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脳卒中リハビリ仲間のその後

蝉時雨が暑気を募らせ、身体全体を汗の皮膜がじっとりと覆っていると、それだけで気力が萎えてしまうくらいだ。そんな日々が続いたことも影響しているのだろうか、脳卒中リハビリ仲間から、相次いで「どうも思わしくなくて‥」電話が入った。

まずは、Nさん。40代後半の彼は、僕が転院していった時、病室内で小さなジャンプも取り混ぜて体操をしていた人で、僕はてっきり付き添いの人がなまった身体をほぐしているものだと思った。彼が脳梗塞患者だと知って驚いたが、リハビリの効果を目の当たりにしているようで勇気付けられた。すぐに親しくなり、病院内で快適にリハビリに専念するためのいくつかのコツを教わった。症状はそう重くはなかったとはいえ、右手の麻痺はまだかなり残っており、毎日文字を書く練習に励んでおられた。

昨年10月の終わり、僕より1ヵ月半早く退院した彼は、すぐに職場復帰。週に1度リハビリのために通院してきた時は、律儀に病室を訪ねてくれた。いつもたくさんの書類が入ったバッグを提げてスタスタと現れる彼は、僕の目には脳卒中の名残さえないかのように見えた。が、その言葉と表情は微妙に変化していった。旅行代理店の支店長としてトップセールスにも努力を重ねていた彼は、復職直後は、得意先との商談を引き継いだ結果が思わしくないことや以前のように活動できないことを嘆いていたが、やがて職務が全うできそうにないと、悲観的な将来を語るようになっていた。可愛がっていた小学生の男の子二人の将来と重ね合わせると、さらに不安が募るようだった。明るくてまじめな人だけに、何とかならないかと勝手に気をもんでいた。

そんな彼をさらに不幸が襲った。肝硬変による緊急入院である。「通院しているからこその早期発見。不幸中の幸いですねえ」と慰めてみたものの、彼の心中を思うと辛かった。結局、即入院したものの、年末の繁忙期と重なったため、毎日病院を抜け出て仕事場へ行くこととなり、勧告を受けて退院。週に1回のリハビリと肝硬変の治療をしつつ、仕事を続ける、という大変な事態となってしまった。

それから半年以上が経つ。時折電話で近況報告が入っていたが、ここ2~3ヶ月連絡が途絶えていたので少し心配していた矢先のことだった。懐かしい明るい声だった。リハビリも遅々として進まない僕を思い遣っての電話であろうと思った。しかし、そうではなかった。「今の仕事、続けられそうにない気がしてきました。辞める方向で上から言われているような気もしますしね。今は、鬱病にならないように気をつけている、という状況です」。意外ではなかったが、彼の退院時の健常者のような後姿からすると、やや不可思議な感じがした。そして、今更ながらに脳卒中患者の社会復帰の難しさを思った。回復期の鬱病の危険性は、僕の素人考えでは二度ある。二度目の方が深刻なはずだ。何とかNさんには回避して頑張ってもらいたい。一度慰労&激励会でも催すつもりだ。飲みましょう(少しね)!Nさん。僕たちは、復員兵のようなものなんだから‥‥。

  60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥⑨

少し汗ばむほどの陽気。初夏を思わせる春休みの一日の午後。小遣いを握り締めて入ったいつもの万屋で、突然声を掛けられた。「こんにちは~。柿本君!」飛び上がるように振り向くと、背の高い(少なくとも156cmの親父よりは随分大きく見えた)若い男の人の微笑と出くわした。それが、沢勝利君のお父さんだった。一度だけ夕暮れの後姿を見たことがあっただけだったが、なんとなくそうだと思った。そして目線を少し落として確信した。そこには、土に汚れた父親のズボンを握り締めている沢君の弟がいたからだ。彼は僕の目線とぶつかると、少し顔を背けた。

沢君のお父さんの右手には1本のラムネが握られていた。栓を開けた後、こぼれないよう口で押さえた直後のようだった。「こんにちは~」。戸惑いながら挨拶を返した僕ににっこりとして見せながら、沢君のお父さんはラムネをあおった。「ちょうだい」。すかさず、か細い弟の声が聞こえた。お父さんは無視。「チョーダイ!」。弟の声が大きくなったその時、ラムネから口を離したお父さんは、小さくゲップをした後、叱り付けるように言った。「子供には身体によくないんだ!だめ!」。僕は驚いた。そんな話、聞いたことがない。ひどいなあ、と思った。振り向かないようにしながら駄菓子を買って帰ることにした。沢君の弟が一足早く、泣きながら走っていった。

