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意識がよちよち歩きを始めた年ー1963年②

僕の親父は教師だった。肺結核の病み上がり。大手術を経て辛うじて命を永らえ、山陰の山深い分校に復職を果たし、次第に海辺の町へと異動を重ねていった。お陰で、僕は小学生時代を5つの学校で過ごすこととなった。その間に新しい母親も迎えたとあって、僕の最大の関心事は、常に僕の周辺の人。とりわけ、興味のある人や関係のある人の感情の機微には敏感だった。そして、そんな人たちの小さな感情の揺らめきにたやすく反応してしまう自分自身を御しがたく思うことも多かった。僕は、人が好きで好きで仕方なく、そしてどこか苦手だった。僕は、他人という鏡に映る自分自身の姿を嫌いになりたくなくて、いい子でいること、明るく楽しい子でいることを選び、時にはそのために疲れてしまうことさえあった。後年、亡くなる直前の母親に言われた「無邪気な子供らしい子供だと思ったことがない」との言葉どおり、確かに僕は、内から発する欲求に身を任せるのが苦手ではあった。

しかし、やがて変化は起きていった。小学校5年生の終わり、島根県益田市横田町に引っ越して、それから中学を卒業するまで同じ場所で過ごすことができるようになったことが大きかったようだ。環境の安定、とりわけ人間関係が安定したことは、人へ人へ、そして自分へ自分へと向かいがちだった意識とエネルギーを、外界全体へと向けるゆとりを生み出してくれた。自然に恵まれていたことも幸いした。美しくのどかな外界に、僕は次第に溶け込み、心地よく身を委ね始めていた。初めて居場所ができた気分だった。1960年~1962年は、そうしてのどかに過ぎていった。至福の時代だった。

しかし、時代は歩みを速めていた。山陰の片田舎の暮らしもさすがに歩を速め、ざわめき始めていた。音楽、TVドラマで触れたアメリカのライフスタイル(ライフスタイルという言葉と概念さえまだなかったように記憶する)は、やがて目指すべき唯一の目標のように見えたし、魅力的だった。決してピュアではなく、どこか猥雑感のあるアメリカの生活文化こそ、活気ある人間らしい暮らしのように思えた。日本の戦後の最大イベント、東京オリンピックの話題と東京で進んでいる大きな変化を時折耳や目にしながら、きっと僕たちもあんな暮らしになっていくんだろうな、と思っていた。一体アメリカの子供たちは、何を思い、目指し、どんな力を身に付けていっているのだろう。対抗心などまったく抱くこともなく、興味と憧れを持って、音楽やTVドラマの向こうに垣間見えるアメリカの若者の姿を思い描いたりしていた。

1963年晩秋。しかし、豊かな暮らし、目指すべき社会の典型が突然色褪せて見え始めた。ケネディ大統領の暗殺事件だった。国家や社会にも、人間と同様、様々な側面がある。そんな単純なことを強く思い知らされた。同時に、僕の中に芽生え、育っていた憧れは、敗者が勝者に抱きやすいそれであることにも気づかされた。僕は、入ってくる情報や刺激に、身構えることを覚えた。本格的な自意識が芽生えたのだ。

親父の身長に追いつき、やっと156センチになっていた。それから、14センチ身長が伸びていく間、僕はずっと自分がどうあるべきか、何者たりうるのか、考え続けることになった。自分の足で歩き始めたのである。

   60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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