず皮肉として受け取られることに困惑することもあった。テッチャンが時折見せる冷ややかな目は、概して僕のそのような性癖が出てしまうことが原因だった。

忘れられないことがある。

中学2年の秋、鉄棒で遊んだ放課後、田舎の道を数人で肩を並べて帰る途中のことだった。話題は、プロ野球から差し迫った中間試験へと移行していた。試験に関しては無頓着だった僕は、会話に入らないようにしていた。と、突然テッチャンが大きな声を上げた。「心配いらない奴は、ええよなあ」。少しだけ前を歩いていた僕は、振り返った。テッチャンの目と出くわした。とっさに「そんなことないよ」と口に出し、すぐに後悔した。なんて自意識過剰なんだ。なんて不遜なんだ。「あれ?洋ちゃんのことだって、誰か言った?」テッチャンの痛烈な皮肉が、慌てて前を向いた僕の後頭部に突き刺さった。ずっと抜けることのない棘のようだった。

転校生、小さな頃から一緒に過ごしているわけでもない、限界があるのはやむをえない。しかし、どうしてきちんと混ざっていくことができないのだろう‥‥。歯がゆく、悲しかった。

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いかにも60年代の田舎の中学校の卒業式。男の子が全員丸刈りであることに、都市出身者は目を瞠る。だが、僕は、高校3年の夏まで丸刈りだった。髪型自由を勝ち取るために、ちょっとした闘争があったほどだ。判別できないが、僕は向かって上から三列目の左から7番目。

最高の時代だったが、本当にみんなと時間が共有できたのか、自信はない。

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一つ前の誕生日

「二つの誕生日」のお話の次は、「一つ前の誕生日」つまり昨年の誕生日のお話。もちろん、私事であります。

2006年10月24日、僕は、東京都渋谷区の初台リハビリテーション病院で、57回目の誕生日を迎えた。東邦大学大橋病院から転院してちょうど3週間、サポートしてもらって少し歩ける程度、車椅子での自由な院内移動を許可されて間もない頃のことだった。病院でのお祝いをセッティングしてくれたのは、Kappare-pooh、Kenちゃん、そして、ちわわん。初台リハビリテーション病院の食事はよくできた食事で、和・洋から選べる(1週間ほど前に来るメニューで選択)上に、目にもおいしく出来上がっている。食器が陶器なのもうれしい。おまけに、外来者も予約さえしておけば、同じ食事を一緒に摂ることができる。彼らは、この仕組みを活用し、病院にお願いして新宿の夜景の見える共用スペースにテーブルをセッティングしてもらい、そこに合計5人前の同じメニューを運んでのお誕生会となったのだ。

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車椅子を足でこぎ、あるいは押してもらいながら、いつもの食堂スペースを通り過ぎ、五つの椅子が並んでいるテーブルに着くと、そこは温かい空気に覆われてているようだった。その空気の中にすっぽりと身を置いて、スポーツ選手並みのリハビリのスケジュールや病を得て気付いた身体の不思議などを笑い話にしていると、「元に戻れるとは思わないでください」と入院時に医者に釘を刺されたことも忘れ、いつか彼らとまた飲んで歌っている自分の姿が浮かんだ。

毎年事務所で開いていた「KAKKYのお誕生日すき焼き宴会」は、さすがに中止。30~50人くらい来てくれていた友人・知人の顔を見ることもできない、その寂しさを補って余りある4人の優しい気遣いに、気を許すと落涙してしまいそうで、「しっかり食べないと‥‥」「相変わらず、食べるの遅いねえ」などと言われながら、僕は喋り続けた。

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しかし、動かない左手をテーブルに引き上げ、燃え盛っているHAPPYBIRTHDAYの英文字ローソク13本を吹き消して、みんなの「おめでとう!」の声を聞いた途端、我慢できなくなった。なんとか、その時は鼻水を拭くだけで済んだが、むしろ今になってうれしさが募る(本来縁のない鬱の影が忍び寄ると思い出す。影は消える)。

