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音楽とスポーツ、そして恋心①

1960年代初頭、まだまだスポーツ後進国の日本で、しかも田舎となると、中学校の部活の種目も限定されてくる。何しろ、学校に施設がない。道具がない。指導者がいない。それ以前に、スポーツの種類を知らない。辛うじて知っているスポーツがあっても、雑誌や新聞を通じての知識のみ。プレイしているところを見たこともなければ、ルールも知らない。というわけで、スポーツを始めようと決めて入学した僕の選択肢は、極めて少なかった。僕の記憶では、野球、サッカー、バレーボール、卓球、陸上、以上5つ。他にはなかった。その中で、その頃日本が強かったと言えば、卓球。萩原伊知郎という名前を今でも覚えているが、この頃だったか。中国と世界のトップを競っていたはずだ。生来のミーハー、僕が選んだのは、卓球だった。しかし、ラケットなど見たこともない。ペンホルダーとシェークハンド、2種類の握り方があるというのは、おぼろげながら知っていたが、学校にあったラケットは、ペンホルダー用だけ。たまたま我が横田中学校始まって以来の好成績、島根県大会個人戦準優勝という3年生がいて、彼が「こう握るのが正しい!」と断言したので、世界の主流はペンホルダーだと、刷り込まれた。

夏休みが始まるまでの練習は、素振りと玉拾いとうさぎ跳びだけ。トイレでしゃがむと立ち上がれない朝もあった。夏休みに入ると、先輩のいない時間帯に台につきラリーの練習。手本は、玉拾いの時に見ていた先輩のフォーム。秋には試合もこなせるようになっていた。

2年生になると、学校の景色が変わって見えた。クラブには後輩が入ってきたし、初恋の人のことを、多くの同級生に知られてしまっていたからだ。小さな緊張感が心の片隅にあり、少し背筋を伸ばしていたように思う。そして、頭の中では、お気に入りのメロディがいつも流れていた。

60sFACTORYプロデューサーKAKKY(柿本)

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本物とは?

見つからなくてちょっと焦り気味だったシアサッカーの生地見本を、谷さんがお持ちになられた。ライトブルーのストライプ。懐かしい感じさえしてしまう風合い。サンプルの上がりが楽しみだ。谷さんに、1950年代終盤から60年代初頭のVANのお話を伺う。そして、今後の相談も。本物という言葉・概念に隠れている嘘っぽさについて、かねがね気になっていたことをぶつけてみる。スペックで優れていても、愛着を感じないモノを僕は本物と呼びたくはない。かといって、自分の愛着を本物としたいとも思わない。本物は、いつも揺らいでいて、小さな欠陥を持ちながら、妙に愛嬌があるものなのかもしれない。厳しく屹立していて、人を寄せ付けない真実というものとは違うように思われる。自ら楽しみ、人も楽しませることができるもの。それを生み出そうとする努力こそ、本物にアプローチしようとすることなのかもしれない。谷さんに、ぼんやりとそんなことや、どこに企画の臍を見出せばいいのでしょう、といったことをお話した。

谷さんは、やさしい人だ。静かに僕のおしゃべりを聞いた後、「いいと思うものをきちんと真似ればいいんじゃない?」と繰り返し言われた。忘れてはいけない大切なことを励ましの言葉に代えて口にされたのだ。僕は、はっとした。同じ言葉を、ちょうど30年前、石津さんに言われていたのだ。谷さんは、バッグの中から、「資料に使えるかな、と思って持ってきたんだけど。別にいいかな?」と1枚のボタンダウンシャツを出された。1967年、VAN社員のアメリカ・ツァーの時にYALE大学のCO-OPで購入したというものだ。「これをVANのボタンダウンシャツの企画の参考にしたんだよね。一番最初は、GANTのシャツだったけどね」と、おっしゃった。「VANは、いいものを真似しただけなんだよ。ただし、徹底的にね。それでいいんだよ」石津さんの言葉が聞こえてくるようだった。僕は、改めて60sFACTORYスタートの時の思いを呼び起こしていた。「現場で参加していなかったモノ作りを、徹底的にトレースしたい」。それでいいんだ。

ほのぼのとした元気を残して谷さんがお帰りになったのと入れ替わりに、Mr.Hさん登場。30分後、代々木公園駅出口から逆に歩いて、夜のウォーキングをたっぷり楽しんだハゲアメリカーノさん到着。缶ビールを開け、今進行していること、穂積和夫グッズの企画等々をお話し、マドラスの生地見本をお見せして、参考意見をお聞きする。やはり、元気と激励をいただいて(マドラスは参考になりました)、11時半頃お別れした。ありがたい話である。

