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58年、59年、大切にすることを学んだ日

昭和33年(1958年)、小学校4年生の一年間だけを、江の川上流の町粕淵で過ごした。小学校と中学校が並んで建ち、クラスも一学年2クラス。沢谷で二年間を過ごした僕には、大きな町に思えた。校庭も子供の目には広く、遊動円木、運悌、鉄棒、広い砂場と設備も揃っていて、目を瞠る思いだった。学校までのわずかな道程も家が立ち並び、校門前に本屋さんがあることがうれしかった。アイスキャンディーの製造・販売のお店も駅の方に向かうとあったように思う。川に沿ったこじんまりと整った町だった。

教員住宅に居を構え、家の裏で飼い始めた鶏の世話を担当しながら、毎日意図的に並べられる嫌いな食べ物と格闘する毎日だった。当時の写真を見ると、新聞を広げている。新聞を一通り読み終わると、世界地図帳を眺めるのが楽しみだったように記憶している。沢谷では学校の図書館から本を借りまくり、読むものがなくなって人名辞典を読んだりしていたが、それにはもう飽きていた。

親父が時々招待する中学校の教え子たちが「ジェスチャーゲーム」を始めると、参加を促されるので楽しかったが、彼らに混じってつい嬌声を上げてしまうと、冷たく鋭い眼差しで親父に諌められた。そんな特別なことがない限りは、取り立てて仲のいい友達もできないまま、なんとなく近所の子供たちと遊んでいた。隣の教員住宅には同級生の女の子がいた。少し気になっていた。

道路を挟んだ向かいの家は新築。周囲よりもいささか裕福なお宅だったように思う。そこに下級生がいた。何度か遊びに行ったが、おもちゃの充実ぶりや出てくるお茶やお菓子に、豊かさが窺えた。その下級生には、裕福さゆえか、ある悪癖があった。他の子供たちが容易には口にすることができないものを食べる時は、明らかに羨ましがらせようと意識しながら、表に出てきてゆっくり食べるのだった。小さな子が好奇心を抑え切れず、「それ、な~に?」「おいしい?」と上ずった声で、喉を鳴らしながら近づいていくのを、僕は何度か苦々しく見た覚えがある。

その彼がソフトクリームを手に出てきた時の事である。明らかにそれがソフトクリームと認識している子どもが一人、いつものもの欲しげな風情で近づいていった。「それ、な~に?」「おいしい?」とにじり寄る。彼は、敢えてさりげなく「ソフトクリームだよ」と言ったように思う。「ふ~ん。おいしい~?」。何とか一舐めを、と子どもはソフトクリームに接近する。彼は冷たくにらみ、さっと手を引く。その時だった。ソフトはポトリト見事に落ちたのだった。目を見開く彼。つつっと、落ちたソフトに近づく子ども。そこにもう一人、子どもが参加し、しゃがみこむ。「汚いからだめだよ!」。すかさず、注意する僕。小さな修羅場である。「また買ってもらおう!」。家に帰る奴の捨て台詞が空しく響き、子供二人が去りがたくいる眼前で、僕がソフトを靴底で踏みしだき、修羅場はお開きとなった。

ものの大切さ、視点の違いによる大きなその隔たり‥‥。なんとなく悲しく、貧乏というものを憎んだ夕暮れだった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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1960年、海辺の寒村の暮らし

1959年、小学校5年生、僕は4つ目の小学校に転校していた。春に皇太子ご成婚、秋には長嶋の天覧試合、村山からのさよならホームラン、暮れには水原弘の「黒い花びら」、第一回レコード大賞‥‥と、なんだか華やかなニュースが多い年だった。島根県益田市鎌手という田舎の町にも、フラフープに興じる子は多く出現し、おもちゃのピストルで早撃ちの練習をする日活映画に夢中の男の子もいた。転校した時はただ一人「坊ちゃん刈り」で浮いていた僕も、夏休みに意を決して丸刈りにし、夏の海で頭皮を日焼けで二回もつるりと剥いた後は、すっかり溶け込んでいた。

僕の家では、大事件が起きていた。借金を完済し、ちくちくと貯蓄に励んでいたお袋が、自分の姉の就職祝いにお付き合いで少し手を染めた“小豆相場”で損を重ね、親父も巻き込んだ大騒ぎになっていたのだ。ラジオ短波の相場情報を聞き、急いで電話連絡をするために近くの農協に駆けていくお袋の和服に割烹着の後姿を、わびしい気持ちで見送っていたのを思い出す。やがて初夏を迎える頃、前年末に始まった「赤いダイヤ」騒動は、すべてのお金を失い、50万円程度の借金を残して終わった。

僕は学校で流行っていた縄跳びの二重跳びで東京タワーという目標を達成し(連続333回)運動能力に自信をつけたせいか、積極的に友達を作り、初夏になると、山陰本線の線路伝いに歩いて海へ通い始めていた。そんな時に経験した友人宅での話である。

