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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥④

1956年、小学校1年の秋は、お見合いの季節だった。

浜田での祖父母、叔父叔母(お兄ちゃんとお姉ちゃん)との暮らしは、わずかの不在の間に周囲の僕に対する不憫と思う気持ちが強まったためか、実に我がまま放題なもの。心地いいのだが、どこか心許ないものだった。親父は、お見合いのために出てくると、厳しい目付きで僕を観察し、お見合いに出席した時には、ここぞとばかりに僕の一挙手一投足をチェックした。

お見合いは何度したのかは、はっきりとは覚えていない。が、印象に残っているのは2回。一度は、後年益田市高津でのことだとわかった。景色を覚えていたので、親父に確認したところ、まさにお見合いをした相手のお宅だった。若い女性だった。いい匂いがした。やさしく抱っこしてくれたのをきっかけに、調子に乗ってまとわりついたのを覚えている。この人がお母さんになってくれるといいなあ、と思った。しかし、かなわなかった。彼女はOKだったようだが、ご両親が強硬に反対した、と聞いた。何しろ、復職したばかりの親父の給料は少なく、闘病時代の借金も残っていた。僕という瘤も付いている。そんな話が頭の上で交わされるのを、ちょっとだけ恨めしい気持ちで、僕は聞いていた。

二度目は、えらく大きなお屋敷の一隅にある和室で、掘り炬燵に足を入れながらのお見合いだった。秋も深まっていたのだろう。掘り炬燵には時々炭が補充されていた。大変な旧家で資産家の、親父より2歳年上のもの静かな女性だった。どこの馬の骨とも‥‥とか、財産を‥‥とかいうような声が男の声で微かに聞こえたりした。歓迎されていないことは、僕にも痛いほどわかった。いたたまれない思いを抱えながら、静かに礼儀正しくしていた。うまくいかない方がいいな、と思った。あのお姉さんの方がいいな、と未練がましく思い出したりしていた。しかし、お見合いは成功した。一旦成功すると、親父は急いだ。

1957年、小学校2年生の春、雪舟の庭園で有名な益田市の医光寺で、結婚式が執り行われた。僕も参加して、三々九度の杯を受け、飲み干して酔っ払い、本堂の中を走り回った。ほんの少しやけっぱちな気分だった。そして、春休み明け、沢谷村での新生活が始まった。倹約家で、必要とあらば大胆にお金を使うというタイプのお袋は、農家の離れの新居に家財道具を先に送りつけてきた。必要最小限という話だったが、洋服ダンス、和服の詰まった和ダンス、食器棚、そして見たこともなかった電気洗濯機に電気炊飯器は、親父と僕の周りに異空間を作り上げた。僕の中に、少しばかり警戒心が生まれ始めた。そこへ、お袋が控えめな笑顔を浮かべながら、やってきた。親父は「お母さんだよ」と紹介した。何か違うぞ、と僕は思った。「お母さん」とは呼ぶまい、と心に決めた。

ガキの感性は身勝手だ。自分のアクションに対し、反応すべきパターンを勝手に思い描いていることが多い。しかも、概してその場限り。時間空間、関係値などを総合的に取り込み、判断する力に欠けているものだ。僕は、知りもしないくせに、母親とはこんな時は、こう行動し、こんな言葉にはこんな言葉や態度で反応してくるものだ、などと思い込んでいた。しかもまずいことに、僕はガキなりのささやかな理屈も持ち合わせていた。

