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1963年。秋の夕暮れ。

やや重い話からちょっと離れ、田舎の少年の話へ。

1963年。秋。伝統的に応援席をみんなで手作りすることに決まっていた体育祭。応援席の骨組みとなる孟宗竹を校庭まで運ぶのに手間取った上、応援席の巨大な背景画の製作も遅々として進まない日々。ふと、チャンスは、訪れた。連日の作業に汗をかいたあと、つるべ落としの秋の夕暮れを、自転車に乗って家路を急ぎ始めた、その時だった。校門を抜けた直後にかかっている小さな木橋の端に、自転車の両ハンドルを握って、彼女が一人佇んでいたのだ。表情までは読み取れなかったものの、誰かを待っている風情に、僕には見えた。いつも3~4人のグループでいることが多かった彼女のことだ。友達を待っているのだろう。咄嗟にそう判断しつつも、なぜかその時は「僕を待ってくれていたのかも‥」との想いがよぎった。胸が高鳴った。大きく息を吐きながら、僕は10メートルばかり行き過ぎてから自転車を降りた。胸の高鳴りは、極限に達してしまいそうだった。自転車を押して、我が家に向かって歩み始めたものの、後ろを振り向きたい、振り向いて一言でも話したいという思いに足はもつれんばかり。それに反して消え入りたい思いも浮かび上がってきて、もつれる足取りは、やがて地に着いているとは思えないほど心許ないものになっていった。僕は、足を止めた。彼女が、僕の横を通り抜け過ぎ去っていく光景をイメージしながら。しかし、彼女は、立ち止まった。背中で、僕は確信した。“僕を待ってくれていたんだ!”僕は、上気していくのがわかった。何か話しかけなくてはならない。背中で得た確信は、責任に変わった。喉が渇いた。言葉が浮かばず、後ろを振り向く勇気も湧いてこなかった。1~2秒後、僕はまた、歩み始めた。彼女も、僕の一歩一歩に歩調を合わせるように、歩を進めている。その歩みも確信できた。すると、急に喜びが前進を沁み通って行った。僕は立ち止まった。くるりと振り向いた。少しばかり驚きの表情を見せている彼女の眼を見た。初めて、正面から彼女を見たような気がした。「なに?」。彼女は、柔和に微笑み、話すきっかけを与えるように、小首を傾げてみせた。「今朝、雨降ってた?」。僕の口をついて出てきた言葉だった。「ううん。どうして?」「いや、傘忘れたかなって思って」。恥ずかしくてたまらなかった。なんて、会話だ。なんて、幼稚なんだ。なんて、なんて‥‥。僕は、くるりと踵を返した。今度は、早く帰りたい一心だった。歩みを速めた。彼女は、遅れずに付いてきた。分かれ道まで、100メートル。黙って歩いた。少しずつスピードを緩めながら。「じゃ、また」。分かれ道でもう一度振り返った。それが、中学3年間で、二人で過ごした最初で最後の10分間の終わりだった。

思い出は、美化されていく。しかし、事実は変わらない。過去を振り返ってはいけないなんてことは、ない。事実を見逃さないことだ。

  60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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介護される側の視点④ーボーダーラインの設定

自分では何もできないくせに、贅沢言うな。という声が、聞こえてきそうな気分にいつも支配されながら、それでも、いろいろとお願いせざるを得ないことに、時には苛立ち、時には悲しくなる‥‥。介護される側の心理の一端である。しかし、弱者にもやがて権利意識が生まれる。これが実は厄介な代物だ。言わば、反転作用。弱者の悲哀を味わった上での権利意識は、傲慢なほど強いものになりがちだ。面倒なことを巡る意識の落差は、感情的な衝突の温床になる。そして、小さな衝突の繰り返しは、暮らしからまろやかさを消し去っていく。

グレイゾーンは、こうして次第に広がり、埋めがたい溝になってしまうのだと思う。脳出血や脳梗塞は、完全な回復はありえない(もちろん、重さにもよるが)と考えるべきであるがゆえに、長期にわたって関わってこざるを得ない問題だ。Quality Of Lifeの観点から見ても大きな問題である。肉体的な疲労より、QOLの低下の方が、生きる気力を奪っていくものだと、僕は思う。QOLは、暮らしを共にする者の共同作業によって守るべきもの。介護のグレイゾーンを狭めていく作業も、まずは、コミュニケーションから始まる。