大浜という海水浴場兼小漁港があった(今では、海水浴場はなくなっている)。国道9号線(酷道と呼ばれていた)から浜へと下っていく狭い坂道の両脇に家が並び、その小さな家一軒一軒の裏には狭い畑があったように思う。かつては、自給自足の村だったのだろう。尾道の小規模版のような村だ。そこに、何人かの同級生がいた。そのうちの一人に誘われ、ある晩夏、遊びに行った。

玄関を入ると小さな土間があり、その向こうに囲炉裏が見えた。もう一部屋はあるようだった。二部屋のこじんまりとした家だったが、僕の家も二部屋。狭いとは思わなかった。忘れられないのは、その後起きたことだ。友人は、囲炉裏の上からゴムでぶら下がった籠を引き下げながら、弟と二人兄弟の彼の両親は、二人とも留守。弟は浜にいると言いながら、ふかし芋を取り出した。「おやつ、食べる?」。「ありがとう!」。僕はすぐに受け取り、皮を剥かずに口にする彼を真似て食べた。おいしかった。それから、囲炉裏端でずっと話した。裏の畑の方から、涼しい風が暗い囲炉裏端に吹き込んでいた。時間を忘れるほど話した。夕闇が迫っても、元々暗い室内にいると時間の経過はわかりにくい。「遅いなあ」。弟を案じて友人が発した一言で、僕は腰を上げた。「そろそろ帰るね」。「うん。またね」そう言いながら友人は立ち上がった。ズックを履いていると、後ろから声がかかった。振り向くと、囲炉裏の上にかかっている籠を引き下ろしている彼の姿があった。「洋ちゃん、晩ご飯食べていく?」。彼はやさしく微笑んでいた。お腹を空かして帰ってくる彼の弟の姿が頭に浮かんだ。「ありがとう!今度いただくね」。そう言って僕は、帰っていった。

一つ悔いている。僕は、それきり彼の家には遊びに行かなかったのだ。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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好きだと頑張れる‥‥。

団塊世代への注目が高まりつつあるせいか、「思いっきりテレビ」で、“みゆき族”が採り上げられ、友人の健坊(目黒の和菓子屋“つたや一粋庵”のオーナー職人)と麻生さんが取材を受けた。健坊は「俺は、みゆき族はやってねえよ」と、その頃のことを語り、みゆき族をやっていた麻生さんは、「悪いことなどせずに‥‥」と、ただ集まっていただけであることを語ったようだ(申し訳ない。観そびれました)。勝手にネーミングし、意味付けするのは周囲の下世話な大人たち。本人達は、同好の士のいる所へ行ってみているだけ。かくして、ブームは周囲から創られていくのだ。

みゆき族の写真は、田舎の中学生だった僕も、週刊新潮か週刊文春のグラビアで見たような気がする。東京には、お金を持った若い人がいっぱいいるんだなあ、とよその国の出来事のように眺めていた。

このブログでも以前触れたが、みゆき族がマスコミの取材を受けるようになって、我が60sFACTORYの企画をリードしていただいている谷さんは、陰でほくそえんでいたらしい。当時VANの商品企画に配属されて間もない谷さんたちVAN社員が、終業時間の後、みゆき通りに「VANの宣伝を意識して」たむろしていたのが、みゆき族のはしりだからだ。VANの袋を持ち、ステッカーをポケットに忍ばせて夜な夜な出動し、こっそりステッカーを貼って帰っていたそうだ。その話をする時の谷さんのいたずらっ子のような顔に、聞いている僕も微笑んでしまった。マスコミもしてやられたのである。

好きこそものの上手なれ。日本橋界隈に、VANのエネルギーが充満していたのだ。

Photo

健坊の千社札。厚かましくも、穂積和夫さんの好意にしがみつくようにして描いてもらったらしい。祭り好きのいなせなおっさんである。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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井戸水になりたい!-②

「何になりたい?」。友人や大人たちに、時々問いかけられた。小学校低学年の時は、たまに土埃を巻き上げながら県道を走り抜けていくバスの運転手の窓越しの寡黙な姿に憧れて、「バスの運転手」と答えた。中学生になり、テレビドラマを観るようになると、「弁護士になる」と言い始めた。「ペリー・メイスン」の影響だった。高校受験の直前には、「大工になる」と言い張って受験拒否の姿勢を示し、親父に殴られた。微分だ積分だって習うらしいが、親父は社会に出て使ったことがあるか?と斜に構えて問いかけ、いいや!との返答を聞いて、使いもしないことを習うより家を建てられる方がいいじゃない、と親をなめた直後、左頬を殴られて少しよろけた。そんなに思い込んでいたわけでもないから、それで終わった。