過去最高の誕生日だった。

*闘病、リハビリ(今も続いている)に関するブログ、近日スタート!興味のある方、不安を抱えている方は、ご覧ください。ここで、お知らせします。

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二つの誕生日

私事ですが、本日(10月24日)は、僕の誕生日です。で、テッチャンのお話は休憩。誕生日を巡るお話をしばし‥‥。まずは、「二つの誕生日」。

昭和24年(1949年)10月24日午前8時半過ぎ、僕は、島根県浜田市でこの世に生を受けました。

この誕生の瞬間は、しかし、47歳まで実はあやふやだったのです。

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今夜の月です。昨日は、確か十三夜。少し欠けた月を愛でる日本人の心根、いいですねえ。僕の、自分の誕生日に関する気分も十三夜のようでした。

中学3年生、卒業を間近に控えた僕は、担任から渡された高校進学関連の書類の必要項目を埋めて、戸籍抄本と一緒に提出しました。新しい環境への期待で浮き立つような気分でした。しかし、その日の放課後「ちょっと、職員室に来てくれ。今朝もらった書類の件じゃ」と、わざわざやってきた担任に言われた時は、小さな不安が頭をもたげてきました。保育園に通い始める直前続けて起きた、両親の離婚と親父の肺結核の手術入院。小学校入学の直前から始まった親父のお見合い騒動、中学校入学前に持ち上がった親父の中学校教員から高校教員への転進話。どうも、僕の節目には何かが起きることになっているのです。

友人たちとの雑談を区切りのいいところまで続けて、僕は、職員室に向かいました。いたずらやさぼりでよく職員室には呼ばれていたので、嫌な気分は禁じえません。木製の引き戸を開け、右奥の担任の席まで早足で近寄りました。後頭部の辺りから「なんですか~?」と、声を掛けました。「ん?おう」と声を上げた担任は笑顔です。「お前、誕生日いつなんじゃ~?」。「え!?10月24日ですけど~」。「戸籍抄本は、10月22日になっとるぞ~」。「え?!だって、ずっと10月24日に誕生日のお祝いしてもらってますもん」。「そりゃあ知らんが、抄本の方が正式じゃけえのお」。「でも‥‥」で言葉を呑みました。担任にあれこれ言っても始まらない話です。「帰って聞いてみます」。「おう、そうしてくれえ」。

というわけで、同じ中学で教師をしていた親父が帰ってくるや否や質問しました。「さっき学校で‥‥、抄本には‥‥、一体僕の誕生日は‥‥」。と一気に畳み掛けると、ふんふんと聞いていた親父は、こう言ったのでした。「じゃったら、お前の誕生日は、10月22日じゃ。そりゃあ、抄本の方が正式じゃけえのお」。肩透かしを食らったような、どうも腹に収まりきれない気分でした。

そして数十年、47歳の初夏、とあることがきっかけで、産みの母親と会うことになりました。僕が聞きたいことはただ一つです。「まあ、大きくなって~。面影あるわ~」と、10mくらいまで近づいた時からにこにこ大声で感嘆している母親と、ぎごちない握手をした直後、ずっと腹の片隅に引っかかっていたことを口にしました。「あの~、僕はいつ生まれたんでしょう?」。「まあ、何言うてるの~?洋ちゃんは、10月24日の朝8時半過ぎに、産まれたのよ。産んだ私が言うんやから、間違いないって」。と、早口の関西弁の答えがありました。僕は、「やっぱり!」とすっきりしながら、質問した背景を話したのでした。

こうして、約30年間のてんびん座の男から、僕はさそり座の男に戻ったのでした。そして、星占いのてんびん座のコーナーを見て、「当たってる~~」と一喜一憂していた時間を虚しく感じたのでした。

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なんと、僕の生まれ故郷に近い山口県柳井市から、野菜のソムリエ&フードコーディネーターのKapparが、プレゼントを兼ねて取り寄せてくれた「日本一おいしい」とネットで評判のザッハトルテ。バースデイケーキになっての登場でした。