帰ろうとすると、沢君のお父さんが近づいてきた。その右手にはラムネ。左手にはあんぱんが握られていた。横をすり抜けようとした僕に、沢君のお父さんが声を掛けてきた。「あんぱん好き?」。「はい。まあ」。「分けてあげようか?」。僕は、ちょっと怒りを覚えながら「いいです」とお断りした。すると沢君のお父さん、照れ笑いの表情を見せながら「あんぱんは丸いから、ちょうど半分にするのは難しいからねえ。円周率を使わないとねえ」と言って、あんぱんを口にした。僕は、円周率という知って間もない言葉と沢君のお父さんの容姿と言動の落差に一瞬戸惑い、足を止めたまま「そうですねえ」とあんぱんを口一杯に頬張る沢君のお父さんの横顔を見つめていた‥‥。

僕は、沢君兄弟が可哀想だった。彼らの生活や将来を思い描いて暗い気持ちになった。そして、何もして上げられないことに落胆しながらお別れをして、転校していった。

ずっと後のことである。高校2年生の秋、沢君から突然手紙が届いた。引越しを繰り返しているのに、どうやって住所を見つけたのだろう、と思いながら、でも少し心ときめかせながら、僕は手紙を開けた。便箋2枚にぎっしり、小さく汚い字が並んでいた。

お父さんが亡くなった知らせだった。山で作業中の事故だった。

返事を書くには重すぎた。やっと書こうと決心したのは、1年後。高校3年生の夏休みだった。推敲を繰り返して書いた手紙はしかし、届くことはなかった。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥⑧

昭和30年代。貧しくも懐かしい時代である。昭和40年代、自分の中にある田舎を消し去ることに汲々とし、消し去ることが出来なかったことに、今安堵している人は多いのかもしれない。昭和30年代には、どこか凛とした、自らの役割をきちんと背負っていこうとする姿勢が、親にも子供にも残存していた、と言い切ってしまうと美化し過ぎだろうか。ただ少なくとも、“分をわきまえる”ということが、自らを律するための必要条件として認識されていた時代ではあったように思う。「もったいない」という言葉が、「自分にはもったいない」との意味で使われることが多かったのは、その証左のような気がする。多過ぎる情報に惑わされ、いつの間にか間違った平等意識が権利意識へと変化を遂げ、分不相応なまでに過多となってしまった欲求に振り回される‥‥。背伸びしては人の目線と交差し、手を伸ばしては人の指先にぶつかる‥‥。といったことを繰り返した昭和40年代以降、残ったのは、空虚なモノたちだけだった、ということはないだろうか。

昭和30年代、中国山脈の山襞に寄り添うように暮らしている沢谷村の人たちの、相手が自然だからこそ毅然とした暮らしぶりは、小学校低学年の田舎の町育ちの少年の心にも小さくきちんと響いていた。もちろん、時にはそれは厳格な顔付きで迫ってくるものでもあった。県道の道端に生えていた一本の蕗を抜いただけで、家に抗議に来た農家のおばさんから泥棒呼ばわりをされ、「蕗一本くらい」と口走ってしまい親父に頭を引っ叩かれた時。多久茂君が床にひっくり返した弁当箱の中身に手を伸ばした沢君に「止めろ!」と怒鳴った僕の脇で、「きれいなところだけ取れば」と言った友達の優しい横顔を見た時。「餡餅食べる?」と手渡され、喜んで齧り付いた餅の中の餡がしょっぱかった時‥‥。暮らすことの原点、すなわち生きていくということの重みを、僕は刻み込まれた。

沢君への興味は、そんな刺激もあったからこそのこと。彼と彼の弟の、子供ながらに向き合っている“生”は、僕の周りにあるのどかな“生”と、色も匂いも違っていた。冬になるとPTAのお母さんたちが、ボランティアで提供してくれる「味噌汁給食」という不思議なものがあったのだが、沢君兄弟は、それだけでお昼ご飯を終えることが多かった。その姿は、彼らの厳しい日常を思わせた。他にもたまに「今日は弁当忘れた~」と言い訳しながら、具だくさんの味噌汁をお替りする子もいたが、沢君の味噌汁依存は群を抜いていた。野菜を持ち寄るという負担の少ない方法で、PTAが人助けをしているのが「味噌汁給食」だと、やがてわかった。無理をせず、人にも無理を強いることのない節度ある人助け。それも貧しさの中での共同体のあり方を示すものだったのだ。しかし、それにしても沢君のお父さんは一体どんな思いで、どんな暮らしをしているのだろう。ほとんど山に入っているためか、見かけたこともない一人の大人の男へと、疑問や不信感を抱きながら、僕の関心は拡大していっていた。