小賢しく可愛げのない子供の母親にいきなりなって、お袋は苦労したことだろう。子宮ガンで入院している田舎の病院に毎週駆けつけていた僕に、亡くなる数日前最後に言った言葉がその苦労を物語っていた。「あんたを子供らしいと思ったことは、一度もなかったねえ」。親父は、そんな僕に理屈ぬきで迫ってきた。「思いやりの気持ちだ。何かして欲しい、じゃない。まず、何をしてあげるか、だ」。その一本やり。なぜか、の説明などなかった。やがて、ずっと「おばさん」と呼んでいた子供らしくない子供も、初めて「お母さん」と呼んだ時、そっと涙を拭ったお袋の姿を見て、誕生日のプレゼントをしようと貯金を始めたのだった。夏休み前だった。誕生日は11月。とにかくもらった小遣いはすべて貯金箱へ。と決心した。アイスキャンディ売りの鈴の音に負けてしまう夏の日もあったが、使わないと決めて不都合はなかった。山村の夏休みは、多少友達が出来てくると楽しく、毎日十分に刺激的だった。

 60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥③

方言の壁は厚い。いきなり日常会話の些細な一言の前で立ち止まってしまう。しかも、同級生個々の性格よりも、そこで交わされる言葉の方に関心が強いと、同級生は同じ言葉を話す集団にしか見えず、友達作りどころではない。彼らもまた、微妙に異なる言葉を話す闖入者との接し方に戸惑っていた。何しろ、僕の頭は「坊ちゃん刈り」。見渡すと、一人(やがてからかう対象となる多久茂?君)だけだった。興味を抱かれているのはよくわかったが、僕はどう対応していいかわからず、学校から帰ると「本の虫」と化していた。学校の図書館の本を次々と借りて来ては、日曜日でも部屋の片隅で読み耽っている僕を、「外で遊んで来い!」と親父は怒鳴りつけ、時には本を取り上げたりもしたが、渋々外に出た僕はどうしていいかわからず、目の届かない所まで出かけて時間をつぶしてから、そっと帰っていた。

そんな時によく行ったのが、丸木橋。一本の太い丸太が二本のロープに吊るされ渓流の上に架けられただけの橋だが、そんな橋だからこそほとんど渡る人はなく、一人で過ごすには絶好の場所だった。しかも、その上から渓流を覗き込んでいると、時間を忘れることができた。大きくはないが激しい音を立てながら下流へと向かう速い流れを見つめていると、やがて丸太橋は僕を乗せて物凄いスピードで上流へと滑り上がっていく。その不思議なスピード感を味わい、渓流脇の石に目を転じると動いているのは渓流の方だと瞬く間に判明する、その落差も楽しんだ。ぼんやりと「絶対と相対の危うい隙間」を感じていた。

親父の危機感は募った。こいつは、まともなガキに育たない。そう思ったようだ。まず親父は、幼い時に離れ離れになった自分の母親を呼んだ。一緒に住もうというのだ。おばあちゃんは、にこやかに登場したが、すぐに逃げるように親父の弟の許へと去っていった。おばあちゃんとの暮らしに苛立ちを隠さなかった親父は、ちょっとだけ胸を撫で下ろしたように見えたが、面倒な家事とこもりがちな僕に再び向き合うことになり、決心した。こいつは、一旦浜田へ。そして、自分は何とか再婚だ。それから、だ。

越して一ヶ月強。僕は小躍りしながら浜田へ帰った。沢谷へ二度と来ることはないだろうと思った。

   60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん‥‥②

島根県邑智郡沢谷村に到着し、県道沿いにある「万屋」近くのバス停に降りると、親父が笑顔で待っていた。右脇に抱えさせられた大家さんへのお土産を差し出そうとすると、「お前が持っていけ」と言われた。バス停から少し歩き、山の方へと向かう坂道を上がると、二・三軒の農家が固まって建っていた。その中の一軒、最も大きな農家の裏庭へと入る小道を右手に二階建ての納屋を見ながら入っていった。鶏の羽音と鳴き声が、少しひんやりとした裏庭の空気を揺らしていた。