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昭和のガキ大将、テッチャンとの4年間ー②

60年代(昭和30年代中盤)の遊び

60年代、僕たちの遊び場は、道路だった。島根県益田市横田町では、クルマを保有する家庭などないに等しく、業務用のクルマでさえ数えるほど。オート三輪が威張っていた。自動二輪の「カブ」が、商家に徐々に普及し始めていたが、最も頻繁に見かけるのは交番のお巡りさんが乗っている姿だった。自転車は猛烈な勢いで普及していたが、まだ大きな荷台付きの大人用の自転車を三角乗りしている子どもの方が多いくらいだった。そんな状況だから、幹線道路でさえバスやトラックがたまに通る程度。幹線道路から逸れると、路上は静かなものだった。僕たちは、空き地や製材所や扇子の骨(竹製)の工場の広大な敷地なども好きだったが、それぞれが玄関から表に飛び出して首を巡らせばお互いを認識できる道路が、一番手っ取り早い遊び場だった。大人たちも、夕飯の時、何か用事を言いつける時など、表に出れば子どもたちを容易に見つけることができるので、道路で遊んでいる限りは、子どもたちを叱ることなどなかった。

よくやった路上の遊びは、ビー玉、三角ベース、缶蹴り、それとなんと言っても相撲だった。数人が集まると、誰かが路上に円を描き、自然に取り組みが始まった。主役は、テッチャン。磐石の強さだった。やがて、テッチャンが呼び出し役になり、僕たちそれぞれに付けた四股名を呼び上げると、呼ばれた者同士の取り組みになるようになった。僕は、細いのに粘り腰でうっちゃりが上手だったから、明歩谷と呼ばれるようになっていた。健康優良児の三浦のヨン坊は、案の定若秩父。テッチャンは、背筋を伸ばした蹲踞の姿が美しかった北葉山を名乗ったり、技にこだわっている時は、若乃花を名乗ったりした。なかなか切れ味の鋭い技をテッチャンは披露してくれたが、僕の記憶に鮮明なのは、三浦のヨン坊の巨体を中に浮かせた二丁投げだ。夕暮れの路上で、テッチャンの右足に払われ、一瞬テッチャンの腰に乗るかのようにして浮き落ちていった三浦のヨン坊の身体‥‥。地表に落ちた時、どすんと響いたような気さえした。

なんとなく四つに組む。男の子同士でいると、ふとしてしまうしぐさ。僕は、社会人になっても、その癖がまだ残っていた。

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昭和のガキ大将、テッチャンとの4年間ー①

テッチャンのこだわり

テッチャンの本名は、哲志である。なかなか趣のある名前だが、中学2年生くらいになると「名付け親は、お父さんじゃないな」と、僕は疑い始めていた。テッチャンの家は、米屋さん。専用の袋を持たされお米を買いにいくと、テッチャンのお父さんは、必ず店先にいて威勢良く迎えてくれた。お父さんは、店に入ってすぐ右手、精米されたお米が入れてある内側がトタン張りの大きなの箱の脇に立っているか、少し奥に設置された大きな精米機を操作していた。「米ください」と言うと、「ほい」とか「いつもくらいかな?」と言いながら、大きな箱の中にいつも刺すように置いてある一升枡に米を入れ始めた。枡の上にはみ出た米をスリコギのような棒でそぎ落としては、僕が広げている袋に注ぎ込んでくれる。重みの増す袋の口が狭まらないようにしながら交わす無駄話が、僕は好きだった。商売の知恵、苦労、楽しみを垣間見るような話ばかりだった。「米屋の儲けは少のうてねえ。ちょっとしたことが大切なんじゃが、ほれ、こういう風に枡に親指を入れてるじゃろう。この分や、ほら、こうやって米をそぎ落とす時に先っちょを少しだけ斜めにして多くそぎ落とす。これだけの分が積もり積もって儲けになるようなもんでのう」と、商売の奥義を教えてくれるのはいいのだが、そのまま袋に入れられる僕は複雑で、幾分損した気分で帰ったりするのだった。テッチャンは、お父さんによく怒鳴りつけられていたが、言い返す場面はほとんど見たことがなかった。「テエ坊!」。その時の呼び方は、他の友人たちと同じだった。ほとんどの子どもが、お互いに「○○坊」と呼び合っていた。「よ○○○」という名前だと「ヨン坊」となる。「ヤン坊マー坊」のヤン坊のようなものである。同級生で同じ遊び仲間に「ヨン坊」が二人いて、識別するために、本人を呼ぶ時以外は、「田中のヨン坊」「三浦のヨン坊」と苗字を付けていた。面倒なのになあ、と不思議だった。