小学校3年から4年になる春休みの暖かい午後。転校直前だったと思う。僕は、遂に沢君のお父さんと出くわした。小学校前の万屋の店先でのことだった。

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥⑦

親父と僕、という不完全でちょっといびつな家庭に後から参加したお袋は、そこで何をなすべきか、いくつかの役割を想定していた。と、今になって思う。ただ当時は、、お袋には母親経験がなく、僕には母親体験がなかった。おまけに親父にも母親体験が希薄とあって、お袋の母親としての役割は躾と教育を主眼に置いたものに、シフトされていったようだ。要するに、どう接していいのか、お互いにずっと手探りだったのだ。僕に対するお袋の厳しさは、お婆さん子の甘さを払拭しなくては、という考えと、小賢しいガキだった僕へのシンプルな苛立ちによるものだったのだが、僕はそれを、お袋の性格だと思っていた。お袋が抱えている強い役割意識になど思いが及ぶはずもなかった。幼稚な話である。しかし、小学校3年の夏。お袋の深いやさしさに僕は触れ、少しだけお袋に対して心が開かれていくのを感じた。かと言って、容易には接し方を変えることは出来なかった。ただ、「お母ちゃん」と呼ぶ声に無理や衒いがなくなったのは、確かだった。‥‥ように思う。

少ない収入、なかなかの借金、金のかかるガキ、と家庭経営を阻害する要素が重なっているにもかかわらず、お袋の経営者としての手腕はすばらしかった。まず給料日に貯金。その後分類した費目別に月額予算を設定。次いで、日別予算にブレークダウン。その範囲内で一日を暮らす。月末に残ったお金は、当然貯金。不意の支出用の特別会計予算も、毎月月額で予算設定されていた。毎日、夕食後は使ったお金と残金の確認。1円でも合わないと「気持ち悪い」とつき合わされ、ぴったり合うまで小銭探しや使ったお金のチェックをさせられた。

しかし、そんな経営者のお陰で、親父と僕の暮らしには、少しずつ日が差し込んでくる感じだった。小さくゆとりがある時は、ささやかな贅沢も、お袋は提供してくれた。お袋は倹約家ではあったが、吝嗇家ではなかった。そして、夕食に供されるささやかな贅沢が、この頃はカレーライス。カレーライスを作る匂いが漂い始めると、わくわくとして帰心をそそられたものだった。

そんな夏の夕暮れだった。早くカレーライスにありつこうと、いつもより早く帰宅した僕にお袋がカレー鍋を掻き混ぜながら言った。「沢君、呼んであげれば?」僕は、一瞬驚いた。が、すぐにうれしくなった。沢君の厳しい家庭環境や沢君兄弟の健康状態の悪さを聞くともなしに聞きながら、お袋は気にしていてくれたんだと思った。僕は、早速沢君を呼びに行った。「晩御飯、食べに来ない?」とだけ言って、カレーライスのことには触れなかった。沢君は、「弟もいいかなあ?」と窺うように小声で言った。「いいよ!」と応えながら、僕はいいことができる興奮に小躍りしながら、「早くね」と帰っていった。数分後、沢君兄弟は静かに現れた。「こんばんは~」と言ったまま身じろぎ一つせず固まっている二人を卓袱台の前にいざない、三人でカレーライスを待った。お盆に乗った三枚のカレーライスのお皿は、すぐにそれぞれの前に置かれた。やけに黄色く見えた。豚肉が所々に顔を覗かせていた。香り立つ湯気が、強烈に食欲を掻き立てた。「食べて、食べて」。妙にかしこまっている沢君兄弟に、スプーンをかざしながら、僕は声を掛けた。その時だった。俯いたままだった沢君の弟が噛み殺していた嗚咽を大きく洩らしたのだ。僕は戸惑い、沢君の方に声を掛けた。「どうしたの?」。すると、弟が顔を上げて、震える声で叫ぶように言った。その目は、お兄さんの方を見上げていた。「お母ちゃんが死んでから初めてだねえ、カレーライス」。危うく落としそうになったスプーンを辛うじて持ち直しながら、僕はもらい泣きの涙を卓袱台に落とした。

10分後か20分後だっただろうか、「もう1杯いかが?」というお袋の申し出を、誘惑に負けそうな弟の膝を片手でそっと押さえつけながら固辞して沢君は、夕暮れの中を帰っていった。その後姿を外まで出て見送りながら、僕は何かしてあげたいと本気で思った。