介護で大切なのは、「ムラがないこと」。まず、そこに留意しなくてはならない。介護される側からすると、「いつもしてもらえること」は、行動に中に組み込んでおきたい。介護する側の気分で。「してもらえたり、もらえなかったり」だと、段取りが組めなくなる。安心もできない。どちらが手を出すことか、小さく決めていくのは難しいとしても、あいまいになりがちなことは、きちんと話し合った方がいいだろう。要するに、境界線の設定である。特に、グレイゾーンの境界線は動いていくものだけに、回復の度合い、介護者の疲労度等によって微妙に変化することを認め合っておく必要がある。そして、「明日は、自分でやってね。できる?大丈夫?」「ちょっと、やってもらいたいなあ。今日は調子がよくない」などと、声を掛け合い、微妙に境界線を踏み越えあうべきだろう。境界線を決め、それでいて頑なにこだわり過ぎない。それがコツと言えばコツかもしれない。

60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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介護される側の視点③ー介護という仕事に関して

介護のグレイゾーンについてさらに述べていく前に、やはりコムスン事件に関して、少しだけ触れておきたい。ただ、介護に関して専門的な知識もなく、造詣が深いわけでもない僕が、入院、リハビリテーションを通じて、あくまでも介護される側として感じたことを敷衍しただけであることは、お断りしておきたい。

まずは、今も週2回続けているリハビリについて。

リハビリは、大別すると3種あるようだ。理学療法(PT/Physical Therapy)‥‥主に下肢のセラピー。自立歩行を促す。作業療法(OT/Occupational Therapy)‥‥主に上肢のセラピー。手作業を促す。言語療法(ST/Speech Therapy)‥‥言語によるコミュニケーションが可能・円滑になるように促す。以上、3種である。入院をして知った。セラピーだから、手術をしたり、薬品を使用することはない。つまり、身体の構造と、その一つひとつの働きと相互関係を十分に理解し、どこをどのように刺激すれば、失ったあるいは減退した機能を回復できるか、を知る人つまりセラピストの指導を受けながら、随意筋に動き方を改めて教え込んでいく、というのが、今のリハビリ。のように感じた。特に、僕のような脳卒中に起因する不随は、脳からの指令が途絶えているので、身体の方つまり必要な筋肉にダイレクトに動き方を教え込んでいくしかない。‥‥ということだろう。

幸いにして、入院した時点からずっと意識もはっきりしていて、ストレッチャーの上でMRIの結果を見せてもらいながら担当医と会話をしていた僕は、言語を失うことはなかったので、3種の中の2種のセラピー、PTとOTを受けることとなった(現在、声が出にくくなってきていることも災いして、発音不明瞭な言葉が増えているようで、気になってはいるが‥‥)。そして、すぐに思った。まだまだ確立されていない療法なんだなあ、と。そして、それはやむをえないことなのだろうなあ、と。

正常に機能している状態の肉体は、多様な動きを可能にするために複雑に入り組んだ筋肉が、互いに動きを補完しあいながら無理なく動いているのであろうが、一旦どこかが壊れてしまうと、そのひずみが各所に出てくることになる上に、その出方は人それぞれ、画一的なパターンはない。一人ひとりがレアケースなのである。学ぶとしたら、正常な状態の身体をを学ぶしかなく、それが現場ですぐ役立つとは限らないのだ。セラピストの経験と資質に拠るところが大きいのである。体系化できるとしたら、患者との接し方と、セラピーの基本のみなのではないだろうか。推測ではあるが‥‥。

と、思った僕が、是非充実してもらいたいと思ったのが、本来当たり前のことなのだが、インフォームド・コンセントの徹底である。何のために、どこのどの筋肉を使うのか、その説明をしてもらいたい、と強く思った。説明をすることで、責任も生まれ、担当が入れ替わっても、何をなすべきかは伝わっていくように思うし、セラピーを受ける側もより真剣になれるし、効果も上がるような気がする。要するに、ロードマップは、ないよりあった方がいい、ということである。もちろん、容易なことではない。説明の仕方の標準化も必要だと思う。しかし、患者はとにかく指導するとおりにやってくれればいい、とするやり方だと、セラピスト、患者双方に進展はないように思えてならない。リハビリは、本来共同作業。しかも、一つひとつのセラピー行為は、より優秀なセラピストを育てる教育機会であり、そうして育った指導者がもっともっと必要な状況にあると思うからである。

で、コムスンである。と言うより、グッドウィル・グループが介護事業を展開するということについてである。

上記のリハビリと同様、介護も一つひとつがレアケースと考えるべきもの。ほとんどが現場で携わる人に委ねられる行為である。したがって、ノウハウは、常に現場に蓄積され、現場で熟成されていくことになる。それが、介護事業者の資産になっていくのであれば、介護も充実していくことになるだろう。現場で介護に汗を流す人が得たものが、社会資産として還元されていけば、介護する人、される人の満足度も上がっていくはず。だと思うのである。それが、人材派遣を主たる生業とする企業グループにできることだろうか。何しろ、人材派遣企業の企業ポリシーは、大掛かりな口入れ屋、あるいは手配師に過ぎない。企業としてノウハウを蓄積する意志などないはずである。ボランティアではないからこそ、より高度なところを目指してもらい、その高まった質によって、高い報酬を得ていくようになればいい。優れた介護は、高い報酬を得る価値がある、と認めるべきだと思う。介護で稼いではいけないのではない。介護事業者が、介護の現場からいたずらに稼ぎを掠め取るのがいけないのである。介護をする側の人に真のプロが存在するようになり、固有名詞で語られるようになるくらいでないといけないとさえ思う。憧れの職業は、収入もそれに見合ったものでないといけない。