テッチャンは、どうも「テエ坊」と呼ばれるのが好きではなかったようだ。最初は苗字で呼んでいた僕が、周りに合わせて「テエ坊」と呼んでみた時、テッチャンはすぐに僕のそばにやってきて耳打ちした。「テッチャンと呼んでくれる?」。「わかったよ」と答えて、僕はテッチャンと呼び続けたが、最後までそう呼んでいたのは僕だけだった。時々テッチャンのささやかなプロモーションが功を奏し、3~4人がテッチャンと呼んでいる時期もあったが、定着はしなかった。テッチャンのこだわりは、満たされることはなかったのである。

「哲学を志す」。テッチャンの本名をそう呼んでいた僕は、「確かに、テエ坊じゃなあ」と思い、「テエ坊!」と大声で呼んで憚らないお父さんは、テッチャンの名前の持つ意味や意義に愛着がないと考え始めた次第である。テッチャンがどう思っていたのか、それは定かではない。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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米屋のテッチャンー②

いじめっ子は、本来小悪人である。小さな優越感やささやかに優位性を得ることができる居場所を求めて、明らかに勝てる相手を選び、長くいたぶる。いたぶっている間だけ保持できるはかない優越感だけに執拗だ。いつの時代にも、どんな社会、会社にも小悪人はいる。小悪人は、力のある者にまず擦り寄り、弱者のいじめが許容される、あるいは正当化される環境を手に入れておこうとする。そして、じっくりと獲物を見つけいたぶり始める。小悪人の“小”たる所以である。

しかし、本物のガキ大将、人を束ねる力を持った男は、小悪人の擦り寄りには超然として無関心だ。むしろ、小悪人の擦り寄りは弱者を苛めようとする前兆だと察知し、小悪人の言動にさりげない注意を払い始める。なぜなら、本物のガキ大将は、弱者のためにこそ存在しているからだ。

転校して間もない初夏の頃、僕は本物のガキ大将を初めて見た。

S君という、少し意地悪な子がいた。S君は、言葉やちょっとした暴力を使って、ターゲットにしている数人の子どもたちに小さな屈辱感や、不愉快を与えてほくそえんでいた。僕も危うくターゲットにされるところだったが、1~2度の接近遭遇を何とか過不足なく切り抜けて、ターゲット候補から除外された。いつも狙われているのが、T君だった。学業が思わしくなく、身体も僕くらいの小ささ、意思表示も明快ではないことが、T君を狙いやすい存在にしていた。ただ、いじめの実行者はS君のみ。意地悪な子どもたちが複数になることはなかった。しかし、誰もS君のいじめからT君を本格的に救出することもなかった。次のターゲットにされることが怖いからだった。

そんなある晴れたお昼休み。新校舎二階のクラスでお弁当を食べ終わってわいわいと遊んでいた時のことだった。窓から校庭を一瞥したテッチャンが、突然駆け出した。僕は唖然として見送り、何事が起きたのかと、校庭の方を見た。まず目に入ったのは、1階から裸足のまま駆け出していくテッチャンだった。猛然と走っている。僕はその行き先を目で追った。校庭の向こうの端、小さく二人の男の子の姿があった。S君とT君だった。T君は、暴力を受けているようだった。うなだれていた。テッチャンが猛スピードで近づいた。あと少し。そう思うまもなく、テッチャンはジャンプした。左拳をふりかざして。次の瞬間、S君は倒れていた。すぐにS君は右頬に手を当てながら立ち上がった。その時、テッチャンはもう校舎の方に向かって歩み始めていた。