Photo

1967年、YALE大学CO-OPで購入したというサンプル。シャツの達人、ウィンスロップの社長にご覧に入れたところ、「当時だったら、実によくできたシャツですね。今のウチだったら、マシンと技術が進化しているので、普通にできてしまいますけどね」とおっしゃった。

           60sFACTORYプロデューサーKAKKY(カッキー柿本)

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VANが仕掛けた?!みゆき族

「週に1日はスポーツを」というキャッチが、やけに新鮮に響いた「We Love Sports」キャンペーンや、すべてアメリカ製の大工道具をプラスティックの型の中にはめ込み、「カーペンターズ・キット」としてプレゼントしようというキャンペーン‥‥。VANのキャンペーンは、ある意味では、その製品よりもおもしろいものだった。しかし、大先輩諸氏のお話を聞いていると、それはVANが誕生した頃からDNAとして持っていたことのように思えてくる。

昭和30年代の前半、VANは、日本橋に本社を構えていた。「日本橋時代」と言われる、いわばVANのファッションや企業のあり方が培われた時代だ。VANは、まだ時代の寵児ではなかった。戦後数多く生まれた服飾メーカーの一つ、IVYも大人のための正統派アメリカン・トラディショナルウェアとして生産・販売されていた。それを歓迎した若者たち、くろすとしゆきさん、穂積和夫さんたちが強く関わるようになり、VANは、若い層を明確に意識し始める。若者がファッションに目覚め、VANがそんな若者たちのためのブランドとして覚醒していった頃のことである。

入社してしばらく経って、商品企画に転属となった谷さんは、仕事が終わると、仲間と夜な夜なある行動をとるようになっていた。VANの製品に身を包み、グループでみゆき通りにたむろすることだった。なんとなく、ただいるために、谷さんたちVAN社員は、毎晩みゆき通りに出かけたのである。命令されてのことではなかった。もっと広めたい、その一心だった。手にはVANの袋を持ち、時には警官の目を盗み、懐に忍ばせたVANのステッカーを、道路脇の策や電柱に貼ったという。

見事なプロモーションである。OOH(Out Of Home)の手法としても優れている。やがて、谷さんたちの継続的な努力は報われた。「みゆき族」の誕生である。名付けられ、マスコミが取り上げた時点で「族」は誕生し、その数を増していく。VANが、時代の寵児になる始まりだった。

              60s FACTORYプロデューサー KAKKY

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VANのスピリット

一昨日(水)、石津事務所で打ち合わせ。まずは、都内の百貨店のGW企画に関して。とある百貨店の販促の方から、「団塊世代を中心とした人たちに来ていただけるイベント」をやりたい、と目的・場所・期間等々の説明を受ける。同様の企画で、過去実施をお手伝いした例をいくつか、そのポイントや注意すべき点などを中心にお話し、今回の方向性をざっくりと口頭でご提案した。不安があるとすれば、昨今の団塊世代ターゲットの企画に共通して存在する問題点。すなわち、担当の方の若さだと感じたが、熱意で克服されることだろう。

団塊世代は、「共感世代」でもある。モノに対するこだわりや本物志向も、モノをモノとしてだけ捉えているわけではない。モノの向こうにある歴史や人の技に触れ、そこに生まれる共感を大切にしているのである。イベントにしてもしかり!送り手の側の知識、思いがそこに感じられることが、イベントを魅力あるものにできるかどうかの分かれ目となるのである。これは本来、世代に関係なく、感動をプロデュースする際の極めて重要なポイントだが、団塊世代がターゲットとなると、「懐かしの」「思い出の」といった言葉が冠に付くことが多くなるために、置き去りにされやすいこととなる。「懐かしのモノ」「思い出のコト」を並べれば喜んでもらえる、と思われがちなのだ。それは、違う!「共感」とは、ニュアンスの中に生まれてくるもの。そして、ニュアンスとは、モノやコトをプロデュースする側の知識と思いが注入されてこそ、生まれてくるものなのだ。