お袋は、その後「沢君、呼んであげようか?」と頻繁に言う僕に、「いいわよ」と言うことは、ほとんどなかった。それが、むしろ沢君たちへの思いやりに拠ることだということに気付くのに、僕はたくさんの時間を必要とした。お袋がそれから気にかけていたのは、僕の衣類を新品に交換するタイミングを早めることだった。完全に着られなくなる前に、沢君にあげるためだった。苦しい家計の中で出来る工夫の一つだった。

3年生の冬、僕のお下がりのランニングシャツを着て登校する沢君に一度だけ出くわした。僕は親父と一緒だった。親父は、また声を掛けた。「沢君、寒くないかい?」。寒いからこそ小走りだった沢君は、一瞬足を止めた。「大丈夫で~す」。明るく大きな声だった。

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥⑥

平日は、午後3時に10円。日曜日は、午前10時に5円と午後3時に10円。というのが、当時の僕の小遣い。浜田市で祖父母、叔父叔母と暮らしている分には、小遣いは4人の分担制だが、お袋は一人で負担しなくてはならない。手取り2万円程度の給料から、雑誌の定期購読料と月額にすると320円の小遣いを子供のために支出するのは痛かったに違いない。時折、親父に相談しているのを小耳に挟んだが、親父は「もう少しの間、我慢してくれ」と言っていたような気がする。肺結核を患っている間母親の実家に預けっぱなしだったことや離婚してしまったことなどが後ろめたかったのだろうが、甘い父親ではある。1年後に減額されるが、当時の子供にしては潤沢な小遣いだった。キャラメルの「日の丸」や「ねぶり籤」に費消されるだけで、時には気前よく友達に奢っている息子の姿を見ると、借金の返済に苦労していたお袋からすると、苛立たしくてたまらなかったことだろう。その思いが鬱積していたのか、11月21日。貯金箱を割って取り出したお金で、遠くの雑貨屋まで足を運び、誕生日のプレゼントとして買ってきた割烹着と爪楊枝を、満面の笑みを浮かべながら「誕生日おめでとう」と差し出した時、お袋の第一声は「このお金どうしたの?」というものだった。その目は冷たく、その声は刺すようだった。僕は差し出した割烹着と爪楊枝をお袋に投げつけ、泣きながら外へ駆け出した。そして、玄関を出たあたりで、お袋への恨みの言葉を口の中で繰り返した。しかし、小学2年生のガキが高額の小遣いを気まぐれで貯めて、生意気にも割烹着などを買ってきて差し出したのだ。そのお金の工面に苦労していたお袋の悔しさと憤りは、今となってはよくわかる。コトの因果関係はガキにはわからないものである。いや、コトの因果関係がわからない者のことをガキと言うのかもしれない。

そんな温室育ちのガキも、その冬休みには、生活というものの厳しさや貧しさというものに触れることになる。一つひとつが心に突き刺さるようなことばかりだった。

沢谷村の冬は厳しかった。初めて経験する膝上まで埋まる積雪。あと1枚を必要とする寒さ。炬燵に足を入れていても肩口からしんしんと忍び込んできて身をすくませる冷気。そんな季候の中、友達は遊びに誘いに来た。その中の一人、あまり親しくなく名前も覚えていなかった一人の格好に、僕は目を奪われた。ランニングシャツ一枚だったのだ。寒そうに震えながら、でもなんとか笑顔を見せようとしている彼は、沢勝利君(だったと思う)という、近所に住んでいる男の子だった。農家の離れから新築の教員用住宅に、秋に引っ越したばかりの時、数人の友達が見学に訪れ、居間の蛍光灯のスイッチをゆっくり引っ張っては点け、消しては点けていた時に、しばらく経って光を放つのを見て「蛍光灯だ~~」と、感嘆の声を上げていたのが沢君だった。蛍光灯を備えた家がほとんどないため見たこともないのに、言ったことに対して反応の鈍い子のことを蛍光灯と呼ぶことだけは浸透していたので、その意味を実物の蛍光灯で実感したようだったのを、僕は思い出していた。しかし、ランニングシャツ1枚は、異常だ。奥のDKから顔を出した親父が「沢君、寒くないかい?」と声を掛けた。沢君は「平気で~す」と明るく応え、その直後に大きなくしゃみをした。みんなが笑った。沢君もうれしそうに笑った。が、僕は笑えなかった。少しだけ、身震いした。

それからだった。僕は、沢君と過ごすことが多くなっていった。同情と興味の対象だった。二つ違いの弟がいた沢君は、しばしば弟と一緒に現れた。そのことも僕の関心を掻き立てた。兄弟の関係、そこから垣間見える彼らの家庭、すべてが興味深かった。