広い土間に足を踏み入れると、右手に牛が顔を出していた。牛の糞の臭いが目と鼻を刺した。牛の穏やかな目つきを、茫然と見つめていると、「いらっしゃい」と、お年寄りの声がした。親父に腕を突付かれ、くるりと向きを変えながら、「こんにちは~」とできるだけ大きな声を出してみた。ほの暗く、ひんやりとしたその場には似つかわしくないほどの大きな声だった。大家のお婆さんは、牛の向かい側の囲炉裏の側に、ちんまりと座布団に座っていた。二言三言言葉を交わしながら、大きく平たい石の上に靴を脱いで上がると同時にお婆さんは立ち上がり「今、お茶をね」と、一段と暗い所へと消えていった。そこで初めて、「ここで暮らすんだ~」と僕は思い、どこでどんなご飯を食べるんだろう、と不安になった。そして、ショックを一度に受けないようにするために、あまり周囲を観察しないことにした。

ちょっとした興奮状態のまま、お婆さんが運んできたお茶と饅頭を口に運んでいると、親父がまた肘を突付いた。僕は慌てて、右側に置いたままのお土産をお婆さんに向けて押し出した。「お土産です」「つまらないものですが」親父がフォローする。その後だった。僕が迷宮に入ったのは。

お婆さんが、にこやかにお土産を手元に引き寄せながら、「だんだん」と言ったのだ。僕は、何が起きたんだ、と思った。だんだん、段々、つまり階段だと思った。周囲を見回した。どこにも階段は見当たらない。そこにもう一度、「僕、僕!だんだん」という声。お婆さんは、あくまでもにこやかだ。僕は、お婆さんと親父を交互に見ながら、腰を浮かしていた。親父もにこやかなのが不気味だった。

世界遺産に指定された石見銀山や山陰の小京都津和野がある島根県西部を石見地方、松江や宍道湖や出雲大社がある島根県東部を出雲地方と言う。この二つの地方、小さな県内で接しているというのに言葉が全然異なる。松本清張の「砂の器」で広く知られるようになったが、出雲弁は、ほとんど東北弁と同じ。石見弁は、広島弁に極めて近い。考古学者江上波夫博士の「騎馬民族征服説」に後年接し、東北へと追われた先住民の一部が出雲に残ったという理解が成立することに気付いた。

邑智郡は、その石見地方と出雲地方の境界線辺りに位置する。したがって、二つの言語が交差する土地なのだ。ずっとどこか漠然としている僕に、「だんだん」とは「ありがとう」ってことだよ、と親父が教えてくれた時、僕は今度は違う衝撃に気を奪われていた。親父が連れて行ってくれた僕たちの部屋は、なんと右手に見ながら庭へと入ってきた、あの納屋の二階だったのだ。鶏がバタバタと飛び交う間を抜けるようにして階段を上がっていく時、僕は心の中で誓った。「浜田に帰ろう。ここを、逃げ出そう」。

   60sFACTORYプロデューサー KSKKY(柿本)

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蛍光灯、ランニング、カレーライス、あんぱん、‥‥。①

中国地方で最長の川、江の川(ごうのかわ)。その河口付近に位置する町江津市と中国山地のほぼ中央部に位置する小都市広島県三次(みよし)市を結ぶ三江線という田舎路線がある。この三江線、全線開通は、なんと1975年。モータリゼーションの本格化から約10年。陸の孤島島根県の利便性を高めようと、鳥取県と岡山県を結ぶ伯備線のような活用を意図していた陰陽路線は、生まれた時から廃線同然だった。

その三江線、江津、三次双方から工事が進められ、江津からを三江北線、三次からを三江南線と呼んでいた。僕の初めての長旅は、2歳半の時。親父が女房(つまり、僕の母親)を連れ戻しに行った宝塚までの往復の旅。後年耳にしたところでは、しばらく宝塚に住んでいたようだが、僕の微かな記憶には、宝塚動物園での楽しい思い出と二人きりの空しい帰路しか残っていない。米子に立ち寄り、友人の家を訪ねた時、寂しく速い親父の足取りを追うのに精一杯な僕に一度だけ振り向き、「もう少し頑張れ。絵本買ってやるから」と言った親父の笑顔の向こうに、僕を突き放してしまいそうな強張りがあったのが忘れられない。