百貨店のGWイベントの打ち合わせが終了して、石津祥介さんと「石津記念館」の話に移行する。石津謙介さんの大量の遺品の中からどんなモノを、どう並べるか、ということより、まずは運営ソフト、特に記念館をコアとした“ささやかなビジネス”をどう組み立てるかが大切と、僕の考えを改めて力説。誰かやどこかの会社に記念館が委ねられていくことは、避けたい。石津記念館は、堂々と“自立”していなくてはならない。メンズファッションやライフスタイルや生活文化に小さな貢献をしながら。それをささやかなビジネスとして成立させながら。時代に風を送り、時代の風を呼び込む場所になっていかないと記念館は枯れてしまう。それは、石津謙介に失礼だ。僕は、真剣にそう思っている。「アイビーのメッカ(日本のメンズファッションのメッカ)」には、それだけの価値と役割があるはずだ。方法論は、ある!石津謙介さんの哲学、生き方と切っても切り離すことのできないVANのスピリットは、象徴する場所を得なければ、消えてしまう危険性があるのだ。

伝統ある確かなものへの敬意は、忘れない。似非や誤魔化しは笑ってやろう。権威は、それが値するもの以外は、信用しない。批評精神を忘れず、どんなものでもやがて陳腐化していくのだ、ということをしっかりと意識し、常に好奇心を持って見つめ、触り続けていかなくてはいけない。伝統も、そうして、しなやかな好奇心に支えられて築かれていったのだ。

型を大切にし、型にはまらない。

石津謙介さんは、ずっと、そう語っているかのような生き方だったと、僕は思う。そして、そんな生き方が、僕は好きだ。

                 60s FACTORYプロデューサー  柿本洋一

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どこへ行く?僕の初恋

中学1年生、ちらりと目が合っただけで始まった僕の初恋は、僕の中では順調に育まれていた。どんどん広がっていく音楽の世界に歩調を合わせるように、彼女と僕の世界は、僕の中で限界知らずに膨らんでいきかねない勢いだった。「ヘイ!ポーラ」を聞くと、僕の腕にすがりじっと見上げる彼女の潤んだ瞳を連想し、「シェリー」を聞くと、明かりの付いている二階の窓の下、「出ておいでよ~」と明るく声を掛ける僕に、すぐに勢いよく開け放たれた窓から向けられる彼女の笑顔を思ったりした。要するに、何を聞いても、何を見ても、そこに男女の出来事がある限り、それは彼女と僕のことだった。僕は、充分に幸せだった。

しかし、中学2年の新学期。僕のささやかな幸せは、消し飛んだ。クラス替えで、僕と彼女は別れ別れになってしまったのだ。

島根県益田市立横田中学校は、純正田舎の中学校とはいえ、僕にとっては大きい学校だった。卒業した豊田小学校は、近隣の小学校では大きい方で2クラス。そこに一つの小学校の全員と、二つの小学校の一部が統合されて、1学年4クラス、約200名。もう一つのクラスがお隣感覚だった小学校とは大違いなのである。しかも、2年生になると、古い平屋の本校舎を離れ、渡り廊下を渡った二階建ての新校舎に移ると言う。同学年であっても、クラスが異なると同級生同士の接点が激減することは間違いない。そんな嫌な予感が、彼女と僕に的中してしまったのだ。

これからの中学生活に希望を見出せなくなっていた新学期。初めての日曜日。ある友達の発案で、友人数名でのお泊り大会が催された。僕を除くみんなが持ち寄ったドーナツ盤約20枚。「悲しき街角」「ロコモーション」「素敵なタイミング」「恋のダイヤモンドリング」などを繰り返し聴きながら、深夜まで他愛もない話に夢中になっていたような気がする。頭にリトルが付く歌手が多いこと、ジョニーという名前が歌手にも歌にもよく出てくること、○○○○&ザ・×××××というグループが増えてるがけど、×××××の一人になるのって嫌だな、といった話題だったようだ。やがて、時間が深夜に及んでくると、話題は身近なものに変わっていき、必然的に女の子の話になっていった。順に告白、ということになり、巧みに逃げる奴、話したくて仕方のない奴が入り混じっている間に、僕の番になった。頑なに口を閉ざしている僕に、「絶対内緒にするから」「男の約束だから」と、全員が迫ってきた挙句、それでも口を割らない僕は、ついに、布団蒸しにされた。苦しい息で、「○組の出席番号××番」と、告げた僕に、ほとんど全員が「あ!▽▽か!」と、僕の大切な彼女の名前を呼び捨てにして叫んだ。白状させられた怒りと、彼女を呼び捨てにされた憤りと、組と出席番号だけでみんなが認識できたことに対する驚きで、僕は、みんなが手を離した布団の中から、しばらく出ることが出来なかった。