ただ、介護の現場が若い人に委ねられていくのは、僕は密かにおかしいと思っている。そのことにも、やがては触れてみたい。

60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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介護される側の視点②ー介護のグレイゾーン

介護には、介護される側の感覚として、言葉として適切ではないかもしれないが、レッドゾーン、グレイゾーン、ブルーゾーンの3種類があるように感じる。1.レッドゾーン‥‥サポートなしではいかんともし難いため、「サポートしてもらわなくてはならないこと」。2.グレイゾーン‥‥サポートがなくてもなんとかなるが、時間とエネルギーを要する上に、十分には出来ないことも多いので、「サポートしてもらえると助かること」。3.自分でできることだが、「サポートしてもらえるとうれしいこと」。以上、3種である。要するに、サポートの必要度合いによるのであるが、これが他者には判別しにくい。しかも、一つの行動であっても、レッド、グレイ、ブルーと3種混合であったりする。例えば、着替えの場面を想定してみよう。長袖シャツを着る場合、左手が利かない僕は、左腕から袖に通していくことになるが、その前に右のカフスを留めるのを忘れると、最後に人の手を借りて留めてもらうことになる。したがって、右のカフスを留めるという行為は、基本的にレッドゾーンに入るが、まず留めておいて無理矢理右手を通すことで構わない僕にとっては、グレイゾーンのこととなる。長袖シャツを着る時の他の行為は、すべてブルーゾーン。右手のみで多くのボタンを素早く留めていくのは疲れる(何でも右手、の僕は、夜になると箸を持つのも辛いくらい、右手に疲労を覚えることがあるほどだ)ので、人に留めてもらえるのは嬉しい。

ただ、長袖シャツを脱ぐときはまた別だ。右のカフスを外すなんて、今の僕の左手には到底無理だ。レッドゾーン以外の何物でもない。しかしそれでも、なんとか自分でと思い、ごにょごにょと左手でカフスを動かしている間に外れることもある。時折グレイゾーンに入ってくるわけだ。ただ安定していないので、自分で外せると思われてしまうと、時には右手に長袖シャツをぶら下げたままになってしまう危険性がある。

気温が上がってくると、そこに袖をめくるという行為の必要性も絡んでくる。長袖シャツの脱ぎ着だけでもこうである。面倒臭い話である。

介護疲れを軽減し、介護される側の自立を促していくためにまず重要なのは、グレイゾーンのことをどうしていくかだと、僕は考えている。申し訳ないと思いつつも、やがて甘えが強くなり、ついには権利意識まで持ちかねないのが被介護者だ。子供と変わらないのである。なにしろ、サポートしてもらわなければならないこと、サポートしてもらうと助かること、サポートしてもらうと嬉しいこと、そのすべてが被介護者にとっては、してもらわないよりはしてもらった方がいいこと。しかし、本当は自分で出来ることまでしてあげる必要はない。かといって、被介護者にとって、出来ないこと、今は出来にくいことをほったらかしにされるのは辛い。どこまで手を貸すか、いつまで手を貸すか、どんな時に手を貸すか、が肝要なのである。それによって、介護者の労力も被介護者の自立効果も違ってくるのである。そのためには、最も広く曖昧なグレイゾーンの扱い方、あるいはグレイゾーンとの付き合い方がポイントとなってくる。僕は、そう実感しているのである。

では、どうするか‥‥。正解は、きっとない。なぜなら、特に脳関連の病の後遺症は千差万別であるばかりか、日によっても症状は異なり、それによってグレイゾーンは大きく変化するからである。しかし、僕なりの仮説はある。これも患った病の重さ、リハビリの進行度合い等によって異なるものであろうが、次回、提示してみたい。

  60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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介護される側の視点①ーボランティアとビジネス