で、次の長旅が三江北線での引越しである。1956年初秋、小学校1年生の夏休み明け。肺結核の手術・療養から復職した親父と二人暮らしを始めるためのものだった。親父の勤務地は、島根県邑智郡の奥深く、沢谷村というところだった。何しろ地名が沢と谷。どんな所かおわかりであろう。三江北線の終点浜原からバス。右は眼下に渓流、左は切り立った山肌の道を、お婆ちゃんと大きく揺られていると、身体の芯から悲しさがこみ上げてきて、ただひたすら祖父母の元へ逃げ帰りたくなった。「都落ち」の感覚に苛まれるのも無理はない。田舎にも差はある。

僕の生まれたのは、島根県浜田市。山陰有数の漁港である。漁獲量は多く、戦後の復興期、缶詰工場や蒲鉾工場も稼動を始め、街には活気が溢れていた。活動写真の弁士を辞めた後、カフェのオーナーになっていた祖父は、戦後、進駐軍相手に切り替えたりしたものの結局うまく行かず、僕が幼稚園に行く頃は、ニコヨン(日雇い労働者)をしていた。家だけは何とか手放さずに済んだのが幸いし、高校を出てすぐにトラックの運転手になった長男、近所のカフェ(今のスナック)で働き始めた次女の収入に助けられながら、なんとか暮らしていた。教師だった親父と結婚し同居している長女が一番親孝行だったはずなのに、肺結核という病気と19歳の終わりに出産した僕というコブのせいで、皮肉にもお荷物と化していた。しかし、幼い子供の日常は、別の次元で回転している。貧しさも不自由さも寂しさもあまり痛感することなく、僕はそんな大人たちの間を漂いながら暮らしていた。そんな僕にとって、小学校入学は、暮らしを大きく変える大イベント。しかも、同級生は数多い。まるで、別の社会に飛び込む感覚である。

美緒子ネエチャン(母親の妹。本当は叔母だが、そう呼ばないと殴られた)が買ってくれたデニムのサロペットに、良樹ニイチャン(母親の弟)が買ってくれたランドセルを背負い入学式に行った僕は、学生服の集団に腰が砕けそうになった。仲良くなって、毎日味噌汁ご飯をあげていた野良犬のメリー(おじいちゃんの命名。弁士らしい!?)の連日の校門までのお迎えがなかったら、僕の腰は砕けたまま、友達を作ることなど出来なかったに違いない。1つだけあった養護クラスに入れられた僕は、教室の後方にある畳敷きのスペースに授業中に横になることもなく、保健の先生に険しい顔で連れて行かれることもなく、いたって順調に夏休みまでを過ごした。人気者になったメリーのお陰で友達もでき、なんだか明るく楽しい日々がやってきそうな予感もし始めていた。

その矢先である。単身で赴任していた親父がやってきて、祖父母たちと夏休みを過ごしている僕を見て、こう判断し、決断したのは。「おじいちゃん、おばあちゃん、叔父さん、叔母さんたちと暮らしていると、わがままになっていけない。このままでは先が思いやられる。彼らと引き離すべきだ」。僕は、祖父母とのやり取りをこっそり聞いては「なんて余計なことを!」と歯ぎしりしていたが、親父の意思どおりに事が進んでいくのはわかっていた。暗澹たる気分だった。チャンバラ専門の映画館、「エデンの東」を観た無料で入れてもらえる洋画専門館にはもう行けない。お隣の「冷やしアメ」も二度と飲めないだろう。角を曲がったところにあるパン屋さんのコッペパンは‥‥。などと、布団の中で思っていると、親父に対する殺意さえ生まれる夜もあった。しかし、僕が身を捩っているのをよそに、結論はあっさりと出てしまい、引越しの準備もさっさと終わってしまった。そんな朝のことだった。味噌汁ご飯をあげようと「メリー!メリー!」と、表に出て呼んでいる僕に、おじいちゃんがそっと近付いてきて耳元で言った。「メリーは、獲られたよ。市役所の人が捕まえていったから、もう会えないよ」。僕は、「うそ~!」と叫んだまま立ち尽くした。涙も出なかった。