本物のガキ大将の姿だった。‥‥‥。その後、テッチャンは、そのことを語ることもなかった。S君の意地悪はピタリと止んだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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米屋のテッチャン

島根県益田市横田町から中国山地へと深く入っていくと、匹見町という小さな町がある。今は過疎で悩む町となっているが、匹見峡という絶景があり、雪解け水がせせらぎとなって集まる匹見川の源流では良質の山葵が育つため、少しは見直されつつあるようだ。

僕の家は、農村を通る幹線道路と匹見方面へと向かう道路がつながっているポイント「匹見口」の近く、100戸は集積している集落にあった。すぐ横を流れる匹見川と中国山地との間、農地と堤防と道路に囲まれた小さくまとまった町だった。大家は、田舎の大店徳田商店。生鮮品以外は大体揃う小売店であり、饅頭の製造販売もしていた。堤防へと続く短い通りには、魚屋、米屋、八百屋、本屋、駄菓子屋、電器屋、郵便局、美容院などが民家を間に挟みながら連なっていた。脇へ逸れると、戦後の水害の後に建てられたという仮設住宅が長屋のように存在していたり、神社があったり、金魚の養殖場があったり、公務員住宅が固まっていたりした。まるで、60年代の日本の典型的な町並みがコンパクトにまとめられているようだった。しかも、ほんの少し足を伸ばすと、もう田園が広がっている。夏になると鮎の魚影が大人も子どもも夢中にさせてしまう川まである。ネオンの明かり、排気ガスの臭い、往来にこぼれるヒットメロディ、着飾った男女などとは無縁だが、小さく浮き立つ程度の刺激とのどかな暮らしが共存している、子どもにとってはとても過ごしやすい町だった。少なくとも僕は、中学校を卒業するまでの4年間、横田で過ごせたことを幸せだったと思う。故郷が場所ではなく、ある時代の自分自身とその環境だとするなら、僕の故郷は、間違いなく島根県益田市横田町である。

近所に、同級生が多かったことも幸いした。幼い頃からの遊び仲間に、僕は大きな抵抗なく参加させてもらうことができた。そんな時、リーダーシップを発揮していたのが、米屋のテッチャンだった。僕は、すっかり彼が気に入っていた。

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本物のガキ大将と男の子の世界

1960年春から通い始めた島根県益田市立豊田小学校は、田圃の中に突然作られた小学校のようだった。典型的な木造校舎。校門を抜け校庭に入ると、正面に本校舎、右に二階建ての新校舎(団塊の子どもたちのためにできたのだろう)、左に講堂とコの字に囲まれる。周囲が田園地帯、校門前が未舗装の国道と開けているせいか、のどかで明るい雰囲気の、学校らしい学校に思えた。わずか一年しか過ごせないのが悔しく思えるほどだった。同級生たちも、豊かな田園地帯の子どもらしく明るくおおらかで、屈託なく僕を溶け込ませてくれそうだった。新校舎の二階上がってすぐの6年1組(1学年2クラス)で、新学期が始まった日、僕は転校生として紹介された。