そして、当然、約束は守られなかった。翌月曜日、新聞配達で遅刻ぎりぎりで登校した僕は、1時間目の休憩時間からからかわれ始めた。「洋ちゃん、▽▽が好きなんだって」。次々と掛けられる同じ言葉に、僕は、もう僕の初恋は終わった、と確信した。その夜、僕はなかなか眠れなかった。

           60s FACTORYプロデューサー KAKKY(カッキー)

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隠密剣士の陰

島根県益田市横田と言えば、「純正の田舎」である。僕の知り合いで、CMプランナーをしていた女性は、ある日マックで並んでいると、外人に「アナタ、ガイジンですか?」と声をかけられた。彼女、色白でやや目が青い。外人には、ガイジンに見えるかもしれない。純正日本人の彼女は、「いいえ~。ど田舎(ドイナカ)の出身です」と、答えた。ちょっと過分に情報を与えたのがよくなかった。その外人「ドミニカですか~!ドミニカのどこですか?」と聞いてきた。ドミニカの場所も特定できないのに、ドミニカのどこ?って~!と不意を突かれた感じの彼女は、マックを買うことを諦めて、そそくさとその場を逃れたのだった。後日、その話で盛り上がっていたら、CMディレクターの男が、急に真顔で叫んだ。「俺、ドミニカの国歌、知ってるよ!」博識であるはずのない彼の言葉に、どう反応すべきかわからず、数名の飲み仲間は、一様に目をグラスに落とした。そこに、彼の歌声が響いた「ドミニ~カ、ニカ、ニカ。ド~ミニカ」!……。1秒待って、僕は言った「それ、ドミニクだろ?」……。今になって思う。言わなきゃよかった。

話が逸れた!要するに、島根県益田市横田は、ど田舎ではない。しかし、純正田舎というだけで、そこに育つ子供の文化度は、都会で育つ子供と数年は違う。いや、数年は違っていた時代だった。僕達は、中学生だというのに、「隠密剣士」が人気になると、忍者ゴッコなどに興じたりしていた。ブリキ屋さんにブリキの切れっぱしをもらい、母親が裁縫で使っている鋏で星型に切り、掌に重ねて乗せて、シュッ、シュッと言いながら横に投げ、飛ばない、刺さらない、でがっかりした上に、切れなくなった鋏を挟んで、長時間の説教を食らったりしていた。

中には、忍者を模して風呂敷で作った被り物をかぶったままお寺の屋根から落ちて骨折し、「馬鹿もの~!何してたんだ~?!」と教師に怒られ、「忍者ゴッコ」とか細い声で言って、なおさら怒られた馬鹿もいた。

そんなある秋の午後のことである。些細なことから、友達数名が二つに割れて喧嘩になったことがある。大瀬康一扮する隠密剣士が、入浴中に風魔一族の襲撃を受けるシーンの話が発端だった。「で、とんべえ(牧冬吉扮する善玉忍者)がいない時だったから、危なかったねえ」と、感情移入しながら話す奴に、ある一人が、「隠密剣士のチンチン見えたね」と言ったのがいけなかった。「テレビに写るわけが……」「ふんどし、してたよ」「……」「……」挙句に、「テレビに写るって、相当大き……」などというところまで飛び火していったのだ。最後は、誰々は信用できる、できない、そもそも嘘つき云々で、大騒ぎとなった次第である。

こんな中学2年生のグループ、1963年という時代であっても、東京には存在しなかったはずだ。

                   60s FACTORYプロデューサー、KAKKY(柿本)

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60sFACTORY 商品企画進行.②

2月27日、谷さんと高橋さんに事務所においでいただく。かねてより個別にお話していたことを具体的に前へ進めるためである。最も心配なのは、素材の手配ができるかどうかだ。もとより大きな商いなど想定していない。大ロットで必要なわけではない。だからこそ、どこかにあるのではないか。が効率追求のためにバリエーションが少なくなっている素材生産。シアサッカーは、果たして見つかるのか、マドラスは?谷さん、高橋さん、二人ともご尽力いただいているが、誕生して間もなく資金力も乏しい60sFACTORYに手配できるのか。心配は尽きない。