大学受験の前年、高校3年生の夏、親父が突然の椎間板ヘルニアの発症に、帰路の中途、橋の上でバナナの皮を踏んだようにすっ転び、這って帰って来てからは、「医者になる」と言い始めた。いい加減なものだ。そして、職業に強い憧れや思い入れを抱いたことがないまま、大学生になった。そんな時の隣席に座った同級生からの、不意を突くような質問である。「お前、何になりたいんや?」。職業など浮かんでくるわけがなかった。

「井戸水」と答えると、「なんやねん、それ」と、顔を覗き込まれた。「井戸水って、夏は西瓜が冷やせるくらい冷たいのに、冬は暖かいやん」。「で?」。「変わるのは外界の温度。実は、井戸水は変わってない」。「‥‥。変わりたくないっちゅうことか」。

ということだったのだが、口に出してみると、それこそ「なりたかった姿」のように思えてきたのだった。

変わるまい、と依怙地になるわけではない。静かに自然体でいながら、外界には惑わされない。ということである。

Be Trad!

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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井戸水に、なりたい!

「来る者は拒まず、去る者は追わず」。会社を設立した時に、事務所はそんな場所にしたいと思った。そうし続けていくためには、いつもしっかりしていなくてはならない。そう思った。それでも時には、明るく楽しくかつ気楽に人を迎えることができないこともあった。一旦ドアを開け、椅子に腰を落ち着けると、やけにのどかになってしまい、簡単に辞する気になれない。そんな事務所でいたい。今でもそう思っているが、自分の気分に左右されてしまうことが、どうしてもある。

学生の時、友人に突然「お前、何になりたいんや?」と久しぶりの講義に席を並べている時に聞かれたことがある。しばし考えて、「井戸水」と、僕は答えた。で、現在井戸水になれているかというと、なれてはいない。ひょっとすると、一生無理かもしれない。そんな気がする。

井戸水になる、とは‥‥。に関しては、次回。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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脳卒中リハビリ仲間のその後ー②

Fさんは、やんちゃ坊主のスタイルと顔付きで、リハビリ病院の廊下で自主トレに専念している姿を見たのが最初だった。食堂で言葉を交わして、すぐ仲良くなった。病院で50歳を迎えた、大手不動産会社の法務担当のマネージャーをしていたという。ストレスの多い仕事だったらしく、ご本人がそれを痛感したのが入院生活を始めて白髪がなくなったことからだった、という話には笑いながらも驚かされた。

病気では二ヶ月先輩で、僕が入院した頃には、連日「インフレ気味の」万歩計を腰に散歩をしておられた。「今日は、○○○歩でした。もう少しだったなあ」といった報告や、歩く時にどうしても内側に曲がってしまう腕を「演歌歌手じゃいけないんですよね」といった笑い話を彼の口から聞いていると、つい冗談にも弾みがつき、そのまま笑いが止まらなくなることがよくあった。この病気の特徴であろう、喜怒哀楽の沸点が低くなってしまっている影響もあり、時にはご飯を吹き出してしまうことさえあった。

そんな彼が復職したのが、春。散歩の時もしっかりと彼をガードし、「女房が前で大仰にガードするから歩きにくくて」と、Fさんに贅沢な台詞を吐かさせていた奥さんが相変わらずきちっとガードしながら、会社へと通い始めた。「病人にやさしい会社」で、マネージャーの席は後進に譲ることになったとはいえ、同じ業務への復活となった。一人でなんとか通い始めたFさんと、やがてメールで連絡を取り合い、会うこととなった。元気な頃、お酒とタクシーが大好きだったFさんが、リハビリの帰りに事務所に近い交差点で降り立った姿を見た時は驚いた。やっとコップを握り水を飲んでいた程度の左手をひょいと上げて見せ、しっかりとした足取りで、杖にも頼らずすたすたとこちらに歩いてきたからだ。

そんなFさんも本格的な社会復帰にはなかなか至らず、時々落ち込む。脳卒中を患い、リハビリを重ね、ある程度運動機能を回復しても、内側は違う。皮膚の内側はざわつき、時には痛み、疲れやすい。そして何よりも、多くを期待されないことが心に刺さる。大事にされている、と喜ぶだけには終わらないやるせなさに襲われることもある。僕にはよく判る。肉体的な辛さもさることながら、人の役に立ちたいのだ。

しかしFさん。今日知り合いから聞いた話では、Fさんと同じ昨年7月発症の商社マンの人、4月に復職予定が、今でもリハビリにひたすら励む状況とのこと。頑張りましょう。ちょっと飲んでからね。

年老いたお母さんの面倒を見ながらの二人暮らしで、突然脳出血に襲われたSさんは、リハビリに通うのが唯一の楽しみ、と聞いた。仕事は諦めたとの風の噂も。心配だ。歩行を諦め、車椅子のまま退院していったUさん。思っていることと違う言葉が口から出てくることに悩んでいた、若干40歳のO君。「仕事辞めていいわよ。私に任せなさい」と奥さんに言われたことをうれしそうに口にしていたBさん。みんな、無理せず、誰かに見守られながら、じっくりと次を目指せているといいのだが‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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