教壇で簡単な挨拶をして顔を上げると、正面に大人のような子どもの姿が見えた。後でわかったことだが、島根県の健康優良児として表彰されたという三浦君だった。僕の記憶では、170cm近くは既にあったはずだ。丸いほっぺに人のよさそうな笑みを浮かべながら、その大人子ども三浦君は、僕を見ていた。僕は、その視線を避けた。先生が突然、「君の席は、一番後ろだからね」と言った。「はい」と、席を探す風情で教壇を降りた。席に着くまでが、いつも一番気恥ずかしい。空いてる蓋付きの机に着き、蓋を開けてランドセルの中身を片付け、目を上げた。前が見えない。巨大な背中があるだけだ。そう、一列間違えて、僕の机は、三浦君の後ろにセットされていたのだ。「先生~~」。身体をほとんど真横に倒し、精一杯手を伸ばした。教科書に目を落としていた教師は、「なんだ~~?」と訝しげな声で目を上げ、三浦君の陰から少しだけ見えている僕を見つけて大きく笑った。「そりゃ大変じゃ。前が見えんわのお」。教室中が振り向いた。みんな笑った。僕は、三浦君の背中に避難した。「ここも悪くないなあ」と思った。席は真ん中より前に急遽変更され、ざわざわと小さな席替え騒ぎになった。当時130cm台の身長の僕は、こうして受け入れられた。

それまでに経験したことのなかった「男の子の世界」が、それから始まった。本物のガキ大将がいた。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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BDシャツにはIVYスピリットが詰まっているー②

寮で生活するIVYリーグの学生たちの中で、アイロン掛けが得意な学生は少数派だったに違いない。僕は学生時代、寮生がアイロン掛けをしている姿は一度も見たことがなかった(聞いたこともない)。そんな彼らにとって、BDシャツは実に機能的なシャツだった。学生の正装としてネクタイ着用が常識だった時代、BDシャツは、ノーアイロンでもネクタイを締めると格好が付いた。洗った後、ハンガーループに引っ掛けぶら下げておくだけで、乾くとネクタイ着用に耐えられる襟元になっている。レギュラーカラーシャツの堅苦しさもない。で、よりネクタイ着用の安定性を増すために、バックボタンが付けられるようになった。ネクタイを阻害しないよBDシャツはIVYリーグの学生たちのものとなっていった。やがて、IVYリーグを卒業したビジネスマンたちが、その誇りと共にBDシャツを着用するようになり、ビジネスの世界にも定着していったのだった。

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僕は、BDシャツにアイロンを掛けたことはない。VANに入社して間もなく、「まさか、ボタンダウンにアイロン掛けてないよな。ボタンダウンらしくなくなるぞ」と言われ、なるほどと思って以来だ。

穂積和夫さんは、60sFACTORYのBDシャツのお話を最初にした時、「ブロードはなくていいよ、オックスじゃないとね」とおっしゃり、くろすとしゆきさんは、「アイロンなしに味が出るから、やっぱりオックスだね」とおっしゃったことがある。

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バックボタンの部分がネクタイの幅に食い込まず、後ろの襟元からネクタイが食み出して見えることもない。乱暴な方法だが、襟をボタンで留めるという無茶なことから始まったBDシャツ。ここまでやったからこそ、スタイルになったのだろう。

IVYリーガーズの合理的で、しかもどこか小奇麗でいたいという精神が、1枚のBDシャツからも充分窺える。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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BDシャツにはIVYスピリットが詰まっているー①

お客さんから相次いで、BDシャツに対して、メールでお褒めの言葉をいただいた。時として揺れてしまいかねないブランド・コンセプトを守らねば、と勇気付けられる。

「洋服は、実用性によって生まれ、機能性によって生き残っていく」。石津謙介の言葉である。流行が過去と現在の陳腐化の連続で創られていくのとは、少し趣の異なる言葉である。石津さんは、流行を作ることには興味はなく、むしろきちんと受け継がれていくべき洋服を定着させたかったようだ。「仕事としてやりたいのは、制服創りだねえ」。そんな言葉を耳にしたこともある。制服には、確かに実用性、集団の規律、来た時のカッコよさ等、ある意味では洋服に求められてきた要素が満載だ。そして、最も実用的な見地から洋服が検討されるのが軍服。だから、様々な洋服がその起源を軍服に持っていて、石津さんの言葉どおり、その機能性によって生き残っているのであろう。