それから2日か3日後のことである。大きく揺れるバスは、僕に起きた激動そのもの。これから、これまで以上にいいことがあるなんて、とても考えられなかった。

ところが。ところが、である。沢谷村の1学年1クラスの小学校には、僕を揺さぶる、新たな社会があった。僕は、おばあちゃんの膝の上から世の中を見ていたに過ぎないことを痛感させられたのである。

           ‥‥つづく‥‥

   60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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注目!引越しパーティ参加者に、テレビで会えるぞ!

7月13日(金)の引越しパーティ参加者の一人、マーケッターの箕輪弥生さんが、夫婦でテレビの取材を受けたそうだ。番組は、確かではないが(きっと!)、テレビ朝日(10ch)、「徹子の部屋」のすぐ後、5分のミニ番組「東京サイト」。LOHASに関して早々とHPを開設し、じっくりと活動してきた箕輪さんには、「LOHASで行こう」という著書もある(ヴィレッジブックス+社刊/620円)。ご夫妻のLOHASな暮らしの一端を観ることができるだろう。箕輪家の愛犬アポロンや随分と長生きの愛猫2匹にも、画面を通じて会えるかもしれない。

来週7月17日からの1週間、「東京サイト」に注目!です。

お知らせでした。

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引越しパーティ第一弾開催

7月13日(金)、やっと引越しパーティの開催にこぎつける。今回は、二回に分けて開くことに決定。Kapparさんの英断である。それも、台所が充実していることを引越しの目的の一つとして新事務所を探した結果のこと。アシスタントが一人つくとはいえ、パーティのメニューを考え、仕入れから料理までほぼ一人でこなすKapparさんの存在なくしてパーティはありえない。野菜のソムリエとフードコーディネーターの資格を持っているKapparさんの料理を楽しみにしている人は数多い。

引越しパーティ第一弾は、長いお付き合いの方々。第二弾は、トラッドファン・グループという分類。その方が、お互いの話も盛り上がりやすいだろう、との意図である。で、昨晩の第一弾。約25名が、来られた。女性比率が高く、14名が女性。26歳~○○歳まで。職業で多かったのは、広告代理店勤務、プランナー。みなさん、常識と能力を兼ね備えた素敵な人たちだ。

料理は、金華ハム入り中華風おこわ、豆腐とゴルゴンゾーラのトマトピューレ、韓国風生春巻き、北京ダック風チコリボート、タイ風海老のグリーンカレー、トムヤムクン、エスニックスパイス入りミートローフ、夏野菜のクリーミーバーニャカウダーの8品。そこに、二つのメニューも届いた。一つは、本場仕込みのスリランカ風豆カレー、もう一つが、レバーの丸煮マスタード添え。前者は、編集者からオリジナル輸入食品会社を立ち上げて奮闘中の津崎さん(スリランカで孤児の象の名付け親になったこともあるらしい)、後者は、ファッション・デザインの仕事に長年携わり、今は東京モード学園の講師もしている国井さん(料理が趣味の男性‥おっちゃん?である)の作だ。

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ミートローフは、調理中に切り残しを口に入れただけだった。

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ゴルゴンゾーラは、豆腐によく合う。お奨め!

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打ち合わせテーブルを料理が占拠。次々と、みんなの口の中へと消えていった。

パーティができる幸せは、いつまで続くのだろうか。宴の後、三々五々出席者がドアから消えていった後、いつも思うことである。Kapparさん、よろしく!である。‥‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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仲間はいいな。

昨日(7月10日)夜、とってもとっても久しぶりに、「スナック三栄町」を訪れた。「スナック三栄町」は、仲間内での呼び方。実は、S夫婦の自宅兼仕事場である。夫人は、僕が最も信頼するグラフィックデザイナーで、60sFACTORYのロゴ、ホームページなど、すべてを手がけていただいた。とあるメイクの会社の仕事も一緒に1年以上続けている。旦那は、パーサー。飛行機に乗っているヒトではなく、パースを描く人。不動産の仕事や売り場作りの仕事の時に、何度かお願いした。なかなかの腕前の人である。で、このケンチャン、料理の腕前もなかなか。彼が忙しいとグルメの夫人が「私の食事はどうなるのかなあ」と洩らすほどである(夫人も、やればできるし、なかなかおいしい料理をお作りになるのだが、できれば「あなた作る人、私食べる人」でいたい贅沢者なのだ)。

昨晩は、ケンチャン、久しぶりの来訪者のために、腕まくりをして準備をしてくれた。

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ケンチャン作、鯵の棒寿司&螺貝の煮付け、おいしかった~。

その他、懐かしの豚肉のピカタ、ジャガイモと玉葱とホタテのサラダ等々。デザート付き、コーヒー付き、もちろんお酒付きで、なんと無料。

いい店でしょ?「スナック三栄町」。あまり人に教えたくない隠れ家です。

ママ(夫人)のブログは、http://e-pooh.cocolog-nifty.com/blog/。人柄がわかります。

   60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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昭和30年代、貧しい時代だったのに‥‥。

北極圏に棲息するレミングは、別名タビネズミと言われるとおり、餌場を求めて集団で移動をするネズミで、個体数が増えると次々と海に飛び込み、集団自殺することで有名だ。次の世代の豊かな暮らしのために、命を投げ出すのである。まだ謎の部分も多いようだが、その習性を知った時は驚いた。中学生の頃だったと思う。しかし、10代も終わりの頃になると、ヒトという動物もレミングのような習性があるのでは‥‥、と思うようになった。前の世代の大きな犠牲や破壊の後に、必ず建設・繁栄の時代が訪れ、繁栄を極めて個体数が激増すると、また破壊と殺戮の時代が訪れる。文明と文化は織り成すようにして、破壊の時代と建設・繁栄の間に生まれ育ち、消え去っていく。ちょうど氷河期がやってきて絶滅があり、間氷期に繁栄があるように‥‥。

僕たち団塊の世代(ベビーブーマーは、世界中に存在する)は、戦後の建設を担うには遅すぎ、繁栄の絶頂で迎える破壊の時代には早すぎた世代。次々とできあがっていく装置を動かすエネルギーと、そこから生産されたものを消費するエネルギーで繁栄に弾みをつける役割を担った世代だったようだ。「お山の若大将」が多いのも、大きくまとまった経験がなく、せいぜい「同好の士集団」しか形成したことがなかった「大消費文化世代」だからのように思う。建設と破壊は、大きな組織形成を必要とするが、消費には必要ない。‥‥。‥‥。

昭和30年代は、民族全体が一つの組織を組んでいたような時代。そんな時代は、政府と役人の時代。暮らしがよくなっていくためには、目標を共有しなくてはならない、という潜在意識がみんなにあったような気がする。そんな、ある種の連帯感と、上向いていく暮らしがあった時代の少年には、貧しさも通過点にしか感じられず、苦しさや惨めさを感じさせるものではなかった。「貧乏人じゃの~」と口に出しても、それは深刻な苛めや卑下の言葉とはならなかった。いい時代だった。建設現場の賑わいと雑多感があった。多少の汚れや傷は気にならなかった。貧しかったのに、だ。

そんな30年代。多くの引越しをして(島根県の西部だけだが‥)、いろんな暮らしに出会った。その思い出話も、これから時々してみようと思う。

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