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“新”大家族主義ー団塊世代の新しい生き方!?

「もったいない」という感覚や価値観は、日本人の生活文化の根底に流れていた、極めて貴重な美学・哲学である。しかし、消費文化に押され、「もったいない」という言葉さえ聞くことができなくなって久しい。かつて、小学校校庭脇の水道の蛇口に必ずと言っていいほどぶら下げられていた、みかんが入っていたオレンジのネットを利用した石鹸入れ。泡立ちもよく、最後まで使い切ることができる優れものだった。他にも、使い終わった割り箸はゴム鉄砲に変身し、割れた一升瓶の底は凸レンズとして新しい生命を得た。親が使っているものが壊れてくれないか、僕は虎視眈々と狙っていたほどだ。何か遊び道具を得るためである。そう、50年代、60年代、僕たち子供の周りにあるものは、廃品ばかりと言っても過言ではなかった。野球のグローブ、バットどころか、ボールまで、僕は作った記憶がある。こうして、「もったいない」のスピリットをしっかりと植え付けられた僕たちも、やがて「使い捨て文化」などという、単なる浪費の理屈に染められていった。

あの、時には発見さえある「もったいない」精神を、今更楽しむゆとりはない。そこに生活防衛意識がある限り、捨てない暮らしは、心を痩せさせる。それだけ、僕たちは「さっさと捨てる快感」が身に付いてしまったのだ。生活防衛のためだけに汲々としているかのような生き方は、決して楽しいものではないのだ。

しかし、団塊世代の暮らしの未来は、決して明るくはない。そこで、最大の「もったいない」は、何とかしようではないか。というのが、今回の主旨。核家族化がもたらした多くの無駄の中で、生活を圧迫しかねない最も大きな無駄。それは、住居費だ。一人当たりの空間が広くなっているとはいえ、その多くは無駄な空間。「起きて半畳、寝て一畳」とまでは言わないが、生活に必要な空間は決して広くはない。みんなで集まるリビングという空間が用意されていれば、心にゆとりも生まれる。もう一度、集まって暮らしたらどうだろう。ドアや襖で小さな自分空間を確保して、生活に必要なことを役割分担をしていく「家族社会」。僕の大雑把な試算では、最低2割の生活費削減が、同居するそれぞれの家族で可能になるのだが‥‥。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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丸裸にされる!?団塊世代

4月、水ぬるむ季節の本格的な到来だ。街には新入社員の一群が、「ドブネズミ・ルック」復活を思わせる黒ずくめの、ちょっと“お水”なスタイルで行き来し始めている。そして、静かに大きく動き始めたのが、団塊世代。2007年。所謂「2007年問題」の始まりである。70兆円とも80兆円とも試算される団塊マーケットへのアプローチも本格的に始まりつつある。

しかし、その実態と可能性はいかがなものか。最初に試算して見せたのは電通だったように記憶しているが、向こうに見えるマーケットの規模と可能性を指差してみせ、そこへ向けての先行投資をコミュニケーションから始めよう、と提案するためのバックボーンを自ら構築したかのように見える。要するに、「広告代理店にとっておいしいビジネス・チャンス」作りのように見えてならない。70兆円、80兆円の市場規模かのように言われる団塊マーケットの実態は、もっとはかない。退職金、預・貯金、有価証券から保険まで含めた金融資産は、おそらくその規模に達するだろうが、果たして、それは積極的に消費されていく種類のものだろうか。

人生80年の時代。60歳から始まる20年を、ただ夫婦が生きていくだけでも7000万円程度が必要となる。おまけに、破綻の崖っぷちにある年金制度と健康保険制度。人口の多い団塊世代が踏みとどまっていた一歩を追い落とすことになるかもしれない。社会保障がやせ細っていく中、医療、介護など、「できるだけ、自前で頑張ってね」と言われ、一方では消費税アップが生活費を圧迫していく。20年を7000万円、では不足かもしれない。

そんな不安を内に抱えながら、とりあえず3~5000万円(退職金を含めて)のお金を目の前にしている団塊世代の耳に、そっと囁きかけてくる「ちょっと殖やしましょうよ」の声。とりあえず、子供のいなくなった住まいのリフォーム、久しぶりの夫婦水入らずの海外旅行、夫婦で休日にお出かけして楽しむ小さな贅沢‥‥。その費用を差し引くと、確かに確実な利殖は魅力的だ。利殖に確実性など期待してはいけない、とどこかで知りつつ、ついふらふらと傾いていく。

それは、バブルの頃の銀行・証券の組織的な詐欺を思い出させる成り行きである。巧妙な詐欺師軍団も登場してくるだろう。豊田商事事件は、過去の話ではなくなるかもしれない。まずいことに、「大丈夫。知識も、判断力もある」との自意識が強い団塊世代のこと。むしろたやすく被害者へと落ちていくだろう。

お気をつけ召され!団塊世代は、あおられ、持ち上げられ、身ぐるみはがされようとしているのかもしれないのだ。事業は下手でも金儲けはうまい20代、30代が、舌なめずりしている音が、ほら‥‥。

  60sFACTORYプロデューサー KAKKY(柿本)

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追憶の「プレイダンテ」

三井不動産の大型都心開発、「東京ミッドタウン」が華々しくオープンした。この手の開発に共通している「高級志向」に懐疑的な僕の好奇心は微塵も掻き立てられることはなかったが、どのテレビ局も同じような取材をし、同じような番組作りをして、恥ずかしげもなく公共の電波を汚している陰で、僕に届いた訃報は、24時間の無力感を僕に残した。

旧防衛庁脇(東京ミッドタウンの脇の道)、赤い扉の店「プレイダンテ」は、男性4人が仕切っていた店。VAN倒産の直後、アメフットチームVANGUARDSのマネージャーをしていた中田先輩に連れて行かれたのが最初だった。1978年、初夏のことだったと思う。