ボタンダウンも、最初は実用性から生まれた、という説が有力だ。ポロ競技の際、風にはためくポロシャツの襟が邪魔になるのでボタンで留めた人がいた。そこから始まったらしい。それがやがては一種の流行になり、ドレスシャツの襟までボタンで留めるようになった。ここでもし、機能性として着目されなければ、まさに流行の波に飲み込まれ、ボタンダウンシャツは、消えていたかもしれない。

そこで登場するのが、アメリカ東部IVYリーグの学生たち。アメリカ的な合理精神を持ちながら、イギリスから受け継がれてきた伝統も重んじる質実剛健(石津謙介が最も愛した精神であるーと、僕は思っている)なIVYスピリットは、ボタンダウンシャツを見過ごさなかったのである。 −次回へ続くー

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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ポール・アンカの衝撃!

ローリング・60sは、1曲の大ヒット曲から僕を襲ってきた。ポール・アンカの「ダイアナ」である。僕が初めて「ダイアナ」を耳にしたのは、1960年の夏、小学校6年生の時だったと思う。何しろ、三橋美智也の大ファンを自認していた田舎の少年である。「ダイアナ」は、そのイントロから衝撃だった。ラジオはほとんどNHK,テレビは立地条件と経済力に恵まれた一部の家庭にのみ入っていた時代、アメリカの音楽を聴くチャンスなど身近にはなかった。

小学校6年生を迎える春。5度目の引越しを敢行し、島根県益田市横田の小さな家に移ったのが、きっかけだった。お隣は大家の徳田さん。今でも饅頭の製造販売をしておられるようだが、子どもの目には大きな商家。1ランク上の暮らしをしているお金持ちに見えた。先輩の男の子と、そのお姉さんがいた。定かではないが、徳田家の二階、彼らの部屋で聴いたのが「ダイアナ」を耳にした最初だったように思う。ポール・アンカが15歳で作詞作曲した曲だということとその大人びた歌詞の内容を教えられ、ひっくり返りそうになった。

それから、いかにしてアメリカの音楽に触れるか、努力と工夫を重ねていった。まだ、レコードとプレイヤーは、徳田家で一度見ただけだった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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’59年、60年代の怒涛のアメリカ文化流入の予感

59年頃、山陰の片隅に生息する小学5年生に、アメリカに対する興味などありようもなかった。お袋の鼻歌には「日本の乃木さんが‥‥」といった、日露戦争勝利の際に創られたと思しき“わらべ歌”が混ざり、ラジオでよく聴く番組は古典落語、チューニングをすることもほとんどないので、FENに出くわすこともなかった。しかし、なぜか身辺にざわざわと押し寄せてくるものがある予感はしていた。少年の、成長過程にありがちな理由なき高揚感だったのかもしれないが、親にとっても“初めて”が身の周りに多く出現していたことが、大きな要因だったことは間違いない。象徴的な笑い話があった。

ある春の夕暮れ、だったと思う、庭の大きな柿の木のたもと辺りで、できたばかりの友達と遊んでいた時のことだ。お袋が、玄関から走り出てきた。ややにこやかな中にも驚きを含んだ表情だった。僕は、地面に何か書いていたのだが、ただならないことのような風情に立ち上がった。友達も一緒に腰を上げた。「洋ちゃん。‥‥‥‥」。聞き取れない。「何~?」との僕の大声に小走りで近づき、荒れた息を整える時間も惜しむように、充分近づいたのに、お袋は大きな声を上げた。「絵の出るラジオがあるんだって!」。僕は、耳を疑った。友達の目を塞ぎたい衝動に駆られた。お袋が突然、見えないくらい小さくなってくれないかなあ、とも思った。でも、「それは、テレビって言うんだよ」とは言えず、「へえ~~」と、驚いてみせた。山陰本線の線路を挟んだ反対側、小高い所にあるお宅にテレビが入った、という情報が、誰かから間違った呼称で伝えられたものだった。

