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VANの底力。&63年、テレビのある生活に。

VANの底力

年末商戦の販売応援で、売り場に度々流れるVanMacCoyの「ハッスル」を聴きながら、僕はVANに誇りを感じ始めていた。隣接する「J.Press」に負けるわけがない!と、確信していた。なぜなら、売れてしまわざるを得ない仕組みにVANはなっていたからだ。VANの販売員は、派遣の正社員だった。僕の同期の8割近くは、都内の百貨店、月販店(丸井)の売り場に立っていた。そのすべてが、豊富な商品知識を持っていた。そればかりか、一つひとつのアイテムを巡るストーリーから、オーセンティックなコーディネイトノウハウまで身に付けていた。彼らは、お客様にアドバイスする力を持っていた。そして、売ることは商品の解説や推奨をすることではなく、お客様の商品への興味を強く喚起することだ、と知っていた。

それは、奇跡に近いことだと僕は思った。研修や勉強会で培われたものではなかったからだ。何しろ、僕でさえVAN販売員の端くれにはなれたほどだ。そこに、VANの底力があったのだと言わざるを得ない。VANは、すべての社員がVANという会社の分身のようだった。VANは、企画・生産した人が自ら接客・販売しているかのような仕組みに、システム構築を意識することなく成り得ていたのだ。それは、伝道師の集団をも連想させた。

石津謙介という偶像崇拝があったわけではない。それも不可思議なことではあった。彼はむしろ、最良にして最高の伝道師。敬愛されていたが、彼の語ることを実現するために結集しているわけではなく、彼の語る概念や哲学を、活動のコアに据えているだけだった。したがって、それぞれの解釈は、微妙に異なっていた。しかし、そのコアにあるものは共有していると思っていた。しかも、それを、多くの社員は広く伝えたいと思っていた。そして、それこそ、VANの底力だった。

しかし、時代は微妙な、それでいて着実な変化を見せ始めていた。それはまるで、売り場の音楽がメロディアスなものからディスコ・ミュージックへと替わっていったかのようだった。不安を内包しつつ、VANは、浮き足立っていた。

1963年、テレビのある暮らし

テレビがやってきて、僕の暮らしは一変した。「三馬鹿大将」の無声映画的なスラップスティックは、すぐ遊びに反映されたし、チャック・コナーズの「ライフルマン」は、日活映画が模範だった西部劇ごっこをすっかり変えてしまった。三々五々、友人たちの家にもテレビがやってきて、夜の電柱の下に人影を見ることもなくなったが、その分、学校の休み時間に小さな人の塊があちこちにできた。そこでは、僕が意外と気に入っていた「ちろりん村とくるみの木」の登場人物のモノマネなどは少数派で、「スターリング、ビック・モロー、エエ~~ンド、リック・ジェイスン」という「コンバット」のプロローグのモノマネを音楽、砲弾音まで交えながらやってみせる奴が多かった。不思議なことに、みんなうまかった。

毎日一時間机に向かい、することもないので日記を書くことにし、書くこともないので、読者の両親を意識して、取るに足らないことを大仰に反省してみせたりしていた。問題は、その一時間をどこで工面するかだった。夕飯までは遊ばなくてはならない。夕飯後は、連日おもしろい番組が目白押しだ。空いてる時間など、ない。かといって、深夜というわけにもいかない。チェックを 受けなくてはならないからだ。僕は、新聞のラテ欄と首っ引きで悩んだ。答えは一向に出なかった。しかし、約束だから、と机に向かわされた。すると、観たい番組を観逃してしまう、という最悪の事態を招くことさえ起きるようになった。僕は、観念した。そして、週間スケジュール表を作ることにした。表向きは、約束を果たすための顔付きをしていたが、仰々しく机の前に貼ったものと同じものの裏版には、テレビ番組のスケジュールがみっちりと書き込まれていた。

                                    60sFACTORY プロデューサー Kakky(カッキー)

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アイビーの奥深さ&テレビが家にやってくる②

アイビーの奥深さ

たった一つのアイテムに過ぎないBDシャツは、楽しそうに働くスタッフの姿を垣間見ただけで“この会社に入ろう”と安易な決断をした世間知らずの学生を、少しだけ社会人にしてくれたようだった。遅刻して到着した入社式の会場VAN99ホールの入り口で、総評系の組合員と人事部員に挟まれた時の大いなる落胆。学生時代同様、ほぼ連日受ける組合への勧誘・オルグの執拗さに、「ああ、ここもか」と萎えかけたささやかな希望。「会社は共同幻想。だからこそ、働く者の意識とエネルギーでいい幻想を共有しなくてはならない」。そう考えていた僕は、VANにさえ持ち込まれている“会社側と労働者”という画一的な対立の構図に辟易としかけていた。BDシャツを巡るストーリーは、そんな状況に一筋の光明をもたらした。VAN社員として何を目指していくか、新入社員にも微かに見えたような気がした。それだけ僕はファッション音痴だったとも言えるが、それだけアイビーは魅力あるものだったとも言える。

