« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

意識がよちよち歩きを始めた年ー1963年②

僕の親父は教師だった。肺結核の病み上がり。大手術を経て辛うじて命を永らえ、山陰の山深い分校に復職を果たし、次第に海辺の町へと異動を重ねていった。お陰で、僕は小学生時代を5つの学校で過ごすこととなった。その間に新しい母親も迎えたとあって、僕の最大の関心事は、常に僕の周辺の人。とりわけ、興味のある人や関係のある人の感情の機微には敏感だった。そして、そんな人たちの小さな感情の揺らめきにたやすく反応してしまう自分自身を御しがたく思うことも多かった。僕は、人が好きで好きで仕方なく、そしてどこか苦手だった。僕は、他人という鏡に映る自分自身の姿を嫌いになりたくなくて、いい子でいること、明るく楽しい子でいることを選び、時にはそのために疲れてしまうことさえあった。後年、亡くなる直前の母親に言われた「無邪気な子供らしい子供だと思ったことがない」との言葉どおり、確かに僕は、内から発する欲求に身を任せるのが苦手ではあった。

しかし、やがて変化は起きていった。小学校5年生の終わり、島根県益田市横田町に引っ越して、それから中学を卒業するまで同じ場所で過ごすことができるようになったことが大きかったようだ。環境の安定、とりわけ人間関係が安定したことは、人へ人へ、そして自分へ自分へと向かいがちだった意識とエネルギーを、外界全体へと向けるゆとりを生み出してくれた。自然に恵まれていたことも幸いした。美しくのどかな外界に、僕は次第に溶け込み、心地よく身を委ね始めていた。初めて居場所ができた気分だった。1960年~1962年は、そうしてのどかに過ぎていった。至福の時代だった。

しかし、時代は歩みを速めていた。山陰の片田舎の暮らしもさすがに歩を速め、ざわめき始めていた。音楽、TVドラマで触れたアメリカのライフスタイル(ライフスタイルという言葉と概念さえまだなかったように記憶する)は、やがて目指すべき唯一の目標のように見えたし、魅力的だった。決してピュアではなく、どこか猥雑感のあるアメリカの生活文化こそ、活気ある人間らしい暮らしのように思えた。日本の戦後の最大イベント、東京オリンピックの話題と東京で進んでいる大きな変化を時折耳や目にしながら、きっと僕たちもあんな暮らしになっていくんだろうな、と思っていた。一体アメリカの子供たちは、何を思い、目指し、どんな力を身に付けていっているのだろう。対抗心などまったく抱くこともなく、興味と憧れを持って、音楽やTVドラマの向こうに垣間見えるアメリカの若者の姿を思い描いたりしていた。

1963年晩秋。しかし、豊かな暮らし、目指すべき社会の典型が突然色褪せて見え始めた。ケネディ大統領の暗殺事件だった。国家や社会にも、人間と同様、様々な側面がある。そんな単純なことを強く思い知らされた。同時に、僕の中に芽生え、育っていた憧れは、敗者が勝者に抱きやすいそれであることにも気づかされた。僕は、入ってくる情報や刺激に、身構えることを覚えた。本格的な自意識が芽生えたのだ。

親父の身長に追いつき、やっと156センチになっていた。それから、14センチ身長が伸びていく間、僕はずっと自分がどうあるべきか、何者たりうるのか、考え続けることになった。自分の足で歩き始めたのである。

   60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

   60sFACTORY週間活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

意識がよちよち歩きを始めた年ー1963年①

1963年。前年度に目覚めた島根県益田市横田町の少年の意識が、よちよち歩きを始めた年。人の意識は、外界からの刺激に反応することで変化し、成長し、時には崩壊していくものだ。重層的に襲ってきた1963年の刺激は、僕の無意識下にあった様々な欲求を掻き混ぜ表出させた。僕は、ちょっと戸惑いながら、欲求や感情のカオスに身を委ねていた。心が乱れることはなかった。貴重な青春の第一歩だった。