それは、やがてすぐにやって来る“アメリカン・グラフィティ”な時代の予兆のような事件だった。もちろん、その後「絵の出るラジオ」についてお袋と言葉を交わすことは一度もなかった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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昭和34(1959)年、小学5年生で学んだこと。

島根県益田市鎌手。お袋の実家のある農村である。国道9号線沿い、一方に日本海を臨む狭い農地が連なっている、豊かとは言えない所だ。海岸に貼り付くように小さな漁村も点在し、漁業と農業を兼業している家も多かった。お袋の実家は地主だったらしく、終戦(敗戦)後の農地解放で所有地を失うまでは、なかなか裕福だったらしい。長男、夭逝した次男の兄二人と姉、二卵性双生児の弟と妹、上下それぞれ三人に挟まれたちょうど真ん中の次女としてお袋は生まれ、女学校までは田舎の資産家のお嬢さんらしい、習い事の日々。戦後は、バス会社で経理の事務員として働いていた。そんなお袋がこぶ付きの親父となぜ結婚したのか。ずっと疑問だった。その真相は、後年子宮癌で亡くなる直前にお袋の口から明らかにされるまで、僕にはわからなかった。

小学校5年生の1年間、僕たち家族は、お袋の実家の“離れ”で過ごした。町でもない、山奥でもない、言わば村らしい村の暮らしに次第に慣れ、丸刈りの頭、いつも日に焼けた顔と肌の“田舎の少年”に、僕はじんわりと変貌していった。その後益田市横田で満喫した4年間の“田舎の少年”生活は、この一年の助走期間のおかげだったと言ってもいいだろう。

そんな秋のことである。農村のお祭りは、収穫祭。どこか幸せで晴れがましい顔ばかりの、明るい賑わいがそこかしこに現出する。子供たちの楽しみは、ごちそう、夜店、そしてメイン・イベントの石見神楽だ。神話を題材とする演目がまだ明るいうちから始まり、明け方の「ヤマタノオロチ」退治で最高潮を迎える。子供たちも、この夜は起きていることが許され、眠い目を凝らしながら舞台の袖に群がる。最後まで起きていること、それが子供の誇りなのだ。

僕も、近所からいただいた重箱入りのごちそうを早々と平らげ、神社へと急いだ。家を飛び出す直前に、お袋が「はい」と50円握らせてくれた。大金だ。ぎゅっと握り締め、駆け出した。紐を引っ張ると勢いよく空へ舞い上がる「ヘリコプター」を買おうと、走りながら決めた。友達に次々と出くわした。そのたびに、そっと握った左手を開き、50円を確認した。嫌な笑みが浮かんでしまうのがわかった。やがて、4~5人のグループになった。夜店を冷やかして歩きながら、僕は「ヘリコプター」を探した。夜店の店頭にはいつもあるはずの「ヘリコプター」に、しかし、その日はなかなか出会えなかった。少し高いからかなあ、などとちょっと諦めかけた時、緑のプラスチック製、PPの袋に入ったそれを僕は見つけた。しゃがみこんだ子供の脇に身体を滑り込ませながら、「おばちゃ~ん」と呼びかけ、右手でそれを指差した。左手は、しっかりと握ったままだ。「はい」と、おばちゃんの手がその袋をつまんで伸びてきた。受け取り、そのままお金のために開かれたおばちゃんの手に、お金を渡そうとした。左手を右手を添えて開いた。ない。掌は、空を握り締めていた。下を見、後ろを振り返った。背中を電気が走った。「なんてことだ。あんなに大切に握っていたのに!」後悔の念と無限の悲しみが襲ってきた。「あれ?あれ?」とおどけた声でごまかしながら、「ヘリコプター」を返した。僕は、その夜石見神楽を、「ヤマタノオロチ」まで眠気を感じることなく見切った。

大切にするということは、握り締め続けることではない。僕は、そのことを学んだ。握り締めた時の感触は、やがて失われていくものなんだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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