BDシャツというイントロからアイビーの主旋律へ。僕はじわじわと踏み込んでいった。たった一枚の洋服に織り込まれた先人の歴史、家族や恋人への愛情や思いやり、袖を通すことへの誇りや使命感。ディテールは単なるデザインではなく、大仰に言うならば人の営みそのものであることに思い至った時、僕には、“ファッションとは、ライフスタイルだ!”ということが少しはわかったような気がした。そして、その年の暮れ、繁忙期の販売応援で小田急百貨店のVANのコート売り場に立った時には、お客様に大いに語るようになっていた。楽しくなっていた。僕は、VAN社員になっていた。

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テレビが家にやってくる②

1963年、中学1年生の夏休みが終わる頃、突然決断は下された。「テレビ買うことにしたからね」。お袋の一言だった。遂に我が家にテレビがやってくるのだ。連日家計簿を1円単位で付け、それが趣味かのように蓄財。借金だらけの病み上がりの子連れ教師と再婚してから、生活を立て直してきたお袋。一度決断したら思い切りのいいお金の使い方をする。どんなテレビが来るのだろう、と質問したら、「最新のものは故障が多い。2年前くらいに発売されたものがいいだろう。カラーテレビはまだ安定してないが、オリンピックがあるし、買うんだったらカラー」と、明言。馴染みの電気屋さんから、キャッシュで値切って買うと言う。僕は何も言わず、大きくうなずくばかりだったが、興奮を抑えられずに表へと飛び出していた。

天気の良し悪しに関わらず、日中は川で泳ぎ、夕食時に帰宅。掻きこむように食べ終わったら、テレビを開放してくれているお宅に直行。数件の目当てのお宅が所用で閉ざされている夜は、理髪店の奥に鎮座しているテレビを店の外から見せてもらったりした。「それは私です」「私だけが知っている」「若い季節」「お笑い三人組」‥‥。NHKのタイムテーブルは頭に入っていた。同じ目的の友人たちと電柱の光の下で、その日のテレビの話をひとしきりしてから帰ると、遅い時は10時を回っていた。叱責を柳に風と受け流し、一人用の蚊帳を吊って潜り込むと、窓外の月が輝いていた。初恋の人に、心の中で「おやすみ」を言うやいなや眠りに落ちる。そんな日々だった。だからだろう。テレビを購入するに当たって、僕は守らなければテレビが観られなくなるという罰則付きの約束をさせられた。1.一日一時間は、机につくこと。2.日記をつけること。その日記は両親に定期的に見せること。という二つだった。見せる日記に抵抗はあったが、机について日記を書けばいい、というだけの話だと気づき、しっかりと約束した。

決断した後のお袋の行動は早かった。それから二日後、テレビはやってきた。夏休み最後の2~3日は、至福の日々だった。取り交わした約束など忘れたかのように、物珍しさから、親子三人で深夜までテレビ三昧の日々だったのだ。 こうして、僕に浴びせられる情報の量は飛躍的に増えた。僕の生活や意識は、くるくると回転し始めていた。

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BDシャツとの出会い、テレビが家にやってきた!①

BDシャツとの出会い

今はボタンダウンシャツを愛用している僕だが、ボタンダウンシャツをはっきりと意識するようになったのは、VANに入社してからのことだった。僕は、ボタンダウンシャツという言葉さえ知らなかったのだ。VAN入社後間もなく、「新入社員も参加しな」といわれて参加した会議のテーマが、「ボタンダウンシャツは、もう売れないか?」というものだった。4月中旬、まさにピカピカの新入社員の頃のことだった。会議室正面のホワイトボードに書かれている議題を見て、僕は内心首をひねった。ボタンダウン?ん?ボタンが垂れてるのか?じゃ、不良品ではないか!売れないか?ではないだろう!売ってはいけないだろう!正直、そう思ったのだった。しかし、それから約一時間、何かが違うと察知した僕は、一言も発することなく聞き耳を立てているばかり。それでも、隠語だらけの世界に身を投じた感覚。理解するには程遠かった。その一週間後、「アイビーは終わりか?」という会議に出席させられた時も、「植木の話?」とまず思った僕は、最後まであいまいな笑顔と反応で過ごした。ボタンダウンシャツ、アイビー。この二つのアメカジを象徴する言葉との出会い。そこから、すべてが始まった。きわめて遅いスタートだった。

