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1960年、海辺の寒村の暮らし

1959年、小学校5年生、僕は4つ目の小学校に転校していた。春に皇太子ご成婚、秋には長嶋の天覧試合、村山からのさよならホームラン、暮れには水原弘の「黒い花びら」、第一回レコード大賞‥‥と、なんだか華やかなニュースが多い年だった。島根県益田市鎌手という田舎の町にも、フラフープに興じる子は多く出現し、おもちゃのピストルで早撃ちの練習をする日活映画に夢中の男の子もいた。転校した時はただ一人「坊ちゃん刈り」で浮いていた僕も、夏休みに意を決して丸刈りにし、夏の海で頭皮を日焼けで二回もつるりと剥いた後は、すっかり溶け込んでいた。

僕の家では、大事件が起きていた。借金を完済し、ちくちくと貯蓄に励んでいたお袋が、自分の姉の就職祝いにお付き合いで少し手を染めた“小豆相場”で損を重ね、親父も巻き込んだ大騒ぎになっていたのだ。ラジオ短波の相場情報を聞き、急いで電話連絡をするために近くの農協に駆けていくお袋の和服に割烹着の後姿を、わびしい気持ちで見送っていたのを思い出す。やがて初夏を迎える頃、前年末に始まった「赤いダイヤ」騒動は、すべてのお金を失い、50万円程度の借金を残して終わった。

僕は学校で流行っていた縄跳びの二重跳びで東京タワーという目標を達成し(連続333回)運動能力に自信をつけたせいか、積極的に友達を作り、初夏になると、山陰本線の線路伝いに歩いて海へ通い始めていた。そんな時に経験した友人宅での話である。

大浜という海水浴場兼小漁港があった(今では、海水浴場はなくなっている)。国道9号線(酷道と呼ばれていた)から浜へと下っていく狭い坂道の両脇に家が並び、その小さな家一軒一軒の裏には狭い畑があったように思う。かつては、自給自足の村だったのだろう。尾道の小規模版のような村だ。そこに、何人かの同級生がいた。そのうちの一人に誘われ、ある晩夏、遊びに行った。

玄関を入ると小さな土間があり、その向こうに囲炉裏が見えた。もう一部屋はあるようだった。二部屋のこじんまりとした家だったが、僕の家も二部屋。狭いとは思わなかった。忘れられないのは、その後起きたことだ。友人は、囲炉裏の上からゴムでぶら下がった籠を引き下げながら、弟と二人兄弟の彼の両親は、二人とも留守。弟は浜にいると言いながら、ふかし芋を取り出した。「おやつ、食べる?」。「ありがとう!」。僕はすぐに受け取り、皮を剥かずに口にする彼を真似て食べた。おいしかった。それから、囲炉裏端でずっと話した。裏の畑の方から、涼しい風が暗い囲炉裏端に吹き込んでいた。時間を忘れるほど話した。夕闇が迫っても、元々暗い室内にいると時間の経過はわかりにくい。「遅いなあ」。弟を案じて友人が発した一言で、僕は腰を上げた。「そろそろ帰るね」。「うん。またね」そう言いながら友人は立ち上がった。ズックを履いていると、後ろから声がかかった。振り向くと、囲炉裏の上にかかっている籠を引き下ろしている彼の姿があった。「洋ちゃん、晩ご飯食べていく?」。彼はやさしく微笑んでいた。お腹を空かして帰ってくる彼の弟の姿が頭に浮かんだ。「ありがとう!今度いただくね」。そう言って僕は、帰っていった。

一つ悔いている。僕は、それきり彼の家には遊びに行かなかったのだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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