赤い扉を開けると、大きな丸テーブル。常連の席だと教えられた。正面の壁、左側の壁に沿ってソファ席。小さなテーブルを挟んで向かいに椅子席。右側には、アコースティック・ギターを抱えた人が座り、透き通るような声でアリスの歌を歌っていた。フロアは、2名。店長と思しき人の笑顔のいらっしゃいませに誘導され、丸テーブルの片隅に腰を落ち着けようとしたら、間奏のメロディーに合わせるようないらっしゃいませが、マイクを通して店内に響き、ついで、やや長身の優しい笑顔がいらっしゃいませと、横から覗き込んできた。僕は、いきなりその夜、閉店までいて、朝5時過ぎに店の表で、みんなでラジオ体操をして事務所に帰っていった。

それから、仕事仲間と再訪したのをきっかけに、僕は常連へと昇格していった。あっという間の出来事だった。深夜まで仕事をして、顔を出す。空いてる席に座る。すると、30分も経たないうちに、そこに礼儀正しく親密な空気が漂い始めた。冗談や悪戯にも寛容な空間。地位や境遇も無関係な人と人の出会いと交感が、そこ「プレイダンテ」にはあった。やがて僕は、週に最低3回はそこに行き、そのほとんどを閉店まで過ごした。疲れなど感じなかった。むしろ、暖かく癒されていた。

店長は、モリヤさん、同世代。アパレル出身だったと思う。なかなかの芸達者。長身のフロア係は、アキラちゃん。無名塾出身の、笑顔が素敵な優しい男。二つ下だったように思う。ギターと歌は、シンゴちゃん。青年の雰囲気漂うバイク好きの優男。パルコのCMソングをオリジナルの曲で歌い、アルバムデビュー。優男ゆえに、お化粧して撮ったジャケット写真が、それ以降ずっと「初代ビジュアル系」とからかわれることになった8歳下。キッチンは、カミちゃん。店に出て仲間に加わりたくていつもちょろちょろしてるお人好しの9歳下。みんな楽しくていい人たちだった。

4月8日(日)、「プレイダンテ」で知り合い、やがて僕が当時経営していた企画・制作会社「オフィス・フライデイ」の社員になり、今ではプロダクションをやっているフナちゃんから、「シンゴちゃんが亡くなった」との電話あり。西麻布から六本木に抜ける星条旗通り沿いのB1で「クォーク」という店のオーナーになり、相変わらずの美声を聴かせていた万年青年。肺ガンだったとも知らず、死ぬまで年に1回は顔を出して懐かしい話をしようと思っていた男だ。前日の夜、自分の脳卒中経験とリハビリ経験をおもしろおかしく話しに行かなくては、と思い出していた矢先のことである。

同じ電話で、アキラちゃんも肺ガンで昨年5月に亡くなっていたことも知らされる。アキラちゃんが、5月。僕が、9月。シンゴちゃんが、4月。僕は二人に挟まれて、生かされたような感覚だ。少しずつ社会復帰をしているものの、まだ疲れがちな心と身体に、楽しい思い出と空虚なやるせなさが覆いかぶさって、しばらく俯いて過ごさざるを得なかった。

50代後半。これからは失っていく季節だ。だからこそ、確かなものを大切にしたい。改めて、そう思った。

追憶の「プレイダンテ」。思い出を楽しいままにしておくのは、難しいことだ。

60sFACTORYプロデューサー KAKKY(カキモト)

60sFACTORY活動日記

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一切合財(いっさいがっさい)‥‥

朝起きると、その日の気分or前日の夜の名残で、必ずメロディが流れている。朝から演歌のこともあれば、ロックやポップスのこともあれば、時にはインストゥルメンタルのこともある。そんな習慣は、中学生の時にできたような気がする。

アメリカンポップスが頭の中に流れながら起きる朝は、快適だった。「ワン・ファイン・デイ」で起きる爽やかな朝。「悲しき雨音」で起きる梅雨の朝。「ダウンタウン」で起きると、友達との楽しい時間を予感させた。「恋のダイヤモンドリング」で起きる朝も嫌いではなかった。そんな朝の僕の脳内メロディに、ジリオラ・チンクエッティやボビー・ソロ、シルヴィ・ヴァルタンが加わってきた。それで困ったのが、耳で覚えたカタカナ歌詞で歌えないこと。「アイドルを探せ」などは、「プアレドンセ~~エ、ドンセエ」というところに行き着くまでは、とにかく口を尖らせうじゃうじゃ言うばかり。自分でも心地よくなかった。

そんなところに、ビートルズがやってきた。ビーチボーイズ、ジャン&ディーンも爽やかに登場だ。僕の朝の脳内メロディも、がらりと一変した。で、「あれ?」と思ったのが、「サーフィンUSA」。サビの部分が、「一切合財USA」に聞こえる。まるで日本語の歌詞のようだ。何か違うぞ、と思いながら、僕の口をついて出てくるのも「一切合財USA」。なんでもアメリカか~、とため息をつくと、歌詞も本当にそうなっているように思えてきたものだ。

そこに重ねて聞こえてきたお袋の鼻歌に驚いた。「アホな放尿屁~」が繰り返されるのだ。聞き耳を立ててみると、それはビートルズの「抱きしめたい」に聞こえなくもない。「アホな放尿屁」(I Wanna Hold Your Hand)とは‥‥。以来、朝の脳内メロディが「抱きしめたい」の時は、「アホな放尿屁」と頭の中で聞こえる。ちょっと笑えなくはないが、大好きなビートルズを汚しているようで嫌だった。

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          60sFACORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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