テレビが家にやってきた。①

中学一年の夏休み。僕は、すばらしい文明の利器に初めて触れた。テープレコーダーだった。クリームとエンジのツートンカラーのそれは、なかなかの重量だった。友人から使い方を徹底的に教わり、借りて帰った僕は、すぐには触れず、使い方を反復しながら膝に抱えるようにしていた。遂に録音してみることにした時、お袋が買い物から帰宅。表の部屋に移動した。次は親父が帰ってくる。急がねばとあせり、慌てて一言吹き込んだ。すぐに巻き戻し、聴いてみた。初めて耳にする僕の声だった。「○○××」。人名だった。苗字が僕。名前が初恋の人。妙に上ずった聴きなれない声に乗せられたその名前に、僕はみるみる赤面していくのがわかった。すぐに巻き戻し、どうすれば痕跡を掻き消すことができるか、と考えた。そして、音を立てずに、再度録音するという方法を思いついた。なんとかテープレコーダーを机の上に片付けた頃、親父が帰ってきた。そして、また小さな議論が始まった。「テレビは買うべきか、買わざるべきか」何度も繰り返された議論だった。

小学校5年生の時初めて観たテレビに、そんなに僕は驚かなかった。高いアンテナを立てた高台のお金持ちの家に友達グループで行って縁側に陣取り、開けてもらった障子から遠くに望むテレビは、僕の大好きな映画に比べて迫力不足だった。受信できるのはNHKのみ。観るといえば、相撲か夕方のドラマ(不思議な少年、ポンポン大将などだったか?)に、みんなの歌。興奮するほどのものでもない。しかし、民放が入る家で見せてもらったテレビに、僕は一気に引き込まれた。プロレスと「とんま天狗」に魅了されたのだ。テレビは僕の家に来るのだろうか?来て欲しい!それからずっと念じ続けてきたことだ。両親の論議に望ましい結論が早く出ることを願ってやまなかった。

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BDシャツ&60年代、青春の幕開け

ボタンダウンシャツ

BDシャツ(ボタンダウンシャツ)の襟をボタンで留めるようになったのは、多くの洋服のディテールがそうであるように、合理的かつ機能的理由によるものだった。起源は、イギリス。これもやはり多くの洋服のディテールがイギリス起源であることと同じである。ポロ競技をしている時、風で襟が喉元ではためくのが邪魔で留めたものらしい。ポロシャツができる前のことであろう。その機能的価値を認めた人たちが追随。やがて、定着していったものと聞く。その機能性に着目したのがアイビーリーグの学生たち。BD仕様であれば、ラフに(スポーティに)着こなせるばかりか、洗いざらしにネクタイをしても様になる。イージーケアで、学生にはもってこいなのだ。こうして、BDシャツは、アイビーリーグの学生の必須アイテムとなっていったのだ。

やがて、ウォールストリートへと巣立っていったアイビーリーグの学生たちは、彼らの誇りと合理的なアメリカ文化の独自性をBDシャツに込めて、社会人として着こなした。学生の必須アイテムは、一流ビジネスマンの証となる着こなしへと高められていったのだ。

60年代、青春の幕開け

アメリカンポップスで開かれた音楽への扉は、次々と新たな世界への扉も開いてくれたようだった。中学校入学と同時に、当時の花形スポーツ卓球を始めた僕は、一ヶ月に約1センチも伸びる身長に追いつきそうにもない幼稚な心に生まれた淡い恋心をもてあましていた。入学間もないある昼休み。弁当に入っていた牛肉に、うれしくていきなりかぶりついた僕は、その安物の固さに手間取っていた。一口にはやや大きい肉片を噛み切ろうと悪戦苦闘した挙句、えい!と押し込んだ瞬間誰かの視線に気づき目を上げると、そこにAさんの笑顔があった。恥ずかしい姿を盗み見られたと感じた僕は、小さな怒りを覚えた。僕は、彼女をしばし睨もうとした。その瞬間、Aさんは、ひらりと顔の向きを変えた。僕の中には、彼女の笑顔の印象だけが残った。顔が紅潮していくのを感じた。それは、羞恥によるものだけではなかった。それからというもの、僕は、いつもAさんのことを想うようになっていた。

夏休み間近。近所の遊び友達と、まだ遊泳許可の出ていない川に出かけ、人目につかない場所で泳いだり魚を取ったりするのが日課になっていた頃、僕の家では大事件が起きていた。「テレビ買おうか」。父親が言った一言が、大きな波紋を巻き起こしていたのだ。

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お知らせ&偉大なるアメリカンポップス2

お知らせ

東武百貨店の2007年度の福袋に提供した「純正アイビーモデルのブレザー」の撮影を今日行いました。来週には、その製作の推移。今後の計画等を、HP並びに本ブログでお知らせします。