2006年9月初頭、残暑厳しいある日の夕刻、僕は脳出血に倒れた。それから、9ヶ月半。左半身不随の病床から、リハビリ専門病院を経て、今は何とか30%程度の社会復帰。約30年間生業としてきた企画やコピーの仕事に少しばかり携わりつつ、倒れた時に準備中だった60sFACTORYを何とかすべく、エネルギーを費やしている。医者の見立てでは、僕の脳出血、病の重さとしては中の中程度だったらしいが、それでも、寝たきり2週間、車椅子約1ヶ月、早い方だと言われながら立ち上がり、連日約4時間のハードなリハビリを経て、やっと覚束ない足取りで歩けるようになった。杖は手放せない。左腕はまだ言うことを聞かず、肩から腕にかけて時折固まってしまい、強い痛みを感じることもある。要するに、まだまだリハビリの日々なのである。

生涯初めての本格的な入院の間、いろいろなことを考えた。身辺に大きな変化もあった。起きざるを得ないことと思いつつも、受け入れがたいことも多々あった。そして、介護される側に回ってみて、これから本格的に始まる介護社会(決して大げさではない)に対する認識に微妙な変化も起きた。

コムスン、年金がニュースの中心になっている今、しばらく断片的にではあるが、介護される側で感じたことを語ってみたい。介護する側の向こうに、介護される側の人たちの語られることのない声が多く存在していることに気づいたからだ。

まずは、介護ビジネスに関して。コムスンやグッドウィルに関しては、また述べるとして、「介護で稼ぐとはけしからん」と言わんばかりの良心ぶったマスコミのスタンスは、極めて表層的で幼稚で腹立たしいので、僕が一度実感したことを例として提示しておきたい。

車椅子から離れられない時期のことだった。歯の治療が必要(脳出血の後、歯を含め、身体の悪い部分が噴出した)となり、歯医者にレントゲンを撮りに行く時のこと。車椅子を押してくれる女性スタッフに大変な苦労をかけた。歯医者は隣のビルにあるとはいえ、表に出て、エレベーターに乗り、歯医者の玄関から治療室に入るまで、いくつかの大きな起伏を乗り越えなくてはならない。太ってはいないが、170センチ、58キロの男を乗せた車椅子を操るのは容易ではなかった。僕は、心苦しく、「大丈夫ですか?」「すいませんねえ」と、何度も言っていた。こうやって人に迷惑をいっぱい掛けることになるんだなあ、と、いささか湿った気分にもなっていた。

病院の入り口近くまで帰って来た時である。入り口のアンジレーションに車椅子が引っかかった時の、僕の数回目の「すいませんねえ」に、突然「いいんですよ」とは違う答えが返ってきた。「柿本さん、気にしなくていいんですよ。ボランティアでやっているわけではありませんから。私の仕事ですから」。明るい声だった。僕は、不意を突かれた気分だった。そして、一気に気が楽になった。ありがたいと思った。

それだけの話である。ただ、忘れられない、象徴的な出来事ではあった。

  60sFACTORYプロデューサー  KAKKY(柿本)

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2007年から1963年へ。回帰という再出発①

1963年よちよち歩きを始めた自意識は、狭い田舎社会の中でも徐々に行動範囲を広げ、居場所とポジョションを獲得していた。大きな衝撃を受けることもなく、穏やかに視界は開けていった。時折手にする、親父の週刊新潮と週刊文春の記事にある情報の糸を手繰り寄せ、そこから社会というものを垣間見ることもあったが、実感するには程遠かった。東京は、異質な場所。憧れはなく、不可思議な独自の価値観で動いている場所のように見えた。僕は、純朴な田舎の少年だった。ただ、不思議なことに、あんなに穏やかでぬくぬくとしていた田舎の社会が、次第に居心地の悪いものへと変わっていくのは実感していた。

次々と襲ってくる新しく魅力的な刺激に反応して楽しんでいる間に、大人たちが期待する男の子同士の競争の舞台に、いつの間にか僕も引き出されていた。争うのは嫌だ。分類されるのも嫌だ。そう思いながら、競走の場に出されると、負けるのも嫌だった。高校生になり、他の中学出身者と机を並べるようになると、事態はさらに悪化していくように感じた。人口5万人強の田舎の小都市とはいえ、地域格差はある。町の中心部の中学出身者と、僕のような郊外の農村部の中学出身者には、大きな意識の隔たりがあった。既に競争することに慣れ、それなりのノウハウやスタンスを身に付けている中心部の中学出身者には、その表情、言葉、仕草に大人のしたたかさの香りがした。僕は、彼らの一部に露骨に戦いの始まりを宣告されたりしながら、新たな人との距離の設定の仕方に苦慮した。競争しながら友人関係を作っていく、という大人のビヘイビアは、僕には馴染まず、やけに嘘っぽく見えた。不幸なことに、僕の中学出身者が同級には少なく、同じクラスとなると、一人もいなかったことも、僕の人との付き合いを不器用にさせていた。

こうしてうまく人との接点を見出せないまま、居心地の悪くなっていた田舎から京都へと出て行った。不安はなかった。しかし、希望もなかった。

 60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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