60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥⑤

沢谷村の日常会話レベルの方言を覚えるのと、友達が出来ていくのは同時進行だった。「ごせえ」は「ちょうだい」。「おぞい」は「こわい」といった言葉を断片的に記憶している。お袋と二人きりになるのが気詰まりだということも手伝って、小学校2年生の1学期には、数人の遊び友達が出来た。毎月配達されてくる少年誌の存在が、田舎の少年たちにとって魅力的だったことも手助けとなり、学校帰りには、ほぼ毎日誰かが僕の家に立ち寄るようになっていた。「ぼくら」「少年」「漫画王」「小学2年生」の定期購読は、親父が再婚するにあたっておばあちゃんから「いきなり取り上げたら可哀想だから」とお願いしてあった。やがて家計を圧迫するからと、4年生になる時2誌に減らされるまで僕は、雑誌に関しては極めて贅沢だった。ただ、山村の小さな小学校の子供には、遠くから通っている子が多く、帰りに僕の家に立ち寄っても、縁側で勢いよく漫画を読み、ささっと帰っていく者がほとんどだった。

田辺昭吾君(だったと思う。長じてから人の名前を覚えるのが苦手になったのは、その能力をこの頃使い切ってしまったからではないかと思っている)は、遠くから通っている元気な少年だった。少年らしい少年だったように記憶している。鼻からうどんを一筋飲み込んでみせるのが特技だったと思う。そんな彼にある夏休み前の日、ふと誘われた。「僕の家に来る?」。どんな所に住んでるの?どんな家なの?などと、質問を浴びせていたからだと思う。遠いと知っていた僕は、傍らでやり取りを聞いていたお袋の方を見た。「いいわよ。行ってくれば。暗くなる前に帰ってくるのよ」と、微笑んだ。田辺君は、一瞬困った表情になった。そして、つと立ち上がった。と思うと、「じゃ、行こうか」と急展開に慌てている僕を急かすように、歩き始めた。

それからの時間は忘れられない。

随分と渓流沿いの県道(だったと思う。バスの通る道路)を歩いた後、山の方へと曲がり山道へと入った。周囲の景色をきょろきょろと眺めながら、物見遊山感覚の僕。それを敢えて無視するかのような、いつもになくやさしさに欠ける田辺君。やがて、僕は声を掛けるのを諦め、黙々と田辺君の後を追うようになっていた。息は荒くなっていた。が、田辺君の足は衰えない。道は険しく山肌を縫うようにつづいていた。集落には出くわさない。生い茂った木々の枝が道に垂れ下がり作り出している暗く涼やかなトンネルを時折潜り抜け、山から沢へと吹きぬける爽やかな一陣の風に、額の汗をぬぐったりした。しかし、着かない。黙々と歩み続けるのみだ。「まだなの?」と声を掛けるのも、次第にためらわれるようになってしばらく経った時、山間に少し切り開いた空間があり、そこに人家が見えた。ここでなかったらどうしよう、と内心思った。しかし、振り向いた田辺君の表情がほころび、その足は速まった。そこは、田辺君の家だった。旅を終えた気分だった。

土間に入るとひんやりとした空気が、沢谷村の農家共通の匂いを伴って身体を包み込んできた。その奥から、田辺君の母親と思しき人が、驚きの表情を隠さないまま現れた。一歩先に駆け込んだ田辺君から事情を聞いたようだ。「よく来てくれましたねえ」という意味の挨拶の後、「さあ、これを持って早く帰りなさい。遅くなるからね」という趣旨のことを真顔で言われ、背中を押されるように家から出された。奥の方から、ちょっと笑いを噛み殺したような田辺君の「またね~」という声が聞こえてきた。「またね~」と応えながら、僕は暗い気持ちになっていた。田辺君のお母さんから手渡された二つの柏餅が、帰りの旅の厳しさを物語っているようだった。

鳥の鳴く声が時々こだまし、木々が風にざわめく音が次第に暗くなっていく山道に、時に強く、時に弱く響き、僕の背中までざわめかした。ふと小走りになったりもするのだが、遠い道のりを思いセーブした。帰りは行きよりも多少は近く感じたが、県道に出る頃には、もう日が暮れていた。どっぷりと暗くなって家に着くと、待ち受けていたお袋に怒鳴りつけられた。もう家が見える所にない友達の家には遊びに行かない。と、まだ小さく震えている心に誓い、やっと着いてほっとした僕に怒鳴ったお袋を恨んだ。

それからの2年間、僕はハチの子もイナゴの付け焼きも食べられるようになったが、見える所にあった多久君の家に一度行ったきり、友達の家を訪ねることはなかった。

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