偉大なるアメリカンポップス

ポール・アンカで開かれたアメリカンポップスのドアは、中学校入学と共に、フルオープンとなった。ジョニー・ティロットソン、コニー・フランシス、ニール・セダカ、ジョニー・シンバル、ブライアン・ハイランド‥‥。そう言えば「ビキニ姿のお嬢さん」て、どんな姿なんだろうと思ったりもしたことを思い出す。エルビス・プレスリーの「GIブルース」も耳にしたが、あまり好きになれなかった。プレスリーを理解し好きになるためには、高校生になるまでポップス経験を積み重ねなければならなかった。

新しくできた友達の中には、レコードプレーヤーを持ち、シングル盤をどんどん購入しているうらやましい奴もいたが、ごくわずか。しかも、どうも好きになれない種類の奴ばかりだった。僕の音楽の情報源は、ラジオ。幸いなことに、夜遅い時間になるとラジオを独占できたので、細かくチューニングをしながら、音楽を探した。しかし、手元に音楽を起きたい、という願望は日々高まり、抑えきれないくらいだった。プレーヤーを買って欲しいなどとは、とても口には出せない。レコードなど夢のまた夢。どうすればいいのだ、と身を捩った挙句、僕はお金を貯めるという当たり前の正攻法の手段をとることに決めた。しかし、小遣いは、毎日もらう10円のみ。それはそれで使い道は多い。しかも減らす話は出てきても、増やす話など出てきたことはない。可能性もない。欲望と現実の大きな乖離に少しばかり途方に暮れながら、でも僕は、ちまちまと貯金をしていく決意を固めていた。そして、たまたま耳にした新聞配達の話に、両親の了解も得ず、手を上げた。読売新聞わずか18部。登校の際に配ればいいという話だった。夏休みが近づいている頃だった。

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偉大なるアメリカンポップス

僕の家にあった電化製品は、二槽式洗濯機、電気釜、扇風機、そしてラジオだった。幼い時から僕はラジオが大好きで、家にいる時はラジオの前に座り、新聞や本を広げているか、寝転んでまどろみながら、ラジオから流れてくる音を耳にしていた。聴いていたのは、NHK第一か第二。民放は、その存在さえ知らない時代が長かったせいか、1局聴けるようになっても馴染めなかった。したがって、聴いている番組といえば大人と一緒。ニュース、落語、相撲中継、歌謡番組、ラジオドラマが主。大の長島ファンだったが、プロ野球中継とは縁がなく、新聞と少年誌を通じて、あるいはたまに連れて行ってもらう映画小屋で観るニュース映画を通じてその雄姿を垣間見ているだけだった。

僕のアイドルは、三橋美智也だった。紅白も彼がいるから、毎年真剣に白を応援していた。今思うときわめてモダンな戦後の音楽は肌に合わず、大人も熱中していた美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの三人娘は、歌手というより歌う映画スターに見えていた。

そんな僕が「ダイアナ」を耳にした時のショックは、おわかりだろうか。「アイムソーヤングエンジョーソーオール」そう聞こえたメロディーとリズムは、僕に“まったく違う世界”の存在を痛切に知らしめたのだった。1962年、もうすぐ中学生になるという春浅い頃のことだった。

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山陰、片田舎の少年の60s

VAN入社の頃、何人かの先輩に、僕は「田舎者」と呼ばれていた。少し不愉快ではあるが、「そのとおり!」とも思っていた。事実、僕は田舎の出身であり、洗練という概念とは程遠いところにずっといたからだ。大学時代も「男がファッションなんて」と広言し、男だらけの酒宴の日々に明け暮れていた。そんな男が自ら望んでVANに入社したのだから不思議であると同時に、あまりお似合いとは言えないのは確かだ。(教授の一人に、「ヴァンヂャケットという会社に行きます」と言ったら、「お~~、大変やでえ、外資系は」と言われたのをよく覚えている)ファッションに興味があるない以前に、単なる世間知らずだったのかもしれない。

僕は、島根県浜田市という山陰有数の港町で生まれた。町名は、錦町だったと思う。飲み屋が軒を並べている狭い路地だった。家庭の事情で、五年生までに五回の転校をした後、小学校6年生の時、島根県益田市横田町に転居した。1961年のことだった。僕の60sの始まりだった。

隣の徳田さんが大家の借家。玄関を入ると六畳、それを抜けると四畳半、その奥に三畳、台所は土間、井戸からくみ上げた水をかめにためて使っていた。一旦外廊下に出て五右衛門風呂の風呂とボットントイレに行くという造り。それでも、それまでの住環境よりもグレードアップした感じだった。

そして、僕はそこで「アメリカ」に触れたのだった。

               60s FACTORY プロデューサー Kakky(カッキー)

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