くろすさんとお会いしたこと、福袋企画のその後などをお話した後、「ところで、マドラスとシアサッカーですが」と切り出した。すると、高橋さんのバッグからインディアン・マドラスの生地見本がどっさり!谷さんのバッグからは、シアサッカーの生地見本が出てくるではないか!「あ!すごい!」X'masプレゼントを目にした子供のように、僕は歓声を上げていた。谷さんは、自身所有の60年代初頭のサマージャケットや当時のアルバムなどもお持ちになっていた。そこには、20代の谷さんの活き活きとした姿や思い出があった。「これを参考にすれば、パターンはすぐ作れますよ」高橋さんは、もう仕事を始めている。僕は、谷さんとディテールの話‥‥。

やがて、パターンオーダーの仕組み、できるだけ安く提供するためにはどうすればいいか、などなどを話し合い、コートの話で盛り上がって、3時間の打ち合わせは終了した。

次は、縫製工場だ。早急にお会いする予定を立てる。アポイントは再来週。具体化は目の前だ。

                                      60sFACTORYプロデューサーKakky(カッキー)

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60sFACTORY 商品企画進行.①

2月22日、くろすとしゆき氏と、池袋メトロポリタンホテルで待ち合わせ。僕の入院などもあったため、お久しぶりである。「よう、よく帰ってきたねえ。よかった、よかった」。向かいの席に座った僕に、くろすさんの優しい声が届く。にこやかな表情に出会えて、僕も脳出血からの復帰を実感する。ほのぼのと懐かしく、ありがたい。入院した直後にも、「神様がくれた長い休暇だと思って、仕事のことは忘れてゆっくりしてください」との、心のこもったお手紙をいただいていた。その話から始まる。くろすさんの原因不明の病気経験もお聞きする。「忙しくて嫌だ、と言いながら、それを楽しんでいる部分もあったんだよな。君もそうだろ?似てる気がするよ」「おっしゃるとおりです」と、ひとしきり、お互いの困った性格について話した後、くろすさんに監修していただいた「東武百貨店福袋企画」のご報告をする。15着限定に、希望者87名、大成功です、とお話したら、「いやあ、あんな古い型が売れるんだねえ。心配してたんだよ、実は」とのこと。今後の計画の概略をお話して、「ところで、俺は何をすればいいんだい?」とおっしゃるくろすさんに、「時々こうして会って、アドバイスしていただいたり、60年代の話を聞かせてください」とお願い。「なんだ。そんなことでいいのかい?いつでも連絡してよ。こうやって会えばいいんだろ」とおっしゃり、にっこり。「モノ作りに関しては、谷君がいるんだから安心だよ。後は工場だね。工場の役割は大きいからね。俺も、それで一番苦労したよ」と、また、商品の話に後戻り。気がついたら、お替り自由のコーヒーが、くろすさん3杯目、僕は5杯目となっていた。

60sFACTORY、2007年度の計画が始動した日だった。

                60sFACTORYプロデューサーKakky(カッキー)

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そして、VANのスピリットが残った

どこで歯車が狂ったのだろうか?僕が入社する数年前に起きたはずの小さな歯車の狂いは、年々増幅されていき、僕が入社した頃には大きな歯車の動きにも影響を与えるようになっていた。一見活力に溢れ、明るいざわめきに満たされているように思われるVAN 社内にも、形にならない不気味な影が忍び寄っているようだった。でも、そこはかとなく不安を感じながらも、僕たちはVANの底力をどこかで信じていた。要するに「まさか!」と思っていたのだ。百貨店や月販店に派遣されたまま倒産を迎えることになるかもしれない多くの同期の社員に対する内勤社員としての申し訳ない気持ちと責任感に、僕は追い立てられるような気分だった。

そして、じたばたしている間に、VANは急坂を転げ落ちるように倒産へと向かっていった。当然、僕の足掻きなどなんの足しになるはずもなかった。日々起きる些細なことや重大な事件に向き合っている間に、ふと倒産は訪れた。大雨の翌日、1978年4月6日、からりと晴れた春の日のことだった。

あれだけの底力があったVANの倒産。負債も歴代二番目の多額で、優に400億円を超えていたというのに、急ごしらえの広報の部屋に訪れる各誌・紙の記者は、家庭部か文化部。経済部の記者が訪れることは一度もなかった。しかし、それこそVANという会社とその事業が持っていたユニークネスだと僕は思った。「惜しい!」。心底そう思った。そして、小さくてもいいから、VANがやりおおせたようなことができればいいな、と思った。僕の中には、VANのスピリットが確実に残ったようだった。

                        60sFACTORY プロデューサー Kakky(カッキー)

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