冬。豪雪だった。雪深いイメージを持たれがちな山陰地方だが、島根県も西部に至ると雪は少ない。特に海岸沿いは、積もることも少ないくらいだ。しかし、1963年は違った。ある日しんしんと降り始めた雪は、一晩で玄関の引き戸が開けられないほど積もった。そして、降り続けた。道路には、雪に階段を刻んで出なければならず、初めて経験した雪下ろしは、日課になっていった。米屋の哲ちゃんが、「親父が埋もれた~~!」と、裸足で駆け回り、近所の大人が総出で米屋の中庭にあったトタン屋根の鶏小屋の辺りの雪の山を掘っていると、「わしが埋まったって~?」とくわえタバコで哲ちゃんの親父が帰ってくる、などという事件も起きた。学校は休みとなり、すべての坂道はスキー場となった。竹スキーの作り方をみんなが覚えた。ハニーナイツの「オーチンチン」の歌詞にあったように、雪におしっこで名前を書いたり、顔を新雪に押し付けて顔型を取ったり、カマクラの中でわざわざ餅を焼いたりした。そのすべてに飽き飽きとしてきた頃、青年団の活躍で、道路に踏み固められた雪は、スコップで切り取られ、トラックに載せられ、橋の上から川に流されていった。雪のなくなった道路と家々は、妙にくすんで汚かった。増えた日課から解放されほっとしながらも、どこか寂しく、子供たちも沈み込んで見えた。

しかし、春が来ると様相は一変した。僕の心からも、降り積もった雪やその後のくすんだ町の景色は掻き消えていた。布団蒸しにされ出席番号で白状させられた初恋の人が、僕に好意を持っていると聞かされたからだ。校庭の端の桜の古木。大きく二つに分かれた幹に腰掛けながら、少し寒いくらいの春の風を、「もっと吹け~!」と思いながら浴びていたのを思い出す。ビートルズの「抱きしめたい」を始めて耳にして間もない頃だった。

ただ、残念ながら、彼女とはクラス替えで別れ別れ。放送委員になったと聞きつけ、無理やり放送委員になったものの、顔を合わせることは少なく、言葉を交わすこともなかった。でも、僕は満足だった。ふっと僕の前で踵を返す時の彼女の微笑んだ横顔やスカートのひらめきなどの向こうに、僕への好意があるように思ったりしていた。もちろん、些細なことが大きな不安を残すこともあった。そのどちらも抱え、僕は毎日音楽を聞いていた。少しだけ英語の歌詞が理解できるようになっていた。

最高の夏休みがやってきた ‥‥ つづく(②へ)。

    60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

    60sFACTORY活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1963年。記憶の年。

島根県益田市。山陰の小都市である。林業、漁業、商業がささやかに栄える海辺の町。いやむしろ、川沿いの町と言った方がいいだろうか。高津川、益田川という二本の川が中国山地から日本海に注ぐ、河口デルタ地帯に形成された農業を主体とした町が、地理的特性から様々な役割を果たし始めていった、と考えた方が適切かもしれない。山の幸、川の幸、野の幸、海の幸に恵まれた、本来豊かで、豊かだからこそのどかなエリアである。小学校1年間、中学・高校6年間を益田市で過ごせたことは、僕にとってはありがたく、幸せなことだった。

1961年~1968年。所得倍増計画がスタートし、消費文化が花開いていった、その真っ盛りである。モノが次第に身辺に登場し始め、それにつれて、僕自身の内なる欲望も肥大化していっていた時代。「安かろう悪かろう」と言われていた日本製品が良質化へと変革を始めていて、それを少しずつ知り始めた僕たちに誇りをもたらしてくれていた。日本は、立派な国だ。日本人は、よくがんばる国民だ。1963年頃になると、僕でさえ、そう思い始めていた。テレビを通じて飛び込んでくるアメリカの、その規模と明るさに負い目を感じつつ憧れを禁じえなかった僕でさえ、である。敗戦の影が色濃く残る港町浜田市で過ごした幼少時代は、貧しかったせいもあるが、今の向こうには未来があり、それは光り輝くようなものだ、などといったイメージなど微塵もなかった。周りにはいつも死の影が漂い、小さな喜びをついばむように暮らすことが日常だった。

1963年。今になって思うと、この年こそ、僕の意識せざる転換の年だったように思う。60年代のモノ作りを、と、熱い想いで始めた60sFACTORYだが、当時のモノ作りのノウハウやスピリットを僕が知るはずもない。それについては、今でも教えを請わなければならないことだらけの状態だ。しかし、それでも湧き出てくる想いは、きっと、1963年の頃に感じていた誇りや希望や喜びに根ざしているのだと思う。このプロデューサー日記を書き始め、何を書こうかと考えているうちに、そう思うようになった。思春期の目覚めと重なっただけかもしれない。音楽、スポーツ、初恋‥‥。理屈ぬきに全身で受け止めていたその一つひとつに、輝き始めていた60年代の日本の息吹が溶け込んでいたのだろう。おそらく、団塊の世代全員が感じた息吹が‥‥。

   60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

   60sFACTORY週間活動日記は、こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »